「こいじゅみくん……」 舌足らずにそう呼びかけられて、自分のことだと思える人間がどれくらいいるだろうか。 僕も最初、それが僕を呼んでいるものだとは思わなかった。 何しろ僕には幼児の知り合いなどいないから、特にそうだ。 だから当然のように一瞬それを聞き流してしまいそうになって、慌てて足を止めた。 その声に、どこか聞き覚えがあるように思ったからだ。 慌てて振り返り、きょろきょろと辺りを見回すと、そこには彼がいた。 SOS団での仲間にして、僕が一方的に思いを寄せているその人の声を、僕が聞き流しそうになるなんて、と嘆く間もなく、違和感にとらわれる。 彼らしくもなく、ぼんやりとした表情が気になったのだ。 …いや、それでは正確ではないのかもしれない。 彼がぼんやりとしていることは、決して珍しくないのだから。 ただ、普段見せるそれとはどこか違っていた。 普段のそれが本当にぼんやりとして何かを考えているだけなのだとしたら、今のそれは僕を見つめているはずなのに、どこか覇気がなく、大人しげな風情になっているようなそれだと思う。 うまく言えないけれど、とにかくいつもとは様子が違った。 「あの…どうかなさったんですか?」 そう尋ねると、彼はじいっと僕を見つめてくる。 気のせいか、その瞳が吸い込まれそうに深く思える。 どきりとしながら、じっとその視線に耐えていると、彼がちまちまと足を進め、僕との距離を縮めた。 「あの……?」 「…こいじゅみくん……」 また、だ。 舌足らずで、しかも彼らしからぬ呼び方に思わず眉が寄る。 しかし、それだけで彼は怯えるような色を滲ませるのだ。 僕は慌てて、 「え、あ、な、なんでもないですから、」 「…う……」 泣きそうにその目が潤む。 そんなまさか、と思っている間にも、それは小さな玉を結び、ほろりとこぼれ落ちる。 「なっ…泣かないでください……」 「ふぇ……だ、だって……ぇ…」 込み上げてくるものを必死に堪えようとするが、どうにもならないらしい。 わんわん声を上げて泣き出してしまった彼を連れて、僕はとにかくと人混みから逃げ出す破目になった。 近くの公園の、人気の少ないベンチに彼を座らせて、 「落ち着いてください」 と声を掛けながら、ハンカチを差し出す。 そろりと顔を上げた彼は、なんていうか、子供みたいな泣き顔をしていた。 涙と鼻水とでぐちゃぐちゃの顔さえ、可愛く見えるなんて、僕はおかしいだろうか。 「おこって…ない……?」 まだしゃくり上げながらそう聞いてくる彼に、僕は出来る限りの笑顔で頷く。 「ええ、怒ってなんていませんよ」 「…よか、った……」 ほっとしたように呟く姿もどこか幼い印象がある。 何かあったのだろうか。 例えば、涼宮さんが何かを望んで、彼に変化が訪れたとか。 …しかし、そんな兆候があったようには思えない。 それに、今の涼宮さんはかつてと違って、そう簡単には大規模な変化をもたらすことはないとも思うのだ。 そんなことを考えながらも、彼の隣りに腰掛けて、泣き止むまで背中を撫でる。 ようやく泣き止んだ時には、その目は真っ赤に泣き腫らされ、見るだけでも痛々しいほどになっていた。 それでも泣き止んだ彼はご機嫌で、嬉しそうに僕の腕に抱きついたりなどしながら、無邪気に話し掛けてくる。 「あのね、あたしね、こいじゅみくんと話したかったの」 舌足らずのまま、一人称どころか口調まで違うことに戸惑いながら、僕は相槌を打つ。 「そうなんですか?」 「うんー。でもね、いつもはおにーちゃんが出てりゅから、あたしは話せなかったの。…今日は、もう、がまん、できなくて……」 そう言って、切なげに僕を見つめる瞳に、何か錯覚でも起こしてしまいそうになる。 「…僕と話したかったんですか?」 発言内容の大部分は理解出来ないまま、それでも何が言いたいのか知りたくて問いかけると、彼ははっきり頷いた。 「うん」 その仕草も子供っぽくて可愛い。 思いがけない姿を見てドキドキしそうになりながら、務めて平常を心がけていると、 「…そろそろ、おうち、帰りゅ…」 と彼が言い出した。 「おうち…家に帰るんですか?」 「ん」 「しかし……」 大丈夫なのかと心配する僕に、彼はにこっと笑って、 「平気だから」 と保証する。 本当に分かっているのだろうかと心配になるのだけれど、そのままとことこと歩き始めた彼を放っておくわけにも行かず、大人しくその後について行くことになった。 僕がついてきていることに気付いた彼は、嬉しそうに笑って、 「こいじゅみくんもいっしょで、うれしい」 なんて言いながら、僕と手を繋ぐ。 大丈夫何だろうかと思いつつ、振り解きでもしてまた泣かれては困るので、大人しく手を繋いだまま、彼を家まで送ったところで、 「あれー? 古泉くんー?」 と声を掛けられ、飛び上がるほどに驚いたが、幸か不幸か、呼び止めたのは彼の妹さんだった。 「どーしたのー?」 無邪気に聞いてくる妹さんにどう答えたものかと迷っている間に、彼の方がにこにこと笑顔を振りまきつつ、 「ただいまぁ」 とやはりどこか高くて幼い声で言った。 「あれ? キョンくんったらキョンちゃんになってるー。久しぶりだねー」 「うん」 「どうしたの?」 「…んー……」 寝ぼけているかのようなぽやんとした声を出した彼は、ぎゅっと僕の腕に抱きついた。 それで通じたのか、妹さんは彼と同じくにこにこと、 「そっかー、古泉くんと仲良くしてたんだねー」 「そお」 「じゃあおうち入ろっか」 「…うん」 頷いたのに、彼は僕の腕を離そうとしない。 そのまま歩き出すから、 「あの…?」 と小さく声を掛けたら、彼はきょとんとした顔で僕を見て、 「…入りゃないの……?」 「……ええと……」 「……」 彼は黙ったまま僕を見つめている。 その目が不安げに揺れ、眉が寄る。 また泣きそうだと思った時には、 「お邪魔させていただきますから」 と言っていた。 仕方ない。 彼に泣いて欲しくはないし、何よりどういうことなのか事情が知りたかった。 「構いませんか?」 と念のため妹さんにも問いかけると、 「うん、だいじょーぶだよ」 「では、お邪魔しますね」 頷いた僕の腕をぐいと引っ張って、 「早く」 と彼が急かす。 引っ張られるまま慌ただしく家に上がり、リビングに通される。 妹さんはぱたぱたと足音を立てながら、 「ジュース取って来るねー」 「オレンジのがいいー」 「分かったー。古泉くんはー?」 「僕も同じものでいいですよ」 と反射で返したものの、本当に一体何が起こっているんだろうか。 妹さんは事情を分かっているようだけれど……。 混乱がいい加減限界に達しそうだと思っていると、彼にきゅっと袖をつままれ、見つめられた。 「どうかしましたか?」 「…おどろかせて、ごめんなさい……」 ぽつりと話すのも、ちょっとした仕草も女の子みたいだ。 それも、妹さんより幼く見える。 「……うまく…言えないの」 困ったように言いながらも、小さく口を開いた彼は、 「えっと……にじゅーじんかく、って、分かりゅ…?」 「ええと……」 少し考えて、彼の発した音を繰り返す。 「…二重人格、で、いいんでしょうか?」 こくん、と頷いて、 「あたしは、それなの」 「……え…」 「いつもはおにーちゃんが出てるけど……、たまに、あたしが出て来れる時がありゅの」 呆然とする僕に、オレンジジュースの紙パックとグラスを持って戻ってきた妹さんが、 「いつもはキョンくんなんだけど、たまにキョンちゃんになっちゃうんだよねー」 「ねー」 と二人揃って首を傾げて見せるのは可愛らしいんですけどね、 「どうしてそんなことになったんですか?」 と尋ねると、二人は顔を見合わせて反対方向に首を傾げ、 「わかんない…」 「ねー。いつの間にかそうなってたんだよね」 「ねー」 ……一体どういうことなんだろうか。 事情はさっぱり分からない。 むしろ謎は深まったようにさえ思う。 「そのことを、いつもの彼は知っているんですか?」 僕が尋ねると、二人は同時に首を振った。 「知らないはずだよー」 「知らない。…知らせないように、してるから」 これは後々調べて知ったことなのだけれど、二重人格――医学的には解離性同一性障害というらしい――の原因ははっきりと分からないことも多く、一般に流布しているように、幼児期のストレスやなんらかの辛い体験などが原因とは限らないらしい。 また、主人格と交替人格という区分があり、彼の場合は普段現れている男性の彼が主人格、突然現れた舌足らずな少女の彼が交替人格ということになるようだ。 記憶の受け継ぎについては、交替人格の彼が管理しているようで、主人格にどの程度記憶を残すかなど、ぽややんとした印象に反してきちんと管理しているようだった。 ともあれ、この時、何の知識もなかった僕は混乱する一方だった。 「よく分かりませんが……特に問題はない、ということなんでしょうか?」 「…いつものこと」 でも、と言ったのは妹さんだった。 「久しぶりだよねー。あたしもびっくりしちゃったー」 「…うん」 「どうかしたの?」 「……だから…」 これで分かってくれ、とばかりに彼は僕に抱きついた。 え、と戸惑う僕と、心なしか顔を赤くした彼とを見比べた妹さんは、無邪気な笑顔で、 「キョンちゃん、古泉くんのことが好きなんだね!」 と言い切った。 「ええ?」 仰天する僕にも構わず、彼はこくんと頷き、 「…好き」 と囁く。 えええええ。 本当に一体どういうことなんだ。 「…こいじゅみくん……は…?」 「え…?」 「……あたしのこと……きりゃい…?」 そう尋ねるだけでも苦しいとばかりに、顔を曇らせる彼は、なんだろうか、本当に幼い少女のように可憐で頼りなく見えた。 元々、僕は彼のことが好きだったんだ。 だから思わず、 「嫌いなわけないじゃないですか。むしろ、好きですよ…」 そう答えて抱き締め返してしまった。 彼は驚いた顔をして、それからふんわりと花のように微笑んだ。 「……よかった」 「いえ、こちらこそ……」 まさかこんな展開でとはいえ、彼の口から好きと言ってもらえる日がくるなんて思いもしなかったので、嬉しさは抑えようもない。 「おめでとー、キョンちゃん!」 そう満面の笑みで祝福した妹さんは、 「じゃあお邪魔虫はいなくなるねー!」 と言っていなくなってしまった。 突然ふたりきりにされて、僕の鼓動も早まる。 どう言葉を掛けたものか、と思いながらすぐ近くにある彼の顔を見つめていると、彼はもう少し頬の赤味を増しながら、 「…付き合ってくれりゅ……?」 そんな可愛らしい囁きに、僕が抗えるはずもない。 それでも、となんとか自分の役目その他を思い出し、 「あなたとお付き合いして、大丈夫なのでしょうか…。例えば涼宮さんに気付かれたり…いつものあなたに知られたりしたら……」 「気をつけりゅかりゃ……。……あたしがきりゃいじゃなくて、…気味悪くも、ない、なりゃ……付き合って……ほしいの…」 幼くても女性、ということなんだろうか。 そんなことを言い出されることに軽い驚きを覚えながら、僕は頷いてしまった。 断ればまた泣き出してしまいそうだったし、彼を泣かせたくはなかった。 それに、僕の方こそそうしたかったのかもしれない。 「……大っぴらにお付き合い出来なくて、大変かもしれませんよ?」 「…それは、あたしも同じ……。だれかに見られて…おにーちゃんが困りゅのはいけないかりゃ……」 そう言っておいて、彼は軽く顔を伏せ、 「…今日は、ちゃんとできなかった、けど……今度から、気をつけりゅ……」 「もし、涼宮さんに知られたら、どうなるか、分かりますか…?」 「…なんとなく、は……」 こくんと頷いて、それでも彼は僕を見つめた。 「……でも、もう、やだ……。がまん、出来ないよ……。あたしは……こいじゅみくんが好きなのに……」 感極まったのか、その目に涙が浮かぶ。 「泣かないでください」 「…ひっく……ごめ…ん……」 「いいですから」 抱き締めて、その背中を出来る限り優しく撫でる。 そうして、 「…不自由をさせますが、それでも、僕と付き合ってくださいますか?」 と問えば、彼はそろりと顔を上げ、僕を見た。 「……うん…」 「ありがとうございます」 「…いいの……?」 「はい。…僕こそ、ずっとあなたのことが好きだったんですから、ね」 「…おにーちゃんが、でしょ?」 拗ねたように言いながら、彼は微笑んだ。 僕は苦笑して、 「…もしかして、気付かれてましたか?」 「ふふ」 忍び笑いで誤魔化して、彼はそろりと僕の首に腕を絡める。 「…ねえ、いちゅきって呼んで、いい?」 「どうぞ」 「ありがとぉ」 そう言った唇が僕のそれに重ねられた。 そうして僕には彼女が出来た。 |