高校に入学してから、丸一年と三ヶ月ばかりが過ぎた夏休みのある日。 俺は初めて古泉の家に行った。 「お邪魔します」 俺は神妙な顔で声をかけ、その家に足を踏み入れる。 何もかもが予想外で酷く緊張している俺に、古泉は常と変わらぬ余裕を纏い、にこやかに言った。 「そんなに緊張しなくていいですよ。僕しかいませんから」 「余計に緊張する要因じゃないのか、それは」 毒づくように言った俺に、古泉はくすくすと笑った。 「ふふ、すみません」 そこそこ広い玄関には、作りつけの大きな靴箱があり、その上にはおそらく縁日の金魚なのだろう、小さな赤い魚が丸いガラス鉢の中をくるくると泳いでいた。 丸い金魚鉢は動物虐待になるとかなんとか、ヨーロッパのどこかで判決が出たとか言う話題を薄っすらと思い出しながら、俺は古泉がスリッパを引っ張り出すのを眺め、勧められるままにそれに足を突っ込んだ。 綺麗に手入れされた、タオル地のそれは、素足でサンダルをひっかけてきた足に心地好く馴染んだ。 靴箱の上には金魚鉢の他にも、なにやら子供が学校の図画工作の時間に作った作品のようなものがいくつか飾られている。 どこからどう見ても単身者の住いではなく、家族家庭である。 不躾にもきょろきょろ見回しながら、俺は案内されるままリビングに入り、ソファに腰を下ろした。 リビングもやはり、とても生活感に溢れ、暖かな家庭らしさがあった。 「お前、家族と一緒だったのか」 一戸建てとは聞いていたが、と驚く俺に、古泉はそんな驚きを予想していたのだろう。 穏やかな笑みを浮かべたまま、 「ええ。やはり、あのおかしな時期の転入の口実としては、父親の急な転勤と言うのが自然でしょう?」 「…てことは、これはカモフラージュってことか?」 「いいえ?」 しれっとした顔で古泉は言い、俺がぽかんとしているのを面白がっているかのように笑った。 「本当に、父親が転勤になったんです」 「……は?」 「僕は、北高に通うつもりなんてなかったんですよ」 思い出し笑いをするように、古泉は言った。 「元々、年が同じと言うこともあって、機関の方から高校を涼宮さんと同じところにしてはくれないかと打診を受けてはいたのです。でも僕の住いはいくらか遠かったこともありますし、ただでさえ閉鎖空間の発生で時間を取られるのに、通学や家事で時間を取られるのも嫌だったので拒んでいたのです。……いえ、」 少しばかり渋い顔をして、古泉は言葉を繋いだ。 「違いますね。それは言い訳に過ぎなかったのでしょう。……中学の頃の僕に、閉鎖空間の主と平気な顔で対峙出来るだけの余裕も強かさもなかったという、ただそれだけの話ですよ」 その言葉が、腹の中に重く落ちた。 俺なんかでも分かるのは、古泉が酷く苦しい思いをしたのだろうというとてもおぼろげなことだけで、だからこそもどかしさに胸の中がもやもやする。 「…それなのに、結局北高に来たのか」 かろうじてそう言った俺の手を、古泉はそっと握り込み、 「ですから、父親の転勤が決まったので、僕の出していた言い訳は通用しなくなってしまったんですよ。長くなりそうなのでこちらで家を借りることにもなりましたし、ここからなら、明け方閉鎖空間が発生しても、登校するまでに少しは仮眠も出来ますからね」 「だが、来たくなかったんだろう?」 真っ直ぐに見つめた古泉の目は、とても穏やかな色をしていた。 なんでだ。 「正直に言うと、あの頃はそうでしたよ。涼宮さんに更に振り回されるなんて真っ平ごめんだと、そう思っていました。でも、父親の転勤が決まり、僕が転校することになって、思ったんです。…僕もまた、彼女に選ばれ、呼ばれたのかもしれないと。……それなら、行ってもいいかと思ったんです」 「…は?」 なんなんだ、と思う俺に、古泉は小さく笑って、 「わざわざ自分の志望校を曲げてまで入学して、側から監視するだけなんて、面白くないでしょう? 昼夜関係なしに呼び出しのかかる身のやる仕事じゃない。それは他の方にお任せします。でも、転校の話が決まる頃には、涼宮さんは変わり始めていました。長門さんと朝比奈さんを選び、楽しいことを始めようとしているところに、偶然とも必然ともつかない流れで、転校が決まったんです。これは僕も呼ばれたということなのだろうと、そうしてこれから始ることに参加しろという意思なのだろうと思ったら、抗うだけ馬鹿馬鹿しくもなりました。実際、転校してから随分と楽しませていただいてるので、今ではそれでよかったんだろうと思ってますから、どうぞあなたはお気になさらず」 それに、と古泉は熱っぽく俺を見つめた。 「転校して、あなたに出会えたんです。ならば、あなたとお付き合い出来るのも、神様の思し召しということにはなりませんか?」 「……あほか」 呟くながらも顔がにやけてくるのが分かる。 「ふふ、すみません」 謝っておいて、古泉は俺の頬にキスを落とすと、 「…ねえ、まだ明るいですけど、僕の部屋に行きませんか?」 「…って、お前、今日、家族は…?」 「旅行中でいないんです。だから、泊まって行ってくださいとお誘いも出来たんですよ」 言いながら古泉は立ち上がり、半ば強引に俺の手を引いた。 「旅行って……」 「夏休みには家族揃って旅行に行くのが年中行事として組み込まれてるんですよ。残念ながら、ここ数年は僕のお役目のために近場で済ませてたんですが、今年はせっかくなので遠出して来たらいいと、東北の方まで」 「そりゃまた遠いな」 しかし、置いてかれて、こいつはそれでいいのだろうか。 どう言ったものかと考え込んだ俺に、古泉は何気ない顔で、 「たくさんお土産を買ってきてくれるそうなので、お裾分けしますね」 となんでもないように言ったから、おそらく本当になんでもないことなのだろう。 ほっとしながら笑って、 「それじゃあ、お前の部屋を見せてもらおうか」 と歩き出したところで、古泉の携帯がメールの着信を告げた。 「あ」 短く声を上げた古泉がいそいそとポケットから携帯を引っ張り出すのが気になって、 「誰からだ?」 と聞くと、 「妹からです」 という返事で正直驚いた。 妹。 こいつに。 「そこまで驚かなくてもいいと思うんですけどね」 苦笑しながら、古泉は携帯の画面をこちらに向けた。 そこには古泉とどこか似た顔立ちの、しかしながらとても明るい笑顔の少女が、おいしそうに魚にかぶりついていた。 「お前に似てるな」 「そうですか?」 「ああ。…ほら、目元の辺りとか」 「そう…ですかね。あまり似てないと言われることの方が多いんですけど。…でも、似てるといわれるのは悪くない気分です」 と小さく笑った古泉は携帯をしまい、俺を部屋に案内した。 古泉の部屋は、玄関から入ってすぐの部屋だった。 人の出入りが簡単に知れる、おそらく本当なら居心地の悪い部屋だが、そこに古泉がいる理由は簡単に分かる。 …そこなら、深夜や明け方に出入りしても、家人の眠りを妨げないからだ。 それだけでも、痛々しいものを感じて、もどかしさに歯噛みした。 「どうしました?」 「…なんでもねーよ」 吐き捨てるように言って、俺は古泉のベッドに腰を下ろした。 部屋の中は綺麗に整頓されているようだが、 「自分で片付けてんのか?」 「ええ。…やはり、みられては不味いものもありますからね」 と苦笑するから、てっきり機関の書類がどうとかそういうことかと思ったら、 「そうじゃないですよ」 と否定された。 「じゃあなんだ」 「…その、ですね」 困ったように古泉は笑っておいて、そのくせ滑らかに動く舌で、 「実はあるんですよ。…あなたを隠し撮りした写真とか、そういうもの」 「……は!?」 なんだそりゃ、と思わず立ち上がる俺に、古泉はニヤッと悪代官みたいな笑みを浮かべて、 「誤解しないでくださいよ。別に僕がそういった目的で隠し撮りをしたりしたというわけではないんです。機関の資料として回ってきたんですよ。あなたの写真が何枚か、ね」 「…そういうことか」 ほっとしたってのに、 「もっとも、そういう用途でも使わせていただきましたけど」 「んなっ!?」 何言いやがる、と真っ赤になって怒鳴った俺に、古泉は面白がるように笑って、 「嫌ですか? でも、他の人で…という方が嫌じゃないです?」 「な、や、そ、そういう問題じゃないだろ!?」 「違うんですか? 僕だったら嫌ですよ。あなたが僕ではない誰か…グラビアアイドルでも誰でも、僕以外の誰かで自らを慰めるなんて」 「う…」 「それで、あなたはどうしてるんです?」 「どう、って……」 「僕ではない誰かでそんなことをしてるんですか? 例えば…そうですね、朝比奈さんとか」 「…っ、す、するわけないだろ!」 「それは何よりです」 くすりと笑った古泉は、 「では、誰でするんです?」 「だ、誰って……そんな…」 真っ赤になってうろたえる俺の顔を覗き込んだ古泉は意地悪く笑って、 「教えてくださいよ。僕は言ったんですし」 「なっ、お、俺が言えって言ったわけでもないのに…」 「でも、聞いたでしょう? 教えてくださいよ」 古泉は俺の肩に手を置き、逃げられないようにした上で顔を近づけてくる。 「それとも、言えません? 言えないってことは、やはり僕以外で…ということでしょうか」 俺は必死に顔を背けながら、 「……恥かしいこと、聞くなよ」 「いいじゃないですか」 くすくす笑って、古泉は俺の唇に自分のそれを重ねてくる。 「ん…こら……」 「そのためにお呼びしたようなものでしょう? 大体、いつもホテルなんかじゃいやだと言ったのはあなたじゃないですか」 そりゃ、お前が家族と一緒に暮らしてるなんて思いもしなかったからだ。 「でも、するでしょう?」 「……っ、ああ、するさ」 ヤケッパチになってそう返した上、古泉を引き倒したのは流石にやりすぎた。 ともあれ、当初の目的の半分を果たして、ついでにシャワーも借りてさっぱりした俺がリビングに戻ると、古泉は薄暗くなった庭で天体望遠鏡を組み立てていた。 そうだったな、これが泊まる名目であり、目的の残り半分だった。 「見えそうか?」 「そうですね、ある程度は」 生返事みたいなものをよこしながら、組み立てと調整に熱中する古泉の邪魔をするのは憚られて、 「夕食の支度でもしとく」 と言って台所に立つ。 冷蔵庫を開けると、色々と常備菜が用意してあり、困ることはなさそうだ。 作り置きしてあったチャーシューと煮玉子、それからもやしなんかを使って、具沢山のラーメンをこしらえてやると、古泉は嬉しそうに、 「おいしそうですね」 と言ったが、 「大半は作り置きのものをそのまま使っただけだぞ」 俺は苦笑するしかない。 向かい合って席につき、ずるずるとラーメンをすすりつつ、 「この煮玉子もチャーシューもうまいな」 「ありがとうございます。それ、僕が作ったんですよ」 「はぁ!?」 てっきり古泉の母親が作ったんだろうと思ってたのになんだそりゃ。 「僕は普段、忙しくて家のことはあまり手伝えませんからね。趣味と称していくらかお手伝いさせてもらってるんですよ。料理なら、多少時間があれば夜中でも出来ますし」 「そういうもんか…?」 「おかしいですか?」 おかしいっていうか、健気で可愛いというかなんていうか。 答えに窮した俺は、 「……まあ、料理がうまいのはいいんじゃないか?」 「ありがとうございます」 と嬉しそうに古泉は笑って、ラーメンの続きにとりかかる。 …ラーメン食ってても様になるってのもどうなんだろうね。 憎らしい、と思いながら目をそらした先には、どうやら物置にされているらしい壊れたピアノがあった。 見るだけでどうして壊れているか分かるかといえば、側面の板が割れているせいだ。 さっきソファに座ったとき気付かなかったのは、アングルの問題だろう。 この角度から見ると明らかに壊れていると分かるほど酷い有様だ。 「…なんだあれは」 思わず呟いた俺に、古泉はぎくりとしたような顔をして、 「…ピアノです」 「そうじゃなくて、なんであんな盛大に割れてるんだ?」 ぱっくり見事に割れてるじゃないか。 とても人間業とは思えん。 「あれはですね、その……」 ラーメンを食べて体温が上がったせいでなく顔を赤く染めた古泉は、 「……若気の至りと言うかなんというか……」 「…は?」 「…僕が、やりました」 「……はぁ?」 なんだって? 古泉は恥かしそうな顔をしたまま、 「僕だって、普通の人間です。ストレスがたまって八つ当たりしたくなるようなこともあるんですよ。それで、その……一度、それが家で爆発してしまいまして……」 「…あんなことをやらかした、と」 「…お恥かしい限りです……」 ぷしゅーと蒸気でも吐き出しそうなほどに赤くなった古泉は、なんというか非常に可愛かった。 「…しかし、物凄い力だな」 「そうですね…。とても中学生の力とは…」 「…中学生?」 「……はい」 「……お前、引っ越してきたんじゃなかったのか?」 「そうです。……あれは、その、またあんなことにならないようにという戒めとして、母親が持って行くと言い張ったんですよ…」 そう言って古泉はため息を吐き、 「あんなに重くて大変なのに、持っていかないなら処分しかないからどうしてもと」 「……それをリビングみたいな目立つところに置くのも凄いな」 「全くです」 けれど、と古泉は苦笑して、 「おかげで、どんなことがあっても、あれを見たら頭が冷めますよ」 「そりゃ、引っ越しても持ってくな」 けらけらと笑った俺を古泉は咎めもせずに笑った。 食事を終えて、ようやく庭に出た。 「何が見たいんだった?」 「口実でしたからねぇ…」 「じゃあまあ、なんでもいいからオススメを頼むな、天文少年」 「あはは、畏まりました」 そう言って古泉は天体望遠鏡を空のどこだかへと向ける。 「今日は月がないんだったか」 「ええ、その方が星は見やすいんですよ」 と言う表情も明るい。 それに和みながら、古泉の講釈に今日は心地好く耳を傾ける。 天体望遠鏡をのぞきながら、古泉の声を聞き、少しばかり知恵を入れたりしたところで、俺はちょっと思いついたことを聞いてみた。 「なあ、古泉、お前、何か見たいものってないか?」 「見たいもの……とはまた漠然とした質問ですね」 「ああいや、天体観測するならって意味でなんだが」 「…そう……ですね」 「なんでもいいぞ。オーロラとか皆既日食とかなんでも」 「…では、グリーンフラッシュが見てみたいですね」 グリーンフラッシュ? 「…なんだそりゃ」 「太陽が完全に沈む直前や昇り始めた直後に、緑色の閃光が瞬くことがあるんです。それをグリーンフラッシュと言うのですが、これは非常に稀な現象でして、限られた場所でしか見ることが出来ず、またよく観測されるという場所でも、滅多に見れないものなのだそうです。そのため、見たものは幸せになれるとも言われるんですよ」 「ちなみに、どこで見られるんだ?」 「高い山や離島など、空気が澄んでいて遠くが見渡せるような場所でしか見られないんです。有名なのは小笠原諸島だったと思います」 なるほど、国内だが遠方なのはいいな。 「よし、じゃあいつか見に行くぞ」 「え?」 驚いた顔をする古泉に、俺はちいさく笑う。 「見たいんだろ?」 「それは、見たいですけど……」 「だったら、見に行くぞ。お前が旅行出来るようになってからだろうがな」 「…はい」 古泉が幸せそうな顔をして頷いたってことは、俺の意図が通じたってことだろうかね。 それはそれで恥かしいものがあるんだが。 「そんな遠出が出来るようになるまで、一緒にいてくださるってことですよね?」 「と、当然のことを嬉しがるな」 「ありがとうございます」 「…っ、待ちきれなくなったら、ハルヒも誘って行けばいいだろ。そうすりゃ、お前がどこに行こうと問題ないだろうし、それにあいつのことだから、見れる確率をチートみたいに跳ね上げてくれるって気がするぞ」 「それも悪くはないですけどね。でも、どうせならあなたと二人で行きたいです。あなたと、二人きりでグリーンフラッシュを見てみたい」 どこか甘く囁いた唇が俺のそれに触れる。 「……庭でこんなことしたら、隣りから見えるぞ」 「いいんです」 そうかい、お前が構わないなら俺も文句は言うまい。 「愛してますよ」 と囁きながら俺を芝生の上に押し倒し、そのまま覆い被さってきた古泉に、俺は黙って隣家の二階を指差した。 人が見てるぞ。 |