交換したのは、住所とメールアドレスと電話番号。 時として社交辞令的に受け渡しがされるだけのそれは、この場合においては正しく用いられることとなった。 あまり目立つところで会うのもどうか、ということで、お互いの部屋で会うことになったからだ。 初めて僕の部屋を訪れた彼は、 「変わってないな」 としみじみ呟いた。 「僕の部屋に来たことがおありなんですか？」 「ああ、何度かな」 それがいつのことだったか、彼はちらとも漏らさない。 余計な情報をもたらして、歴史を混乱させることのないよう、慎重に振る舞っているということなのだろう。 そう、僕は思ったのだが、 「そうじゃない」 と彼は首を振った。 「俺にとっての過去、今からすると未来にあたることが、酷く曖昧にしか思い出せんのだ。それは、俺になんらかの制限が課せられたということなのか、それとも偶発的に起きた一種の記憶障害なのかさえ、よく分からん。何か起きてから、そんなこともあったと思い出せるくらいでな」 「それは……」 なんと言ったものか、少し考え込んだ僕は、 「…さぞかし、不安だったでしょうね」 と口にしたのだけれど、 「いや、下手なことを口走らなくて済むのはありがたいし、何より、とにかく何事もないよう生きるのに必死だったからな」 何でもないことのようにそう言った彼がどこか痛々しくて、ずきりと胸が痛む。 「……今、は、どうなんですか？」 「今？」 「まだ、大変なんでしょうか？」 「…いや、それほどでもないさ」 と彼は微笑する。 彼らしい、でも、僕の見知ったそれよりも、ずっと強くて優しい笑み。 「この時間平面での暮らしにも馴染んだし、何より、何も分からん時間平面に飛ばされたりした訳じゃないんだ。苦労だって人並みなもんだろ」 「……本当にあなたは強い人ですね」 と僕も笑みを返す。 彼のそれにつられて笑ったようなものだ。 「そりゃありがとよ」 そう軽くいなすように言っておいて、彼は悪戯っぽく、 「ところで、コーヒーくらい要求してもいいか？」 と言う。 「すみません、気が利かなくて……」 苦笑しながら僕はコーヒーの用意をすべく、キッチンに立つ。 せっかくのお客だし、インスタントじゃなくてドリップにしようかなどと考えながら棚から引っ張り出していると、 「別にインスタントでいいぞ」 なんて声を掛けられる。 苦笑しながら、 「お見通しですか？」 と問えば、彼はにやりと笑って、 「まあな」 「…どうやら『彼』とはなかなか良好な友人関係を築くことが出来るようで、嬉しい限りですよ」 そう返した僕に、彼は上機嫌で、 「そうだな。お前とキョンは結構仲良くやれるんじゃないか？」 「そう出来るようにしたいものですね」 「あほか。そんなもん、意図してどうこうするもんでもないだろ」 「そうですね」 と同意しておいて、僕は彼を見つめる。 「ちなみに、僕としてはあなたとも仲良くしたいのですが、どうでしょうか？」 「さて、どうだろうね」 はぐらかすようなことを言いながら、彼はポケットからタバコの箱とライターを取り出し、 「吸ってもいいか？」 「お吸いになるんですか」 驚く僕に、彼は小さく苦笑した。 「少しな。たまに吸いたくなるから持ってるが、月に一箱なくなるかどうかってとこだな」 節制していると言うことだろうか。 健康に気を遣ってか、そうやって抑えられるあたり、とてもこの人らしい。 軽くすぼめた唇から細く吐き出される煙が、部屋の中に広がり、見えなくなる。 「…いい匂いなんですね」 そう呟いた僕に、彼はにやりと意地悪な笑みを見せ、 「未成年には吸わせてやらんぞ」 と言いながら、これ見よがしに煙を吸い込む。 僕は苦笑しながらドリップコーヒーを用意して、彼のところまで運ぶ。 そうして、すっかりソファで寛いでいる彼の隣りに座ると、タバコはもう吸い終わったらしく、携帯灰皿に吸殻を押し込めているところだった。 「今度から、灰皿でも用意しておきましょうか？」 「いらん。大体、そんなもん用意して誰かに見られたらどう説明するんだ？」 「まさか僕が吸うとは思われないでしょうから、ちゃんと来客用だとお答えしますよ」 軽口の叩きあいめいた応酬が、なんだか酷く嬉しくて楽しいと思ったのは、僕だけではなかったらしい。 「なんつうか……変な気分だよな」 変、と言いながらも楽しそうに、彼はそう言った。 「お前がそうやって、あれこれ面倒な立場や打算なんか抜きで、普通に話すとか」 「そうですか？ …あなたが一緒に過ごした僕とは、そこまでの仲になれなかった、ということでしょうか？」 だとしたら残念だ、と思う僕に、彼は軽く首を振った。 「そうじゃない。…多分、俺にもあいつにもひっかかるもんが残っちまったんだろう。機関がどうとか、お互いの立場がどうとか、な」 「……もしかして、それであんなことを？」 「どれのことだ？」 本当に分かっていないらしい彼に、僕は少し苦笑して、 「先日、あなたと初めて喫茶店でお話しした時に、仰られたでしょう？ 俺はキョンじゃない、と」 「…ああ、あれのことか」 覚えてはいたようで、決まりが悪そうに呟き、軽く目をそらした。 「……そうだな、それもある」 「じゃあ、こうしましょう」 僕は出来るだけ柔らかく笑ったと思う。 そうしようと思ってしたわけではないから、自信はないけれど。 「僕は一切の打算を忘れましょう。僕の立場も、何もかも、あなたといる時は忘れます。僕はただの高校生で、年上の友人が出来て少なからずはしゃいでいる分だけ、失礼があるかも知れませんが、それについてはご寛恕いただけると助かります」 「あほか」 そう言って彼は笑い、 「ただの高校生だって言うなら、小難しく喋るなよ」 「すみません、つい」 と僕も笑みを返す。 「敬語もなくていいぞ？」 「それは聞けませんよ。若輩者が年長者にタメ口なんてきけません」 「…そうか、お前の方が年下なんだよな」 しみじみと呟くのはなんなんだろうか。 「…寂しいですか？」 「いや、感慨深いというか……遠くに来たんだなと」 それで済む辺り、この人は強いんだろうか。 苦笑を浮かべる僕に、 「お前は今１６か？」 「ええ、そうですよ」 「…なんだ、年齢詐称くらいしてるのかと思ってたんだがな」 「してませんよ」 というか、 「今さっきあれこれ言っておいて、ご自分の方がそういうことを持ち出すんですか？」 と皮肉っぽく言えば、彼は開き直ったような顔で、 「気になってたんだからしょうがないだろ」 「それじゃあ、僕からも質問してもいいってことですよね？」 「おう、いいぞ。あんまりな質問には返答を控えさせてもらうが」 「じゃあ……」 と言っておいて、何も考えていなかったことに気がついた。 いや、聞きたいことはいくらもある。 相手は未来人なんだから。 でも、今はそれを聞くべき時ではないだろう。 それならどうしようか、と思った僕は、 「彼女とか、いるんですか？」 と聞いていた。 これは彼にとっても意外だったようで、驚いた様子で目を見開き、それからクックッと喉を鳴らして笑った。 「お前は不慣れな合コンに引っ張り出された新入生か」 「う…すみません、咄嗟に出て来なくて……」 「まあ、別にいいけどな」 そう言っておいて、彼はにやりと笑い、 「今はフリーだ」 と答えてくれた。 今はってことは、 「…前にはいたってことですか？」 「それは禁則事項、だな」 澄ました顔でそう言って、コーヒーをブラックのまま口に含んだ彼は、少しだけ眉を上げて、 「…インスタントでいいって言っただろ」 と不満げに口にした。 そんなちょっとした仕草は子供っぽさもあって、僕のよく知る彼と違わないように思えるのに、どう見ても彼は僕よりずっと大人で。 ……なんでだろう。 寂しさに似た気持ちに襲われた。 「そういうお前はどうなんだ？」 「え？ 何がですか？」 考え事をしていたのもあって、反応の遅れた僕に、彼は苦笑いを見せ、 「彼女とか、いないのか？」 「いませんよ。いるわけないでしょう？ これでも忙しくしていますし、それでもお付き合いしたいと思うような人は今のところいませんね」 「…ふぅん、そうか」 となにやら意味ありげに呟いた彼に、 「……僕の交友関係に興味でも？」 「それなりに、な」 「…心配しなくても、友人くらいいますよ？」 そういう心配をしてくれたんだろうと思ってそう言ったのに、 「それくらいはいて当然だろ」 と返される。 だったら、どういう意味合いの呟きだったんだろうか。 首を傾げて考え込みそうになったところに、 「大体、キョンがお前の友人じゃなかったらなんだっつうんだ？」 と言われて思考を奪われる。 「え？」 「…まさか、あいつを友人扱いしてないとか言わないだろうな？」 あくまで別人扱いしたいらしい彼は、そう強調するように言いながらも、明らかにその「キョン」の視点で不快になっているようだった。 「いえ、言いませんよ。僕にとって彼は大事な友人だと、そう思っています。彼の方がどうかは知りませんけど……」 「だから、そういう変な遠慮はするなよ」 呆れたような笑みを見せて、彼は言う。 「…あいつの方は、ちゃんとそう思ってるに決まってるだろ。態度を見てりゃもろ分かりじゃねえか」 「…そうですね。ありがたい限りです」 「だから…」 と言いかけて、彼は言葉を途切れさせ、天井を仰いだ。 「分かった、つまりお前はそういう大仰かつさほど愉快でもない謙譲語しか使えないってことだな？」 その指摘には僕も笑うしかない。 「はは、そうですね、その通りかと」 「全く……その歳からそういうことばっかり覚えてどうするんだか」 「いけませんか？」 「よろしくないな」 大仰にそう言って腕を組んで見せた彼は、冗談めかすように、しかし真っ直ぐに僕を見つめて、 「お前はもう少しワガママでも覚えてみろ」 「ワガママ…ですか？」 「そうだ。……俺でいいなら、多少甘やかしてやるから」 そう言っておいて、気恥ずかしくなったのか、顔を背けてしまったけれど。 「そんなこと、言っていいんですか？」 「悪けりゃわざわざ言わんだろ」 「じゃあ、」 と僕は小さく笑って、 「今度はあなたの部屋に行ってみたいです」 と告げた。 「俺の部屋？」 「ええ。どんな風に暮らしておられるのか気になりますし、今日は僕の部屋で会ったんですから、次はあなたの部屋でいいでしょう？」 「……まあ、そうだな」 「楽しみにしてますね」 「よし、」 何か思いついたのか、楽しそうに笑った彼は、 「飯くらい作ってやるよ」 と約束してくれた。 |