僕には彼女がいる。 人目を忍んで付き合っているけれど、彼女はとても可愛らしくて、無邪気で、優しくて、本当に大事な人なのだ。 自由に会えないのが残念に思えるくらいには素敵な人だ。 ただ、いくつかの問題がある。 彼女の体が僕と同じ男性のそれであり、しかも彼女がいわゆる二重人格と呼ばれる現象の交替人格であるということ。 更には彼女の主人格である彼には、彼女のことを知られていないということ、彼と付き合っているなどということを知られると不味い人がいることなど、問題は山積みと言ってもいいくらいだ。 それでも付き合っているのは、彼女が本当に愛しくなってきているからだろう。 元から、僕は彼のことが好きでいたのだ。 ほんの少し違ってはいても、同じその人に真っ直ぐな愛情を向けられてよろめかないはずがない。 そんな訳で、彼女との交際を順調に続けている僕なのだけれど、何しろ事情が事情なので、思うように会えるとは限らない。 逆に、不意に会えることもあり、そんな時は嬉しいのだけれど。 「…あたし、もっといちゅきに会いたい」 しょんぼりと彼女が言ったのは、僕の家に彼女が訪ねてきた時のことだった。 「僕もですよ」 「……もっと、出てきちゃだめ、かなぁ……?」 不安げに尋ねる彼女に、僕は逆に問い返す。 「出てこられるんですか?」 「ん……多分、出来りゅと思う……」 愛らしくも舌足らずな答えに、僕はつい笑みを深めながら、 「無理はしなくていいんですよ?」 「してない。……あたしが、いちゅきに会いたいだけ」 「本当にあなたは……」 呟いて、僕は彼女を抱き締める。 同性の筋張った体のはずのそれが、彼女のそれだと思うと華奢にも思える。 「…可愛いんですから」 「……ありがとぉ?」 釈然としないなりに、そんな風に答える彼女に、もうなんだか堪らない気持ちになって、言葉も出せず、黙って抱き締める腕に力を込める。 「んん…っ、いちゅき……苦しいよ…」 「ああ、すみません。つい……」 慌てて手を緩めると、紅潮した彼女の顔が見えて、うわ、これ、は……。 「いちゅき?」 「…すみません、ちょっと……」 相手はまだ小さい子供みたいなものなんだから、と自分に必死に言い聞かせる。 そうじゃないとどうにかなりそうなくらい、可愛い。 「……いちゅき」 どこか悪戯っぽく微笑んだ彼女が僕の名前を呼んで、僕の首に腕を絡める。 あっと思った時には、柔らかな唇が僕のそれに重ねられていた。 触れるだけで離れたそれでさえ、僕を動揺させるにはあまりにも十分で、 「あ、あの…っ…?」 「好き、だかりゃ……」 嬉しそうに言った彼女は、そう言って僕を見つめ、 「…もっと、ちゅーとかして、いいんだかりゃね?」 「なっ……ん、てこと、言い出すんですか、あなたは……」 「だって、」 と彼女は不満そうに唇を尖らせ、 「ちゅーとか、あたしかりゃばっかりだかりゃ……」 「ああ……そうでしたね」 「…いちゅきは、したくない?」 咎めるような口調で言いながらも、その目は不安を滲ませている。 そんな顔をさせてしまうことに胸が痛むのを感じながら、 「したくないわけ、ありませんよ」 「じゃあなんで?」 「…しては、いけないんじゃないかと、思ってしまって……」 「…なんで」 不機嫌に眉を寄せる彼女に、僕はすみませんと謝って、 「…あなた、何歳でしたっけ?」 「……おにーちゃんと同じだもん…」 「体はそうでしょうね。でも、あなたの実感としてはどうなんです?」 「うー……」 恨めしげに睨むということは、やっぱり幼いんだろう。 「可愛らしく舌足らずに喋っている間は、変に手出しなんて出来ませんよ」 「これは、ただの癖だもん…。本当に舌足りゃずなんじゃないもん……」 「つまりそれは、幼さのあらわれというか、表現なんでしょうね」 「…うにゅ……?」 「そんな人に、いやらしい真似なんて出来ませんよ」 「…して、いいのに」 不満げに呟かれた声も言葉も酷く扇情的で、僕はまた必死に自分を自制するしかない。 なんの拷問だろうかとさえ思いながら、数学の公式なんかを思い出そうとしていると、 「…あたしが、舌足りゃずなの、直せたら、してくれりゅ……?」 なんて、蠱惑的に囁かれて、うっと言葉を詰まらせる。 というか、あの、その上目遣いが非常に危ういんでやめていただけませんか…!? 「ねえ…」 艶かしく囁いて、彼女は僕を見つめる。 「…そ……の前に、お聞きしたいんですけど…」 「なぁに?」 「…何をするか、分かって言っておられるん…ですか……?」 僕の問いかけに、彼女は目をぱちくりさせて、 「……本気で聞いてりゅの?」 「…ええ……そうですけど……」 何かおかしいことを言っただろうかと不安になるほど、彼女は憐れみに似た視線を寄越し、 「……あのね、いちゅき、あたしはおにーちゃんの見聞きしたもの、全部見てりゅんだよ?」 「はぁ、そう仰ってましたね」 「…でね、おにーちゃんより真面目に授業を聞いてりゅこともありゅんだよ?」 「……ええと…」 「……一般的に保健体育の授業には性教育というものも含ま…」 「わあああああ!! やめ、やめてくださいっ!」 ていうか、なんでそういうことばっかり流暢に喋れるんですかあなたは! 「だかりゃ、…ちゃんと分かってて、してほしいって言ってりゅんだけどなぁ……?」 そう言って彼女は僕の首筋をつうっと撫でる。 「ちょっ……」 「そりぇでも、……だめ?」 だめです、と最後まで主張出来たのは、もう奇跡だとしか思えない。 ともあれ、それから彼女は前より頻繁に出てくるようになった。 僕と二人きりになれると出てくると言ってもいいくらいだ。 それから、舌足らずな喋り方より先に、仕草の方をどうにかするということを覚えたようで、人目があっても会話を聞かれない限り、普段の彼と違うということに気付かれないようにしてくれている。 だから僕もわざと、二人きりになれるように仕向けたりする。 今日も、下校途中に涼宮さんたちと別れ、二人きりになったところで彼女が出てきた。 「いちゅき」 嬉しそうに弾んだ声で言って、彼女は僕に微笑みかけてくれるけれど、 「人に見られますよ?」 「あう…そうだった……」 慌てて難しい顔をしてみせる彼女に、思わず吹き出してしまう。 「いちゅき」 咎めるように言う彼女に、 「すみません。可愛らしくて、つい」 「全くもー……」 文句を言いながらも彼女は優しい目で僕を見つめて、 「今日も会えて嬉しい…」 と囁いてくれる。 「僕もですよ」 「…ずっと、いちゅきのこと、考えてたんだよ」 「それは嬉しい限りですね」 「……考えたのは、あたしだけじゃないけどね」 ぽそりと呟いた言葉は、どういう意味かよく分からなかった。 「どういうことですか?」 「うー? なんでもないよー」 そう言ってはぐらかして、軽やかにステップを踏んで二、三歩先を行く。 「待ってくださいよ」 「待たないもーん」 楽しそうに言って、彼女はどんどん歩いていく。 当然のように僕の部屋を目指すことに、幸せを感じた。 そう、僕はとても幸せだった。 不自由があったり、戸惑うことも多いけれど、それでも、彼女と付き合えて幸せだったんだ。 勿論、そもそも僕が好きになったのは彼女ではなく彼であるということが、時折、指に刺さった棘か何かのように痛みはした。 でも、彼と彼女は同じ人間だと自分を誤魔化すような考えで無理にその痛みを押し込め続けた。 そのバチでも当たったんだろうか? とある日曜の午後、珍しくSOS団の活動もなく、彼女もやって来ないと思っていたら、僕の携帯が鳴った。 機関からの連絡なら驚きはしないけれど、それはこともあろうに「彼」からの電話だった。 もしかして彼女からだろうか、と思いつつ、彼であるという想定の元通話ボタンを押すと、 『もしもし、俺だが……』 と彼の声がした。 「こんにちは。どうしましたか?」 『ん……ちょっと…な……』 彼にしては歯切れが悪い。 それに、なんだろう、声の感じもどこか違う気がした。 熱っぽいような、それともまた違うような。 「…調子でも悪いんですか?」 『いや…そういうわけ、じゃ、ないんだが……』 一体なんだろう。 首を傾げる僕に、彼はしばらくの間言い辛そうにしていたが、ぽそりと小さな声で、 『…最近、お前とあまり話してない気がして……な』 と呟いた。 「え……?」 『あ、いや…。部室でしょっちゅう顔を合わせてるんだから、話してはいるけどな、なんつうか……お前と二人だけで話したような記憶がなくて……』 その言葉に、気付かれたのかと焦る。 何しろ、要領を覚えた彼女ときたら、最近では朝比奈さんの着替えなどの理由で廊下に出されたというような隙さえ突いて出てくるようになっていて、その分だけ僕と彼が話す機会は失われているのだから、それは紛れもない事実なのだ。 『…あ……違うか。記憶はあるんだ。なんか、話したなって。だが、その内容がどんなだったかとか、思い出せなくて……実感がない、って言うのか?』 これはいよいよまずいぞ、と引きつりながら、声には出さないように細心の注意を払う。 「そうですか? 他愛もない会話だったからではないでしょうか…」 『だが…それにしては……』 疑うような言葉を口にしておいて、彼はその先を口にしなかった。 その代わりに、 『…なあ、今からちょっと会えないか?』 と言われた。 「今から…ですか?」 『ああ、場所は…俺の部屋でどうだ?』 「どうしたんです? 突然……」 『……話したいことがあるんだ。電話じゃ言えないし、言いたくない』 そう言われて、僕が逆らえるはずもなく、僕はそのまま彼の部屋を訪ねることになってしまった。 彼には知られないまま、通い慣れてしまった家のインターフォンのボタンを押すと、すぐに彼が出てきた。 一目見て、彼であり、彼女ではないと分かるほど、雰囲気が違う。 「悪いな、いきなり呼び出して」 「いえ……。あの、今日はご家族は……」 「今、丁度買い物に行ってる」 「そうなんですか」 「ああ」 人払いまでしてする話と言うのは、どんな話だろう。 一応、二重人格であることを誤魔化すための言い訳は道中考えてきたけれど、それで追いつくだろうか不安になってくる。 びくびくしている僕を、彼は自室に通した。 家族が出払っているのにリビングを使わないなんて、念を入れているということなんだろうか。 どう切り出されるかとびくつく僕をベッドに座らせて、彼もその隣りに座った。 体をいくらか強引に捻って、無理に顔を向き合わせると、彼は真剣な顔で僕を見つめていた。 「それで…一体何の話でしょうか?」 せめて話の主導権が欲しくて、こちらから切り出してみると、彼はまたしても言いづらそうな様子を見せた。 目をそらし、視線を彷徨わせ、時折こちらにそれを戻してはまたぱっとそらす。 …一体なんなんだろう。 本当に分からなくなってきた。 「あの……」 「…さ、最近、おかしいんだ」 僕が帰ろうとするとでも思ったのか、彼は慌てたように言葉を口にした。 「気がつくと、…お前のことばかり、考えてて……」 ……は? 「なんだか知らんが、お前の言動が変に気になるし、誰かがお前の噂とかしてると、それだけで気になってきて……」 ……それはもしや、彼女の影響が現れてるということじゃないのだろうか。 それに違和感を覚えて、自分の中のもうひとりに気付きつつあるんじゃないかと、内心でだらだらと冷や汗を流す僕を、彼は縋るように見つめた。 「…今、だって……お前がこんなに近くにいて、お前と二人きりなんだと思うと…苦しいくらい、胸が、痛くて……」 「え…あ、あの……」 その手が僕の腕を掴み、熱っぽく僕を見つめる瞳が怖いくらいだと思った時、彼が泣きそうな声で、 「…俺は、多分……いや、間違いなく、お前が……好きなんだ」 と告げられ、呆然とした。 「え……!」 思わず声に喜色が滲んでしまったことはどうか咎めないでもらいたい。 僕にしてみれば、ずっと叶わないと思っていた片思いの相手から思いがけず告白されたようなものでもあり、常日頃むつまじくしている恋人からの告白と言えなくもなかったのだから。 そえが、彼にも通じてしまったんだろうか。 期待するような眼差しを向けられ、 「…お前、は……?」 と小声で問われる。 しかし、どう答えろというんだろうか。 断るのは忍びないけれど、僕には既に「彼女」がいるのに、この告白を受け入れていいのか? たとえ相手が同一人物にしても……。 「いーよ、いちゅき」 不意に柔らかな声がした。 「え…」 驚いて見れば、そこには彼ではなく彼女がいて、にこにこ笑いながら僕を見ていた。 「え、あ、あの…今の間に入れ替わっちゃったんですか…? また彼に変に思われたら……」 「大丈夫だよー。すぐに戻りゅかりゃ!」 そう請負っておいて、彼女はもう一度、 「いーよ?」 と言った。 「いいって……何がです?」 「おにーちゃんに好きって言っちゃって、お付き合いしていいってこと!」 「え」 「だって、あたしもおにーちゃんも同じだもん。浮気にはなりゃないよ?」 「…は!?」 そういう理屈なんですか!? まさかそう来るとは、と驚く僕に立ち直る隙も与えず、彼女は僕を抱き締めると、 「あたしのことは、おにーちゃんには内緒、ねっ!」 と言ってキスを寄越した。 そうして、離れた時にはもう彼女はいなくて……ああ、もう、どうしろっていうんだ。 「ん……!? …あ……なんで…いつの間に…?」 驚きの声を上げた彼は、見る間に頬を赤く染め、嬉しそうに僕を見つめる。 僕はと言うと、 「え…、そ、その……、これはですね…」 となんとか取繕おうとするのだが、どうしようもない。 抱き締めてキスをした状態でどう言い訳しろと言うんだ。 無理すぎる。 「…いい、ってことだよな?」 ああほら、やっぱりそう解釈された! 「あのですね、」 「嬉しい」 人の話を聞いてください、いえ、まともに説明なんて出来る気はしないんですが。 そんな言葉も出せないうちに、彼にきつく抱き締められ、今度こそ「彼」にキスされた。 一体どうなってしまうんだろうかなんて戸惑いと、それからやっぱり感じてしまう幸福感に酔いそうになりながら、僕は気付かれないような小ささでため息を吐くしかなかった。 そうして僕には彼氏も出来た。 |