秘密の陰謀 2



手芸店に寄って、マフラーのための毛糸と編み図を買って帰った私は、以前母親から借りたままになっていた棒針で編み物を始めた。
編み物も、あの長いことこの上ない夏休みの間にチャレンジしたから、今更編み図なんて必要ないかとも思ったのだけれど、どうせなら新しい図案に挑戦することにして、むやみに凝ったマフラーを編もうと思う。
慎重に目数を数えながらじっくりと編んでいると、時の経つのも忘れそうになる。
気がつけば窓の外は真っ暗になっており、私の肩も久し振りの作業に硬直し始めていた。
その時だ。
心なしか機嫌の悪い音を響かせながら足音が近づいてきたかと思うと、ドアが乱暴に開いた。
顔を見せたのは不機嫌なことこの上ないキョンくんだった。
「お帰り。遅かったね」
「姉さん、やっぱりあんな奴と付き合うのは止めろ」
「あんな奴? それっていっちゃんのことか?」
「それ以外に誰がいるんだ?」
いると思えないから、いっちゃんかと聞き返したんだろ。
しかし、
「なんでいきなりそんなことを言い出すかな…」
一応交際を許してくれたのに。
前言を翻すなんてキョンくんらしくない。
「じゃあ聞くが、真冬の夜に人をわざわざ待ち伏せしているような輩と付き合っていたいと思うのか?」
「へぇ、そんなことしてたんだ」
いっちゃんも、キョンくんにかまってもらいたいんだろうね。
今日は特に、私と一緒に帰ることも出来なかったし。
「…全然気にしないんだな」
呆れたように言ったキョンくんに私は笑う。
なんで呆れる必要があるんだ?
「だって、いっちゃんだし?」
「そんな風に認識してるくせに付き合うのか」
「ああいや、そうじゃなくってさ。キョンくんや私とは、いっちゃんは違うだろ? 立場とか、色々あるじゃないか。だから、いっちゃんが何を言ってキョンくんをそんなに苛立たせたのかは知らないけど、それを言ったいっちゃんのポジションがどこにあったのかは分からないと思って。いっちゃん個人としての発言がキョンくんを怒らせたっていうんだったら私も多少考えないでもないけど、多分、そうじゃないんだろ?」
「……多分な。全く、あいつはなんでああも人を煙にまくような物言いばかりするんだ」
「レトリックに富んだ表現ってのは、重要なことを織り込むのも可能だからじゃない?」
「なんだそりゃ」
「いっちゃんがキョンくんに伝えておきたいことがあるとするだろ? それも、機関の人間としては伝えるとまずいようなこと、でもいっちゃん個人としては伝えておきたいようなことだとする。そうなった時、ストレートに言うといっちゃんの立場が悪くなって、余計にキョンくんが大変なことになるかもしれない。もっと大変なことがあった時に、いっちゃんにはその情報が回されなくなったりとかね。だから、すぐにそうとは分からないような形にして言ったのかもしれないなと思うんだ」
「それが俺に通じなきゃ意味がないだろ」
「すぐには分からなくても、キョンくんなら真意を分かってくれると信じてるんじゃないかな。いっちゃんって、ああ見えて一途だし」
「一途とか言うなよ、気色悪い」
辟易したとばかりに言うキョンくんに、私はにまっと笑って、
「可愛いだろ?」
「可愛くない」
このあたりが、一番上の子供と真ん中っ子の違いなのかね。
まあ、キョンくんがいっちゃんのことを可愛いと思い始めたら少しばかりでは済まないくらい困ったことになりそうなのでこれ以上主張はするまい。
その後もキョンくんは、今日のよく分からない任務と不審人物いっちゃんについての愚痴をひとしきり垂れた後、部屋を出て行った。
いっちゃんと付き合い始める前よりも、キョンくんが私の部屋に来ることが多くなったってことはつまり、キョンくんも多少は寂しいってことか。
心配しなくても、お姉ちゃんはいっちゃんよりもキョンくんを優先させるんだけど。
何にせよ、作りかけのマフラーについて咎められなくてよかった。
今のキョンくんの状態で、いっちゃんのためにマフラーを作ってるなんてことがばれた日には、せっかく買った毛糸玉を隠すくらいのことはされそうだからね。
キョンくんにはチョコレートをあげるよと言っても聞いてもらえなさそうだし。

次の日、朝のショートホームルームが始まる前にキョンくんからメールが届いた。
今日も団活に顔を出すことが出来ないらしい。
それならと私は当然のような顔をして北高に赴き、文芸部室に行った。
いつものようにドアをノックし、
「どーぞ!」
というハルちゃんの声を聞いてからドアを開けた。
「こんにちは」
挨拶しながら部室の中を見回す。
キョンくん以外はばっちり揃ってるみたいだね。
「キョンだったらさっさと帰ったわよ。シャミセン、そんなに具合悪いの?」
「うーん…というか、放っておくと妹がまたいじりまくりそうでね、目が離せないんだよ」
とキョンくんと打ち合わせ済みの嘘を口にして、私はキョンくんの席に座った。
いつもの席にいる、ということはつまり私の向かいの席にいるいっちゃんに笑みを向け、
「今日は何して過ごそうか?」
と聞くと、いっちゃんはにこにこと微笑みながら、
「そうですね…。今日はチェスでもいかがです?」
「いいよ。ただし、私は手強いからね?」
何せ、あのループする夏休みの間に、チェスの問題集もバリバリ解きまくったからね。
「お手柔らかに願います」
困ったように笑って言ったいっちゃんに、私はにんまりと笑った。
結果は、言うまでもないよね?
まあ、あれこれ指導を入れてあげつつ何回かプレイしたところで、ゆきりんが本を閉じた。
私はいっちゃんと二人、チェスを片付けながら、
「今日は、一緒に帰れるよ」
と言った。
ぴくりと指を止めたいっちゃんが私を見つめる。
その指に自分の手を重ねて、
「それとも、嫌かな」
「嫌なんて、そんなことあり得ませんよ。…嬉しいです」
はにかむように笑ったいっちゃんに、可愛いと思ったのは私だけじゃなかったらしい。
ハルちゃんがじーっと、それこそ穴が空きそうなくらいじっくりといっちゃんを見つめて、
「……なんか、お姉さんと古泉くんを見てると、古泉くんの方がよっぽど女の子みたいに見えるわね」
と評してくれたので、私は調子に乗って、
「やっぱり? じゃあ、これはもう私がいっちゃんを嫁にもらうしかないな」
「なっ、よ、嫁って何ですか」
驚き焦るいっちゃんに私は笑って、きゅっとその手を握り締めた。
そうして、笑顔のまま、じっといっちゃんを見つめて、
「いっちゃん、私が幸せにしてやる、なんて大袈裟なことは言えないけど、不自由はさせないって誓う。だから、私の嫁になって」
それに対するいっちゃんの返事はと言うと、顔を真っ赤にして、
「…っ、その笑顔は卑怯です…」
という消え入りそうな一言だった。
割とばらまきがちな私の笑顔が卑怯なら、出し惜しみするキョンくんのレアな笑顔はどんだけ破壊力があることになるんだろうか。
私は大きな声を立てて笑うハルちゃんを横目で見ながら立ち上がり、
「さて、冗談はほどほどにして帰るとしよう。ハルちゃん、今日はいいんだよね? いっちゃんと一緒に帰って」
「精々いちゃいちゃしながら帰ったら?」
ニヤニヤしながら言ったハルちゃんに私はニヤッと唇を歪め返して、
「言われなくてもいちゃいちゃしてやるよ」
と言っていっちゃんを連れ出した。
二人並んで歩きながら、あんな風にからかわれると困りますとか何とかいういっちゃんの話を心地好い音声として聞き流していたのだが、不意にいっちゃんが言った。
「彼と彼女のこととは別に、何か企んでおられるのではありませんか?」
と。
私はキョンくんがするみたいに眉を下げつつ笑った。
「それを聞くのは野暮ってもんじゃないのか? いっちゃん」
するといっちゃんは申し訳なさそうに苦笑して、
「その程度のことでしたらいいんですよ。…すみません」
「いやいや、謝るほどのことじゃないから」
しかし、いっちゃんがそんなことを言ったものだから、私も余計なことを思い出した。
余計と言うか…まあ、ハルちゃんたちとの企みを思い出すと、やっぱりあの甘い匂いがちらつくんだ。
ねちっこいくらい濃密な、チョコレートの匂いが。
「なあ、嫌だったら答えなくていいんだけどさ。……いっちゃんは、何も美味しいって思えないのか?」
「そう…ですね」
考え込むようにしながらいっちゃんは答えた。
「よっぽど味の濃いものでなければそれが甘いのか辛いのかすら把握出来ませんからね。匂いだけではやはり美味しいとは思い難くて……。そもそも、美味しいと感じた経験自体、ほとんどないようなものですから」
「そうかい。…じゃあ、やっぱり止めといた方がいいか」
「何をです?」
「いや……」
まさかチョコレートを作るなんてことは言えなくて、私は言葉を濁す。
「これでも、一応恋する乙女なんだし? お弁当とか…」
「作ってくださるんですか!?」
うぉうっ、イイ食いつきだね!?
キャラ崩壊してない?
「い、いけませんか?」
若干我に返ったのか、恥かしそうに言ったいっちゃんに、私は笑みを返し、
「いや、いけなくはないけどさ。……うん、いけなくはない。むしろ、…その、嬉しい、かな」
「お姉さん…」
呟くように言ったいっちゃんは、本当に嬉しそうだった。
うん、やっぱりチョコでも作ってみることにしよう。
「うん、決めた。何か作ってみるよ。失敗したら悪いけど」
「あなたが作ってくださるなら、きっと美味しく感じられますよ」
幸せそうに言ういっちゃんが可愛くて、思わず手を伸ばして頭を撫でていた。
いっちゃんは、嬉しいのに照れ臭いとでも言うのか、困ったように眉を下げつつ、
「どうせなら、手でも繋いでみませんか?」
と言われたから、私は、
「…そうだな」
と答えて、いっちゃんの腕に自分の腕を絡めた。
「わっ…」
歓声とも悲鳴ともつかないような小さな声をいっちゃんが上げるのを心地好く聞きながら、
「ん? 嫌だった?」
と意地悪く聞いてあげると、
「いえ…その……予想外すぎて…」
じわじわと顔を赤く染めながら、いっちゃんは苦笑を見せ、
「…嬉しくて、死にそうです」
簡単だな、いっちゃんは。
呆れて笑って、私はぐいぐいといっちゃんの腕を抱きしめた。
温かい。
「あーあ、キョンくんは今頃何やってるんだろうなー」
何せ、私にメッセージが届いたのはあの一回きり。
キョンくんへの指示の方にも、私への指示は届かない。
私に出来るのは、キョンくんの不在でハルちゃんの機嫌が悪くなったりしないよう、サポートすることだけだ。
あとは、キョンくんの愚痴を聞くとかね。
「気になりますか?」
「まあね」
つい、思い出してしまうことがあるから、余計に気になる。
――冬に、周防が言っていたこと。
キョンくんが変革を受け入れるものであり、私はそれを拒絶するものだという話。
それが、本当なら。
キョンくんは改変に寄与するものだから未来から何か指示を受け、何かを変えようとしているのなら。
私の力は改変にとって邪魔だから、引き離されてるとしたら。
「…難しい顔をしていますね」
隣りから心配そうな声が聞こえて、私は慌てて現実に立ち戻った。
「あ、ご、ごめん。別に、いっちゃんといるのがつまんないとかじゃないんだよ」
「分かってますし、ひがんだりするつもりもありませんよ。ただ…悩みがあるのであれば、分かち合えないものかと思いまして」
そう言って、いくらか寂しげに目を伏せたいっちゃんに、私は笑みを作る。
「ありがとな」
でも、私はまだみくるちゃんを信じたいんだ、とは口には出さないで置いた。
「頼りたいと思ったら、いっちゃんが困るかもしれないと思っても、頼らせてもらうよ。それじゃ…だめ、かな?」
「いえ、それで十分ですよ。でも、願わくば、あなたがあまりに辛い状況に陥る前に頼っていただきたいですね」
そういっちゃんが微笑んだ時だった。
不意に雨が降り始めた。
降り始めるまで、空が曇っていたことにすら、私は気がついていなかった。
「どこかで雨宿りでもしましょうか」
そう聞いてくるいっちゃんに、
「いいよ、ちょっとくらい濡れたって平気だって。せっかくだし、ゆっくり歩かない?」
「だめですよ。せめて、傘でも買いましょう」
そう言われて、私は大人しくいっちゃんに従った。
目に付いたコンビニの店先で一番安い透明のビニール傘を一本だけ買って、一緒に入って帰った。
傘代は無理を言って折半させてもらったが、いっちゃんは自分が傘を持つと言って聞かなかった。
おまけに、私の方に多めに傘を寄せてくれているため、いっちゃんの肩が濡れてしまっている。
「肩、濡れちゃうな」
呟くように言うと、
「大丈夫ですか?」
と更に傘を突き出してくるので、私は笑ってそれを押し返し、
「私のじゃなくて、いっちゃんのが、だよ」
「ああ、気にしないでください。それに…」
いっちゃんは少しだけ悪戯っぽいものを滲ませて笑うと、
「…風邪でも引いたら、看病くらい、してくださいますよね?」
「私はいいけど、キョンくんが怒りそうだね」
「全くです」
私たちは顔を見合わせて笑った。
結局、家まで送ってもらった私は、家に入るなりカバンを玄関先に放り出し、そのままお風呂場に突入した。
生憎お風呂はまだ沸いてなかったけど、どうどうとお湯を張りつつ、熱いシャワーを浴びると、思っていた以上に体が冷え切っていたことが身に染みて分かった。
いっちゃんも、早く帰ってあったまってるといいんだけどな。
そんなことを思ってると、脱衣所のドアが開く音がして、誰かの影がすりガラス越しに見えた。
「なんだ、姉さんが入ってたのか」
「うん。キョンくんも濡れたの?」
「ああ。…全く、最悪な気分だ」
「ご苦労さん。寒いだろ? 一緒に入る?」
「アホか」
お風呂に平気でケータイ持って来てくれたりするくせに、何言ってんだか。
まあ、キョンくんのためだ。
さっさと上がるとしよう。
「だからっ、俺がまだいるのに上がろうとするな! 見えるぞ!?」
「何がぁ?」
と笑ってやったら、頭を叩かれた。
痛いよ、キョンくん。