職業は家庭教師、なんていうと、さも就職戦線で敗れ、大学生時代のアルバイト先にそのまま世話になってるかのような響きがあるが、実際その通りである。 それでも、元から教職志望だった俺としては、教師として子供の教育にたとえ一部でも関われると言うのは嬉しいことだったし、下手に詰め込み式の塾講師として働くよりは、子供と一対一でやれる分、性に合っているように思える。 天職、とまでいったらちょっと言い過ぎだろうか。 ともあれ、俺はそれなりに仕事が好きで、せっせと働いていたのだが、先日、しばらくの休職を願い出た。 理由は適当に誤魔化したが、おかげで三ヶ月自由の身だ。 俺が受け持っている生徒には代わりの人間が行ってくれることになって問題もない。 そもそも、今年は受験生を受け持ってなかったし、そうであれば9月から11月の三ヶ月というのはさほど忙しくもないシーズンだ。 生徒は生徒で、学校のイベントに忙しくて、勉強になんか身が入らないしな。 休暇中の連絡先は一度実家を経由してもらうことにしたから、早々電話が掛かってくることもないだろう。 準備万端整えて、俺は旅行バッグひとつを肩にひっかけて、家を出た。 左手の薬指には、出掛けにつけたプラチナのリングが光っている。 今から俺は、およそ一ヶ月ぶりに旦那と会うのである。 男の俺に旦那がいる、というのは少しばかりおかしな話かもしれないが、三年ほど前、わざわざ海外まで行って、曲がりなりにもきちんと挙式したのだからそう言うほかあるまい。 ちなみに、両親含め家族にも挨拶されているので、俺が「旦那」と言えば簡単に通じることになっている。 で、旦那と一ヶ月ぶりに会うというのは、いわゆる別居婚状態になっているせいだ。 別に仲違いをしているとかそういう理由ではない。 あいつは忙しくあちこち飛び回り、俺は定住して堅実な仕事をしているんだから、そうならざるを得ないだけだ。 そしてお互い、相手に合わせることは難しいし、そもそもお互い自分に合わせてほしいなどとは思ってないのだから仕方ない。 多少不自由はあるし、寂しさもあるが、今の状況に満足しているのだ。 それでも、時には一緒に過ごしたくなる。 だから、と取った休暇だった。 『何ヶ月か、休みを取れますか?』 と言い出したのはあいつの方だった。 「そりゃ…時期によっては出来るが……なんなんだ?」 『いえ、知り合いが別荘を貸してくれると言い出しましてね。僕としてもしばらくどこかでゆっくり羽を伸ばしたいと思っていたところだったので、それを受けようかと思ったんです。そこにあなたが一緒にいてくださるなら、これ以上ない格別な休暇になるので、お誘いしたんです』 「…え……」 『どうです? 孤島の別荘で、二人きり、水入らずで暮らしませんか?』 一も二もなく応じた、と言いたいところだが、その話が来たのは夏休みを目前にした7月初旬のことであり、期末テストが終ったところながらもまだばたばたと忙しいのが分かっていた俺は、 「九月まで待てるか?」 と問うたのだ。 『ええ、お待ちします』 「じゃあ、その方向でスケジュールを調整してもらう。お前の方は…先に行ってるんだよな?」 『はい』 「んじゃ、待ってろよ。…楽しみにしてるからな」 それからまあ、一度ばかりあいつがこっちに顔を出したので俺の部屋で過ごしたりもしたのだが、その時あいつは、 「なかなか立派な別荘ですよ」 などと抽象的な話しかしてくれず、具体的にどんなものかはさっぱりだった。 どんなだろうか、と期待に胸を膨らませつつ、俺はひとりでフェリーに乗り、その孤島とやらに一番近いという港へと向かった。 そのフェリーがつくような大きな港から少し離れたところにある、個人の船が並ぶような小規模な港まで移動しなくてはならないはずだったのだが、フェリーを降りた時点で、 「お久しぶりです」 と声を掛けられた。 「一樹…!」 驚いた俺に、悪戯な笑みを見せ、手を広げる。 衆目の中、そこに飛び込むのには少しばかり勇気がいるが、どうせここは旅先で、旅の恥はかき捨てと言うからいいじゃないかと開き直り、そのまま抱きついた。 「元気そうだな」 「ええ、休暇中ですからね」 「そりゃ何よりだ」 安堵しながら体を離せば、極自然な動作でカバンを奪われる。 …まあいいか。 たまにしか会えないんだ。 会えた時くらいかっこつけさせてやろうじゃないか。 俺は一樹の隣りを歩きながら、 「車で来たのか?」 「いえ、本当にすぐなので歩きですよ。島までは小型のクルーザーで移動します」 「お前の運転するクルーザーに乗るのも久しぶりだな」 と笑えば、調子づいたのか、 「お望みでしたら、一度島をぐるっと回ってみてもいいですが、どうです? お疲れならあまりお勧めはしませんが…」 「ばか、ちょっと移動したくらいで疲れるかよ。ついでだからどっかで昼飯でも調達して船で食おうぜ」 「ああ、それなら昼食を用意してありますよ」 何から何まで気の利く奴だよ。 そう素直に褒めてやるのはなんとなく癪で、俺はちょっと背伸びして旦那の耳に口を寄せると、 「お前って、本当に俺のこと好きだよな」 と囁いてやった。 一樹は少しだけ笑みを深めただけで恥かしがりもせず、 「ええ、愛してますから」 「ん、しばらく会ってなくても心変わりしてないようで何よりだ」 「しませんよ、心変わりなんて」 そんな風に笑いながら、クルーザーまで歩く。 久々に会えて嬉しいとかそういう気持ちは少しずつ収まって、隣りにこいつがいるのが当然みたいな気持ちになってくる。 「夏休み中なんかは、この辺りも賑わったんじゃないのか?」 「ええ、でも僕は基本的に島に籠もってましたし、島は本当にプライベートなものですから、喧騒も届きませんでしたね」 「引きこもりかよ」 と笑った俺に、 「そうなんです」 と一樹は苦笑しながらもおどけて頷いてみせる。 「ああでも、花火大会の花火が結構綺麗に見えましたよ。ひとりで見るのは少しばかり寂しかったですが」 「ははっ、だろうなぁ」 笑いながら、促されるまま乗り込んだクルーザーはなかなか立派なものだった。 というか、これは小型なんて言ったらまずいだろう。 立派なキャビンもあって、ソファやなんかの内装もえらく贅沢に作られている。 「前に見たのとは違うな。これも、別荘の持ち主に借りたのか?」 「ええ、いいでしょう?」 俺をソファに座らせて、一樹は冷蔵庫へ向かう。 「飲物は何がいいですか? 用意したのがサンドイッチなので、アルコールならワインなんておすすめですが」 「じゃあ、それで」 「いい白ワインを冷やしておきましたよ」 そうにっこりと笑った一樹がワインとサンドイッチを冷蔵庫から取り出し、グラスも引っ張り出す。 ゴムの貼られた小さなテーブルにそれを載せ、グラスにワインが注がれる。 とん、とボトルを置いた一樹は、グラスを俺に持たせ、自分もひとつ手にとって、 「三ヶ月だけとは言え、あなたと夫婦水入らずで暮らせることに感謝して」 と囁くような声で言い、グラスを合わせた。 涼やかな音色が響き、船の内装と相まって、なんだか非現実的にも思えてくる。 そろりと口に含んだワインはほんのり甘く、胃まですとんと落ちて行く。 俺は小さく笑って、 「気障だからやめろ」 「そう照れなくていいんですよ?」 くすくす笑いながら、一樹はひと息でグラスを空にして、操舵席につく。 「ゆっくり走らせますね」 と断ってからエンジンが掛けられ、船が滑り出す。 震動はほとんどなく、ワインの表面がかすかに波立つ程度だ。 優雅なもんだな、と呆れ半分で思いながら、サンドイッチに手をつける。 具はレタスやきゅうり、トマトなんかの野菜の他は、チーズとハム、パストラミビーフとそこそこ贅沢だ。 定番のツナサンドがない理由が分かり、つい笑っちまった。 「どうしたんです?」 それに気付いたらしい一樹がそう聞いてくるから、 「いや、やっぱりツナサンドはないんだと思ってな」 「…だって、あなたがいけないんでしょう?」 ちらりと恨みがましい視線を向けたが、俺に注意されるより早く、一樹は前に向き直る。 そのままで、つまりは俺に背中を向けた状態なのだが、どこか不貞腐れたような顔が見えるような声で、 「ツナサンドを食べると口の中が魚臭くなるから、キスしたくないなんてごねるから……」 「そんなの、結婚前の話だろ」 別に今更、魚臭かろうがなんだろうが構わんと思うんだがな。 大体、 「お前が出したのを飲んだ直後にディープキスだってするくせに」 にやりと笑ってそう言うと、一樹はびくっと身を竦ませて、それからおずおずとした声で尋ねた。 「……誘ってます、よね?」 「なんでだよ」 と俺は渋面を作るが、一樹は笑って、 「だって、あなたってそうじゃないですか。普段は呆れるほど潔癖みたいで、食事中に下の方に話が流れたらそれだけで嫌悪感丸出しの顔するくせに、そういう気分の時だけは自分からそういうこと言い出すでしょう?」 「さて、どうだったかね」 とぼけた言葉を返して肯定に変える。 それが通じたんだろう。 一樹はかすかに声を立てて笑い、 「もう少し沖に出て、島に近づいたら、行き会う船もなくなるでしょうから、せめてそれまで我慢してください」 「ゆっくりでいいぞ。飯は食いたい」 「畏まりました」 「よろしい」 えらそうに返しておいて笑っちまった。 いかんな、こういうのはやっぱり笑っちまう。 こんなんじゃ、後で恥かしくなるぞと危惧した俺は、したたかに酔っ払っちまえとワインをあおった。 その後のことは、推して知るべし、だ。 日が傾きかけてからようやく上陸した島は、なかなか広そうだった。 あまり狭すぎても何かあった時に困るってことなんだろうな。 それなりに生い茂った森もあるし、小高い丘もある。 「脱出経路には乏しいのかね」 独り言めいた呟きに、一樹は苦笑して、 「いざとなったらどうとでもなりますよ。少なくとも、あなたのことは守り抜きます」 「それについては別に心配してないんだがな」 と笑った俺を、一樹が背後から抱き締めた。 「…おい」 「だめですか?」 だめも何も、さっきあれだけくっついたんだから満足しやがれ。 「俺はとりあえず別荘とやらを見てみたいんだがな」 「仕方ありませんね」 そう言いながらも一樹は楽しげで、そっと腕を解いたかと思うと、俺の手を取り、歩き出す。 船乗り場から別荘まではちょっとばかり歩かされたが、だからこそ、少しばかり高い位置にある別荘からの眺めはなかなかよかった。 「船着場や海岸なんかも見えるのか」 「ええ、いい眺めでしょう」 「おう。それが、安全性重視って理由じゃなけりゃな」 皮肉るように言った俺に、軽く声を上げて笑った一樹は、 「この建物はそういう目的では建てられてませんよ。それにしては遊びが多すぎます。ただ、僕がここを気に入って、あなたを呼んでも大丈夫だろうと判断した理由には含まれますけれど」 「だろうな」 一樹がなんの考えもなしに、ただ単に、いい仮住まいが手に入ったからというだけで俺を呼ぶはずがない。 そんなに無警戒でいられるほど、こいつは安穏としていられる職業についちゃいない。 むしろ、非常に危なくて非現実的な職業についている。 殺し屋、というのがその職業名だ。 書類上はどうなってるのか知らないが、おそらくは適当に当たり障りのない職業を詐称しているのだろう。 訪問販売員とかどこかの営業部員だとか。 ともあれ、俺はそんな余計なことは聞かない。 仕事の話など聞いても楽しくないだろうし、何より俺はせっかくの休みの間くらい、仕事のことなんぞ忘れてもらいたい。 安全だのなんだの、身を守ることに関してはもはや本能めいたものになっていて、忘れられやしないだろうが。 「食材はどうせ備蓄してあるんだろ?」 「ええ、なんでもありますよ」 「じゃあ、今晩は俺が作ってやるよ」 「楽しみですね」 と一樹が笑ってくれるだけのことが、酷く嬉しい。 何しろ、昔はたとえ俺であっても、目に見える範囲で刃物を持っていると条件反射で何かやらかしそうになるのを必死に堪えてるような有様だったからな。 どういう生活を送っていたんだかと呆れることすら出来なかった。 今はそういうところも克服したようで、俺がごつい肉用の包丁を持っていようが、フライパンに炎を燃え立たせようがにこやかに見守ってくれる。 だが俺は、別に一樹を「普通」にしてやりたい訳じゃないのだ。 そんなものを求めるだけ無駄だと思うし、そもそもそんなものを求めなければならないほど一樹はおかしくなんかない。 だから俺が嬉しいのは単純に、一樹と同じ時間を共有できるということ、それだけなのだが。 「……なんて言ったら、調子づくんだろうな」 ぽつりと呟けば、耳聡い一樹はそれを聞きつけて、 「なんですか?」 と聞いてくる。 それに素直に答えたものかどうか考え込んだものの、どうしようもないなと諦める。 一ヶ月ぶりの逢瀬で、結婚して三年も経ってやっと二人きりで暮らせるのだ。 理性がおかしくなったってしょうがないだろ。 「…俺がお前を好き過ぎるってだけの話だ」 と笑って一樹の首に腕を絡め、その唇に口付けた。 |