ショタキョン注意





















































パパとは呼べない



まだ肌寒い春の日に、俺はそれまでいた場所を飛び出した。
寒かったから、その辺に落ちてた毛布を拾って、臭いのを我慢して包まった。
そんなことをするくらい、いたくない場所だった。
寒かったし、寂しかったし、苦しかったし、ひもじかった。
でもそれがずっと続くんだと思っていた。
逃げたって一時のことで、どうせ連れ戻され、まだあの生活が続くんだと思っていた。
なのにどうして、俺は今こんなことになってるんだろう。
つぎはぎなんて少しもない、ぱりっとした綺麗な洋服はいい匂いがする。
綺麗に洗ってもらった髪もいい匂い。
部屋の中は暖かくて、おいしい匂いもする。
なんでこうなったんだろう、とまだ信じられない気持ちがする俺に、
「どうしたんですか?」
と優しく聞いてくるのは、綺麗な顔をした男である。
父さんとか親父なんて言うのは似合わないくらい若い。
かといって、当人が言ったようにパパなんて呼ぶのは余計に恥かしくて出来ない。
いっちゃん、というのも相当に恥かしいから呼びたくない。
だから極力呼ばないようにしているのだが、
「…俺……本当に帰らなくていいのか…?」
心配になってそう聞いた俺に、そいつは小さく笑った。
「何言ってるんですか? 帰るのはここ、でしょう?」
そう言って抱き締めてくれる。
触れあう体温もあったかくて、ほっとする。
「あなたのお祖父さんとお祖母さんにはちゃんと話もつけましたし、手続きもきちんとしました。だから、あなたは間違いなく僕の息子で、ここがあなたの家ですよ」
「…うん、そうだよな」
俺はいっちゃんを抱き締めた。
そんなのも、こいつから教えてもらった。
愛情表現なんて、俺にはとても縁がなかったから。
それが悲しかった時もある。
けど、今思うと、新しいことや知らなかったことがいっぱいで、逆に幸せにも思える。
「いっちゃん」
と呼ぶだけで嬉しそうに笑ってくれる。
「なんでしょうか?」
「俺、色々覚えたい。料理とか、お手伝い、頑張るから…」
「そんなことしなくてもいいんですよ?」
「俺がしたいんだ。……お前に色々してもらえて、俺も嬉しいから、お前にも返したい。お前にも、嬉しくなってほしいんだ」
「…本当に……」
しみじみと呟きながら、きつく抱き締められる。
「ん…苦しいって」
「可愛い子ですね」
そう微笑んで、俺の頭を撫でてくれる。
ただそれだけのことがとても気持ちよくて、幸せで、勝手に顔が緩んでくる。
「俺、頑張るから」
「頑張らなくていいですよ。ちょっとだけで、ね。それよりも僕としては、あなたが楽しく、健やかに育ってくれたらそれでいいんです」
「…うん、ありがとな」
でも、頑張ろうと俺は誓った。
いっちゃんは、仕事があれこれ忙しくてなかなか家にはいない。
そんな状態で俺を一人にするのは心配だと言ってくれたのだが、保育園とか幼稚園とかに行くのはなんだか不安だし、そんな金をかけさせたくなかったから、行きたくないと抵抗した。
「しょうがないですね」
と苦笑しながら、いっちゃんは俺のために電話を買ってくれ、
「何かあったらすぐに呼ぶんですよ」
とまで言ってくれた。
ひとりで家にいるのは、思っていたよりも平気だった。
テレビを見ていいとも言われていたし、それに、やることだって色々あった。
掃除や洗濯、料理なんかの家事はどうやら苦手らしく、俺が少々失敗しても、
「僕よりずっと上手ですよ」
と褒めてくれる。
洗濯機や掃除機なんかがあるから、そんなに難しくもないってのにな。
そうやってせっせと働く間にも、教育テレビなんかを見て勉強した。
いっちゃんが、俺のことを賢い賢いと変に褒めるからいけない。
俺は別に賢くなんかない。
ただちょっと耳年増で、言葉を聞き知っているというだけだ。
その証拠に、ひらがなもろくに読み書き出来てない。
だからせめて、と俺はテレビで文字の勉強なんかしてみた。
要らない紙をいっちゃんが用意してくれたから、それに文字を書いて、ようやく「こいずみ」と書けるようになった時には、いっちゃんも大喜びして、
「今日はお祝いしなくてはいけませんね」
なんて言うから、とめるのに苦労したくらいだ。
「でも、」
といっちゃんは変な顔をして言った。
「どうしてその字を練習しようと思ったんです?」
「…当然だろ」
「え?」
「……俺の名前なんだから」
違ったのかよと睨み上げようとしたのに、俺の視界にいっちゃんの姿はなかった。
代わりに、温かさを感じる。
つまり俺は、きつく抱き締められていたわけだ。
かすかに見えるのはいっちゃんの柔らかい薄茶の髪の毛くらいだ。
「どうした?」
「すみません、嬉しくて、つい……」
「……ばかだなぁ」
いっちゃんの声がなんだか泣きそうな声に聞こえたから、俺は笑って手を伸ばし、いっちゃんを撫でた。
俺は本当にいっちゃんが大好きで、幸せで、こんな幸せがずっと続くならどんなに嬉しいかと思いながら、でも、本当に続くんだろうかなんて、不安にも思っていた。
「続きますよ。…僕が守りますから」
そう言ってくれても、なんだか不安なままでいた。
だって、幸せというものが、俺にとってはとても遠いものだったのだ。
それが身近にあるのが信じられなくて、それでも嬉しくて、守りたいと思った。
俺にとっていっちゃんは、とても大事な人だった。
俺のことを救ってくれた人。
俺にたくさんの幸せをくれた人。
俺のことを人生で二番目に―― 一番は母だ――、愛してくれた人。
俺の記憶にある中では、一番最初に愛してくれた人。
俺はとても幸せで、満ち足りていた。
なのに、どうしてだろう。
いつからだろう。
それだけじゃ満足出来なくなったのは。
「一樹」
背伸びするつもりはないが、いっちゃんなんて恥かしい呼び方をしなくなり、一樹も許容してくれるようになったのは、中学生になった頃のことだった。
俺たちは前の部屋よりずっと綺麗で広い部屋に引っ越していて、俺には自分の部屋も与えられていた。
一樹と呼ぶようになって、口の聞き方もいくらか乱暴になった。
部屋が別々になった分、一樹にべったりすることもなくなった。
俺は少しでも一樹に負担を掛けたくなくて、家事は勿論のこと中学生でも出来るバイトなんかを探して、余計に一樹と顔を合わせなくなって。
それでいいはずなのに、足りなくなった。
もっと一樹に会いたい。
一樹の側にいたい。
独り占めしたい、なんて、思うようになるなんて。
「どうしたんです?」
仕事中だったんだろう。
パソコンに向かっていた一樹は、俺が呼んだだけですぐに振り向いてくれた。
嫌そうな顔もなくて、むしろ嬉しそうに。
「寝なくていいんですか? 明日も朝から新聞配達に行くんでしょう?」
「眠れないんだ」
そう言いながら一樹に近づいて、そっとその肩に触れる。
「何か心配事でも?」
心配そうに尋ねる一樹の手が、優しく俺を抱き締めてくれる。
その温かさにほっとしたら、涙が出てきた。
「っ、ど、どうしたんです!?」
今度こそ本気で慌てた一樹が立ち上がり、俺の体をしっかり抱き締めてくれる。
俺は一樹の胸に顔を埋めて、しゃくり上げながらもしがみつく。
温かい。
いい匂いがする。
俺の、好きな……。
「一樹が…っ、足りない…!」
子供が駄々を捏ねるみたいにして喚いた。
「もっと、一緒にいなきゃ、やだ…ぁ……! ひっく……、一樹、と、いたい……」
「キョンくん……」
困らせたと思った。
今度こそ怒られると思った。
それなのに、一樹は優しく笑って、俺の頭を撫でてくれる。
「勝手に忙しくしてるのはキョンくんでしょう? バイトなんてしなくていいって言ったのに、自分からするって言って、ちゃんと家計に入れてくれて。僕だってもっと、一緒にいたいと思ってますよ」
「だ、って……」
喉が震える。
体中が震える。
「俺…っ、知ってるんだぞ…!? 俺は本当は、お前の子供なんかじゃ…」
「キョンくんは、僕の大事な息子です」
きっぱりと、強すぎるほどはっきりと一樹は言った。
「血の繋がりは関係ありません。あなたは僕の息子です。僕の大切な家族です」
その言葉を待っていたと思う。
それを嬉しいと思う。
なのに、どうして、足りないなんて思うんだろう。
俺は首を振る。
「嫌ですか?」
「…息子、じゃ、やだ……」
「…では、どうしたいんです……?」
そう問い返す一樹の真意は分からなかった。
俺の望むものを分かっていてそう聞いているのか、分からずに聞いているのか、それさえ。
「……息子じゃ…お前を誰かに取られちまうんだろ…? お前に、彼女とか、お嫁さんとか…出来たら……」
「誰もいませんよ?」
「嘘…!」
ひくんと横隔膜が震えて痛い。
ぼろぼろと泣きながら、俺は一樹にしがみつく。
「俺…頑張るから、勉強も頑張るし、家事だってしっかりするから、だから……」
「だから…?」
「…俺のこと、お嫁さんにして……?」
一樹は小さく息を飲んだ。
その顔が見る間に赤く染まる。
でも一樹はこほんと咳払いなんかして、難しい顔を作り、
「あのですね、キョンくん、男同士では結婚出来ないってことくらい、賢いあなたなら分かってるでしょう?」
「事実婚でいいから。…入籍なら、してるようなもんだし」
「…キョンくん、」
「あのな、一樹、」
俺は少なからず呆れて言った。
「もっともらしいことを言って止めたいのは分かるし、お前の立場ならそうしなきゃならんのだろうけどな、それならせめてその顔をなんとかしてくれ」
「えっ」
「そんな真っ赤になってたら、いいって言ってるようなもんだぞ」
そう笑って、俺は一樹を抱き締め返す。
呆れすぎたからか、涙は止まっている。
背伸びして、それでも足りなくて、一樹の頭を強引に引き寄せて、触れるだけのキスをした。
「っ、キョンくん!」
「好き」
そう俺が囁くだけで顔が真っ赤になるくせに。
心臓だってこんなに早く動くくせに。
大人ってのは本当に面倒だなと思いながら、俺は一樹にしがみつき、
「離してなんかやらないからな」
と言ってやった。