私としたことが、本当にうっかりしていたとしか思えない。 まさか、蒲田行進曲よろしく、回転しながらの階段落ちを経験するなんて――。 「ただ単に、2、3段踏み外してすっ転んだだけだろうが」 「やあキョンくん、私じゃ出来ないような適切な状況説明ありがとう」 「何がだ。…ほら、ふざけてないで立てよ」 いや、それがだね。 「何だよ?」 「…足が」 「足が?」 「……じんじん痛んで立てないんだよねー……」 「……は?」 ぽかんとしたキョンくんを押し退けて、いっちゃんが心配そうな顔で私を覗き込んできた。 「だ、大丈夫ですか!?」 「うん、まあ、大したことはないと思うんだ。でも多分、これは捻挫してるね」 あーあ、せっかく三人仲良く帰れるところだったのに、ついてないな。 「立てないんですよね?」 「うん、ちょっと今は無理っぽい。動かそうとするだけで痛むし、多分、ちょっと無理すると悪化させそう」 「……じゃあ、僕がおんぶします」 ……へ? 突然の、しかも思いもよらないいっちゃんの申し出に、私だけじゃなくてキョンくんまで目を丸くした。 「古泉、お前、何言って……」 「歩けないほど酷いのでしたら、すぐにでも病院に連れていった方がいいでしょう。かといって、捻挫程度で救急車を呼ぶような騒ぎを好まないのはあなたもお姉さんも同じですからね。それなら、僕が背負った方がいいでしょう」 「別に、お前が背負う必要はないだろ。俺がする」 「いえ、僕がします。その方が多分いいでしょうから」 そう言っていっちゃんは困ったようにキョンくんを見た。 「いいってのは何だよ?」 とキョンくんは首を傾げてるけど、あー…なんか分かっちゃった。 「キョンくんキョンくん」 「なんだ? 痛むのか?」 いや、痛むのは今だってズキンズキン痛んでるけどさ、そうじゃなくて、 「考えてご覧? 私とキョンくんの身長差」 「……ほとんどない、な」 「だろう? で、おんぶってのは身長差があった方がやりやすいと思わない?」 「………」 キョンくんは無言のままいっちゃんと自分の背の高さを見比べたけど、正直、明らかだよね。 「でも、いっちゃん、本当にいいの? 私だったら別に、二人に肩でも貸してもらえたら十分だと思うんだけど……」 「大丈夫ですよ。それなりに鍛えてますから、気にしないでください」 そう請負ってくれるのを断るのも忍びない。 だから私は、 「じゃあ、お願いします」 と頼んだ。 「はい」 いっちゃんは心なしか嬉しそうだ。 頼られるのが嬉しいのかな。 …でも、そんな顔が可愛すぎるよ、いっちゃん。 私は苦笑しながら、キョンくんの手を借りてなんとか立ち上がると、しゃがんでくれたいっちゃんの背中に、 「お世話になります」 と言いながら乗っかった。 いっちゃんの背中は案外広いので、安定感がある。 ついでに言うと、鍛えているというのも嘘じゃなかったらしい。 いっちゃんはよろけもせずにすっと立ち上がった。 「大丈夫ですか?」 「私は大丈夫。いっちゃんこそ、重くない?」 「お姉さんが軽いので大丈夫です」 「いっちゃんったら」 こんな時までお世辞はいいんだよ? 「お世辞じゃありませんよ」 「どうでもいいからさっさと歩け」 私が負ぶわれてなかったら、後ろからいっちゃんに蹴りでも入れそうな声でキョンくんが唸った。 「そうでした」 文句を言い返したっていいはずなのに、いっちゃんは素直に頷いて歩き出す。 階段も危なげなく下りるから、背負われている私としても恐怖感がなくっていい。 「保健室はもう閉まってますよね…」 独り言のように呟くいっちゃんに、 「多分そうじゃないのかな。もう放課後だし…」 「では、直接病院に行くべきですね。タクシーを呼んでも構いませんか?」 「…そうだね。非常事態だし」 「では、そうしましょう」 「ただし、」 と私は釘を刺すことを忘れない。 「タクシーの運賃を勝手に払ったりしないでよ? いいね?」 「分かりました」 しょうがないなとばかりに笑って頷いたいっちゃんに、キョンくんが言う。 「古泉、交替しなくて大丈夫か?」 「全然平気ですよ」 「ならいいが……無理はするなよ」 ってキョンくん、私よりいっちゃんの心配かい。 そんなに私は重そうに見えるのかな。 「お前は自分の身長と、俺との体格差を冷静に思い出せ」 「えー。私なんて大事なところに肉が付いてない分、軽い方だよ」 「いいからお前は黙って大人しくしてろ」 そう言ったキョンくんが、なんとも言いがたい目でいっちゃんを見た。 何、その憐れみの視線。 「えぇと……」 いっちゃんも、困ってるし。 「キョンくん、言いたいことがあるなら言っちゃいなよ」 「じゃあ言うが、」 とキョンくんは、いっちゃんに向かって、 「お前、本当に物好きだな」 と言い切った。 酷い。 「物好きだなんて、そんなことは……」 いっちゃんに負ぶわれている以上、いっちゃんの表情は見えなかったけど、見えなくても十分、困ってるんだろうなって分かる声だ。 「まあ、蓼食う虫もなんとやらと言うからな」 「キョンくん」 私はいっちゃんの背中からキョンくんに声を掛ける。 「なんだ?」 「……そんなにお姉ちゃんのことが嫌い?」 うるっ、と目を潤ませるのが簡単だったのは、捻った足首が結構ずくずくと痛み始めてたからだ。 だからか、いつもと違って嘘泣きだとは思われなかったらしい。 ぎょっとした顔をしたキョンくんが、 「なっ、それくらいで泣くなよ!」 「だ、ぁ、って、キョンくんがぁ……」 らしくもなくめそめそと情けない声を上げてみる。 「な、泣かないでください」 といっちゃんまで慌て始めたから、 「分かった、やめとくね」 ぴたりと泣き止んで見せると、いっちゃんは驚いたのか足を止め、キョンくんは一瞬呆然とした後、ふつふつと湧き上がる怒りに、私を睨み据えた。 いやん、キョンくん怖い。 「お前はまた…!」 「というか、お姉ちゃんは、何度も何度も引っかかるキョンくんが可愛いと共に若干心配になってくるよ。大丈夫? うかつに借金の連帯保証人になったりしちゃだめだよ?」 「お前が言うな、お前が!!」 「私? 心配しなくっても、お姉ちゃんは借金ってのが生理的に嫌いだからね。キョンくんを巻き込むような真似は決してしないよ」 「そういう話じゃないだろ」 うだうだと身のない話を続ける私たちに、いっちゃんは面白がるように小さく苦笑して、 「大丈夫なら何よりでした」 「あはは、心配掛けて悪かったね、いっちゃん」 キョンくんを驚かせたかっただけなんだけど。 「いえ」 と微笑んだのだろういっちゃんは、 「姉弟仲が本当によろしくて、羨ましいくらいです。……僕は、そういうこととは無縁だったものですから」 なんて悲しいことを言うので、キョンくんはぎゅっと眉を寄せた。 本当にお人好しだね、キョンくん。 こういう時、どうしたらいいのか、お姉ちゃんが見本を示してあげようじゃないか。 私は満面の笑みと共に口を開き、 「ばっかだなぁ、いっちゃんは!」 と言った。 キョンくんがぎょっとした顔をするけど構わない。 「羨ましいなら仲間に入ればいいんだよ?」 「仲間に……ですか?」 きょとんとした声を返すいっちゃんの頭を撫でながら、 「うん。……私と、結婚を前提にお付き合いしてるって、言ったのはいっちゃんが先だろ? つまり、将来いっちゃんはキョンくんのお兄ちゃんになるってことじゃないか。家族になるんだよ? それなら、義兄弟仲良くして当然じゃない」 「……そうですね」 ふわりと、嬉しそうな声に胸が温かくなる。 「残念」 「え?」 「いっちゃんの幸せそうな顔を見るのが好きなのに、この状態じゃ見えないよ」 「…え、ええと……」 照れたらしく、耳まで真っ赤になるいっちゃんに、何かとどめの一撃はないものかと思っていると、キョンくんが苛立ちも露に、 「いつまでも止まってないで、とっとと歩け、このバカップル!」 と唸った。 そうして、どうにかこうにか下まで下りたいっちゃんは、私を近くのベンチに座らせてくれると、 「今、タクシーを呼びますね」 と手際よく携帯でタクシーを呼び出す。 呼んでくれたのがいつもの黒塗りタクシーじゃなくて、普通のタクシーなのは、私に気を遣ってくれたってことかな。 キョンくんといっちゃんの手を借りてタクシーに乗ってしまえば、後は楽チンだった。 診療時間終了間際の病院に電話を入れて駆け込んで、やっぱり捻挫と診断された後は、適当な処置を受けて、痛み止めと湿布の換えをもらって帰るだけだったからね。 「ありがと、手間掛けさせてごめんね?」 と私がいっちゃんに言ったのは、帰りのタクシーの中でのこと。 いっちゃんは優しく微笑んで、 「いえ、気にしないでください。大したことがなくて何よりでした」 と言ってくれたのはともかくとして、キョンくんがしたり顔で、 「そうだな。役得もあったはずだし」 と呟くのが分からない。 「キョンくん?」 どういう意味さ? 「どう考えても当たってただろ」 キョンくんはそう言っていっちゃんを睨みつけた。 当たってたって……まさか……、 「お、お腹の肉が!?」 「違う!」 ぱしんと間髪入れずに裏拳が飛んでくるのは、曲がりなりにも関から西の人間ってことなんだろうか。 「痛いよキョンくん…。いっちゃんも真っ赤になっちゃって可哀想だし…。無責任な発言は控えようね?」 「だからお前が言うなって」 そう言うキョンくんに私はため息を吐き、 「そもそも、私、そんなに胸ないし」 と、自分で自分の胸を寄せてみた。 …うむ、ない。 空振りしないだけマシな程度しかない。 というか、いっそのこと空振りするほどの見事な貧乳だったなら、それはそれでステータスとして誇れるのに、残念なくらい中途半端なサイズだ。 むにむにとブラジャー越しに胸を持ち上げてみていると、 「やめんか」 と頭を叩かれた。 「だって、なくない? ほらほら」 みくるちゃんまでとは行かなくても、ハルちゃんくらい胸が欲しいよ。 「いっちゃんも、おっきい方がいいよね?」 私が聞くと、いっちゃんはぱっと真っ赤になって、 「え? あ、いえ……僕は…別に…」 ……ねえキョンくん。 「なんだ」 「今のって、私がセクハラしたことになるのかな?」 「知るか」 いっちゃんは真っ赤な顔のまま、 「いえ、セクハラとまでは思いませんけど…」 と言いながらも物凄く恥ずかしそうだ。 「……ごめんね? いじめちゃって」 「いえ」 なんとなく気まずくなって私たちは黙り込んだ。 でも、だからって頭の中まで静かになるわけじゃない。 私は、ぼんやりと横目でいっちゃんを見ながら考え事に耽った。 キョンくんが交代すると言っても聞かなかったいっちゃんは、いつものヘタレ可愛い様とは違っていて、本当は結構ドキドキした。 誤魔化すために馬鹿なことを言ってみたり、大変だったくらい。 そんなかっこいいいっちゃんも、今みたいに照れて可愛いいっちゃんも好きだなぁ。 …よし、この際いっちゃんを堪能しよう。 「ねえいっちゃん」 「はい、なんでしょうか」 反射のようなにこにこ笑顔で私を見たいっちゃんに、私は恥ずかしげもなく、 「甘えついでにお願いするけど、私の部屋まで連れてってくれる?」 とねだると、 「いいですよ」 と快諾される。 キョンくんが止めに入るかと思ったんだけど、どうやら今日は疲れ果てたかどうかしたらしい。 諦めのため息と鬱陶しそうな視線だけをくれて黙っている。 ならいいよね。 タクシーから降りてすぐ、私はいっちゃんにおんぶしてもらった。 いっちゃんて、着痩せして見えるけど、案外たくましいんだよね。 そのたくましい背中に頼るようにぴったり体をくっつけて、大人しくしていると何の不安もなく運んでもらえる。 幸せ、って思うのと同じくらい、優越感も感じられる。 思わず小さく鼻を鳴らすように笑って、 「ありがとね。…大好き」 とベッドに下ろしてもらう間際に、小さな声で囁くと、どさりとベッドに落とされた。 「っ、す、すみません!」 といっちゃんは慌てたけど、 「大丈夫大丈夫、ベッドだし。ちょっとスカートがめくれたくらいだよ」 それだけのことで赤くなるいっちゃんに、キスをしたらどうなるんだろう。 ……試してみよう。 「いっちゃん」 「はい?」 「こっちこっち」 と呼び寄せて、近づいた唇に自分のそれを重ねてみたら、いっちゃんはびっくりするほど赤くなった。 可愛いなあ、もう。 「お前ら…っ、本当にいい加減にしろ!」 って、キョンくんに見られて怒られたのは失敗だったけど。 いいじゃん、キスくらい。 ちゃんとお付き合いしてるんだから。 「人目を気にしろって言ってんだろうが」 「してるよー? だからここまで我慢したんだし」 「俺がいる前でするな」 「やれやれ、キョンくんはシスコンだなぁ」 「…本気でいい加減にしろよ」 恨めしげに唸られて、私は両手を上げた。 「はーい」 「全く……」 「キョンくん」 「今度は何だ?」 「いっちゃんの分も晩御飯作ってってお母さんにお願いしといてね」 「…分かった」 遠慮しようとしたんだろういっちゃんが口を開き、何か言うより早くキョンくんは頷いてくれた。 いっちゃんは申し訳なさそうに、 「いいんですか?」 と言ったけど、 「家族になりたいのはいっちゃんだろ? だったら、これっくらい気にしちゃだめだよ」 と笑えば、嬉しそうに笑ってくれた。 うん、そうやって笑っててよ。 それで私は満足だからさ。 |