さて、今日もあの嫌な坂を上って北高へ行こうかな。 他の子たちはこの頃結構忙しそうにしているけど、進路相談なんて私には無用の長物だ。 こういう時、真面目にやっといてよかったと思うんだ。 足取りも軽く下駄箱へ向かうと、開いた下駄箱の中、私の靴の上に可愛らしい封筒がちょこんと乗っていた。 こういうお手紙をもらうのは初めてじゃない。 ちまちまと可愛らしい文字と、おそらくかなり可愛らしい頭で書いたのだろう分かり難い文章の手紙をもらうのは日常茶飯事と言ってもいいかも知れない。 その度に丁重にお断りするため、少しずつ減ってきていたんだけれど…と封筒を取り上げた私は、宛名の文字を見て驚いた。 そこにはまるっこくて愛らしい文字で私の名前が書かれている。 そしてこの字には見覚えがあった。 間違いなく、みくるちゃんの文字だ。 一体どういうことだろう。 あのみくるちゃんがわざわざうちの高校まで来て手紙をいれてったって言うんだろうか。 そんなまさか。 第一、みくるちゃんは授業をサボるような人じゃないだろうし、そうじゃなかったら朝はなかった手紙が放課後になっていきなり出現するはずがない。 だからこれは悪戯――と思い掛けて、ふと思い出したのは、私がまだ会ったことのない、大きいみくるちゃんのことだ。 キョンくん曰く、みくるちゃんは「未来人」であるため、今のみくるちゃんよりも未来の朝比奈さんが来ることがあるのだという。 それならこの手紙も、大きいみくるちゃんからのものなのだろうか。 封筒から手紙を取り出すと、中にはシンプルに、 「今日は北高に来ないで、急いで家に帰ってください。お願いします」 とだけ記されていた。 なんのこっちゃ、と思いながらも素直に家に帰ってしまうのは、みくるちゃんの「お願い」だから。 可愛くて気立てもいい天使のようなお嬢さんのお願いを聞かずして何をするって言うのか、文句がある人間は出てきて言ってごらん。 そう思った時、背後で声がした。 「朝比奈みくるの――異時間同位体――」 …周防、心臓に悪いからそう言うのは止めろって何度言えば分かるんだ? 「ごめん――なさい――」 いや別に謝るまでもないけど。 「で、本当にこれはみくるちゃんの異時間同位体――要するに、大きいみくるちゃんからの手紙なんだな?」 周防の返事はぎこちない頷きだった。 「そっか」 一応お礼は言っておく。 「ありがとう」 「どう――いたしまして――」 いつもそうやってたら、まだ可愛くないこともないのに。 それを言ったところでこのポンコツ宇宙人には無駄なんだろうね。 やれやれ、とキョンくんみたくため息を吐いた私が周防と別れ、さくさくと歩を進めて家に帰った時には、妹はすでに帰っていた。 小学生だから、というよりもむしろ妹が世に溢れるお受験その他の言葉と対極にいるからなんだろうな。 ある意味、キョンくんと似てる。 「お姉ちゃん、どうしたのー? 早かったね」 「うん、ちょっとね。……キョンくん、まだ帰ってないよね」 「まだだよー?」 「そっか。帰ったらみくるちゃんのことで聞きたいことがあるって伝えてくれる?」 「分かったー」 と答えつつ、なんとなく不思議そうな妹には説明せず、私は自分の部屋に入った。 荷物を片付け、タンスを開けて着替えを物色する。 何があるか分からない時は動きやすい服装をするに限る。 よっ、とブレザーを脱ぎ、スカートのホックに手を掛けたところで、部屋の外に人の気配がした。 気のせいかな。 ホラー映画を見た後なんかにあるよね。 すぐ近くに人の気配を感じるんだけど、そこに人がいるはずはなくて、なんとなく怖いっての。 そう言う感じに似てる。 いるんだけどいない、みたいな曖昧な感じだ。 なんでそれを今感じるのか分からないけど。 考えながらスカートを脱ぎ捨てたところでドアが開いた。 驚いて見るとキョンくんと、……なんとなく違和感のあるみくるちゃんがいた。 何で違和感があるんだろ。 ついでに言うと、みくるちゃんは何真っ赤になってるのかな。 私はブラウスのボタンに指をやりながら、 「キョンくん、ノックぐらいしたらどうだい」 「俺がいても気にせず着替える奴が何言ってんだ」 まあねー。 「それより、朝比奈さんのことで聞きたいことってなんだ?」 今ちょっと手が離せないから、机の上においてある封筒を見てもらえるかな。 「これか?」 うんそれ。 というかみくるちゃんは何をはわはわ言ってるんだい? 女同士なんだから恥ずかしがらなくていいんだよ? 言いながら私はズボンに足を通し、頭からTシャツを被った。 その間にキョンくんは手紙に目を通し、考え込んでいる。 みくるちゃんに何も言わないのは、みくるちゃんが大きいみくるちゃんのことをまだ知らないからなんだろうな。 私が着替えを終えたせいで落ち着きを取り戻したみくるちゃんは、今度は手紙が気になり始めたみたいだ。 私はみくるちゃんの気を逸らすため、さっきから抱いていた疑問をぶつけて見た。 「ねえ、いつものみくるちゃんじゃないよね?」 「えっ?」 大きな目を更に大きくするみくるちゃんに、私は笑いながら、 「なんとなく、違う感じがするんだ。本当にみくるちゃん?」 それとも、本当にこの時間平面上に来ているみくるちゃんなのか聞くべきかな。 「お姉さんは凄いですね」 とみくるちゃんは困ったように笑いながら言った。 「お姉さんの思ってる通り、あたしは、正確には、この時間平面上にいるべきあたしではありません。今から八日後の未来から来ました」 なるほど、それで違和感があるんだね。 すっきりしたよ。 そう言った私の頭を、キョンくんが軽く叩いた。 「お前の感覚が異常なんだろ」 それは否定しないけど……とりあえず、手紙の意味は分かったかい? 「さっぱりだ」 おいおい、頼りにならないな。 「わざわざお前を巻き込むような指示だということしか分からん」 ああ、やっぱりそう思ったんだ。 でも、そうする意味が分からないんだよね。 私で役に立つならなんだってするけどさ。 そう笑顔で言ったのに、みくるちゃんは余計に縮こまってしまった。 困ったな。 とりあえず、現状把握を、ということで、私とキョンくんでみくるちゃんの話を聞くことにした。 しかし、聞けば聞くほど分からない。 何故みくるちゃんは時間遡行しなくてはならなかったんだろう。 それをみくるちゃんに直接指示したのが八日後のキョンくんというのも理解しがたい。 とりあえず、八日後のイベントには絶対参加してやろうと思いながら話していると、狙い澄ましたようなタイミングでキョンくんの携帯が鳴った。 当然、ハルちゃんからだ。 イイワケに困っているキョンくんの手から携帯を奪いとって、私は言う。 「やあ、ハルちゃん」 『お姉さんも今日は来ないの?』 「うん、ちょっと困ったことになっててさー」 と私は苦笑を浮かべつつ、 「シャミセンが円形脱毛症なんだ。ストレス性の」 『あのシャミセンがストレスなんて感じる神経をもってるとは思えないけど』 「まったくだね。まあ、人も猫も見かけによらないってことだよ。私としては皮膚病による脱毛症じゃなくてよかったと思ってるんだけどね」 『何でよ?』 「だって、感染症だったら万が一キョンくんにうつったら嫌だろ?」 頭にハゲのあるキョンくんなんて、私は見たくないよ。 ハゲヅラくらいなら被せてやりたい気はするけど。 『それはそうかもね』 と言っているハルちゃんの声が笑ってる。 ハゲヅラキョンくんでも想像したんだろうか。 今度何か余興が必要な時にでも提案してみよう。 「まあそんな訳で、今日は行けないんだ。明日もキョンくんは無理かも。なんだったら私がキョンくんの代理として参加するよ」 『そう? まあそれならいいわ。キョンがシャミセンを可愛がってるのは知ってるし、そのシャミセンが病気なら仕方ないもんね』 「ありがとう。…優しいね、ハルちゃん」 『別に、あたしもシャミセンが心配なだけよ。お大事にってシャミセンに伝えといて』 「うん、分かってる」 そう言って私が電話を切ると、 「悪い、助かった」 とキョンくんに言われた。 どうせならありがとうって言おうよ、キョンくん。 「…ありがとう」 「うん、よく言えました」 頭をぐりぐりと撫でてあげると、嫌そうな顔をされた。 ……酷い。 でもまあ、年頃の男の子なんてこんなもんだよね。 その後も私たちはしばらく今後のことについて話したりしたんだけれど、そのためだけに私を早く帰らせたのだとするとなんだか妙だな、と思った。 その時は、そう思っただけだった。 次の日、私はハルちゃんとの約束通り、キョンくん代理として北高の文芸部室を訪ねた。 ノック三回、返って来るのは、 「はぁい」 というみくるちゃんの声だ。 私は自然と笑みを浮かべながら、ドアノブに手を掛け、ドアを開けた。 「こんにちは、朝比奈さん」 とキョンくんの声で言い、室内を見回す。 返ってきた反応は、 「わ…」 「これはこれは…」 「……」 という三つで、上からみくるちゃん、いっちゃん、ゆきりん。 ハルちゃんはどうやらまだ来ていないらしい。 ちなみに今の私の格好は北高の制服、それも男子の格好である。 わざわざ着替える私も私だが、私がどうするつもりか分かっていて制服を貸してくれるキョンくんもキョンくんだと思う。 私はみんなの反応に気をよくしながらもいっちゃんに、 「よう」 と言いながら荷物を長机の脇へ置き、キョンくんの指定席であるパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。 「なるほど、彼の代理……ということですね」 察しのいいいっちゃんがそう言うのへ私はニッと笑い、 「そういうことだ。ただし、オセロの腕までは同じとはいかないだろうがな」 といっちゃんが広げようとしていたオセロに手をやると、 「お手柔らかに願います」 と言われた。 パチパチと心地よい音を響かせながらオセロをしていると、 「どうぞ」 とみくるちゃんがお茶を淹れてきてくれた。 いい香りだな、と思いながら、 「ありがとうございます、朝比奈さん」 「うふ、そうやってると本当にキョンくんみたい」 「そうですか?」 みくるちゃんにそう言ってもらえると嬉しいな。 「制服はキョンくんに借りたんですか?」 「ええ、洗い換えを一式。髪型ばかりは真似出来ませんけど、これでハルヒも満足しますよね」 「多分、とっても喜ぶんじゃないかな」 とみくるちゃんは微笑んだ。 やっぱり可愛いなぁ。 目を細めていると、いきなりドアが開いた。 「みんな、いる?」 文字にすると迫力は十分の一もないけど、実際はもっと元気よく、ハルちゃんが飛び込んできたのだ。 ハルちゃんは私を見るなり、声を上げて笑い出し、 「お、姉さん…っ、くくくっ…、傑作…!」 「笑いすぎだ」 とキョンくんの声で言ってあげると、更にしばらく笑っていた。 鶴屋さん張りの大笑いだ。 ひーひー言いながら笑いをなんとかひっこめたハルちゃんは、 「でも、そうやってるとやっぱりキョンとそっくりなのね」 「曲がりなりにも双子で、姉弟だからな」 「そうね。……それにしても、そこまでしなくてもよかったのに。古泉くんだって、キョンの物真似してるお姉さんじゃなくて普段通りのお姉さんの方がよかったんじゃないの?」 ハルちゃんにいきなりそう聞かれても、いっちゃんは慌てることなく、 「僕としては、そうですね、どんな格好であっても彼女は彼女ですから構いませんが、幾分残念には感じますね」 対ハルちゃん専用の如才ない口の聞き方だ。 私は小さく笑いながら、 「それなら、明日はいつも通りにしよう」 「キョンは明日も来れないの?」 「いや、分からないが……多分、無理じゃないかと思う」 みくるちゃんの用事がこんなにも早く済むとも思えないし。 「ほら、シャミセンの調子がまだよくないんだ」 「シャミセンも大変よね。キョンが踏んづけるかどうかしてストレスでも与えたの?」 ストレスを与えてるのは、どちらかと言うと私かな。 先日、爪を切ろうとして失敗した挙句、 「お前は妹と同レベルなのか」 とキョンくんに本気で呆れられたくらいだから。 「何にせよ、お大事にね」 そんな話をしながら、ハルちゃんが団長席につき、私はゲームに戻った。 オセロを進めていると、いっちゃんが口を開き、小さな声で言った。 「何か面白いことをなさっているようですね。彼と、彼女と」 その彼女が何を指すかは聞くまでもないだろう。 私はにやっと笑い、 「私は今のところ、オブザーバー状態だけどね。それに、面白いのかどうかはよく分からないよ。いっちゃんも、関わりたい?」 「どうでしょうね」 そう言いながらいっちゃんは目を細め、 「僕としては、あなたと過ごせる時間が減らなければ何も言うことはないのですが」 くすぐったいな。 「それについては善処するよ。ただ、状況が状況だからね。いっちゃんが機関を優先させる程度には、あちらを優先させてもらうよ」 「仕方ありませんね」 理解してもらえて嬉しいよ。 「それを言うなら、僕の方こそお礼を言うべきでしょう。――先日は、すみませんでした」 先日、というのはいっちゃんとの初デートをようやく企画したところ、いきなり機関の方から招集がかかり、ドタキャンされてしまったことだ。 それも、閉鎖空間が発生したとかいうならともかく、私やキョンくんとの関わり方について問い質すためだったというから腹立たしい。 だから別にいっちゃんが謝る必要はないんだけど。 「どうしても罪悪感があるなら、今度は絶対大丈夫だって時に、いっちゃんのおごりでどこか行こうか」 「ええ、そうですね。そうさせてください」 そう笑った後は、特に会話もなく、ただ黙ってゲームを続けた。 話すことがなくても、気まずくはならない。 一緒に過ごせるというだけのことが、呆れるくらい心地よかった。 そうして、時間はゆっくりと過ぎ、日が傾いでいく。 ぱたん、とゆきりんが本を閉じる音が響いた。 「そろそろお開きにして帰りましょ」 ハルちゃんが言い、私といっちゃんはオセロを片付ける。 帰りにいっちゃんと手くらい繋ごうか。 それなら、着替えた方がいいかな。 なんてことを考えていた私にハルちゃんが、 「お姉さん、悪いけど、古泉くんには先に帰ってもらうわね」 「……へ?」 「古泉くん抜きで、お姉さんと話したいことがあるの」 私はいっちゃんに目を向けた。 いっちゃんは困ったように苦笑しながら肩を竦めるだけだ。 まあ、いっちゃんがハルちゃんに逆らえるはずないか。 私はため息を吐きながら、 「分かった。じゃ、いっちゃん、また明日」 「ええ。…お先に失礼します」 軽く手を振っていっちゃんを送り出し、私はハルちゃんに聞いた。 「話ってのは?」 「…お姉さん、本当に全然気にしてないのね。それとも、彼氏がいるとかえってそうなるのかしら」 首を傾げたハルちゃんは、 「バレンタインデーまで一週間切ってるってこと、分かってる?」 ………ああ! 「そうか、バレンタインデーか! そう言えばなんか最近クラスの女の子に、甘いものお好きですかとか聞かれると思った」 「お姉さん…」 ハルちゃんは本気で呆れた顔で私を見たが、本当に忘れてたんだからしょうがない。 それに、これまではバレンタインデーなんてほとんど関係ないイベントだったし。 何しろ、お父さんとキョンくんにあげるだけで、あとは貰うばかりだったからね。 「それでいいの?」 「よくないかな?」 今年はいっちゃんにあげるべきだろうか。 でも、いっちゃんって味覚障害があるから食べ物あげてもなー…。 この前、99%カカオとかいう恐ろしく苦いチョコレートを分けてあげたら、平気な顔して食べてたし。 いっそのこと物にしようか。 「怨念のこもってそうな手編みのマフラーなんてどうだろう?」 私がそう聞くと、ハルちゃんは苦笑混じりに、 「別に怨念は込めなくていいと思うけど、マフラーってのはいいかもね」 「バレンタインデーの存在を思い出させてくれたお礼に、ハルちゃんにひとつ教えてあげよう」 「何?」 興味津々とばかりに軽く身を乗り出してきたハルちゃんに、私は悪戯っぽく笑いながら、 「キョンくんはああ見えて、甘いものも結構好きだから、チョコレートあげたらきっと喜ぶよ」 バレンタインチョコも貰い慣れてないしね。 「な、なんであたしがキョンにチョコをあげなきゃならないのよ!」 明らかに照れてるハルちゃんは本当に可愛い。 私は笑いながら、 「別に、義理チョコだろ? 日頃のお世話に感謝を込めてっていうか、むしろホワイトデーのお返し狙いの。大体、あげる気があるからわざわざ私を呼び止めてくれたんじゃなかったのか?」 「それは…そうだけど……」 「まあ、何にせよ、せっかくのイベントなんだから、盛り上げよう」 私はそんなことを言って、ハルちゃんのイベント熱に油を注いであげた。 せっかくなんだから、楽しまないとね! |