勤務地も住居も、僕たちの普段の活動範囲からは少し外れているので、偶然彼と出会うということは滅多にない。 それなのに、 「よう」 と往来で彼に声を掛けられて驚いた。 ラフな格好…ということは、今日は休みだったんだろうか。 「こんにちは。珍しいですね、こんなところで会うなんて……」 「ばか、待ってたんだよ」 え、とかすかに声を上げた僕に、彼は悪戯っぽく笑って、 「どろどろに汚れてるな」 と指摘した。 「そうですね。…理由はあなたもご存知でしょう?」 あえてそう言えば、彼はにやりと唇を歪めて、 「そうだな。あれは印象が強すぎてさすがに覚えてた。…だから、こうして待ち構えることも出来たんだがな」 「それは…ありがとうございます?」 苦笑混じりに答えた僕の頭を軽く叩いて、 「もうちょっと素直に喜べよ」 「すみません」 「…まあ、疲れてるんだろうな」 よし、と何がいいのか小さく呟いた彼は、 「ほら、とっとと帰るぞ。帰ったらまずお前は風呂にでも入れ。夕飯は俺が作ってやるよ」 「えっ? そんな……」 「遠慮するなって。自炊もそこそこ長いし、まずいもんは作らないから心配もいらん」 楽しそうに言って、彼は僕からカバンを奪い、先に立って歩いていく。 「置いてくぞ」 と言うところもどこか楽しそうで。 「……本当は、待ち構えるべきは別の人なのではないのですか?」 と告げた自分の声はどうにも無粋に聞こえた。 「あん?」 訝しげに振り返った彼に、僕は言う。 「今なら、大人の朝比奈さん……今、こちらの時間平面に常駐しておられる朝比奈さんよりも、より大きな権限を持った朝比奈さんがこちらにおられるのでは? あの人に頼めばあるいは、あなたがいるべき時間に戻れる可能性もあるでしょう?」 「かもな」 そう言っておいて、彼は背中を向ける。 「行かなくていいんですか?」 「構わん」 「…戻れなくてもいい、と?」 「……戻ったところでもう遅いだろ」 彼はそのまま僕を振り返りもせず、真っ直ぐ僕の部屋へと歩いていく。 その背中を見ていると、なんだかとても悲しくなった。 胸の中を冷たい何かでぎゅっと掴まれたような、あるいは同じ場所を真っ赤に焼けたこてで焼かれるような気持ち。 苦しみにも、痛みにも似たそれに戸惑いながら、僕はその背中を追いかける。 その足がとても重く思えるくらい、苦しかった。 どうしてかなんて、分からない。 分かりたくなかったのかも知れない。 ただ込み上げてくるものを堪えるのに必死だった。 抑え付けたまま、のろのろと部屋に戻った僕の鼻をくすぐったのは、彼が時折吸って行く、煙草の匂い。 彼が随分と年上の人なんだと思い知らされるそれが、僕の胸を掻き乱す。 どうして今日に限って、と思った。 いつもなら、その香りすらなんだか嬉しかったはずなのに、今日に限ってそれが酷く苦しく思えた。 ぱたんと音を立てて玄関のドアが閉まると、もうだめだった。 「――どう、して…」 抑え切れずに吐き出された声は情けなく震えていた。 「どうして、諦めてしまったんですか…!」 怒鳴り声に似たそれに、彼は訝るように眉を上げた顔で僕を振り返る。 「古泉…?」 「どうして、もう遅いなんて言い訳をして、諦めるんです…! 帰りたいとは、思ってないって言うんですか…? あなたのいた、あなたの、いるべき、場所に……」 言いながら、泣けてくる。 見っとも無いと思っても止められない。 苦しくて、苦しくて、涙を堪えようとでもしたら、息が止まりそうにさえ思えた。 「…なんで、あの時みたいに、帰ろうと必死になってくれないんです……」 喚きながら、自分でも分かっていたのは、それが僕の身勝手な押し付けでしかないということだった。 彼のための言葉ではなく、彼の帰りを待っているだろう人たちのための言葉でもなく、ただひたすら、自分にとっての「彼」のイメージを守りたいがための、酷い言葉。 「きっと、待ってるのに……」 僕たちがそうだったように。 「…あなたなら、何度ああいうことがあっても、帰ってきてくださると信じてるんですよ……」 なのにそれを裏切るのかと責めるような言葉を口にする僕を、彼はじっと見つめていた。 どこか感情の伺えない眼差しは、それでも冷たくはない。 むしろ慈悲に溢れてすら思えたのは、僕の身勝手な自己保身精神による錯覚だろうか。 黙ったままの彼に、僕は次第に口にする言葉も失い、泣き崩れ、床に膝をついた。 彼はそろりと膝をつき、僕の肩に触れる。 「……本当の話をしようか」 なんだかとても久しぶりに聞くように思えた彼の声が何を告げたのか、一瞬、理解出来なかった。 「え……」 「…とりあえず、ソファにでも座ろう」 そう言って彼は僕の背に手をそえ、ゆっくりと立たせてくれた。 僕はと言うと先ほどにも増して激しい混乱の只中にあり、誘導されるまま動く木偶のようだ。 彼は慣れた仕草で僕をソファに座らせると、キッチンに素早く滑り込み、水を汲んできてくれた。 「ちょっとでいいから飲んどけ。落ち着くから」 「…はい」 冷たい水をちょっとずつ口に含む。 ひやりとしたそれに、少しだけ熱くなったものが冷えるような気がした。 彼はすとんと僕の隣りに座ったかと思うと、迷うようにしばらく視線を彷徨わせていたけれど、グラスに注がれた水が半分ほどに減る頃になってやっと口を開いた。 「…本当の話をしなくちゃな」 「…さっきも……そう仰いましたね…。……これまでの話は嘘だった、とでも…?」 「嘘…と言うほど悪意はないつもりだが……そうだな、本当の話はしてなかった、とでも言うのが適当か?」 「前置きは結構ですから、」 「ああ、そうだな」 頷いて、彼は困ったように笑った。 それともこれは、自嘲の笑み、なんだろうか。 「本当のところ、帰る方法もチャンスも、いくらだってあったんだ。たとえば長門に頼んで、大人の朝比奈さんなり他の未来人なり、俺を未来に返せるだけの能力と権限を持った人のいる時間にまで移動させてもらってもよかっただろうし、そうでなく、自力で大人の朝比奈さんを捕まえる方法だってないわけじゃなかった。今日、お前が言ったみたいにな。これからだってそうだろう。大人の朝比奈さんが来るような時はあるし、それこそいつだって、長門を捕まえようと思えば出来る。でも俺は、そうしないことを決めたんだ」 「どうしてです…っ」 「――ひとつは、前に言った通り、だな。ジョンとして、SOS団とはほとんど係わり合いのない人間として生きていけるだろうということが分かっていたから、こっちにいるという選択肢もあるんだと思った。だが、そうと決まってたからそうしたってんじゃない。そこは間違えるなよ?」 そう念押しをしておいて、彼はそっと前を見つめた。 その視線の先にあるのは、真っ暗なまま沈黙しているテレビだけれど、そんなものを見つめているのではないのだろう。 何も見ていない、あるいは、画面にうっすらと映った自分の姿を見ているのかも知れない。 「……俺は、な、古泉、ずっと…欲しいものがあったんだ」 独白のように、それでも僕に語って聞かせるように、彼は呟いた。 「欲しいなんてことにも、気付いてなかった。だが、そうでなければならなかったんだ。気付いたって苦しいだけだった。だから、見ないようにしてたのかも知れん。とにかく俺は、こっちに来て、そうして自分の状況を把握して、気がついたんだ。ここでなら、キョンじゃない俺なら、それを手に入れられる可能性があるってことにな。いやむしろ、ここでなければ、手に入れられないんだと」 「…それは……つまり……SOS団よりも大事なものが…ある、と……?」 「…そうなるな」 とどこか苦く呟いた彼に、僕は胸の中がずんと重くなるような気持ちになる。 そんなものが彼にあるなんて、と、どうしてか裏切られたような気持ちになる。 それだって、本当に身勝手だと分かって、自己嫌悪に陥りそうになった僕に、彼はそっと囁いたのだ。 「お前だよ、古泉」 一瞬にして、思考が停止した。 「…おい?」 呆然としたまま動かない僕を、彼はじーっと見つめてくる。 「おい」 ぺちぺちと僕の頬を軽く叩き、それからぽつりと呟いた。 「フリーズしやがった」 …その通りです。 全く許容範囲を超えた話に呆然とする他ない僕に、彼はくすりと笑う。 「ああ、本当にまだ高校生なんだな」 可愛いとでも言いたげに呟いて、 「そこまで驚くとはなぁ…」 しみじみと口にしてから、優しく話し始めた。 「どうせだからもう言っちまうから、聞こえてるなら聞いとけ。忘れたけりゃ忘れろ。…忘れずに、ちゃんと聞いてくれたら嬉しいが。……まあ、そういう話だ」 そう言って彼は煙草を取り出し、ライターを鳴らして火をつけた。 どこか甘くて苦い匂いがふわりと広がる。 「ずっと、気になりはしてた。それこそ、高校生の頃からずっと、な。お前が怪我なんかしてないかとか、ちゃんと食ってるかとか、寝てるかとか、それこそお前に笑われるくらい心配して、それはただ、友人としてだと思ってた。だが…それも多分、そうやって自己保身に走ってただけなんだろうな」 彼はくすりと笑って、 「気になってることにさえ気付かないふりをして、俺にそっちの趣味はないと思い込もうとした。それでも、ダメだったんだ。過去に来て、とりあえず落ち着いて自分の状況を把握して、――思ったんだ。今の俺は『鍵』でもなんでもない。俺には制約なんてないんだってな。余計なしがらみなんてこれでもう、何一つない。俺はしたいように出来る。じゃあそのしたいことってのは何だ? したいけれど叶えられなかったことってのは何だ? そう、考えて、気がついた。……俺はずっと、お前が好きだったんだ、ってな」 照れ臭そうにしながらも、はっきりと告げられた言葉に驚いて、彼の方を向くと、彼は小さく微笑んだ。 「聞いてたか?」 「は…はい……」 「ん、ありがとな」 嬉しそうにして、彼は続きを口にする。 取り出した携帯灰皿でタバコの火を消し、灰皿ごとテーブルの上に放り出して。 「で、そう気付いた俺がしたいことは、簡単なことだったんだ。……気付かないようにするほど、はっきりと諦めているはずだった、そうしなければならなかった思いを叶えたい、ってな。だから俺は、この時間に留まることを選んだ。それくらい、お前が好きなんだ」 そう告げて、彼は僕を抱き締め、驚くほどの強引さで僕の唇を奪ってのけたのだった。 |