目を開けて、習慣的に携帯で時刻を確認する。 20時43分。 どうして寝ていたんだっけ、と考えた瞬間、寝る前の記憶が蘇り、ぼっと顔が熱くなった。 「僕は……なんてことを彼と……」 汚れた服は引き剥がされ、着替えさせられたから体がべたつくというようなこともないし、彼は痕を残そうともしなかったから、何か残っているわけでもない。 でも、彼の肌の感触も熱さも、何もかもが鮮明に残っている。 生々しい。 深く考えるとまた何かおかしなことを考えるかどうかしてしまいそうで、僕はのろのろとベッドから出ると、洗面所に向かった。 冷たすぎるほど冷たい水で顔を洗い、少し頭がすっきりする。 「…彼は…どうしたんだろ……」 呟いて動かなければ体が言うことを聞かないんじゃないかと思えるほど、自分の心と体が乖離したようにも思える。 どうしてあんなに簡単に反応してしまえたのかとか、どうして止められなかったのかなんて考えると余計に。 まだ混乱が収まってないのかもしれない。 とにかく彼に会いたくて、彼の姿を求めてキッチンに行くと、彼は上機嫌で食事を作っていた。 夕食、だろうか。 「おはよう。丁度いい時に起きたな」 と明るい声で言われ、 「おはようございます」 と返しはしたものの、彼のそんな余裕がなんだか癪で、 「…もう恋人気取りですか?」 なんて意地の悪い問いかけをしたけれども、そんなものでは彼は揺るがないらしい。 にやりと笑って、 「ああ、そうだな。どうにも楽しくていかん」 と言う辺り、本当に手強い。 元々、同い年の彼にだって勝てる気がしないのだから、十も年上の彼に勝てるはずなんてないのかもしれないけれど。 彼は手際よく鍋の中に溶き卵を流し込みながら、僕を横目で見て、 「嫌悪するほど悪かったか?」 と少しばかり心配そうな声で聞いてきた。 その不安そうな目と声は、あんな大胆なことをした人のものとは思えないほどで、思わず笑ってしまうと、 「笑うな」 と睨まれた。 「すみません」 「…俺だって、不安なんだからな」 そう言って顔を背け、ぶつぶつと文句を言い出す。 「男なんか、特にお前くらいの歳の男なんか、簡単だからな。体は単純に反応するし、熱を持ったらなかなか抜けないもんだろ。だから、あんなことが出来たからって、お前の気持ちが簡単にこっちに向くとは思っちゃいないし、むしろお前に軽蔑されるかも知れんと冷めた頭で考えたら、泣きたくなる、し……」 そう言って声を震わせた彼は、さっきとは打って変わって、年上に見えないくらい弱々しい。 「それで玉ねぎサラダなんですか?」 小さく笑った僕の額をコツッと叩いて、 「からかうな、ばか。こっちは気が気でないんだぞ」 僕を睨みつけた目がかすかに赤い。 僕は降参とばかりに手を上げて、 「…嫌悪、はないと思いますよ」 と答えた。 それだけでも、彼がほっとしたように表情を緩めてくれる。 「でも……あなたをそういう対象として見られるかとか、あなたと付き合えるかと言われると、分かりません。正直まだ混乱していますし、これまでそんな風に考えたことがなかった訳ですから……」 「ああ、まあ、そうだよな」 こくりと頷いて、 「…じゃあ、これから、考えてみてくれないか? ちょっと……いや、真剣に」 「……あなたのこと、を?」 「…そう……だな」 迷うように少し考え込んだ彼は、 「…この件については、あいつのことを判断材料に入れてもいい、かな。だが、あいつはまだ自覚もしてないぞ」 と苦笑して、とりあえず話は終りだとばかりにコンロの火を消した。 「さて、晩飯にするか。腹ペコだろ」 「そうですね」 促されるままテーブルについた僕の前に、玉ねぎと豆腐のサラダ、熱々の玉子スープにコーヒー、スパニッシュオムレツが並べられる。 「簡素で悪いな」 と彼は言ったけれど、 「十分豪勢ですよ。材料も買ってきてくださったんですよね?」 「ん、まあ気にするなよ」 「…ありがとうございます」 彼は嬉しそうに笑って、ご飯をよそった茶碗を僕に手渡してくれる。 「今日は疲れてるんだろ。しっかり食えよ」 「はい」 なんだかむず痒いと思いながらも嫌じゃないなんて、自分が分からない。 苦笑する僕に、彼はにこにこと笑みを振りまきながら、 「新婚か何かみたいだな」 なんて言うから、あやうく噴出しかけた。 まだ何も口に入れてなくてよかった。 「っ、な、に、言い出すんですか…!」 「ああすまん、つい口から出てた」 謝りながらも笑みは消えない。 そればかりか、 「…どうにも浮かれちまって困るくらい、お前のことが好きなんだ」 なんて柔らかな声で囁かれて、顔が熱くなる。 「…あなたって、そんなに大胆な人だったんですね」 「そう…だな。自分でも驚いてる。…多分、ストッパーがないってのと、これまでに鬱屈したものがあったから、だろうな」 自己分析するように呟いて、彼は少し不安の色を滲ませた。 「……やっぱり、嫌か? 鬱陶しいとか…あるなら、自重するが……」 「いえ、これくらいでしたら構いませんよ」 「そうか。ありがとうな」 ほっとしてまた笑う。 本当にころころと表情がよく変わるし、それがまた可愛く見える。 落ち着かないような、くすぐったいような、でも決して不快などではない食事の時間を終えかけた僕に、 「ん」 と差し出されたのは、スーパーで売ってるようなチョコレートケーキだった。 「デザート、ですか?」 「それもある」 そう言った彼の顔が赤い。 「…けど、なあ、お前、一度寝たらもう忘れちまったのか? 今日は何月何日だ?」 「え? 今日…は……」 ああ、本当に忘れてしまってる。 なんだったっけ? 今日は何があった? 「…二月十四日、バレンタインデーだ」 照れ臭そうに言って、僕にケーキを押し付け、彼ももうひとつあったケーキにかじりつく。 ワイルドに手掴みだ。 照れた彼を見ながら、つい僕は目を細めたけれど、せっかくだからとケーキを頂戴することにした。 彼を見習って、手掴みで。 頬張ったケーキは、甘いんだけれど甘過ぎはせず、ふわふわしていた。 「お前のことだから、他にももらったんだろ」 「今日は休日でしたから…。あなたの他には、涼宮さんたちにいただいただけですよ」 正直に答えたのに、彼は意外そうな顔で、 「ふぅん…郵送したりわざわざ持ってくるような子もいるかと思ってた」 なんて独り言めいた呟きを漏らす。 「僕はそんなにモテそうですかね?」 僕としてはそう苦笑するしかない。 自分ではそれほどでもないと思うのだけれど。 「モテるだろ。モテないなんて言ったら謙遜にしてもほどがあるぞ」 「分かりました、覚えておきます」 「…にしても、お前まで手掴みで食わなくてよかったんだぞ」 「普段から家ではこんなものですよ」 「そうなのか?」 軽く目を見開いた彼に、僕ははっきりと頷いて、 「ええ。洗い物が増えると面倒でしょう? 使い捨てのフォークなんかがあったら使いますけどね」 と口の中に残りのケーキを放り込み、手を洗うため流し台に立つ。 クリームの油分は水洗いだけで落ちるだろうか、なんて考えながらばしゃばしゃと手を洗っていると、 「俺も、」 と横から割り込まれる。 軽く当たった肩の温かさにどきりとしながら、並んで手を洗う。 「寝直すか?」 「…どうしましょうか」 呟きながら、僕は携帯に手を伸ばし、メールを見る。 新着メールが何件か……ああ、何かあったんだな。 ぼんやりとそれを眺めていた僕は、ぱっと気を引き締めて彼を見た。 「朝比奈みくる……僕はまだ直接お会いしたことのない朝比奈さんが、来ておられるようですよ」 「そうだろうな。…それが?」 皿洗いを始めた彼は振り返りもしない。 その声には無理も力みもない。 「……本当に、いいんですか?」 「ああ」 あっさりし過ぎていると感じられるほど簡単に彼は答える。 「朝比奈さんはいつか未来に帰る方だ。あの人にとってホームグラウンドは残念ながらこっちじゃなくてあっちだからな。だが、俺は違う。俺にとってはこっちが……俺の、いたい場所だ。まだホームグラウンドとは言えないかも知れんがな」 きゅっと快い音を立てて蛇口を閉めた彼は、タオルで念入りに手を拭ってから自分のカバンを拾い上げ、中から何か引っ張り出した。 鮮やかな空色の紙で綺麗にラッピングされ、小さなリボンまでついている包みだ。 大きさはさほどでもない。 むしろ小さい方だろうが、中途半端なサイズだ。 なんだか分からないそれを彼は僕にぽんと渡した。 「なんですか?」 「バレンタインのプレゼントだな。…本当はあんな暴挙に及ぶつもりじゃなかったから、まともなもんも用意してあったんだ」 「…ええと……ありがとうございます」 「開けて見て、気に入ってから言えよ」 苦笑した彼に促されて封を切ると、中からは新品のカードゲームが出てきた。 トレーディングカードのスターティングパックらしい。 「二人分あるから、あいつを誘って遊んでやれ」 と笑って、彼は取り出したタバコに火をつける。 ふわりと彼の匂いが広がった。 |