夜の内に彼が帰ったのを見送り、僕は改めて布団に潜り込んだ。 彼にせかされるままお風呂にも入ったので、体も暖かくて気分はいい。 そうしてひとりになると、なんだかよく分からない気持ちに拍車がかかった。 彼が帰って寂しいのかほっとしているのかさえ分からない。 ただ、彼のことばかり考えてしまうのだけは確かで、僕はそれから逃れるように目を閉じた。 ほどよく疲労した体はあっという間に眠りに引きずり込まれ、夢も見なかった僕は目覚まし時計のアラーム音ですぐさま叩き起こされたかのような錯覚に陥りかけた。 くあ、と欠伸を漏らしながらベッドから這い出し、身支度を整える。 普段から朝食は大して真面目に取らないのだけれどと思いながらも台所を見れば、幻でもなんでもなかったらしい食事が用意されていた。 昨日、彼が帰る前に用意していってくれたものだ。 「温めて食べるだけだからちゃんと食えよ」 と口をすっぱくして言い残していったそれを無碍にすることは出来ない。 言われた通りきちんと温めた食事に、 「いただきます」 と手を合わせてから口にすると、やっぱり美味しく思えた。 彼の料理はいつも優しい味がする。 手が込んでいるという訳でもないのだけれど、きちんと栄養や食べやすさを考えてくれているのだろう。 これまでにも何度も彼の料理は食べたことがあったけれど、いつもそうだったと思う。 それが、彼が僕に向けてくれている好意のあらわれだったのだろう。 彼なりに考えて、僕には伝えないまま、秘めたまま、それでもさり気なく向けられた好意だったのかと思うと、胸の中が温かくなるように思えた。 食事を終えた後はいつも通りに家を出て登校した。 そこになんの変化もないはずなのに、どうしてか何かが違っているように思えた。 気がつくと彼のことばかり考えている。 彼の優しい声や仕草。 彼のくれた言葉。 そして昨日の彼の妖艶な――…って、これは今思い出すとまずい気がする。 ぷるぷると頭を振ってそれを追い出し、僕はゆっくりと坂を上る。 こちらの「彼」は昨日も遅くまで忙しかったようだから、きっとまた遅刻すれすれでやってくるのだろう。 彼の方はどうだろう。 大丈夫だったんだろうか。 気丈に振舞う人だから、平気そうな顔で帰って行ったけれど、もしかしたら帰ってからダウンしたりしているかもしれない。 …心配だな、と思ってからうろたえる。 どうしてこんなに考えてしまうのか、と。 まさか僕も彼を意識していると? それどころか……と考えておいて、もう一度頭を振る。 まさかがもしかしてに変わり、やがて勿論に変わるのは時間の問題のようにも思えたけれど、そう易々と納得もしかねるのは、誰にしても同じだろうと言いたい。 相手が同性であるということはそう簡単に越えられるハードルではない。 おまけに僕からすると友人であり、年上になってしまっている彼は兄か何かのように頼れる人だとも思っていた。 更に状況を複雑にしてくれるのは、彼と「彼」の二人がいることだ。 彼を好きになって、付き合って、「彼」と混同したりせずに普通に過ごせるだろうか。 考えても考えても建設的なことは思いつかず、そのくせどうしようもなく彼のことばかりを思っていた。 まるでたった一晩で彼に囚われたようだと思ったけれど、それはたとえでもなんでもなく、ただの事実だろう。 ほうっとため息を吐いた僕に、 「古泉くんどうしたの?」 と声が掛けられた。 慌てて顔を上げると涼宮さんがいた。 一瞬驚いたけれど不思議でもなんでもない。 昼休みの食堂に彼女がいるのはいつものことだ。 僕は表情を取繕いながら、 「あ…いえ、なんでも……」 「もしかして、一日遅れのバレンタインとか言ってあれこれ押し付けられでもしたんじゃないの? 厄介だと思ったらホワイトデーを待たずにお断りしなさいよ」 「ありがとうございます」 と苦笑混じりに返す。 確かにバレンタインのおかげでこんな風に困った状況になっているのだけれど、今日になっていただいたものは決して多くないと思う。 義理チョコらしいのをいくつかと、差出人不詳がいくつかだ。 本気らしいのは受け取ることもお断りさせていただいた。 今、既に大きな懸案事項を抱えているのだし、事情を話せもしない相手と付き合って上手く行くなんて楽観的なことはちらとも思えないからだ。 それを思うと、彼はちょうどいい相手なんだよな…。 事情は分かっているし、秘密も守ってくれるだろう。 少なくとも、いきなり呼び出されて僕がいなくなっても、変に怒ったりはしないだろうと思うと、安心感はある。 そこまで考えたところで、自分が彼を好きになっていい理由を探していることに気がついて、慌てて振り捨てた。 そうじゃない、違う。 「…大丈夫?」 怪訝な顔をした涼宮さんに、 「え、ええ、大丈夫です」 「ならいいんだけど……うーんと…」 涼宮さんは困ったようにしばらく考え込んだ。 何を考えているんだろう、と思っていると、彼女は迷いながら口を開き、 「…何で悩んでるんだかわかんないけど、古泉くんなら大丈夫よ。間違えっこないわ。間違えたって、ちゃんと軌道修正出来るでしょ。思うんだけど、古泉くんはちょっと考えすぎるのよ。考えたってしょうがないなら動いちゃえばいいんだわ」 「動く……」 「そうよ」 と涼宮さんは大きく頷いた。 「古泉くんのことだもの、十分過ぎるくらい迷って、考えたんでしょ。それで分からないなら、動いて確かめてみるしかないのよ。違うと思ったら引き返すか、別の道を探せばいいじゃない」 そんなことを一生懸命話してくれて、僕はようやく気がついた。 彼女なりに僕を心配し、相談に乗ってくれようとしたんだと。 それに気がつくのが遅れたことを申し訳なく思いながら、 「そうですね」 と僕は頷く。 「そうしてみようと思います」 ほっとしたように微笑した涼宮さんに、僕は軽く会釈して、 「相談に乗ってくださってありがとうございます」 「別に、そういうつもりじゃないわよ」 照れ臭そうに言って、涼宮さんは顔を背け、 「あたしは放課後の準備があるから」 なんて早口に言って、足早に食堂を出て行ってしまった。 涼宮さんも変わったと小さく笑いながら、僕は彼女の背中を見送り、まだ箸をつけてもいなかった食事に手をつけた。 いつも何も考えずに食べていたはずのそれが、何故だかとても物足りなく感じられた。 彼の料理が食べたい、なんて思った辺り、僕はもう手遅れみたいだ。 食事を終えた後、僕はまだ時間が残っているのを確かめて人気のない屋上に上がった。 ポケットから引っ張り出した携帯をしばらく見つめる。 どうしようか、何を言おうかと。 それでも意を決して電話を掛ける。 コール音は数回響いただけで、 『もしもし?』 とどこか怪訝な声が聞こえた。 「もしもし、僕です。今…構いませんか?」 『ああ、俺は構わんが……お前は?』 「今、昼休みです」 『…ああ、そうか。そうだったな』 柔らかな笑いに懐かしむような調子を含ませた声で頷いた彼は、 『で、どうした?』 「…今日、いえ、今晩、お暇ですか?」 そう尋ねるだけで、緊張に声が震える。 心臓も痛いくらい脈打って、彼の返事を待つ短い間、恐怖にも似た感覚に囚われる。 『…あいてる……が…どうかしたか?』 「会いたい…です」 短くそう告げると、彼はかすかに笑ったようだった。 『分かった。ちょっと今日は遅くなるかも知れないが……お前ん家を訪ねたんでいいなら、8時くらいには行けると思う』 「はい、それで結構です。…お待ちしてます、から」 『ああ』 それだけ話をして通話を終了させると、勝手にため息が出た。 あれだけの会話なのに、妙に疲れた。 …それとも、緊張したと言うべきだろうか。 手もじっとりと汗ばんでいる。 まだ寒いはずなのに、少しもそうは思えなかった。 体が熱い。 めまいすらしそうだ。 早く教室に戻ろうと思いながら、僕は携帯をポケットに押し込んだ。 放課後…も涼宮さんは何かすると言っていたっけ。 とりあえずはそれに集中しよう。 そう思いながら、そして実際覚悟を決めていたはずなのに、「彼」の姿を見ると変に胸の中がざわついた。 でも、彼に対するそれとは何かが違う。 込み上げてきたのは何か懐かしむような、不思議な感覚だった。 彼の十年前の姿を見ているのだと思うと、なんだかおかしくて、「彼」があんな風に成長するのかというよりも、彼にもあんな頃があったんだまという風に思っている自分にはもう笑うしかなかった。 なんだ、もう決まってるんじゃないか。 涼宮さんに言われた通りの仕事をしながら、僕はちらちらと「彼」の様子を見ては口元を緩める。 今日の「彼」が忙しくてよかった。 そうでなければ怪しまれて、お説教のひとつくらいは食らっただろうから。 にやけてしまうのをなんとか堪えながら、ようやくそのちょっとしたイベントを乗り切り、いつもの放課後と変わらない時間が訪れる。 昨日彼にいただいたプレゼントのカードゲームの封を切りながら、少し「彼」と話をする。 今回の彼の苦労に関して、涼宮さんに聞かれないようこっそりと。 ホワイトデーの返礼について、涼宮さんに言われた時にはどうしたものかと思ったけれど、「彼」とならなんとか出来るという気もする。 それよりも、彼へのお礼をどうしようかなんて考えてしまうのが問題といえば問題だろうか。 僕はカードゲームをひとつ、「彼」に差し出した。 「どうぞ」 「ん? どうしたんだ?」 「いただいたんですよ。あなたと一緒にやればいいと。…ジョンさんから」 ジョン・スミスという名前が涼宮さんに及ぼす影響の可能性を聞き知っている僕は、それを涼宮さんに拾われないように、本当に小さな声で言ったのだけれど、「彼」にはちゃんと聞こえたらしい。 「ああ、なるほど」 と頷きながらそれを受け取ってくれた。 ぴっとパッケージを破るのを目で追いながら、 「それで、彼にお礼をしたいと思うんですが、何かいい案はありませんか?」 と戯れに聞いて見る。 「あいつに? ……別に、なんでもいいと思うんだが…」 と「彼」は首を捻り、 「……実用的なものなんかなら、普通に喜ぶんじゃないか?」 「ああ、そうですね。…目に浮かびます」 くすりと声を立てて笑ってしまった僕に、「彼」も柔らかく目元を緩めて、 「なんか、結構仲良くやってるみたいだな」 と呟いた。 「え?」 「いや、最初がああだっただろ? いくらあいつが鷹揚でも流石に心証を悪くしたんじゃないかとか思ってたし、お前もちょっとやそっとじゃ懐いたりしなさそうだったから、どうなったかと思ってたんだが……要らん心配だったな」 「…心配してくださったんですか?」 僕が聞き返すと、「彼」はぐっと言葉を詰まらせた。 それから言い辛そうに、 「そりゃ……まあ、一応、な」 「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」 「そうかい。…あいつもあれこれ大変だろ。なんだったら、面倒みてやってくれ」 「僕の方が面倒をみていただいている気がしますけどね」 「ああ、」 と「彼」は笑い、 「あいつ、面倒見はいいからな。おかん気質っていうか、お人よしっていうか」 なんて言うから、思わず声を上げて笑いそうになった。 あなたが言っちゃうんですかと言いたいところだけれど、そんなことを言ってはまずいのでそれは辛うじて堪え、 「そうですね」 と同意を示す。 「お前も少しくらいその不規則そうな生活とか見直してもらえ」 「そんなに酷い生活はしてないつもりなんですけど…」 「じゃあ、朝飯は食ってるか?」 「…今日は食べました、よ」 「いつもは食ってないんだろ。全く…」 優しく苦笑して、 「お前もあれこれ忙しいんだから、体は大事にしろよ」 なんて言葉をくれる。 その優しさに、ああやっぱり僕はあの人を好きになってしまいそうだと思った。 |