お姫様との遭遇



古泉の家で世話になること数日。
この綺麗過ぎる家で暮らすことにも段々と慣れて、とりあえずどこに何があるのかとか、何に使う道具かなんてことくらいは分かってきた。
使い方となると少しばかり心許ないのが不安ではあるのだが。
古泉はいつも家にいてくれて、仕事も書斎でしてくれているから、困ったことがあったらすぐに聞ける。
しかし、あまり邪魔をするのも悪いだろうと、俺は一度教えられたことは一度で覚えようと努力している。
何度も聞くのは迷惑だからな。
おかげで、そろそろ聞くこともなくなってきた。
問題なのが勉強だ。
少しずつ文字を覚えようとしてはいるが、なかなか難しいので遅々として進まない。
ただ、聞く分には問題ないので、俺は最近時間があるとテレビを見て世間の事情を少しでも知ろうとしてみたり、古泉が用意してくれた読み聞かせ用の音声データのついた絵本で文字の勉強をしてみたりしている。
そうして知ったことなのだが、古泉はやはり偉い軍人らしい。
帝国――自分の住んでいる土地がそういう風に呼ばれていることを俺はつい最近まで知らなかったわけだが――の有する軍の中でも特別な近衛艦隊、しかも皇女殿下とやらの近衛部隊をまとめる司令官、というのが古泉の立場らしい。
それがどうしてあんな警察めいたことをしたのかというと、この星がその皇女殿下の私領であり、そうであれば皇女殿下の命により、軍が警察に代わって出動することも出来るのだということらしい。
とはいえそれは異例なことであり、警察との間で軽く揉めているようでもある。
…ま、そうでなければ、そんなニュースが流れてくるはずもないんだがな。
「それにしても、本当にあなたは理解が早いですね」
感心したように言った古泉は、嬉しそうに俺の頭を撫でてくれる。
ただひたすら優しくそうされるのにも、なんとか慣れてきた。
それが俺の知っていた気持ちよさとは違う、もっと穏やかな気持ちよさをくれることもよく分かった。
だから俺は、
「もっと」
とねだりながら古泉に頭をすり寄せる。
「畏まりました」
優しく笑って、古泉は更に俺の頭を撫でてくれながら、
「この調子なら、近いうちに引き合わせられるかも知れませんね」
と独り言めいた呟きを漏らした。
これは、聞かなかったふりをした方がいいんだろうか。
じっと伺う俺に、古泉は苦笑して、
「そういう、変な気の利かせ方はしなくていいんですよ。二人しかいないんですし…ね?」
と俺の耳を軽く引っ張る。
「んん…っ……」
「気になったら聞いてください。どうでもいいなら構いませんから」
「…じゃあ聞くが、誰と引き合わせられるんだ?」
古泉はにっこりと微笑んで、
「あなたの…そうですね、先生と学友、あるいは仲間…といったところでしょうか」
と訳の分からないことを言った。
「なんだそりゃ」
「平たく言えば、あなたに勉強を教える先生の役を買って出てくださった方がいるのですよ。それに、あなたに会いたがっている方たちがいるんです」
「お前の友達か何かか?」
俺が聞くと、古泉は微笑んだ。
とても優しく、とても嬉しそうに。
「ええ、友人であり、仲間であり、家族のような方がいるんです」
「家族? 別に住んでるのにか?」
「一緒に住むばかりが家族ではありませんからね」
言いながら古泉はそっと俺の髪を撫で付けて、
「どうします? まだ他の人に会うのは止めておきますか?」
「…別に、平気だとは思うが……相手は男か?」
「いえ、女性だけですよ」
「なら、余計に大丈夫だろ。何より、お前が会わせたいって言うなら、俺にとって悪いもんであるはずないしな」
そう言って俺は、古泉がするように、小さくにこっと笑って見せたつもりなのだが、古泉の目に映る俺はぴくりとも表情筋が動いていないように見える。
ううむ……やはり笑う練習が必要だろうか…。
「なんとなく分かるようになってきましたから、気にしないでください」
それでも、もう少しはっきりと表情を変えられないものかと、鏡を前に睨めっこすることにした俺である。

訪問は、俺の方から訪ねるのではなく、先方からやって来ることになったのだが、そのことを俺に伝えた古泉は、えらくげんなりした様子だった。
「どうしたんだ?」
「いえ…剣幕に押されました……」
と深いため息を吐いた古泉は、ずるずるとソファに座り込む。
「つっても…端末使って話してただけなんだろ?」
「ええ。顔を見るとどうも、と思ったので音声のみにはさせてもらったんですけどね。……それでもやはり厳しいものがありました」
厳しいって。
「…あの人には勝てませんね」
そう呟きながらも、
「……なんか、嬉しそうだな」
「…え?」
「あの人ってのは、古泉の大好きな人なんだな」
納得したぞ、と誇らしげに言ったのに、古泉は一瞬驚いた顔をした後、なんだか知らんが焦りまくって、
「あのっ、あの人は本当に家族みたいなもので、恋愛感情云々で好きなわけじゃありませんからね? 誤解しないでくださいよ?」
と早口にまくしたてたが、
「誤解って、どう誤解するんだ?」
よく分からん。
「ええと……」
困ったように首を傾げていた古泉は、
「…あの人のことは確かに大好きですけど、それは兄弟のようなものとして、ですからね? あなたを好きって言うのとは違いますから……」
「……アホか」
思わず呟いていた。
「んなもん、言われなくても分かるだろ。……俺のこと好きとか言う時には、もっとふにゃふにゃした顔になるくせに」
にやりと笑った俺に、古泉の顔が赤くなる。
「そ、そうですか…?」
「ああ」
「…そんなに、僕の表情って分かりやすいでしょうか」
「…困るのか?」
「…いえ、困りはしませんけど……。…あなたは、人の表情を読み取るのがうまいんでしょうね。分かりやすいなんて、他の誰にも言われませんよ?」
そうなんだろうかね。
まあ、
「表情を読める方が色々楽だったからな」
なんとなくでそう言った俺に、古泉の表情が曇る。
「すまん、こういうこと言うのは嫌なんだったよな?」
「いえ…、あなたにそれをやめてほしいというわけじゃないんです。…ただ、どうしてもっと早くあなたを助けられなかったのかと思うだけで……」
「アホ」
こつん、と古泉の額を叩いてやる。
「過ぎたことをぐだぐだ言ってていいのか? 軍人のくせに」
「それはそうですけど……」
「お前は精一杯やってくれたんだろ?」
警察と摩擦を生じさせるなんてことになるのも考えられなかったくせに。
「…すみません」
「謝るなって」
俺は古泉を抱き締めて、その唇に触れるだけのキスをする。
そんな優しいだけの行為も、古泉から教わった。
「少々迂闊だろうと、俺のために一生懸命になってくれるお前が、好きだぞ」
「…僕も、そんなあなたが好きですよ」
そう言って触れるだけのキスをくれるくせに、
「でも、あまり甘やかさないでくださいね。これ以上だらしなくなったら大変ですから」
「お前こそ、よっぽど俺を甘やかすくせに」
くすくすと笑って、俺は古泉に尋ねる。
「で、いつ来るって?」
「今夜、こっそりと」
今夜ってのも急な話で驚くが、
「こっそり?」
「ええ。…訪問そのものはあまり難しくもないんですけど……どうしたものか…」
「どうしたんだ?」
「…少しばかり、ね。厄介な提案がされてるんですよ」
「……なんだそりゃ」
「詳しくは、今夜お話しましょう」
そう言って古泉はもうひとつため息を吐いた。
大好きな人間が来るってのにため息が止まらんとは、こいつもとことん苦労性な奴である。
しかし、そんな風に悠長にしていられたのも、俺がその客がどんな奴か知らなかったからでしかなかった。
その夜、以前の生活リズムが抜けないからか、夜遅くなるほどに目が冴えてくる俺が元気になった頃になって、その客はやってきた。
玄関先に止まった真っ黒い乗り物から降りてきたのは、三つの人影。
一様に黒いフード付きマントを被り、見るからに怪しげである。
これがお前の身内か、と横目で古泉を見ると、古泉は苦笑して、
「また凝った扮装でいらっしゃったものですね。仮装パーティーのおつもりですか?」
と言う。
その声の柔らかさもトーンも、俺以外に使ってるのは初めて聞くくらい甘い。
…と言っても、俺以外と話してるところなんて、ろくに見てない上、数少ないそれも端末越しに仕事の話をしてるだけだったからな。
やはり、この客は古泉にとっての「特別」であるらしい。
「いいから早く通しなさいよ」
と強気な声が聞こえた、と思ったら、フードの下から気の強そうな瞳が俺を見つめた。
「本当にそっくりだわ」
感嘆したような声に、嫌悪の色はない。
敵意もないらしい。
ほっとしながら、それでもまだいくらか警戒しちまうのは癖だな。
少しばかりびくつく俺を見ながら入って来た女は、フードを跳ね除け、俺を見て笑う。
「あんたとは初めまして、ね。キョン」
その顔は、ここ数日のうちにも何度もテレビで見た、皇女殿下のそれだった。
「…皇女殿下……?」
「ああ、そんな風に呼ばなくていいわよ。あたしのことは、そうね、ハルヒとでも呼びなさい。古泉くんも」
言われた古泉は苦笑して、
「僕には殿下とお呼びするのが精一杯です」
と言っておいて俺を見つめ、
「でも、あなたはどうぞ気にせず、殿下の望むように呼んでさしあげてください。言葉遣いも、堅苦しいのは苦手でしょう? いつも僕と話すようにしたので結構です」
いいのだろうか、と俺は古泉と皇女殿下を見比べる。
古泉はいつもと同じかそれ以上にリラックスしてる。
皇女殿下の方は…好奇心がむき出しってところだろうか。
俺がそうしたからと言って、それを理由にいちゃもんをつけられるようなことはなさそうだ。
だから、と俺は口を開き、
「……ハルヒ、で、いいんだな?」
「そうよ。あたしもキョンって呼ばせてもらうから」
上機嫌に笑ったハルヒは、一緒に連れてきた二人を振り返り、
「ほら、みくるちゃんも有希もその鬱陶しい物脱いじゃいなさいよ」
と言いながら、フードをめくりあげた。
現れたのも美少女だった。
どちらも小柄だが、タイプがあまりにも違う。
髪の短い少女は無表情で物静かにこちらを見つめていたし、ロングヘアの少女の方は驚きに満ちた顔で俺を見つめていた。
この三人はどういう関係なんだかさっぱりだな。
あまりにもタイプが違うから、友達とも見え辛いのだが、皇女殿下とその御付ってことなのかね?
首を傾げる俺を、
「とにかく、奥へ」
と古泉が背中を押して促し、俺たちはぞろぞろとリビングに入った。
いつも広々として見えるそこが、なんだか急に狭くなったような気がする。
落ち着かない俺を安心させるように、軽く俺の肩に触れながら、古泉が口を開いた。
「作法には反しますが、先にあなたに、こちらの方々を紹介しますね」
「おう」
「まず、」
と古泉はハルヒを手の平で示す。
「もうお分かりだとは思いますが、こちらが我等が帝国の皇女殿下にして第一皇位継承者涼宮ハルヒ殿下です。僕の直接の上司であり、僕にとっては家族のような方ですね」
ふむふむと頷きながら俺はハルヒを見つめる。
ハルヒはソファに我が物顔で踏ん反りがえっているのだが、不思議とそれに嫌な雰囲気はなかった。
威圧感とか虚勢なんかがまるでなく、それがこいつの自然な姿だと分かるからだろう。
「ハルヒ、だな」
「そうよ」
長い髪をさっと後ろに流す姿も様になっている。
変装のつもりだろうか、どこか薄汚れた格好をしているのに毅然として見えるのは、流石と言うべきか。
王者の風格ってところかね。
「で、こちらが殿下のメイドをやっておられる、朝比奈みくるさんです」
「は、はじめまして…」
どこかおどおどしながら言ったが、そんなに怯えなくていいんだがな。
いや、怯えているというよりはなれない状況に緊張しているってところだろうか。
悪い人ではない。
むしろ、心配になるほどお人好しの匂いがする。
スラム街なんてふらついてたら、さらわれそうだな。
ううむ、庇護欲をそそるタイプの美少女である。
「あたしの方がちょっとだけお姉さんですから、なんでも言ってくださいね」
と言ってくれるのはいいが、こっちの方がよっぽどなんでもしますと言いたくなるな。
「はじめまして、朝比奈さん」
と俺は言う。
「よろしくね、キョンくん」
そう言って笑ったところは、とても可愛らしい。
「それから、こちらの方が、長門有希さんです」
「……長門有希」
と名乗られて分かった。
「人間じゃないのか」
「よくお分かりですね。アンドロイドを見たことがおありでしたか?」
「いや、ない」
すくなくとも、こんな精巧なのは初めてだ。
しかし、声も表情も人とは違う。
そのせいで少しばかり表情が読み取り辛く、戸惑うものがあるが、慣れたらなんとかなるだろう。
「よろしく、長門」
長門は頷くだけだ。
必要最低限の動きしかしないというのなら、その徹底っぷりは見事なもんだな。
感心している俺に、古泉はにこやかに言う。
「こちらの長門さんが、あなたに勉強を教えてくださることになってます。それから、朝比奈さんは礼儀作法をと。僕としては、そんな堅苦しいものは必要ないのではないかと思うのですけど……」
と言う古泉の声が少しばかり渋いのは、俺を人前に出すことにいくらか不安を感じているからであるらしい。
それは、口さがない連中がいるからで、そんな連中に俺を傷つけられることを恐れてのことなのだが、そう見くびってもらいたくはないね。
少々何か言われたくらいで傷がつくような繊細さは持ち合わせちゃいないし、それ以上に俺にはやりたいことがある。
「ハルヒ、いきなりで悪いが頼みがある」
「何?」
不躾だという以上に、ハルヒが面白がっているのがありありと伝わってくる。
だからと俺は遠慮なく、
「俺がちゃんと勉強して、礼儀作法なんかも身につけて、人前に出してお前や古泉が恥をかかないくらいになったら、俺を古泉の世話係か何かとしてでも使ってくれないか?」
と要求した。
そう、それが俺の望みだ。
当分は地上勤務だとかでこの星の上にいるが、基本的にはハルヒも古泉も遥か上空の基地にいることになるし、艦隊を率いて出向くこともある。
そうなったら俺はここで待ちぼうけを喰らうしかない。
そんなのは嫌だと思う程度には、俺はどうも古泉のことが好きであるらしい。
…少しばかり照れ臭いがな。
「その程度でいいの?」
というのがハルヒの返事だった。
「どうせなら、古泉くんと並んで立てるくらいになってみせなさいよ」
「並んでって……」
「目標は高い方がいいでしょ。まあ、無理だったらいいわ。古泉くんってなんでもひとりでしちゃうから、今のところ日常の世話をするって意味の副官はいないしね」
そう言って笑ったハルヒは、
「あんたの能力がどれほどのものか、見せてみなさいよ」
と挑発的に言い放った。

それがハルヒとの出会いだった。