タイムラグ 7



帰る道すがら、変に思われない程度に、僕は「彼」を見つめていた。
彼はなんと言っていたっけ。
『あいつはまだ自覚もしてないぞ』とかなんとか言っていたと思う。
つまりは、自覚した後、この頃から僕のことを好きだったということに気付いたということだろうか。
変な気分だ。
思えば、「彼」とだって出会ってからは一年足らず。
彼とは数ヶ月だ。
おまけに、ほぼ毎日顔を合わせる「彼」とは違って、彼とは週に一度会うか会わないかといったところだったから、僕は未だに彼の好みも知らず、たとえばお礼に何を渡すのがいいのかなんてことも分からない体たらくだ。
それなのに、彼にとっては十年越しの思いなんだ。
自覚してからどれくらいかはよく分からないけれど、彼が僕に向けてくれるその思いが、それまであったものを何もかも捨てて、別の人間として生きることを決意させるほど強いものなのかと思うと、正直寒気に似たものも感じる。
でも僕は、それが嫌ではないんだ。
むしろ嬉しくて泣きそうになる。
僕は、そんなにも強い思いを向けてもらったことがないから。
だからこうも思う。
僕は本当に、そんな風に思ってもらえる価値のある人間なのだろうか。
ましてやあの人にそこまでの決意をさせるような価値が、僕にあるのだろうか。
何より僕は、そんな思いに応えられるのだろうか。
…応えたい、と思いながら、僕は「彼」や涼宮さんたちと別れて、家へと向かう。
別れ際に「彼」が、
「古泉、」
と僕を呼び止めた。
「なんでしょうか?」
笑みを作って振り向いた僕に、「彼」は難しい顔をして、
「作り笑いは要らん」
と言ったけれど、勿論それが本題なのではなかった。
「お前、また何か知らんがあれこれ考えてるんだろ。お前がどういう懸案事項を抱えてるのか、俺には分からんし、俺もお前にあれこれ押し付けなかった手前、お前にはそうしろなんてことは言えんだろうが、お前が俺に言ったことは、お前にも適応されるんだと思って、可能ならいくらか俺にふってもいいんだからな」
「彼」にしてはストレートな言葉に、僕は思わず素で微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。自分でなんとかしてみせますから」
「そうかい。だったらいいが……ああ、お前は結構考えすぎて空回りでもしてそうなところがあるから、そこにだけは気をつけろよ。お前なら、考えが足らずに失敗する、なんてことはまずないだろうしな」
と言われ、声を立てて笑ってしまった。
「なんだよ」
不貞腐れたように言った「彼」に、
「いえ、同じことを涼宮さんにも言われまして…」
と正直に返すと、「彼」はますます難しい顔になって、
「あいつと同じってのは少しばかりなんだが、お前がそれだけ考えすぎるってことだと思って反省しろ」
「はい。……ありがとうございます」
もう一度そうお礼を述べて、
「それでは、また明日」
と言って今度こそ「彼」と別れた。
早く帰っても、彼に会えるわけじゃない。
それなのにどうにも気が急いて仕方なかった。
玄関のドアを開けると、それだけでもかすかに彼のタバコの匂いがする。
こんなに匂いを付けられて、もし涼宮さんが突然訪問するなんてことになった時にはどう言い訳したらいいんだろうなんて思いながら、消す気にはなれない。
着替えて、明日の支度や宿題をして、それでもまだ時間はたっぷりあって、僕はどこか寂しさに似たものを感じながらソファに座り、彼が気に入っているクッションを抱えると、一層強い匂いがした。
会いたい、と、思っているんだろうか。
なんだかとても恋しいような寂しいような気持ちになってくる。
顔を上げて時計を見れば、まだ7時にもなっていない。
とりあえず食事でもした方がいいかな、と思いはするのに動けない。
どうしようもなく彼のことで頭がいっぱいだった。
それからしばらくして、不意にインターフォンの音がして驚いた。
けれど、まだ8時には程遠い。
多分、宅配便とか何か関係ない荷物だろうと思いながら玄関に向かうと、
「よう」
といつもの笑顔に出くわした。
「え…? あ、あれ? 随分早かったんですね…」
驚く僕に彼は頷いて、
「出先から直帰してきた。だからこんな格好だろ」
こんな格好と言っているけれど、それは決して汚れているとかそういう格好じゃない。
ぴしりとしたスーツ姿だ。
「…初めてあなたに会った時みたいですね」
少なからずどきどきしながらそう呟いた僕に、
「ん? ああ、そうだったな」
と彼は笑う。
その笑顔を見て、ああやっぱりと思った。
彼をリビングに通して、コーヒーを淹れる。
すっかり慣れた彼は、スーツを脱いでハンガーに掛けたりしているようだった。
ネクタイも外して、寛いだ様子の彼にコーヒーを差し出すと、
「ん、ありがとな」
と嬉しそうに受け取ってくれるので、僕も嬉しい。
彼が不貞腐れた顔をするから、残念ながらコーヒーは安いインスタントだけれど、彼と一緒ならそれでも高いコーヒーより美味しいもののように思える。
「それで、どうしたんだ? お前が俺を呼び出すなんて珍しい」
コーヒーを一口飲んだだけでそう言った、ということは彼も気が急いているということなんだろうか。
僕は彼の隣りで少しばかり緊張に体を竦ませながら、口を開いた。
「その……あなたに言われた通り、考えていたんです。あなたのことを」
「…うん、だろうな」
「正直、よく分からないところもあるんです。あなたがどうしてそんなにも僕を思ってくれているのかとか、あなた自身についても、僕は分からないことだらけです。でも僕は……あなたが僕を思ってくださるなら、それに応えたいと思うんです。応えられるか、分かりませんけど」
「昔からそうだが、お前の話ってのは本当に分かり辛いな」
苦笑した彼は、じっと僕を見つめて、
「もうちょっと端的に言ってくれんか?」
「ええとですね……つまり、僕は……多分、あなたのことを好きなんだと思うってことです」
「……本当に?」
軽く目を見開いた彼を見つめ返して、
「はい」
と頷くと、彼は本当に幸せそうに微笑した。
その腕が僕を引き寄せるように抱き締め、
「嬉しい」
とかすかな声で呟くので、僕はもう何がなんだか分からないけれど、とにかくそうしたいという欲求に駆られるまま、抱き締めた彼に口付けていた。
彼は驚いた顔をしたものの、抵抗はせず、猫がするみたいに目をきゅっと細めた。
「…返事はもっと待たされるかと思った。お前のことだから、当分考え込むんじゃないかと思って、罪悪感まで感じてたんだぞ」
「自分でも意外ですけどね、案外すんなり認められたんです。それに……涼宮さんにも背中を押していただきましたし……それから、『彼』にも」
「は? そんなことあったか?」
と首を捻る彼に、僕は声を立てて笑った。
「ええ、心配していただいたようです。『彼』にとってもあなたにとっても、大したことではなかったようですけどね。でも…あなたのそういうところが、好きだと思います」
「……そりゃ、ありがとよ」
と言いながらも彼は複雑な表情だ。
そんなことあったか、なんて首を傾げている。
「まあしかし、ちゃんと届いたってことだよな?」
そう言って彼は嬉しそうに笑う。
「ええ、そうですね、きっと」
小さく忍び笑いを漏らした彼は、僕にもう一度触れるだけのキスをしておいて、
「好きだ」
と囁く。
「これからよろしくな、一樹」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね、」
と言っておいて、僕は彼をどう呼んだらいいのだろうかとしばし考える。
でも、やっぱり、どうせ呼ぶならこう呼びたい。
「…ジョンさん」
「……さんは要らんだろ」
と彼は吹き出した。
「ジョンでいい」
「そうですか?」
「おう」
と頷いて、彼は僕の頭を撫でる。
「なんですか?」
「いや……なんとなく」
よく分からないけれど、彼はそうするのが楽しいらしい。
撫でられるまま、顔を寄せると、
「…タバコの匂い…が……」
「あ、嫌だったか?」
「嫌じゃありませんよ。…あなたの匂いだなって思って……。今日も、帰ってからあなたの匂いがするのが嬉しく思えたり…して……」
言っているうちにどんどん恥かしくなってきた僕が黙り込むと、彼はやわらかく笑って、
「実は、匂いつけのつもりだったんだ」
と明かした。
「え?」
「お前の部屋に俺が来たって印を残してやりたい気がして、わざと吸ってた。普段は滅多に吸わん。それこそ、湿ってダメにしちまいそうなくらいにな」
「そうなんですか?」
「ああ」
くすくすと彼は楽しげに笑って、
「その甲斐があったみたいだな」
なんて言う。
「じゃあ、灰皿なんて要りませんか?」
「…欲しい、かな」
と彼は呟いた。
「お前の部屋に、俺のためだけに灰皿があるってのもいい気分だからな」
「じゃあ、どうしましょうか。買いに行きます?」
うちにある食器で灰皿として使えるものがあるならそうしてもいいけれど。
「お前のところに食器の余分なんてないだろ。ぎりぎり二人分あるかどうかってところなんだから」
からかうように笑った彼に、
「じゃあ、買いに行きましょうか。灰皿と…それからあなたの分の食器も」
「アホか。それくらいなら俺が荷物を抱えてここに引っ越した方が早いだろ」
冗談めかして言っておいて、彼は僕を放し、
「買い物行くか。晩飯もまだなんだろ?」
「はい。では、そうしましょうか」
そうして僕らは二人して部屋を出た。
手を繋いだりこそしないものの、お互いの手が触れ合えるほどに肩を寄せあって、ゆっくりとした歩調で街を歩く。
「何か食いたいもんあるか?」
「特にはありませんよ。あなたが作ってくださるものはどれも美味しいですし、僕のことを考えて作ってくださっているでしょう?」
僕が言うと、彼は意外そうに、
「…よく気付いたな」
なんて言う。
「そんなに鈍いと思われてましたか?」
苦笑しながら問い返せば、はっきり頷かれた。
「食うものに頓着しないだろ、お前」
「自分で選ぶ時には。でも、作っていただいたものはきちんと味わって食べますよ。…今日の朝ごはんも、とてもおいしかったです」
「…そりゃよかった」
照れ臭そうに笑った彼を可愛いなんて思えた。
僕たちは完全に付き合い始めたばかりの恋人同士で、つまりは完全に油断しきっていた。
だから、
「あら、古泉くんじゃないの」
と声を掛けられた時には、本当に竦みあがったし冷や汗が吹き出た。