おかしな店が、歓楽街のど真ん中にある。 店の名前は「Buon appetito!」――いただきますだかめしあがれだとか、そういう意味のイタリア語らしい。 見るからにおしゃれそうな店構えだが、窓は暗く、店内の様子は見えない。 それでもまあ、普通の人間ならイタリア料理店か何かだと思うのだろう。 俺だって実際そう思って、求人広告片手にドアを叩いたのだが、残念ながらそうじゃなかった。 ここは料理屋などではなく、ホストクラブなのだ。 料理の提供はする。 しかしそれを作るのはホストだし、作る料理だって大したもんじゃないばかりか、酷いやつだとカップ麺だ。 客はそれに対して、実費+αの代金を支払う。 当然、そのプラスされる金額がやけに多いのは言うまでもない。 定番のカップ麺一つに何万も払う客がいるのを見ると吐き気がしそうになるが、まともな料理を作れる奴が少ないのにもげんなりする。 あまりに酷い状況に、俺はホストクラブと聞いて逃げたくなったのを忘れ、ここで働くことになっちまったのだ。 一応料理人志望だったから、ある程度の料理は出来るし、客の方からレシピを持って来てくれたりすることもあるのでありがたい。 珍しい食材を持ってきてくれる人もいるしな。 あまりに多くもらっても悪いからと、ある程度返してるってのに、気がつけば俺は店でナンバー3とか言われるほどの売上になってた。 ……まあ、酷い料理でも顔がよければ客がつくなら、逆に料理がある程度出来れば、俺みたいな平凡な顔でもつくか。 そう納得しつつ、俺は自分より上にいる二人を思い浮かべる。 ナンバー1は何の冗談か、会長と呼ばれている男で、こいつが酷いやつの筆頭である。 何しろ、カップ麺を作るだけならまだしも、器も替えず、酷い時は87円とかいう安売りの値札がついたまま客に出す。 それでも口の上手さやら顔のよさやらで一番売れているのだから、世の女性というのは不思議な生き物である。 で、ナンバー2は射月という俺と同い年の男なんだが、こいつは一応料理を頑張ろうという気はあるらしい。 顔だちは派手だし、口も上手いが、そこそこに一生懸命で好感が持てるタイプなのだが、それにしたって料理が下手過ぎて恐ろしい。 客の方も、まともな料理を注文するよりカップ麺でいいなどと濁す始末である。 その度小さくなって謝るところなんか、とてもホストには見えない。 そんなどこかとぼけた奴に、俺は今壁際に追い詰められていた。 「ずっと、考えてたんです」 低く囁く声はどこか切羽詰っていて耳によろしくない。 俺を逃がさないようにと両肩を掴んだ手の力も強すぎる。 「何をだよ」 負けじと睨み返すと、怯むような色を見せるくせに、引き下がるつもりはないらしい。 「…お願いが、あるんです」 「……頼みがあるって態度には見えんがな」 「す、すみません」 謝るくせに手は緩めない。 「お願いします。僕の……」 ――料理の先生になってください、と射月は泣きそうな声で言った。 「…料理って……」 「あなたもご存知の通り、僕は恐ろしく料理が下手なものですから……」 ああ、自覚はしてたのか。 「してますよ。自分でも、おいしくないなんてものじゃないと思ってますから」 恥じ入るように言いながら、かすかに頬を赤く染め、 「ちゃんとした料理をお客さんに提供出来ないのが、申し訳ないと思うんです……。それなのに、お金はいただいてしまうし…」 「それで、料理を勉強したいって?」 「はい」 「…それなら、俺に教わるよりどこか料理教室なんかに行った方がいいんじゃないか?」 「それも考えました。でも僕は……あなたに、教わりたいです」 ぽつんと呟くように言った射月は、慌てたように言葉を添える。 「あなたの作る料理が好きなんです。ちょっとした手間を惜しまず、丁寧に作られていて、優しくて……」 うっとりしたように囁く声にほだされそうになる。 こういうところなんか、やっぱりこいつはホストが合ってると思っちまうところだ。 俺は少し考え、 「…俺は教えるのは上手くないと思うぞ」 「いいんです。頑張って、見て覚えますから」 「それなら、いい」 ため息混じりにそう言ってやる。 「見て覚えるなんて気張らなくてもいいぞ。少しくらいのアドバイスならしてやるからな」 「はい、よろしくお願いします」 そう言ってにっこり笑った笑顔が本当に綺麗で、なるほど、この笑顔にやられる客が多いのも頷けた。 「じゃあ、今度買い物から行くか?」 この店では基本的に自分で使う食材の仕入れは自分でやることになっているからそう言ったのだが、射月は嬉しそうに笑って、 「ご一緒させていただいていいんですか?」 「選びながら何を作るか考えたりもするからな。暇ならついて来い」 「はいっ」 いい返事がそれだけで終らないといいが、と思ったのは完全な杞憂で、翌日、俺が待ち合わせ場所に行くと射月は既に待っていて、俺を見つけるなり尻尾を振る犬みたいにして駆け寄ってきた。 「こんにちは、虚雲さん」 と俺の源氏名を恥かしげもなく呼ぶから、 「外でそれは正直勘弁してくれ」 「え? では、どうお呼びしたら……」 「…キョンでいい」 「キョンさん……ですか?」 さんも要らんのだが、 「虚雲なんてのよりはまだあだ名らしく聞こえるだろ」 と俺は答えておいた。 実際、恥かしさはいい勝負かもしれんがな。 何が嬉しいのかにこにこと愛想を振りまいている射月をつれて、スーパーに入る。 仕入れる量は大したことない。 精々、20食分ってところだ。 「お前、料理は得意じゃないけど一応してたよな?」 「え、ええ、見よう見まねでなんとか……」 「だよな」 手つきの危なっかしさなんかが気になった記憶がある。 「お前、全然料理とかしたことなかったみたいだな」 「ええ。…家事を手伝うという概念がなかったもので」 「そうかい」 まあ、ホストなんて職業をやってる奴には大抵何かしら事情があるもんだからな。 俺はそれ以上踏み込まないことを決め、やるべきことに思考をうつす。 「見た目の割に簡単なのからするか。パスタとかどうだ?」 「お任せします」 にこにこと応じる射月の素直さに俺はちょっと笑みを漏らしつつ、 「嫌だったら言えよ」 とだけ言っておく。 「パスタをゆでてソースを絡めるだけなら、お前にも出来るだろ?」 「ええ、大丈夫だと思います」 「で、そのソースだが、フードプロセッサーがあれば簡単だし、刃物もほとんど要らないから、そういうのからやるか」 「…そうですね。…包丁も、ちゃんと使えるようになりたいんですけど」 「そっちはサラダかスープで練習させてやる」 と請負えば、ほっとしたように微笑む。 職業に貴賎はないとよく言ったもんで、こいつみたいに一生懸命なら好感が持てるし、応援してやりたくもなる。 俺は果たしてこいつくらい一生懸命に仕事をやれてるだろうか、などと考えながら、材料をカゴに放り込んで行く。 メニューが被ってもよくないだろうから、と自分の客用のメニューはピザにすることにした。 ソースはパスタと同じものだから、材料はさしてかわり映えしない。 トマトソースとバジルソースを作っておけばいいだろうと安易に考えつつ、それでも材料はきちんと選ぶ。 バジルなんて、時々傷みかけてるのが入ってるからな。 綺麗で美味しそうなのを選んでおく。 にんにく、トマト、チーズ…と材料を放り込み、ちょっと考えてバターや砂糖も買い足しておく。 デザートにアイスかプチケーキでも作ろう。 どっちにするかは気分次第だな。 俺がぶつぶつ言うのを、射月は熱心に聞いていたようだった。 メモを取ったりはしないが、覚えようとしているのは伝わったし、実際そうするだけの能力はあるだろう。 「何か聞きたいこととかあるか?」 「大丈夫です」 「じゃあ、このまま店に行ったんでいいな?」 「はい」 会話なんてこれくらいだったか? 大人しくレジを済ませて、店へと向かう。 ちょっとばかり荷物が重そうだなと思ったら、 「僕が持ちますよ」 と言って袋を奪われた。 「別にいいんだが…」 「いえ、お世話になっているわけですから」 結構な重さの荷物を、自分の分も含めて二つ持っているくせに、笑顔は絶やさないとは大したプロ根性だ。 感心しながら、 「じゃあ、頼む」 と言ったら、射月はなんだか知らんが小さく息を飲んだ。 なんだよ。 「いえ…、あなたが不意打ちのように見せてくださる笑顔は、本当に素敵だなと思いまして」 「……あほか。営業トークは客にとっとけ」 「本当にそう思ったんですけどね」 そう言って苦笑した射月は、 「もし僕が……」 と何か言い掛けて、言葉を途切れさせた。 「どうした?」 「…いえ、なんでもありません」 少しばかり足を速めた射月に、俺は小さくため息を吐く。 聞かれたくないなら聞かずにおいてやるが、聞いて欲しそうにも見えるのが気になる。 しかし、今聞いても答えないだろう。 後で聞いてやれ。 そうして店に入ったのが、大体午後五時くらい。 大抵のホストはろくな料理もしないから、こんな時間に店に入って仕込みを始めるのは俺くらいのもんだ。 今日も当然、店には誰もいやしない。 おかげでオーナーから預けられたままになっている鍵で裏口のドアを開け、店に入ることとなる。 そんなのはいつも通りだが、唯一いつもと違うのはこの同行者か。 「よし、荷物持ちご苦労さん」 そう声を掛けて、荷物の入った袋を受け取ると、 「いいえ」 と射月は爽やかな笑みのまま返す。 「重かっただろ」 「平気ですよ」 とかなんとか話しながら、袋の中身をいったん冷蔵庫に仕舞った。 「すぐ調理しないんですか?」 射月はそう言って首を傾げるが、 「当たり前だろ。まずは掃除だ」 「ああ、なるほど」 フロアの方は後で他の連中が来てやるだろうから構わんとして、調理場は先に綺麗にしないとまずいからな。 「掃除くらいなら出来るだろ?」 「大丈夫だと思います。…片付け、となるとあまり上手に出来ないんですけどね」 そう苦笑する射月に、俺はいよいよ呆れ果てた。 「お前な、料理も出来ない、片付けも出来ないって、どういう生活してるんだ?」 「ええまあ…辛うじてなんとかやってますよ。食事は外食でもなんとかなりますし、片付けはそういうサービスに頼めるご時勢ですからね」 呆れた。 そんなんじゃいくら稼いでも追いつかないだろ。 というか、 「お前はどれだけ生活能力が低いんだ」 「お恥ずかしい限りです」 ぶつくさ言いながら俺たちは二人がかりで床を掃き、モップをかけ、調理台の上も布巾で綺麗に拭き清める。 射月は言われればきちんと出来るようだが、そうでないと難しいというほど家事が苦手らしい。 「まあ、あれだ。いっそのことそんなお前の生活の面倒をみてくれるような世話焼きの彼女を作るとかして、こんな稼業からは足を洗うってのはどうだ?」 「そういう打算で誰かと付き合うのは嫌だなと思うんです。だから、その前にきちんと出来るようになりたいと」 「そりゃ、いい心がけだ」 「ありがとうございます」 と笑った射月の顔は、なんだかやけに嬉しそうで、しかもどことなく子供っぽい無邪気さに溢れていた。 なんていうか、これがこいつの素の表情ってやつなのかね。 客相手に流し目作ったり、作り笑いをしているよりも可愛げがあって好感が持てるのだが、可愛げで商売してるわけじゃないからそれじゃまずいのかね。 そんなことを考えながらしげしげと見つめていたせいで、 「あの、どうかしましたか?」 と首を傾げられたが、うっかり上の空になっちまったせいで客に不満を持たれそうになった時の対応に慣れた俺の舌は、 「ああ、すまん。うっかり見惚れてた」 などと勝手な言葉を呟いた。 射月は一瞬驚いたように目を見開いた後、苦い笑みでその目を細め、 「それ、あなたの必殺技ですよね」 「そうか?」 「ええ。使ってるところをよく見ますよ。同じお客さんに何度も言うことだってあるのに、そのたびお客さんが喜ぶので、凄いなって思ってたんです。でも、自分で食らってみて、なんとなく分かりましたよ」 「うん?」 「あなたに見つめられて、そんなことを言われたら、それまで何を話してたかなんて全部吹き飛んでしまいますから」 そう言って自分こそ必殺技みたいになってる華やかな笑みを浮かべた射月だったが、ふと思い出したように顔を近づけてきた。 吐息が掛かりそうなほどの至近距離に驚きながら、 「どうした?」 と問えば、射月はにこにこしながら、 「言い忘れていましたが、僕の名前は一樹といいます。一つの樹木で一樹。古泉一樹です」 「……そうか」 そんな話をするためにこんなに顔を近づけなくてもいいだろうに、と思う俺に、 「あなたには本名を知っておいていただきたかったんですよ。言っておきますけど、他の人は知りません。店長やオーナーは雇い主として当然知ってますけどね。でも、お客さんにも同僚にも、知ってる人はいませんよ。あなただけです」 などと言う。 「…は?」 「本当は昨日、もっと別のことをお願いしたいと思ったんです。…そう言ったら、驚きますか?」 低く囁いた声が耳にくすぐったい。 「何が言いたいのかさっぱりだ。言いたいことがあるなら要点を抑えてはっきりと言え」 「はっきり言うにはまだ僕の勇気が足りませんので、今日はこれくらいにさせてください」 得体の知れない笑みを浮かべて俺から離れ、俺に背中を向けたかと思うと、調理場の中をぐるりと見渡し、 「掃除はこれくらいで大丈夫ですかね?」 と唐突に話題を戻しやがった。 何がなんだかさっぱり分からんまま、俺は狐につままれたような顔をさらすしかない。 しかし、やられっぱなしと言うのもどこか癪だ。 だから、と俺は口を開き、 「古泉」 と呼んだ。 驚いたようにこちらを振り返った古泉に、はっきりと告げてやる。 「いつになるんだか知らんが、早いうちに聞かせろよ。そうじゃなきゃ忘れちまうからな。それから、料理を習いたいってのも嘘じゃないなら、しっかりやれ。分かったな?」 古泉は驚いた顔のまましばらく立ち尽くしていたが、やがてふわりと微笑むと、 「はい」 と軽やかな返答をよこした。 つまり、料理もちゃんとする気があるってことなんだろう。 ほっとしてつい笑みが零れたが……どうしてほっとしたりしたんだろうな? よく分からん、と思いながら、俺は時計に目をやり、 「そろそろ始めるか」 と冷蔵庫に向かった。 余計なことは考えないのが一番だ、なんて事なかれ主義らしく考えていたせいで、盛大に驚く破目になるのは、これから三ヶ月後の話である。 俺と古泉が揃って仕事を辞めるのも。 |