彼との交際を涼宮さんに知られてしまったようなもの、といえばそうなのかも知れないし、そうであれば余計に怖いものなんてないのだろうけれど、やっぱり世間体というものを気にしてしまう程度には小市民な僕は、彼とは人目を忍んで会っていた。 会うだけや食事なら外でもするし、買い物程度なら彼と一緒にしていたりするのだけれど、触れ合いめいたものは避けるし、人目から隠す。 彼はというとそんなものについてはもう吹っ切れてしまっているようで、 「んなもん気にしなくていいだろ」 とかなんとか言いながら、隙あらば抱き締めようとしてきたり、頭を撫でて来たりするのだけれど、 「…まあ、お前にも将来ってもんがあるからな」 と言っているくらいには、抑えてくれているらしい。 ……本当にそうなのか怪しみたくなるほど、彼の愛情表現はストレートかつ場所を選んでいない気がするけれど。 外ですらそうだから、彼の部屋や僕の部屋、二人きりになれる場所にいると、もっと熱烈になる。 「好きだ」 と嬉しそうに囁いたり、抱き締めてキスをしたり、せっせと手のかかった料理をしてくれたり、何くれなく世話を焼いてくれもする。 下にもおかぬ扱い、というのはこういうのだろうかと思いながら、料理をする彼の楽しそうな背中を見つめる。 そんな風にして過ごすのは楽しいし、彼のことを愛しいと思う。 これが好きという気持ちなんだろうとも思う。 それなのに僕は、どこかまだ吹っ切れていないらしい。 たとえば彼が「将来」なんて言葉を口にすると、それだけでも何か堪らない気持ちになる。 だからといって、僕の将来を知っているのだろう彼に対するものではなく、彼自身の将来のことを考えてしまうのだ。 彼を帰らせなくていいのかと、それこそ、罪悪感めいたものを覚えずにはいられない。 僕の迷いを彼は同性と交際しているがためのものだと思っているのか、おそらく気付いているだろうに、何も言おうとはしない。 ただ優しく僕を抱き締めてくれるだけだ。 その温もりに触れるたび、離したくないと思うくせに、それでもと迷ってしまう弱さが、何よりも嫌だ。 そんな僕のおかしな様子に気付いたのか、機関での報告会が終った後、 「ちょっと待ちなさい」 と声を掛けてきたのは森さんだった。 「何か…」 「すぐに行くから、近くの喫茶店ででも待ってなさい。前にも行ったから分かるでしょ」 と強引に言って、まだ話が残っているらしく、ぱっと踵を返す。 僕が森さんに勝てるはずもなく、言う通りにするしかない。 僕はそっとため息を吐いて歩きだしながら、待ってくれているだろう彼にメールを送っておいた。 『森さんに呼ばれたので、帰りが少し遅くなります』 という短いものになったのは、待っていてほしいと言うことすらどこか躊躇われるからかもしれない。 本当はうちで待っていてほしいし、彼の手料理が食べたいなんて甘えたことも言いたい。 彼のことだから、僕がそう言えば簡単に許してくれるだろうし、いくらだって甘やかしてくれるんだろうとも思う。 彼が怒るようなことがない、とまでは思わない。 彼と来たら、恋人というよりもむしろどこか保護者めいた目で僕を見ているところもあるものだから、あまりにもだらけていると注意してくれるし、きついお小言を頂戴することもある。 そんな彼を好きだと思うし、離したくないのに、とぐるぐる同じところで回り続けるショートした思考回路に陥りながら、喫茶店でコーヒーを舐めていると、ようやく森さんが来た。 「待たせたわね」 軽く言って、悪かったの一言もなく彼女は向かいの席に座った。 入ってすぐ注文していたのだろうコーヒーが運ばれてくると、熱々のそれをためらいもなく一口飲んだ。 ……火傷しないんだろうか。 「一体なんの話があるんですか?」 少しばかり不機嫌さを滲ませながら言った僕に彼女は真っ直ぐ視線を返し、 「ジョンについて、ちょっと聞きたいことがあるだけです」 と視線同様のストレートを投げ込んできた。 動揺に揺れる暗い水面を眺めながら、僕はそっとカップを下ろし、 「彼について、ですか」 「そう。接触があり、あなたと一定の付き合いがあることはこちらとしても確認していますけれど、具体的にどの程度のものか、聞いておきたいんです」 「…本当に、機関は彼のことを認識していたんですね」 僕が呟くと、彼女は頷いた。 「あちらから接触があったそうですよ」 「そう、彼からも聞いています。今働いているところに関しても、機関の口利きがあったとか」 「私もあまり詳しくは聞いてませんけれど、そうらしいですね」 「……よく信じたものですね」 皮肉っぽく呟けば、 「信じるに足りる情報があったってことでしょう。あなただって、信じているのでは?」 「信じるしかないですからね」 「…いやに刺々しいけど、」 と言ったら普通は、仲が良くないのか、なんて話に繋がると思うのだけれど、森さんは僕の性格やなんかをよく心得ているようだ。 「よっぽど懐いているんですね」 と続けられた。 「……ご存知なのでは?」 恨みがましく言い返せば、彼女は薄く笑った。 「そうね、なんとなく分かってはいます。それを確かめたくて呼び止めたんだもの」 そう言っておいて一呼吸置き、僕に覚悟を決めるだけの時間をくれた森さんは、 「彼と、友人としてでなく、付き合っているんですか?」 とこれはストレートとは言えない程度にはぼかして尋ねた。 僕は小さく頷いた。 森さんに隠したって見破られてしまうだろうし、隠す必要もないだろう。 「そう」 と頷き返した森さんの声にも表情にも、咎めるような色はない。 「…あなたがそれでいいと判断したなら、私から何か言うことはありません。でも……」 彼女にしては珍しく言葉を濁し、ためらいを見せたかと思うと、心配そうに、 「…大丈夫なの?」 と問われた。 「……どういう意味でしょうか…?」 「彼の性格や性質を悪くみているわけではありません。彼のことは信頼するに足る人物だと思っていますよ。機関としても、私個人としても、ね。でも、このところ、あなたが沈みがちに見えるから、心配になったのよ」 どこか照れ臭そうに言って、森さんはもう一度コーヒーを口にした。 そのまま褐色の液体を見つめながら、 「恋人が出来たばかりの高校生にしては浮かれてないでしょう。むしろ、悩んでるみたいに見えるから、お節介を焼く気になったのよ」 とまで言ってくれる。 「ありがとうございます」 と笑みを返しながら、さてどうしたものかと考えることになった。 森さんに言っていいのだろうか。 僕のこの迷いを。 内容からして、彼の事情を知らない人には言えない話になることは間違いなく、事情を知っている人間の中では、おそらく彼女ほど相談しやすい相手もいないだろう。 けれど、僕はこの話をしたいのだろうか。 自分がどうしようもないというだけの話にしかならないのに。 ためらう僕に、森さんはそっと呟いた。 「言いたくないならいいわ。でも、少しでも話したいと思うなら、聞かせてちょうだい。あなたのフォローや体調管理の類は私の仕事でもあるんだから」 「…ありがとうございます」 それでも何分間かためらった後、僕はそっと口を開いた。 「彼のことが、好きなんです。離したくないと思います。でも同時に、あの人には本来いるべき時間と場所があり、そこに帰らせてあげるべきなんじゃないか、とも思うんです」 そんな風にして話し始めたけれど、もとより相談する予定などなかった僕の話はさぞかし聞き辛く、支離滅裂になっていたことだろう。 森さんはそれを辛抱強く最後まで聞いてくれた。 それだけでも随分と楽になったように思うのに、彼女のくれた答えは、 「好きって気持ちが確かなら、今のまま、彼を離せないままでいてもいいんじゃないの?」 というものだった。 僕の欲しい言葉を選んでくれたのかもしれない。 「彼はこちらを選んだと言ったのでしょう? 浅はかな人ではないと思いますから、随分考えもしたでしょうし、迷いもしたと思います。その上で、あなたを選んでくれたということなら、素直に喜んで受け入れたのでいいんじゃないかしら」 「…いいんでしょうか。彼を…かえしてあげなくて」 帰す、とも、返す、ともつかないと思いながら再度口にすれば、 「かえしてあげられるの?」 と返された。 「技術的な話じゃないわよ。あなたの気持ちとしてそれが出来るかどうかという話です。……出来るなら、そこまで迷ったりしないわよね」 「……ええ」 出来るなら、もっと彼を説得しようとしただろうし、長門さんに頼むなり朝比奈さんに持ちかけるなりして、無理にでも帰らせようとしたかも知れない。 そうして僕が本気になれば、彼も応じてくれるのではないだろうかとさえ思う。 でも僕は、彼を離せない。 たとえ未来の自分にすら、渡せないと思った。 それくらい、彼が必要で、彼のことが愛しくて、彼を離したくなくて。 ……自分のことにばかり必死で、彼のことを考えてあげられないなんて、本当に僕はまだまだ子供だ。 子供にしたって酷すぎる。 「それが悪いなんて、誰が言ったんです?」 優しく言いながら、森さんは手を伸ばし、うつむいていた僕の頭を撫でた。 「今はまだ自分のことに必死でも仕方ないでしょうし、彼の方こそ、そんなあなたを支えたいと思ってくれてるんじゃないですか? それが心苦しいというなら、いつかあなたに余裕が出来た時や、彼に何かあった時、彼の支えになれるよう、頑張ればいいとは思えませんか?」 「……そう、したいです」 「なら、それでいいのよ」 と森さんは言ってくれた。 そんな風にして、誰かに認めてほしかったんだろう。 それでいいんだと背中を押してほしかったんだ。 僕は森さんに厚くお礼を言って喫茶店を出た。 そうして急いで部屋に帰ろうとしたのに、どういうことだろうか。 店の外で彼が待ち構えていた。 「…どうしたんです……?」 驚く僕に、彼は返事もしてくれない。 不機嫌、という一言では済ませられないような複雑な顔をしながら、僕の手を引っ掴み、駅の方へ歩き出す。 「あ、あの…っ?」 声を掛けようとしても無言の背中に気圧される。 どうして彼がいたんだろうか。 どうしてこんなに機嫌が悪いんだろうか。 それも、自分を責めているような、心配になる顔をしている。 訳が分からないまま、僕は彼の部屋へと連れて帰られた。 部屋に入り、ドアに鍵をかけ、二人きりになってようやく口を開いた彼は、 「お前が色々と迷うのは仕方ないと思うし、だからこそ余計なことは言わずに待とうと思ったんだ。俺には言い辛いのも分からんでもない。俺だって、お前のことで何か迷うことがあったとしても、お前には相談し辛くて困るだろうとは思う。それでも、」 と泣きそうな声でまくし立てた上、僕を抱き締め、 「…俺に、言えばいいだろ……」 らしくもなく、子供みたいな無茶を言う。 そんなにも不安にさせてしまったんだろうか。 というか、どこからどこまで聞かれていたんだろう。 「…森さんが、連絡をくれて、音声を俺の携帯に流してくれてたんだ。だから、全部聞いた」 ……そんな用意周到なことをするほど、僕の悩みなんてお見通しだったということだろうか。 それはそれで怖い気がする。 でも今は、彼のことだけしか考えられない。 ぐずぐずと鼻を鳴らして泣きじゃくる彼を抱き締めて、 「泣かないでください…」 と背中を撫でれば、 「うるさい」 と返される。 まるきり、ぐずる子供のようだ。 でも、彼自身、自分が無茶を言ったということも、僕が迷った気持ちも分かっているのだろう。 自分でもどうしたらいいのか分からないというような顔をしていた。 「俺に、言ってくれない、お前が悪い……」 そう言われて、僕は胸がきゅうっと痛む。 「ごめんなさい…」 「謝るな」 「…あなたに、僕のこんな馬鹿げた悩みを知られて、嫌われてしまうんじゃないかと不安で、言えなかったんです。……嫌いに…なりませんでしたか……?」 恐る恐る尋ねれば、彼は今度こそ僕を睨みつけ、 「こんなことくらいで嫌いになれるなら、そもそも俺はこんなところにいやしねえよ!」 と怒鳴られた。 そのまま噛みつくようにキスされて、唇を触れさせたまま、ほかのどこにも漏れないようにとばかりに、 「…ここにいたいから、いるんだ。それくらい、お前が好きなんだ」 と囁かれる。 「……僕も、あなたが好きです。あなたを未来になんてかえしたくありません」 エゴにまみれた言葉を、さっき聞かれてしまったんだからどうせ同じだと開き直って口にすれば、余計にきつく抱き締められる。 「かえすなんて選択肢を思い浮かべたりするな」 怒ったように言って、彼は僕の唇に歯を立てる。 「俺はもう、この時代の人間なんだ。お前の側から離れてなんてやるもんか」 なんて言葉が、どうしようもなく嬉しかった。 ……でも、と僕が疑問を口にしたのは、それからしばらくして、落ち着いてからのことだった。 ベッドをソファがわりにして並び、彼の肩に触れながら、彼を怒らせないようそっと尋ねる。 「あなたは迷わなかったんですか?」 彼は軽く眉を寄せながらも、出来る限り感情を抑えた声で、 「…そりゃ、迷ったさ。早く決断しなけりゃ、と思うこともあったし、その分、お前よりもよっぽど考えたと思うぞ」 「どうして、決められたんです? こちらに残ったとしても僕と今のような関係になれるとは限らないのに、どうしてこちらを選べたのか、気になるんです」 彼は少し困った顔をしておいて、 「本当はこんな話をするのは未来から来た人間として不味いんじゃないかとも思うんだが、」 と前置きしておいて、僕の耳に唇を寄せた。 「俺にとっての昔、そうだな、俺が大学生の頃だと思うんだが、古泉に聞いたことがあるんだ。お前には浮いた話がないし、あっても誤報ばかりみたいだが、実際お前に好きな奴とか彼女なんてのはいないのか、ってな」 そう尋ねる程度には古泉を意識していたらしい、と恥かしそうに付け加えておいて、彼は顔を赤くしたまま、彼にとっては過去の、僕にとっては未来の「僕」の返事を教えてくれた。 「そうしたらあいつは、『禁則事項です』、なんてふざけた返事をして笑いやがったんだ。あの時はただからかわれただけだと思ったんだが、どうにもその時の顔が忘れられなくてな。申し訳なさそうな、そのくせ嬉しそうな、懐かしそうな顔をしてた。それに、こういう状況になって分かったが、あの言葉は多分、未来から来た俺のことを意識して選んだんだろうな」 「そうでしょうね」 「…あの恐ろしく複雑な、でも、なんか分からんが幸せそうな笑顔があったから、俺はここにいるんだ」 そう言った彼こそ幸せそうな笑みを浮かべて、僕にもう一つキスをくれた。 この人に、この笑顔に相応しい人間になりたいと心に決めて、僕は彼に口付ける。 誓いのキスだと宣言はしない。 僕だけが分かっていれば十分だから。 彼に誓った以上、それを決して破りはしない。 だから僕は彼を抱き締めて、 「ずっと一緒にいましょうね」 と囁いた。 |