あの御兄弟は本当に天使のよう。 品行方正で成績優秀で年頃なのに愛想もよくて。 そんな世間の評判を聞きながら、内心で舌を出す。 ばかめ、片方は堕天使なのだ。 どっちが堕天使かはともかく……。 俺には、一樹という名の、二つ年下の弟がいる。 兄の俺がいるのに長男めいた名前だが、世間には次男なのに一郎と名付けられ、ばんばん活躍している野球選手がいるのだから問題ないだろう。 その弟は、平々凡々とした兄と違い、幼い頃から神童と持て囃されるような奴で、しかも顔も性格もよければ、少しばかり字が汚いのを除けば、文句の付けようもないほど、手先も器用だったりする。 兄の俺としては、優秀な弟に比べてお兄さんの方は、と言われるのが嫌な一心で、顔はともかく性格と頭だけはと、外面のいい猫を被り、そこそこの成績はキープできるよう、本来不要だろう努力を強いられている。 「だから、俺の宿題の面倒くらい、見てくれてもいいとは思わんか、弟よ」 「はいはい」 苦笑しながら、一樹はてきぱきと手を動かし、画面にはなかなか見映えのするホームページが出来上がりつつあった。 「器用なもんだな。字はへたくそなくせに」 「これくらいなら、どうってことないですから」 と言いつつ結構凝ったことになってきてるな。 見てるから、説明くらいなら出来るだろう。 そもそも俺にないのは技術よりセンスだからな。 「僕もセンスはろくにないと思いますが…」 「イヤミはよせ」 と睨むと、一樹は笑って目を画面に戻した。 俺はその背中にもたれかかりながら、室内をぐるりと見回す。 壁に掛けられた学ランがやけにぴかぴかしているので思い出したが、 「明日入試だったか?」 「ええ」 「そっか。悪いな、それなのに俺の宿題なんかやらせて」 「本当は少しも悪いなんて思ってないでしょうに」 くすくすと笑う一樹に、俺も笑う。 「お前なら平気だろ」 「そうですね…。手を抜くつもりもありませんが、あまり背伸びをした気もありませんから、体調を崩したりでもしなければ大丈夫かと」 「そうかい、それはよかった。ところで一樹」 「なんでしょうか」 どうやら作業が終ったらしい一樹が上書き保存を実行するのを見ながら、俺は呟いた。 「こんな夜中まで起きてると腹が減らんか?」 一樹は俺をじっと見つめ、何か言いたそうにしていたが、 「…そうですね。台所で何か探してきますよ」 と素直に言ってくれる。 全く、本当に兄貴思いのよくできた弟である。 よくできた弟なので、部屋を出る間際には、 「飲物は何にしますか? 時間帯が時間帯ですから、コーヒーはオススメしませんが」 「じゃあココアでもなんでもいい」 「分かりました」 そう言って階段を降りて行く足音も決して重くはない。 本当に、よくできた弟だな。 …だから、兄弟げんかなんてした記憶もない。 まるで生まれながらのボランティアのように、なんでもはいはいやってくれるからな。 異常だぜ。 反抗期はどうした中坊。 プロレスなんて仕掛けてみても、いつも一方的に俺が勝つので、殴ったことはあっても殴られたことはないという状態。 にくったらしいほどの聖少年っぷりだろ? 俺としては、もう少し反抗されても面白い気がするのだが、今までが今までだけに全く想像出来ない。 もしいきなりそんなことになったらどんな気がするんだろうかね。 ……思い浮かばんな。 俺は本当に想像力がない。 そんなことを考えつつ、一樹のベッドに寝そべっていると、いつの間にか寝こけていたらしい。 ふと目を開けると、至近距離に一樹の顔があってびびった。 一樹も驚いたんだろう、ぎょっとした顔をするので、俺は思わず、 「顔が近い!」 と罵りながら、古泉の顔面を押し退けた。 「すみません、あの、食料を調達してきたら眠ってらしたので、起こそうかどうしようかと……」 「そりゃ分かるが…」 いや、もういい。 「で、何を取って来たんだ?」 遅かったみたいだが、と言った俺に、一樹はほっとしたように笑って、 「めぼしい食料がなかったので、ホットケーキを焼いてみました」 「……ああ、そうかい」 本当に器用なやっちゃ。 これだけマメで頭がよくて見目もよろしければさぞかしおもてになるんだろうよ、とやっかみ半分で思いながら食べたホットケーキはふわふわしていて甘く、シロップもないのにえらく食べやすかった。 ごちそーさん。 「俺、お前の器用で親切なところが好きだな」 「僕も、あなたの僕に対してだけ自由気ままになるところが好きですよ」 「…お前もしや俺を馬鹿にしてんのか?」 殴るぞ、と拳を振り上げると、 「そういうつもりじゃ…」 と反論しようとしたので殴っておいた。 と、まあ、色々と出来の悪い兄なわけだが、それでも、一樹より更に三つばかり年下の妹は、同じように兄を慕ってくれてるわけだ。 ただ、家の中でまで外と同じように猫を被るつもりのない俺なので、扱いはいくらか違ったりするが。 ちなみに妹は、俺のことをキョンくん、あいつのことをいっちゃんと呼び、どちらかというと俺の方に遠慮なく接してくるのは、やはり俺が日頃だらしないからだろうか。 そんな訳で、今日も妹のフライングボディプレスで起こされた俺は、 「もー、キョンくんったら! いっちゃんもう行っちゃったよ? お見送りしなくてよかったの?」 「あいつなら、俺が何を言おうが言うまいが関係なく、平気な顔で合格するだろ」 「そうじゃないよ、もうっ、キョンくんったら!」 と妹は膨れてるがなんなんだろうね。 実際、あいつは俺なんかに関係なく、けろっとした顔で帰ってきた上、 「多分大丈夫だと思います」 と世の受験生に後ろから石でも投げつけられそうなことを言ってたくらいだからな。 ともあれ、うちの弟は何も心配ないらしい。 「あんたの弟の…一樹くんだっけ? 中学じゃ有名みたいね」 と言ったのは、高校に入ってから知り合った友人の涼宮ハルヒである。 男女だからと言って邪推されると困るので言っておくが、俺たちの間にあるのは麗しいとも言えない友情であり、更に言えば呪いめいた腐れ縁のなせる業でもある。 …入学以来既にほぼ2年、常に俺の後ろにこいつが座ってるなんて、もはや呪い以外の何物でもないだろ。 ともあれ、そんな呪いがあってもなくても関係ないだろうことに、それなりにいい友人関係を気付いているのではないだろうか。 主として、お互い相手に遠慮がないという方面でなのがいささか問題であるような気もするが。 「有名…まあ、そうだろうな」 こいつ相手には猫を被る必要もないので、俺もだらけた口調で言ったが、姿勢は崩さない。 ここは教室であり、他の人間の目もあるからだ。 ゆえに、声も小さく潜めておく。 それに関してはハルヒには馬鹿にされ、呆れられ、最終的に諦められるという段階にまで来ているのだが、俺の生き方だ、好きにさせてくれ。 一樹と比べられ、後ろ指を刺されるの嫌さに少しばかり猫を被るくらいいいだろ。 「あたしの知り合いの女の子が言ってたわよ。凄くもてるのにどんな子に告白されても断るってので有名だって。この前のバレンタインデーも凄かったんだって?」 「予想はしてたが初耳だな」 「山ほどチョコをもらったのに、結局どれも断ったって」 「山ほどのチョコだと?」 んなもん知らなかったぞ。 あいつ、俺には少しも分けてくれなかったってことか。 けち臭い。 「そうなの? あんたたちでもそういう風に内緒にするようなことってあるのね」 「そりゃあるに決まってんだろ」 「そうは思えないくらい、一樹くんとあんたって仲がいいでしょ。べったりしてるくせに」 「…あいつが懐いてくるからだ」 そんなに懐かなくてもいいってのに、生まれたてのひよこの前を横切っちまった俺が悪いのだろうか。 ……あいつの名前は一樹だ。 俺なんかよりもよっぽど立派で、しっかりした弟だ。 兄の俺がいるのにどうしてそんな長男めいた名前かと言えば――あいつはそれしか持っていなかったのだ。 全く、生まれたばかりのヒヨコじゃあるまいに、いつまで経っても俺について来て、ぴぃぴぃ鳴いて。 いくら拾ったのが俺だと言っても、育てたのは両親なんだから、ここまで俺に懐かなくったっていいだろ。 なお、あいつにこのことは言っていない。 妹も知らない。 俺も普段は忘れて過ごしている。 だから、あいつは俺の弟なのだ。 ぼんやりとあいつのことを考えていた俺の耳に、ハルヒの言葉が突き刺さる。 「あんたも寂しいんじゃないの? 一樹くんが春から通うところ、全寮制でしょ?」 …全寮制? 「…いや、別に寂しくはないだろ」 何しろ、おにーさんは薄情なのでね、弟の選んだ高校が全寮制であるということも知らないくらいなのだよ。 「一樹」 ぬうっと弟の背後に忍び寄った俺は、せっせと勉強していた一樹の首に手を掛けて、 「お前が合格してくれて、お兄ちゃんはとっても嬉しい。その上全寮制だもんなぁ?」 などと言いながらその頭を抱え込み、ごちんと殴ってみたりする。 一樹はと言うと…相変わらずの無抵抗だ。 つまらん奴め。 ため息を吐きそうになって、それを飲み込んだついでに、口からは妙な単語が飛び出した。 「チョコレート」 「…はい?」 「チョコレート、いっぱいもらったんだろ? バレンタインに」 「…ああ…いっぱいと言うほどでもないと思いますけど」 「ひ、ひとつくらい分けてくれてもいいだろ。けち臭いな」 「クラスで放課後分け合って食べてしまったんですよ。すみません。…でも、あなたももらったんでしょう?」 「ハルヒたちから頭に超がつく義理チョコをな」 お前にもやっただろうが。 あれと全く同じものだ。 「他にはもらわなかったんですか?」 「俺がもらえると思うなよ」 というかだな、 「んなもんがどうして気になる」 「……」 一樹は黙り込んだ後、どこか意地悪に笑って、 「…さて、どうしてでしょうね」 と言ったきり答えなかった。 そのせいで、どこかもやもやしたものを抱えて寝たからか、その晩、俺は微妙な夢を見た。 あいつを拾った、あの、丘の上の桜の木の下に、あいつが立っていた。 拾った頃の、1歳児のあいつじゃない。 立派に育ってそろそろ身長でも俺を抜いちまいそうなあいつである。 そいつが、いつものどこか間の抜けた愛想笑いを浮かべた顔ではなく、いくらか威圧感すら与えるような真顔で立っていたので、俺は少しばかり驚きながら、しかしながらあいつ相手に怯んだりするはずもなく、いつものように近づいたのだが、するとあいつは途端に、花が咲き零れるような笑みを見せ、 「おにーさん、拾ってください」 と言う。 「…いくらだ?」 「一晩10万です」 「高すぎる!」 「でも僕、テクニックと持久力には自信があるんです」 と一樹がとんでもないことを、とんでもなくエロい顔で言うので仰天したところで目が覚めた。 フロイト先生も爆笑? ユング先生だって見捨てるだろ。 自分でも訳が分からん。 しかし夢とはそういうもんだ。 …そうだろ? しかしながら全くのノーダメージという訳にも行かず、俺は夢と現実は違うということを思い知るべく、わざわざ丘を登って桜の木の下に立った。 一樹を拾ったのはここ。 俺が一人っ子から二人兄弟になったのもここ。 あいつを連れて上ってきちゃ、いつまで経っても桜を覚えられない愚か者に、梅でも桃でもなく桜だと教えてやったのもここだったな。 今思えば、あいつは桜が嫌いだったのかもな。 自分が捨てられた木のことなんて、覚えたくなかったのかも知れん。 それ以外のことでは異常なまでに記憶力がよかったのに、どうして梅と桃と桜の区別もつかなかったのか、そうでもなければ理解も出来ん。 ぼんやりと桜を見上げていると、そのうち一樹がやってきて、 「いつまでも見ていて、飽きませんか」 と聞いてきた。 「…見てたっていうか、ちょっとばかり物思いに耽ってただけだ」 「……」 何だその顔。 俺が物思いに耽ってちゃおかしいか。 「いえ……」 「俺にも色々と考えることがあるんだよ。……たとえば、親元を離れて寮生活を送る弟を心配したりとか。…そうだな、お前はこれからもっと賢くなって、こういうのは古いが、末は博士か大臣かってのを地でいけそうなのがお前だろ? えらくなって、有名になって、インタビューでも受けるようなことになったら、『ここまでこれたのも全て兄のおかえです』くらいのことは言ってくれよ」 「…冗談はともかく……」 冗談? 「将来、あなたはどうするんです?」 「…俺?」 …そーだな。 「…適当に大学に行って、適当なところに就職して、適当に見合いでもして、適当に嫁さんをもらって、子供の一人や二人育てて、…そんな風に面白味もない人生を送るんじゃないか?」 「ふぅん、いい加減なんですね」 そういい加減……って、おい!? なんだ今のは幻聴か? 一樹がそんな俺に反抗するようなことを言うとは……。 驚いて見つめた一樹の目の中に幻を見た。 桜の木の下に立つ、小さな一樹ともう小さくない一樹。 「この、桜の木の下でしたね。ここに、僕は立っていた」 …え。 「あなたが、向こうからやってきて、僕を見つけてくれました」 う。 「あなたが」 うそを。 「拾ってくれた」 つくな。 一樹。 「本当はずっと、覚えていたんです。ただ、忘れていた方がいいのかと思って黙っていただけで。……僕は、誰かに置き去りにされて、長い間ぼんやり立っているしかありませんでした。その内お腹も空いてきたし、心細くて……泣きたくなったくらいです」 そうしたら、と一樹は桜ではなく俺を見つめて、 「あなたが手を引いて、僕を家に連れて行ってくれましたね」 ……なんて奴だ。 あの当時1歳児だったはずだってのに、なんと驚異的な記憶力。 …覚えてたってのに、今まで知らん顔して過ごしてたってのか? 俺もお袋も親父も、これだけは報せてやりたくないと苦労して守ってきた秘密を、14年間もしらばっくれてたなんて、こっちがよっぽどアホみたいじゃないか! 「…っで、お前は何が言いたいんだ!」 むかむかしながら言った俺に、一樹は小さく言った。 「僕は、あなたが好きです」 「そりゃありがとうよ! 嫌いじゃ家族なんかやってられんからな」 「違うんです」 と一樹は珍しく真顔で俺を見つめて言った。 そんな顔をしていると、存外怖いというか、迫力のある顔なんだな。 知らなかった。 「僕が言ってるのはつまり、……あなたに、絵に描いたような家族計画を達成されては困るという…そういう意味での、好き、なんです」 「……あ…?」 「あなたが、誰かと結婚して子供をもうけて…そんな風に暮らすことを想像したくもないくらい、……好きなんです」 そう繰り返した一樹は、とても我慢強いのだろう。 だがしかし、俺の方はこの空気に耐えられなかった。 だって、そうだろう? ずっと可愛い弟だと思って好き勝手にしてきた相手から、いきなりこんなことを言われてみろ。 誰が本気に取れるんだ? ゆえに、 「……っ、は、」 「……あの…?」 「はははははははは…」 笑い飛ばした。 それこそ抱腹絶倒を絵に描いたように笑ってやった。 ここは野外で、つまりは誰かにみられるかも知れんが、そんなもん、知ったこっちゃない。 猫を被るのも忘れて笑い転げる俺に、 「…そんなにおかしいですか」 と一樹が聞いたこともないような不機嫌な声で言ったので、俺は慌てて笑いを引っ込めた。 「…すまん、つい……」 その、ああ、なんていえばいいんだ? 「…けど、な、誰がなんと言おうとお前はうちの子供だからな。それはこれまでもそうだし、これからだってそうだ。お前は俺の…自慢の弟だよ」 そう、普段なら外面を作る時にしか使わないような笑顔を向けてやったのに、一樹はちらとも笑ってくれなかった。 あれ…? 「一樹……?」 「……分かりました」 あ。 「もう結構です」 一樹が怒っている。 「先ほど僕が申し上げたことは取り消させていただきます」 そう言って、一樹はそのまま遠くへ行ってしまった。 滅多に激怒する奴ではなかったが、一度怒ると静かに冷たく根に持つタイプだったらしい。 それきり、一樹はものも言わず、さっさと学校の寮に入ってしまい、俺の胸にずきずきとした痛みを残したまま、夏休みも冬休みも春休みも、忙しさを理由に帰ってきてはくれなかった。 両親と妹は何度か会いに行ったが、俺はとてもじゃないがそこまで厚顔無恥にはなれなかった。 苦い春から三度目の春がきても、一樹は戻ってこなかった。 勝手に奨学金での留学を決めて、あっさり審査にパスしてそのまま海の向こうの合衆国に行っちまったとさ。 その頃には俺の方もなにやら考えるだけ無駄なように思えてきて、ヤケッパチになってたわけじゃあないのだが、あいつのことで思い悩むのがあほらしくなってきていた。 そうかいそうかい、どこへなりとも行っちまえ! 三年が過ぎ、また四年が過ぎ、気がつけば俺はやはり面白味もない普通の人生の中で、少しばかり予想外な事態に陥っていた。 何の因果か、取引先のお嬢様との結婚が決まったのだ。 …ま、お嬢様って言っても、ハルヒなんだがな。 お互い、恋愛対象として相手をみたことはなかったのだが、ハルヒの暴走っぷりに業を煮やしたご両親が、俺のところにやってきて深々と頭を下げていったのだ。 曰く、あの子の首につけた手綱をちゃんと操れるのは君だけだ、とな。 そんな訳で頼み込まれたのに加え、互いに、こいつとなら結婚してもそれなりにやってけるんじゃないかと思ったので、こうして結婚式を数日後に控えているわけだ。 素晴らしきかな愛のない結婚。 愛はないが忍耐だけは準備が出来ている。 おそらくうまくやれることだろう。 ぼんやりと俺はあの桜の木の下に立っていた。 毎年こうして桜の季節には立ち尽くしていた。 別に、何かを待っていたとかそういうわけじゃない。 ただそれが習慣化していただけだ。 その度に思い出したのは、あいつを拾った時のこと。 それから、あいつを拾ってからの騒動やら、あいつと遊んだ日々のことやら、他にもあれこれ数限りなく。 その桜が満開の頃に、俺とハルヒの結婚式は行われることになっていた。 こればかりは流石にうちの両親もあいつの帰国を促し、あいつも断りきれなかったらしい。 それでも、あいつが帰ってきたのは俺たちの式の当日のことだった。 早々にモーニングなんて着せられてうんざりしている俺のところに顔を出した一樹は、生意気なことに俺よりも背が高くなっていた。 顔もいつの間にか老けちまって、おいおい、まるでお前の方が年上じゃないか。 ぽかんとした顔で見上げる俺に向かって、一樹はにこっと笑って、 「ご結婚おめでとうございます」 と言った。 「…ああ、ありがとよ」 本当にありがたいのかね、と思いながらも一応そう返した俺に、一樹はにやにやと意地の悪い笑みを向けてくる。 「なんだよ」 「いえ、よくお似合いだと思いまして。なんと言いますか……」 嫌な予感がする、と眉を寄せた俺は正しかった。 「…七五三みたいで」 なんだと? 「お前、昔は天使のように可愛かったのに、いつの間にそんな目上の人間に対する話し方も忘れたような人間になった」 「僕だって、尊敬に値する人間にならちゃんと敬意を払いますよ。それに、二十歳過ぎた男がいつまでも天使みたいだったらそれこそ馬鹿でしょう」 コノヤロウ。 ああ本当に可愛くない。 昔はあんなに可愛かったのによ。 それこそ、思わず拾って帰ったくらい。 だが、少しばかり安心もしたんだ。 これで、元のように「家族」に戻れるってな。 それだけが心残りだったんだが、これで安心して婿に行けるってなもんだ。 そうため息を吐きながら、花嫁の仕度が整うのを待ちつつ窓辺に立った俺はぎょっとした。 本来ならそろそろ会場に入っているはずの一樹が、桜の木の下に立っているのが見えたのだ。 「な…んであいつ、あんなところで……」 思わず窓にへばりつくようにして見つめる。 あいつも、こちらを見つめていて。 その目がまるで、捨てられた子犬みたいで……。 諦めたんじゃなかったのか。 普通の家族に戻ってくれるつもりで、あんな風に軽口を叩いていったんじゃなかったのか。 もう七年も経ったってのにお前はまだ、俺のこと、を……? 「……嘘だろ」 呟きながらも目が離せない。 気のせいか、一樹の姿が増えて見える。 小さい一樹と中くらいの一樹と大きい一樹。 それがまた、揃いも揃って拾って欲しそうな目でこっちを見てるんだ。 どうしたものかと唸りながらガラスに張り付いていると、ぱしりと何かを投げつけられた。 「っなん……ハルヒ…!?」 驚いたことに、そこにはハルヒが立っていた。 何をどう嗅ぎつけてきたのか、ドレスの裾を振り乱してきたのだろう。 ウェディングベールもぐしゃぐしゃになってるばかりか、俺に投げつけてきたのはブーケだったらしい。 「何ぐずぐずしてんのよ」 とハルヒは俺を睨みつけた。 「行きたいんじゃないの!?」 「行くって……」 それはつまり、一樹のところにってことか。 「あんたを待ってるんでしょ。…知ってたんだから」 とハルヒはベールをむしり取る。 むしり取りながら、つかつかと俺の方に近づいてくる。 「ハルヒ…?」 「あんたがずっと一樹くんのことを気にしてたのも、一樹くんがあんたのことを見てたのも、知ってたの」 怒鳴るように言って、ハルヒは俺の頭にベールを被せ、拾い上げたブーケをも持たせた。 ベール越しに、ハルヒの怒ってるのか泣いてるのか分からんような顔が見える。 「気になってるんでしょ? 行けばいいじゃない。あたしなら、…平気だから!」 「ハルヒ、お前…」 「ほらこれも!」 と婚約指輪まで手の平に叩きつけられる。 「ドレスも脱いで欲しいわけ!?」 と怒鳴られて、 「んなわけないだろ!」 俺は慌てて控え室を飛び出す破目になった。 それでも、ドアから出て行く寸前に足を止め、ただし振り返りはせずに言った。 「…ハルヒ、ありがとな。お前は俺には勿体無い、イイ女だ」 「…当然よ!」 ハルヒはおそらく笑ってくれたんだろう。 しかしそれを確かめることもせず、俺はベールを引っ被ったまま、ブーケ片手に駆け出す。 そうして、呆気にとられる招待客の間を抜けて、表の桜の木の下に一目散に駆けて行く。 一樹には、俺のその間抜けな姿がしっかり見えたはずだ。 だが一樹は逃げ出さなかった。 大人しく、桜の木の下で待っていた、いや、落ちていた。 だから俺は、 「…拾ってやろうか」 とまだ荒い呼吸のまま、それを整えようともせずに聞いてやった。 その時一樹が浮かべた笑みと言ったら、もう二度と見られんのじゃないのかというくらい綺麗で、可愛くて、ああやっぱり、こいつは天使なんだと思ったほどだった。 「…はい、拾ってください」 そう言って一樹は自分から踏み出してきた。 その手が俺の被っていたベールをめくり上げる。 顔をそろりと近づけて、唇にキスを落とされた。 誓うように? …いや、どっちかっていうと奪うように、だろ。 そうして俺たちは、手に手を取り合って逃げ出したのだ。 「連帯責任だからな」 「はい」 「沢山の人に迷惑かけることになるんだから、謝りに行かなきゃいけないんだぞ」 「はい」 「その時はお前も一緒だからな」 「ええ、勿論です」 そんなことを言い合いながら、俺たちは桜吹雪の中を堂々と退場した。 |