最寄の駅から歩いて十分ほど。 静かな住宅街の片隅に、小さな喫茶店がある。 喫茶店とは言っても、扱うのは紅茶やコーヒーではなく、中国茶ばかりだ。 店の中には所狭しと茶罐という言ってみたら中国茶を保存するための入れ物や、茶壷と呼ばれる専用の急須ががいくつも並べられているのだが、それも全て計算されたインテリアのようになっている。 聞こえるかどうかというほどのかすかさで聞こえてくるのは中国風のしっとりとした音楽だ。 それも、スピーカーなんかの配置が巧妙で、どこから聞こえてくるのか分からないようになっているのがまた、幻想的な雰囲気を強めている。 滑らかな紫檀の椅子に腰掛けた俺は、やることもなく、同じく紫檀の滑らかなテーブルをそっと撫でていた。 用事が済んだんだから帰ってもいいんだが、それも惜しくなるような空気がここにはあった。 泉茶荘というのが店の名前で、その主人は俺にとって馴染み深い、高校以来の付き合いがある、古泉一樹という男である。 淡く明るい色をした長袍を軽やかに着こなし、さして広いとも言いかねる店内を悠然と歩く様はそれだけでも絵画のように見える……と言ったら流石に褒めすぎか。 苦笑しながら俺はテーブルに広げていた資料を片付ける。 そうして集中するものがなくなると、古泉があの甘やかな声で、滔々と、しかしゆったりした調子で中国茶の楽しみ方について講義しているのがよりはっきりと聞こえてくるようになった。 こうして話を聞いていると、古泉の話術の巧みさをしみじみ感じる。 茶壷の使い方などを講義する相手は大抵素人で、二度同じ講座を受ける人間は滅多にいないから、同じ話を繰り返すことになったとしても仕方ないし、それでも気付かれないものだと思うのだが、こいつに限ってはそれがない。 相手はいつも違う客なのに、覚えた台本を読むかの如く、同じ話をするということがないのだ。 日によって、相手によって、話の流れや力を入れるところがまるで違う。 それに感心しながら、俺は手元のグラスに口をつける。 今日は講座があるから熱いお茶を用意出来ないのでと言った古泉が冷茶をおいていってくれたのだ。 本来、講座のある日は客を通さないんだから、随分な特別待遇だよな。 にやけそうになるのを堪えながら口に含んだ茶は、よく冷えているのに香り高く、爽やかな甘味を残してすっと落ちる。 やっぱりうまいな、と思っていると、古泉の柔らかな声が聞こえた。 「日本茶は味わいを楽しむもので中国茶は香りを楽しむものといいますし、作法に関して言えば、日本の茶道は客をもてなすためのもので、中国茶はおいしいお茶を淹れるためと言われますが、お茶というものは、時間を楽しむものだと僕は思うんです。ですから、あまり形式にこだわらず、誰か仲のいい人や気の合う人、好きな人と一緒に、あるいはひとりででも、のんびりとお茶をする時間を楽しめればそれでいいんですよ。特に昨今は皆さん忙しいですからね。そんな中、お湯を沸かすところから始めてお茶を楽しむというのは、貴重なことかも知れませんし」 そう古泉は微笑んだようだった。 見なくても分かる、あの柔らかで人を魅了する笑みだ。 「出来れば、お茶を楽しむ時にはテレビなどは消して、お茶だけを楽しんでほしいですね。お湯が沸くまでの焦らされるような時間を楽しみ、茶葉の香りからお茶の香りを想像し、どんな茶菓子を合わせるかと考え、どんな人とどんな話をしたらもっと楽しめるかなんて考えるのも、僕は好きですね」 どうぞ、お茶を楽しんでくださいと古泉は話を締めくくったようだった。 それからしばらくして、受講生が帰り、店の中には俺と古泉の二人きりになった。 小さく息を吐きながらこちらにやってきた古泉に、 「お疲れ」 と声を掛けてやると、古泉はにこやかに、 「あなたこそ、お疲れ様です。お仕事、終ったんですね」 「ああ。おかげさまで随分はかどった」 「それは何よりです」 にこにこしながら古泉は大分中身の減ったピッチャーを取り上げ、 「今度は温かいお茶でもいかがです?」 「略式でいいぞ」 「心得ました」 くすりと笑って、古泉は棚にしまってあった蓋付きの茶碗を取り上げた。 蓋碗というそれに湯を注ぎ、一度温めるという手順は省けないようだが、その後はさくさくと進む。 茶壷のように上から湯を注いで温めるというのもなしだし、それどころか移し変えることもしない。 蒸らしている間、 「今日もうまいことたらしこんでたな」 と皮肉を言ってやると、古泉は苦く笑って、 「そういうつもりじゃないんですけど……」 「客のほとんどが女性客ってのは、中国茶の店じゃ珍しくないのかも知れないが、それにしたってお前の所は酷すぎるだろ。俺以外の男の客なんて見たことねえぞ」 「放っといてください」 それとも、と古泉は意地悪く唇を歪め、 「妬いてるんですか?」 「それくらいで妬くくらいなら、とっくの昔にお前とは切れてるな」 「はは、ありがとうございます」 古泉は軽い笑い声を立てながら、茶葉の入ったまま、蓋を被ったままの蓋碗を茶托に載せて差し出した。 「どうぞ」 「ん」 頷いて蓋碗を手に取り、蓋を少しずらすと、茶の甘い香りが強く香った。 慎重に口に含んだそれは渋味もほとんどなく、あっさりしている。 後味は甘く、香りも残るのだが決してしつこくはない。 「茶菓子はどうしましょうかね…」 独り言のように呟く古泉に、 「揚げ菓子がなかったか?」 と聞くと、古泉はにっこりと笑った。 「目敏いですね。ええ、先ほども使いましたからありますよ。今日作っておいたものが」 「そりゃいいな」 「では、少々お待ちください」 話している間中ずっとと言ってもいいほど、古泉は笑っている。 だがそれは、高校時代の作り笑いとは明らかに違う、自然な笑みだ。 柔らかく、優しく、包み込むような笑み。 真顔になったり、睨みつけたりした時の鋭さも失ってはいないのだが、それ以上に丸みが増したと思う。 笑みにも、人柄にも。 古泉が昔のままだったなら、俺はこいつがこんな客商売をすると言い出した時点で止めたに違いない。 人を寄せ付けないような、距離を取ろうとするようなところがあったからな。 今は逆に人を惹き付けるようになった。 それはそうする術を身につけたという訳でなく、人として丸くなったということの現れなんだろうな。 いいことだ、と独り言ちながら、俺は古泉が持ってきた揚げ菓子に手を伸ばす。 カリリと音を立ててそれをかじれば耳にも楽しい。 「いかがですか?」 にこにこしている古泉に、頷いて、それから何か言い足そうと思った俺は少し考え、 「…楽しいな」 と答えた。 「楽しんでいただけてるなら嬉しいです」 にこやかに頷いた古泉に、別にダメ押しするわけじゃないが、 「ああ、お前と二人で茶をして楽しくない訳がないだろ」 と言ってやると、古泉はワンテンポ遅れて顔を赤らめ、 「っ、なんですか、その殺し文句……」 なんて唸るから、俺は今度こそ声を立てて笑った。 「お前だってそうだろ」 「ええ、勿論そうですよ。でも…あなたがそんなことを言うなんて思いませんでした」 どうしよう、と呟きながら古泉は口元を抑える。 「…今日、夕方からは営業しようかと思っていたんですが、やめてもいいですよね」 「は?」 「だって、そんなことを言われて、このままあなたを帰らせるなんて惜しいでしょう」 でしょう、って同意を求められてもなぁ……。 「…仕事は終ったんだから、このまま店仕舞いまで待たせてもらってもいいし、家で待ってもいいんだが…」 「そうしたら二人きりじゃなくなるじゃないですか」 古泉は恥ずかしげもなく子供のようなことを言って、 「今日は臨時休業にします。時間がありますからね、点心もこしらえましょうか。中華粥もお好きでしたよね。それとも、もっと別なものを作りましょうか」 嬉しそうに古泉はそう並べ立てる。 「おいおい…」 「いけませんか?」 「仕事しろよ」 と呆れながらも笑う俺に、古泉は嫣然と微笑んで、 「してますよ。ですから、ご褒美をください。頑張ってるあなたへのご褒美も差し上げますから」 ふてぶてしくもそう要求したが、そんな風にされて俺が逆らえるはずもない。 「…今晩泊めろよ」 毒づくように呟けば、古泉は一層笑みを深めた。 「いいんですか?」 「お前こそいいのか? 飯はしっかり作らせるし、片付けも何も手伝ってやらんぞ」 「ええ、構いませんよ。あなたといられたらそれだけで僕は幸せですから」 「……いい加減幸せ慣れしろ。それだけのことで幸せがるな、薄幸少年」 ふふ、と古泉は忍び笑いを漏らし、椅子から立ち上がる。 そうして俺の側まできたかと思うと、長袍の裾を優雅に床につけて膝を折り、俺の手を取る。 芝居がかった仕草で俺の手の甲に口付けて、何万回となく囁いた言葉を開きもせずに口にする。 「愛してます」 とな。 俺は呆れのため息で照れ臭さを隠し、古泉の鼻をつまんでやる。 「うぁ」 鼻づまりみたいな声を出した古泉に、 「んなもん、一々言わなくていいから、お前も大人しく茶でも飲んでろ。俺だけ飲んだってしょうがないだろ」 と笑ってやれば、古泉は一層幸せそうに微笑んで、 「はい、ご相伴に与らせていただきますね」 と大袈裟なことを言いやがる。 「…部屋に移動した方がいいのか?」 独り言めかして呟けば、古泉はきょとんとした顔で首を捻る。 「どうしてですか?」 「ここじゃお前はどこまでも、店主でいるつもりらしいからな」 「おや、それはあなただってそうでしょう?」 悪戯っぽく笑った古泉に指摘されて、俺は思い切り顔をしかめる。 気にしてやがったのか。 …仕方ない。 「一樹、」 「なに?」 にやにやと意地の悪い笑みを見せた古泉はもう店の主人なんかじゃない。 笑顔のバリエーションばっかり豊富で、好きだ好きだとやかましくて、そのくせ酷く意地悪な男だ。 得意げなそいつに何を言ってやろうかと思案した挙句、俺はひとまず、 「いいからさっさと茶を淹れろ。お前の分と、それから俺におかわりな」 と要求してやった。 俺はつくづくこいつに甘いな、と諦観染みたものを抱きながら。 |