三学期が始って少し経ったある日。 小雪がちらつく中、雑踏の中に初めてその人を見た時、僕はてっきり涼宮さんが何かしたんだと思った。 涼宮さんが望んで、それで彼に何か変化が起きたのだろうと。 だから僕は慌てて、 「――さんっ!」 とその人の名前を叫んで、その肩に手を掛けた。 振り返ったその人は僕より背が高かった。 目には勤勉そうな印象の眼鏡を掛けていて、大きく見開かれた瞳に僕を映して、それから小さく笑った。 「悪いが、人違いだ」 「え……」 「俺はそんな名前じゃない」 そう言った声も、本当にあの人とそっくり同じなのに、 「ほら、見てみろ」 と上着のポケットから引っ張り出された社員証らしいカードには、割と平凡な名前と共に、目の前の人の写真があった。 「…あ……あれ…?」 思わず間の抜けた声を出した僕に、その人はくっと喉を鳴らして笑った。 それでやっと我に返った僕は、 「す、すみません」 と頭を下げたのだけれど、その人は笑ったまま、 「いや、構わん。誰と間違えたのかってことも分かるからな」 「え?」 「あいつだろ?」 そうにやりと意地悪く唇を歪めたその人が指差す先に、まさしくその彼がいた。 彼は僕を見つけ、それから僕の目の前に立つ人を見て、呆れたような顔をした。 そして、 「ジョン兄! 古泉!」 と呼ばわったのだ。 駆け寄ってくる彼とジョン氏を見比べ、僕は首を捻る。 「……ええと、ご兄弟ですか?」 彼に兄弟がいるなんて話は聞いたことなかったけれど、まさか腹違いとかそういうことだろうか。 「いや、兄弟ではないな」 「では、ご親戚とか?」 「違う」 「では一体なんなんです?」 「さて、なんだろうな」 完全に面白がっている。 よく似てはいるけれど、この人の方がよっぽど意地が悪いんじゃないだろうか。 近づいてきた彼に、 「あの…この方は…あなたの何にあたる方なんですか?」 と尋ねると、彼はため息を吐いて、 「…他人だ。ただ、色々事情があってな」 「立ち入ったことをお聞きするようで心苦しくもあるのですが、よろしければ事情を話してはいただけませんか?」 「……」 ちろりと睨むような視線が僕に向けられ、それからジョン氏にも向けられる。 ジョン氏は相変わらず面白がっている顔のまま、 「俺は構わんぞ。お前が話し辛いなら、俺から話してもいい」 「じゃあそうしてくれ。大体、お前のことなんだからな」 「まあそうだな。で……」 意味ありげにジョン氏は僕を見つめ、 「…お前の名前は古泉一樹、でいいんだな?」 「え?」 「キョンから聞いてる。なかなか楽しそうなことをしてるらしいな」 「…はあ」 一体どういう話をしているんだろう。 そして、どういう話をする程度の仲なんだろうか。 そう疑問に思いながらも、 「それじゃあ、喫茶店でも行こうか?」 と声を掛けられるまま、ついていくことになった。 彼はというと、 「俺は用があるから」 と言い残してあっさり帰ってしまった。 初対面の人と二人で話すという、少しばかり珍しい状況になってしまったことを悔やみながらも、誘導されるまま喫茶店に入った。 意図したものではないのだろうけれど、いつもSOS団の集まりで利用する店、利用する席につく。 「それで……本当に一体どういうご関係なんです?」 「あいつにとっては他人だな。それは間違いない」 その言い方に、何かざわつくものを感じる。 「あなたにとっては違う、と?」 「まあそう噛み付こうとするな」 苦笑も混じりにいなされるのにさえ、苛立ちそうになるのをぐっと堪える。 彼はにやにやしながら僕を見つめて、ウェイトレスを呼び止める。 僕に聞きもしないで、ウェイトレスに、 「ホット、ふたつ」 と頼んでおいて、 「問題ないな?」 と言うのもどこか傲岸不遜だ。 「構いませんが……」 思わず眉を寄せた僕に、彼はふふっと小さな笑い声を漏らした。 「…なんですか」 「いや……そうだな、懐かしい、というのとはちょっと違うか。昔はそんなもん、気付きもしなかったんだからな」 話が見えない。 それも、わざと焦点をぼかした話し方をされている気がする。 「何がおっしゃりたいんです?」 「コーヒーが来てからでいいだろ」 そうしてまたかわすような真似をする。 なんなんだ、この人は。 本当に得体が知れない。 戸惑う僕に、悪戯っぽく笑って見せ、 「コーヒーが来たらちゃんと話すさ。実際、俺はもうずっと、これを話したくて仕方がなかったんだからな」 と言って窓の外へと目を向け、 「…もう、三年前から」 そのフレーズにびくりと体が竦んだ。 もう一度言わせてもらう。 なんなんだ。 何をどこまで知っているのか、それとも偶然なのか。 いや、偶然であるはずがない。 この人は僕を知っている。 そう、強く感じた。 「…あなたは、何者です?」 尋ねることが出来るようになるまで、つまりはコーヒーが来て、ウェイトレスが下がるまでの短い間が、何時間にも思えた。 やっとの思いで口にした問いかけに、その人はにやりと笑う。 「そうだな…。多分、今の俺にはこれが一番しっくりくるんだろう。――『未来人』、だ」 「未来人……」 「ああ、言っておくが今回のことについて、朝比奈さんは無関係だぞ」 「…っ……!?」 はっきりと事情を知っていると告げるようなその言葉に、今度こそ冷や汗が出た。 思わず立ち上がらなかったことがむしろ驚きなくらいだ。 「古泉、」 そう、僕を呼んで、その人はにっこりと嬉しそうに微笑んだ。 「久しぶりだな」 似てないわけがないだろう、とその人は笑った。 「俺はあいつ――キョン本人なんだからな」 「一体何があったというんです…?」 まだ戸惑いが収まらない僕に、彼は少しだけその笑みをおさめた。 「…ちょっとした事故、だろうな」 「事故……」 「……今、この時間から言うと7年後、俺の主観からすると三年前、俺は突然、この時間に飛ばされた。正確には、今から三年前。…そうだな、丁度七夕の後だったか。だからもう、三年と半年前になるのか? …その時期に、俺は飛ばされたんだ。それから、帰る手段もないまま、記憶喪失の身元不明者として仮の戸籍を取得して働くようになったんだ」 「ど…どうしてです? 帰ろうと思ったなら、長門さんを頼ることだって出来たんじゃ……」 「出来ない、と言われた。勿論、何年か先に送ってもらうことは出来ただろう。高一の七夕の時、そうしてもらったみたいに、時間凍結をしてもらえれば、俺の主観時間は止まり、未来に移動したことになる。だが、それでも俺のいるべき時間には戻れないんだ。……そこに、宇宙人の長門がいないから」 「え……!?」 「ハルヒの力もなくなって、情報統合思念体は引き上げちまった。だから、何か起こるなんてこともないはずだったんだ。それなのに俺は飛ばされた。……それで、思い出したんだ。ジョンとかいうおかしな奴が、中一の夏、突然現れたってことを」 「……だから、そのまま過ごしたと……?」 「勿論それだけじゃないさ。色々思うところあってこっちを選んだ。ただそれが決まってるからと流されたわけじゃない。……まあ、それについては多分そのうち話すだろ」 「…この三年あまりをどうやって過ごしてきたんです?」 「さっきも言った通りだ。仮の戸籍を取得して、その名前で暮らしてる。…実は、機関にも頼らせてもらったんだぞ?」 「そうだったんですか?」 「ああ。多分、お前は全部分かってたんだろうな。俺がこっちに飛ばされる少し前に、何かあったらここに行けって教えてもらってたんだ」 「そう…なんですか」 「……しかし、仕方がないとは言え不思議なもんだな。三年ぶりに再会したやつが、十年前の顔をしてやがるってのは」 「はぁ……」 ということは、この人は今26歳ということなんだろうか。 「大体そうだな。保護日が誕生日ってことになっちまったから、少しばかりずれてはいるが」 「でも……それでどうして、今の…本来この時間にいるべきあなたと知り合っているんです?」 「俺が最初に飛ばされた場所が、家のすぐ前だったんだ。ただいまって入ったら十年前で、正直驚いたんだが、とっさに、記憶がないようなふりをして、それからはさっき言った通りだ。…本人だから当然顔が似てるだろ? それもあって、うちの家族が随分よくしてくれてな。最初、生活の面倒を見てくれたばかりか、生活保護を受ける時の付き添いだとか、仕事の世話だとか、色々してもらったんだ。だから、…キョンは俺をジョンとして知ってる。というか、ジョンってのはあいつが俺につけたあだ名なんだけどな」 「そうなんですか?」 「ああ。…身元不明の仮称って言ったら、やっぱりジョン・スミスだろ?」 そう笑った彼に、僕は少しだけ不思議な気がして尋ねる。 「…あなたにとって、この十年はどのようなものだったのでしょうね」 「うん?」 「いえ、突然過去に放り出されるなんて目にあえば、もっと荒んだり、絶望しても仕方ないと思うのですが、むしろ、今のあなた以上によく笑うようになられたんだなと思うと、なんだか不思議で……」 「…ああ、なるほど。そりゃあまあ……色々あったから、だろうな」 そう言って、彼はまた微笑を浮かべる。 優しい笑みだ。 何かをいとおしむような、懐かしむような、そういう類の笑み。 「それに、もう三年も経ったんだ。現状を楽しめるようにもなるさ。幸か不幸か、そういう適応能力については、ハルヒのおかげで散々に鍛えられたからな」 「……そうですか」 でも、どうしてだろう。 彼にはもっと頑張ってもらいたかったような気がするのだ。 そうして、ちゃんとあるべき時間に戻って欲しかったような。 …先日、そうしたように。 「なあ、古泉、」 今の彼と、このまま時を重ねられたらそうなるのだろうと思わせるような、親密さのある声で彼は僕を呼んだ。 「時々、会って話さないか? 俺も、お前らが何をやってるのかとか気になるし、記憶喪失のふりをしないで話せる相手が欲しいんだ」 そう言われて、僕が断るはずもない。 僕としても、彼に興味があったし、未来から来たということなら何か有益な情報をもらえる可能性もある。 「僕でよろしければ」 と応じた僕だったけれど、 「…それはそうとして、あなたのことはどう呼んだらいいでしょうか?」 「好きにすりゃいいだろ。どうせお前は、俺のことなんてろくに固有名詞で呼ばないんだからな」 どこか拗ねたような調子で言った彼に、僕は小さく笑う。 さっきまで、年上の彼に手玉に取られるような感じがしていたのに、そんな風にされたらまるで彼の方が年下のようにも思える。 だから、 「では、あなたのことをキョンさんとお呼びしましょうか」 と言ってみた。 すると彼は驚いたように僕を見て、それから軽く眉を寄せた。 「それくらいならまだジョンのがマシだ。…俺はキョンじゃないんだからな」 機嫌を損ねてしまったのだろうか。 しかしどうして。 戸惑う僕から軽く目をそらして、彼は呟いた。 「キョンは……今の、ここに本来いるべきあいつだ。俺は違う」 「すみません」 そう言って頭を下げた僕に、彼はちょっと慌てて、 「いや、俺の方こそすまん。……ただ、実際そうだろう? お前らにとって大事なキョンは、あっちだ。俺はそうじゃない。俺は……鍵でもなんでもない。ただの俺だ」 低く呟いて、彼はようやく僕を見つめた。 僕の心の底まで覗き込むような目で、 「…それでもいいか?」 「ええ、勿論です」 そう答えて、僕は微笑んでいた。 作り笑いではないと思う。 ただ、彼のどこか不安定なところを見て、逆に安心してしまったのだ。 この人は変わっていない、と。 「よろしくお願いしますね」 「おう」 頷いた彼は、嬉しそうに笑ってくれた。 |