涼宮さんが他の女性団員を連れて出ていってしまって、それでも僕たちには待機命令が下っていたため、僕らは大人しく部室で待っていた。 季節はそろそろ冬で、人恋しさにか身を寄せ合って帰る男女の姿を見ることも多くなっているような気がした。 そんなことを思ってか、つい、鼻歌なんて歌っていた。 『恋とはどんなものかしら』なんて、思春期の少年特有のリリシズムと下心に溢れる曲は、鼻歌にしても余りに酷い選曲だけど。 そんな歌を口ずさんでいたら、彼の興味を引いたらしい。 「なんの歌だ? 聞き覚えはあるが…」 「有名な曲ですからね。モーツァルトが作曲したオペラ、『フィガロの結婚』の中でも有名な詠唱、『恋とはどんなものかしら』ですよ」 「ふぅん……」 「お小姓のケルビーノという少年が自作の詩を歌にして歌っているという設定なのですが、彼は女性なら誰でもいいから恋人がほしくて仕方がないという、少しばかり困った精神状態なのですよ。しかしながら、詩は悪くありませんね」 それに、と僕は苦笑混じりに言い添えた。 「僕も、彼と似たような心持ちなんです」 「は?」 「ああいえ、誤解しないでくださいよ? 僕は女性なら誰でもいいと言うわけではありません。ただ、恋とは一体どのようなものなのかと問う、彼のその問いかけの内容に酷く共感してしまうということです」 「そうなのか?」 「ええ。……こういう内容なんです」 僕はそっと目を閉じ、薄く口を開いた。 「恋とは一体どのようなものなのでしょうか。知っているならば教えてください。あなたに僕の感じるままを言いますから。僕にはなんだか分からないのです。何か初めて経験するもので、ある時は嬉しく、ある時は苦しくて堪らない。体は凍えているのに心は何かある度に燃え立ち、そのくせ、すぐにまた冷え切ってしまうのです。そうして、遥か彼方にあるとさえ思えない幸福に憧れてしまいます。その幸福を持つ人を、僕は知りません。幸福がなんであるのかということも。僕は知らずにため息を吐き、嘆き悲しみます。僕はわけも分からずに震え、恐れ戦くのです。昼でも夜でも心の休まる時などありません。それでも僕はこの苦しみを楽しむのです」 少しばかり言葉を歪めてしまったように感じながら、嘘は言ってないと居直った僕に、彼はどこか不機嫌に呟いた。 「……奇遇だな、俺も近頃恋なるものについて知りたいと常々考えていたところだ。どうも胸の内を苦しめ熱くし脈を速めることで間接的に寿命削減に一役買う恐ろしい病の一種を、それでも楽しいらしいその感情をお前が一体誰に向けているのか非常に興味深い」 どこか傍白めいて分かり辛く、本当に僕に向けての呟きなのか分からないような気持ちになりながら、僕は言葉を返す。 「あなたも……ですか? 失礼ですが、少々意外ですね。そのようなことについて、あなたは一切の関心をはらわず、むしろ徹底して無視なさるおつもりだとばかり思っておりましたが……しかしそれはきっと、喜ばしい現象なのでしょうね」 「無視ねえ……。実はな、近頃俺の内々がまるで熱湯に生きたまま沈められる魚介類の如き灼熱に苦しめられることしばしばでな、どうにもそれは世間一般で言うところの恋なるものによるのでは、という仮説を立てたんだが、問題はその対象なんだ」 問題のある対象とは一体なんだろうかと訝りつつ、 「……僕風情がお聞きしても構わないのでしたら、という前置きがつきますが、お聞かせ願えますか。よろしければ、その問題となる対象とやら、を。ああ勿論、他の誰にも話すつもりは一切ありません。僕自身の純粋な興味ですよ。機関にも報告などはいたしませんから」 そう、どこか牽制するように言ってしまったのは、どうしてだろう。 彼に恋愛感情を向ける対象が出来たことを素直に喜べない自分を自覚しながら、聞きたいとも思っていたのかもしれない。 「恋についての勉強ってやつか? しかし残念ながらその問いには答えかねるな。俺にとってはそうでもないのだが、あちらはどうも自分のことを卑下して止まない根暗なたちで、つまり俺が良からぬ感情を抱いているなんて知られたらまたどんな反応をされるか分かったもんじゃない」 その言葉に僕は軽く眉を寄せた。 僕に明かすだけで相手に話が通じると思うと言うことは、僕が軽々しく吹聴すると思ってのことだろうかと、胸の痛みを覚えたからだ。 それで仕方がないと分かっているくせに。 「明かさない、とお約束したつもりだったのですが…。僕はそんなに信用がおけないでしょうか。しかし……そうですね、あなたがそれほどまでに想うような方がいるなら、僕は……いえ、なんでもありません。何か考え違いをしていたようです」 「そういう問題とはまた少々異なるが……まあなんだ、別にお前を信用してないわけじゃないからそう暗い顔すんなよ。恋だ何だと研究する前にそうやってすぐ自分のことを卑下するような根暗さをどうにかしたらどうだ? お前に恋する誰かさんだって想いの暴露を躊躇わざるを得ない」 「……すいません、どうしてでしょうね。これもまた、このわけの分からない感情に支配されて以来のことのように思えます。元から僕はポジティブとは言いかねる性質を持ち合わせていたとは思いますけれど、こんなにも臆病になったのは、本当に……」 「…………本当に、な。全く常ににこにこにやにやしている癖して、プラス思考なんて言葉から実に縁遠い面倒くさい性格しやがって。自分の内面ばかり気にしてないで、少しは外側にも目を向けてみたらどうだ。お前の青い鳥候補がぴいちくぱあちくうるさくって敵わん」 「僕の……青い鳥候補、ですか? すみませんが、その比喩の意味するところが少しばかり分かりかねます。青い鳥の意味するところは分からないでもないのですが、具体的にそれが一体なんなのか…」 戸惑いをそのまま口にしておいて、ひとつの可能性に気付いて僕は顔をしかめた。 「まさかと思いますが、あなた、恋の橋渡し役なんて頼まれたんじゃ……」 「そう言うってことは、お前橋の向こう側に心当たりでもあるのか? しかしそもそもその鳥が青かったとして、お前を幸せにできるかどうか分かったもんじゃないとこれまた囀りどころじゃなくがなりたててきてな、俺の頭の中の蝸牛がそろそろスケジュール帳を開いて有休の検討を始めるレベルだ」 「…っ、要りません」 思わず荒げかけた言葉を必死になって押さえ込む。 「あなたからの紹介だなんて、そんな、冗談でも嫌です。それに、そう、僕はきっとそんな人を好きになんてなれません。ですから、もしそうだとしたなら、丁重にお断りさせてください。そうすれば、あなたの耳を煩わすこともないでしょう…?」 「ほう、そいつは残念だな。ああ残念だ。残念で仕方ない。このままじゃ青い鳥が蝸牛と一緒に心中しそうな勢いだぞ。何が『あなたの耳を煩わすこともない』、だ。そんなに俺の聴神経を鳥葬してしまいたいってか。恋の対象が云々なんて言ってる場合じゃないな、全く」 今度こそ、意味が理解出来なかった。 あるいは、理解することを拒んだ。 だってそんなこと、あるはずがない。 僕は戸惑いも露わに、 「え? あの、すみません、仰っている意味がいつにもまして難解で、理解が追いつかないようです。もういっそのころ、はっきり言ってはいただけませんか…?」 縋りつくように口にした僕に、彼は眉根を寄せて言う。 「知らん、勝手に考えろ。冗句解読はお前の専門分野だろ。それとも何か、さっきからのこの下らない言葉遊びを今から打ち出させて、この哀れでいたいけな鳥未満を辱めたいとでも?」 「辱めるだなんて、そんなつもりでは……。ただ、その、…分かってください。僕のこの思いが、本当に恋と呼ばれるものだとしたら、どうしたって臆病にもなるんですよ。殊に……相手が、あなたなら」 そう、言外に僕の思いの対象が目の前にいるこの人物であることを示すだけでも、心臓が止まってしまいそうだというのに。 彼は一瞬目を細め、そうして呆れたように意地悪げに目元を綻ばせた。 「まあ恋は人を臆病にさせる、とはよく聞く文句だ。お前が石橋殴打するのも仕方ないことなんだろう。さてお前は一羽の小汚い鳥を掴まされたわけだが、そいつはお前を幸せにできるような青色をしているか? 生憎鏡なしに自分の体を眺めるなんて芸当、俺は持ち合わせちゃいないんだ」 「あ…の、それって……もしかして………。…でも、え、そんな……まさか……あなた……が、僕………を……?」 あり得ないと思った。 否定されるつもりで口にした。 それなのに、彼はあっさりと、 「何だ、気付かないものなんだな。分かったらさっさと捕まえろ。鳥籠に閉じ込めるも良し丸焼きにして食っちまうもよし。まあ後者の場合味は保証しないが、吐き出したくなって返品したくなるってほどじゃないと思うぞ」 僕に向かってそう言いながら、微笑んでさえいるのだ。 「ほっ……ん、とうに……!? ここで嘘だなんて言われたら、立ち直れないところなんですけど…。その、もう、お分かりだとは思いますけど、その……僕が、恋らしきおかしな感情に苦しめられる対象は、あなたなので…」 彼は照れ隠しにしてはあまりにも挑発的な笑みを僕に向けた。 「分かってるならさっさと抱き締めろと言ってるんだ。それとも恋の病で弱り切った鳥一匹まともに捕まえられないってか」 「……っ」 僕はもう、なんとも堪らない気持ちになって、誘われるまま彼を抱き締めて、彼をこの腕の中に捕らえた。 そうしておいて、僕はまだ自分の中で渦巻く感情が本当に恋なのか、それとも別の何かなのか掴みかねていることに気付いて、今更気弱な問いを口にする。 「……ねえ、答えてください。これは、…恋、ですよね……? 勘違いや思い上がりや、ましてや誰かの気紛れでもなく、間違いなく、恋…なんでしょう……?」 自然と小さくなった声を全て彼は拾い上げ、低い声色で答えてくれる。 「そうだな、これが恋ってやつなんだろうな。何処かの誰か相手に無性に胸を苦しめられて、そんな夜を過ごし続けた睡眠不足の頭に当の本人から恋の是非について問われうっかりこっぱずかしい言葉遊びなんかを口にしちまう、これが恋なんだろう」 「言葉遊びはもう飽きましたか? それなら…ねえ、ちゃんと言ってくださいよ。僕も言いますから。……あなたが好きです。あなたに恋焦がれて、毎日苦しくてたまらないほどに。そして、今は幸せでたまらないほどに」 そう、彼の耳に唇を寄せて囁くと、彼が小さく身動ぎした。 「っ、ん、……耳元で囁くな! ああくそ忌々しい、言ってやるさ。好きだ、……お前の、ことが、好きだ。っ、だから、閉じ込めろ。籠から出すな。お前なんか、頭から俺を食らって、それからもっと幸せになっちまえ……!」 「嬉しいです。とても。…あなたのその言葉だけで、僕の胸がどんなに熱くなるか、軽くなるか、分かりますか? 空も飛べそうな心地とはこういうものを言うのでしょうね。これ以上幸せになっては、死んでしまいそうなくらいですよ。でも……もっと、いいんですね…?」 「知らんな。お前の胸の内なんて今日初めてその一端に触れた程度だ。お前が現実空間で空を飛ぶ姿も見たいもんだが、生憎鳥ときたら空も羽も要らないから、もっとお前を、幸せにしたいとよ。……被捕食願望とは、全く我ながら救えないな」 「…もう、どうしたらいいのか分かりませんよ。どうするのがいいのかも。そんなことを言われて大人しくしていられるほど、僕は冷静じゃないんです。冷静なふりをしているだけで、余裕なんて欠片もないのに、そんなことを言われたら、堪りかねて、あなたを酷く苦しめるような真似をしてしまうかもしれません」 「苦しめる? 今まで散々人の睡眠時間を奪っておいてよくも今更そんなことが言えるな。大人しさも余裕も冷静さも全部捨てちまえ。代わりに風切羽程度ならくれてやらんでもないから」 「あなたが僕の翼になってくださる、と? …どこまでだって飛べそうですね。なんて心強いのか。……愛してます。たとえ墜落するとしても、その時まで、側にいてください…」 誓うように彼の唇に触れるだけのキスをする。 「っ、く、すぐったい、ぞ。……ったく、ふざけるなよ。一緒に空を飛ぼうが墜落しようが結果骸になって虫に食われようが、側から離れるつもりなんざ、毛頭ない」 恥かしがってか、そんなことを口にしながら、それでも彼ははっきりと僕にキスをくれた。 「ん…嬉しい、です。……って、さっきから僕、そんなことばっかり言ってますね」 と僕は笑って、 「でも、本当にそればかりなんです。あなたと触れ合えるだけで、言葉を交わせるだけで嬉しくて、しかも、あなたと思いが通じ合っているなんて、幸せ以外の何物でもなくて」 「……また随分と大袈裟だな。お前ばっかりが嬉しいとでも思ってるのか。最早お前の存在が俺の寿命を縮めやがる、そしてそんなことに喜んでる自分が忌々しいぜ、全く」 「大袈裟でしょうか? 本当にそう思っているんですよ。僕は最前申し上げた通り、恋愛に関してはド素人ですからね。正直に自分の感じていることを申し上げる他ないんです。それとも…他に何かいい方法でもあるのでしょうか」 「恋とは何たるかが分かっていないのは俺だって同じだぞ。つまりそう良い方法なんざ思いつけるはずもない。お前のように口が達者でもないしな。……ああそうだ、女子連中からの帰宅許可メール、且つ悉く流感なためもぬけの殻なコンピ研。さてこういう状況にいる今を、どう思う?」 「あなたのその分かり辛くてとても遠回しな話し方も愛しくてなりませんけれど、もう少し直截に誘っていただけたなら、僕はもう少し簡単に動けるんですけどね? ああでも、それを望むのは高望みと言うものでしょうか?」 「望まれるような大した価値はないと思うが……まあいいさ、これが恋ってものなんだろう……」 そううっそりと囁いて、彼はもうひとつキスをしてくれた。 そして、 「…………しようぜ、古泉」 「…嬉しいですよ」 彼の唇に二度三度と口付けながら、 「でも、いいんですか? こんな場所で……」 「俺は構わん、が、まあお前が情緒ないとか何とかほざくんだったら……」 ぺろりと舌なめずりをしてみせた彼は嫣然と微笑んで、 「……そうだな、お前の家にでも連れてってくれ、……なんて誘いの文句としてはベタが過ぎるか?」 「ふふ、分かりやすくて嬉しいですね。途中で買い物もしませんか。篭城の構えでもなんでも」 僕はそっと彼の手を取り、その手の甲に口づける。 「いかがです?」 「いいだろう」 頷いてくれた彼がその手を預けてくれることがとても幸せに思えた。 |