ヘンシン 2



私たちに起こった変化は翌朝には元に戻っていた。
キョンくんに昨日のことを聞くと、
「昨日? 普通に探索しただけだろ。後はよく思い出せんが、姉さんが色々言ってただけで」
とあっさり言われたところからして、昨日のことはいつも通りの状態であったと認識されてるらしい。
つまり何か。
私は公衆の面前で男に抱きついた挙句、その男を泣かせ、かつ抱きしめられ、キスされたことになってるのか。
うあ、死にてえ!
ちょっと誰か私に手を貸してくれないか。
それなりに長さのあるロープか、銃か、いや、とにかくなんでもいい。
自分で自分を殺せそうなアイテムをくれ。
そうでもしなきゃ収まりがつかん。
しかしながら、いっちゃんがどう感じているのかも気になるところだ。
昨日のいっちゃんがいつになく乙女だったのはいっちゃんが女の子になってたせいだろう。
今頃、自分の知られざる乙男――オトメンって読むらしいよ――ぶりに地団太踏んでるんだろうか。
……ないな、ない。
どちらかというと、いっちゃんは静かに落ち込む口だ。
つまり今頃自己嫌悪の海の底か。
可哀相に。
ああ、それにしてもどうしよう。
私は返事をするべきなのか?
いや、するべきだってことは分かる。
でも、女の子のいっちゃんに告白されて、男の子のいっちゃんに返事するってなんか変じゃない?
むしろ、聞かなかったことにするのがいっちゃんには喜ばれることのような気がするんだけど、これってやっぱり現実逃避?
うああ、もうどうしよう!
ベッドの上でのた打ち回っていられるのは、今日が日曜日だからだ。
そうでなくても、いっちゃんと会わないでいようと思えば、いくらでも会わないでいることは出来る。
何故なら、いっちゃんとはSOS団の活動くらいでしか会わない上、準団員であるところの私は、放課後毎日部室に行かなくてもいい。
私も強制参加となる市内探索も、昨日やったところだからしばらくはないだろう。
つまり、北高に行きさえしなければいっちゃんに会うこともなく、つまりは気まずい思いをしなくて済む。
当分、行くのやめようかな。
――って、だめだ、気がつくと逃げようとばかりしてる。
どうしたらいいか分からないにしても、先送りにするだけじゃどこかの政治家と同じじゃないか、情けない。
いっそ、今から会いに行こうか。
そうしてすぱっと返事をしてしまえば、楽かもしれない。
でも、なんて答えればいいんだか分からない。
いっちゃんは好きだ。
からかうと面白いし、妙にリアクションが可愛かったりするし。
でもその好きは、友達への好きと同じなんじゃないかとも思う。
どこで区別をつければいいんだろうか。
…例えば、と、仮定してみる。
私もいっちゃんを好きだとする。
それなら答えは迷うことなくイエスで、多分付き合うことになる。
多分がつくのはいっちゃんの立場とキョンくんの反対を考えたからだ。
で、付き合って何するのさ。
……この前のデートもどきみたいなこと?
あー……それはちょっと楽しいかもしれない。
じゃあ逆に、いっちゃんをそういう意味では好きじゃないとする。
答えはノーになって、付き合うことにはならない。
でも、これまで通りSOS団では顔を合わせることにはなる。
そうなった時、私は平気な顔が出来るんだろうか。
せっかくの楽しい時間がなくなってしまう気がする。
それは勿体ない。
でも、だからってOKするのも変な気がする。
困った……八方塞がりだよ。
そのまま唸っていると、妹の足音が聞こえた。
隣りの部屋のドアが開き、
「キョンくん、お客さんだよー」
と言ってるのが聞こえる。
玄関チャイムの音さえ聞こえなかったなんて、私随分考え込んでたらしい。
少し息抜きでもしようか。
でも、何して?
…なんて考えてると、いきなりドアが開いた。
「姉さん、客」
「客って?」
「古泉だ」
古泉、と聞いて私の顔が一瞬強張ったんだろう。
「…何かあったのか?」
怪訝な顔をしたキョンくんに、慌てて首を振り、
「なんでもないよ。着替えたらすぐ行くから、待っててもらって」
とキョンくんを部屋から追い出した。
手早く着替えを済ませ、居間に行くと、いっちゃんが所在なさげに座ってた。
「いらっしゃい、いっちゃん」
努めていつも通りに言うと、
「お邪魔してます」
と返された。
演技ではやっぱりいっちゃんには勝てないな。
キョンくんはいっちゃんの前に座って、顔を顰めている。
警戒しまくりだよ。
「えっと、ここじゃ話し辛いだろ。私の部屋に行く? それとも、外に出よっか」
私が言うとキョンくんはますます渋い顔をした。
でも、いっちゃんはほっとしたように、
「それでは、少しお付き合い願えますか。近くの公園にでも」
「うん、いいよ」
私は頷いて、財布と携帯を取りに部屋に戻った。
戻ってくると、いっちゃんはすでに玄関にいたが、その手前でキョンくんが待ち構えていた。
「本当は何かあったんだろ」
小声で聞いてくるキョンくんに、私は曖昧な笑みを返し、
「後でちゃんと話すから、心配しないで」
「…本当だろうな?」
「うん」
仕方ない、とキョンくんはため息を吐くと、私を通してくれた。
「待たせて悪いね」
といっちゃんに言いながら靴を引っ掛ける。
「いいえ」
いっちゃんがどこか落ち着かない様子なのはキョンくんが思いっきり睨みつけているからに違いない。
玄関を出てドアを閉めるなり、
「ごめんね」
と私は謝った。
「キョンくんがあんな失礼な対応で」
「いえ、大切なお姉さんのことですから、心配なのでしょう」
「あれでシスコンじゃないって言い張るんだから、キョンくんも凄いよね」
笑って話しながら、公園の方へ歩いていく。
てっきり、着いてから話し始めるかと思ってたら、歩きながらいっちゃんが口を開いた。
「その……昨日はお恥ずかしいところをお見せしました」
「恥ずかしいところ? …ああ」
と私は小さく笑い、
「仕方ないよ。昨日は女の子だったからね」
「…どういうことでしょうか?」
ああ、やっぱり。
またもや綺麗に消されたんだね。
昨日私が話したことも、全部。
私は昨日とほとんど変わらない説明をした。
「記憶なんて、どうとでもなってしまうんですね」
というのがいっちゃんの感想で、それも妙に哀しげだった。
「いっちゃん?」
「――お願いがあるんです」
お願い。
真剣な眼差しに妙な予感がする。
いいとも悪いとも言いがたい、予感が。
「昨日のことは、忘れてくださいませんか」
ぴしりとどこかが痛んだ気がした。
それくらい、その言葉がショックだった。
せっかく知ることが出来たいっちゃんの本音を、忘れて欲しいと言われたのが、寂しい。
なんで、と問うことも出来ず、いっちゃんを見上げる私に、いっちゃんは続きの言葉を紡いだ。
「その代わりに、僕として、話を聞いていただきたいんです」
「…え」
「だめですか?」
心細げな問いかけに、慌てて首を振る。
「ありがとうございます」
微笑むいっちゃんが、今にも消えそうに思えた。
「いっちゃん、」
――別に、いなくなったりしないよな?
言おうとした言葉が口から出てこなかった。
問いかけるのが怖かった。
「あの、どうかしたんですか?」
「…ごめん、なんでもない」
そのまま俯いて歩いた。
私の方がいっちゃんより背が低いから、下を向いていたら顔を見られることはない。
そのことにどこかほっとしながら、公園まで黙って歩き続けた。
空いていたベンチに並んで腰を下ろしたものの、いっちゃんはなかなか口を開かなかった。
迷うような顔で地面を見つめているばかりだ。
私も言葉が見つからず、下ろしたままになっている髪を指先で弄んでいた。
「…今日は、結んでないんですね」
不意にいっちゃんが言い、私は一瞬、何のことかと思った。
「ああ、起きてから部屋でごろごろしてたし、出てくる時はあんな具合だったから、キョンくんに結んでもらう暇もなくて」
「それなのに、もつれてなくて、綺麗な髪ですね」
何気なく放たれた言葉に、顔が赤くなる。
さっきから、絶対何か変だよ。
どうかしてる。
変なのは私なのか、それともいっちゃんなのか、それさえ分からない。
「お姉さん」
そう呼ばれて、反射的にいっちゃんの顔を見た。
赤くなった顔を隠したかったことも忘れて。
「僕はずっと、あなたに憧れてたんですよ」
嬉しそうにいっちゃんは笑った。
あの改変された世界でのいっちゃんより、ずっと明るい笑みで。
「あなたの明るさと強さに、惹かれてました。最初は、彼の女性版みたいなあなたに驚いて、好奇心を抱いただけだったように思うんですけれど、段々あなたと彼が全く違っていることに気がついて、その上で、あなたに好意を抱いたんです。清々しいまでに飄々として、そのくせ優しく、お節介にならない程度に近くに居てくれる、あなたに」
私は話を聞きながら一言も口を聞かなかった。
ただ、何一つ聞き逃したくなくて、いっちゃんを見つめて、耳を澄ませていた。
「特に、この冬になって僕を気にしてくれるようになったでしょう? 以前以上に僕を気に掛けて、何かといっては僕の相手をしてくれて。――長門さんによって改変された世界で、何かあったんですか?」
「…何かって言うか……」
どう言うべきだろう。
「……あのいっちゃんに会って、思ったんだよ。超能力者じゃない、ただのいっちゃんに会って。…本当のいっちゃんは、どれだけ辛い思いをしているんだろうかとか、もっと私に出来ることはないのかとか、色々とね」
「…その僕は、どんな人間でした?」
私は記憶の中に沈めてあったそれを引っ張り出しつつ答えた。
「うーん、ハルちゃんが大事なのか、凄く警戒心丸出しで私やキョンくんと話してたのに、少し私がばかやっただけでそれをやわらげてくれるような感じかな。…普段は気を張ってるけど、本当は寂しいんじゃないかって、思ったよ」
まあ、普段がどうのって言えるほど長時間一緒にいたわけじゃないんだけど。
それから、そうだね。
「私が少し変わったとしたら、あのいっちゃんが私に好意を寄せてくれたからかな」
憧れとか、高嶺の花とか、物凄くくすぐったい言葉もくれたっけね。
そう笑う私に、いっちゃんは一瞬ぽかんとした後、少しだけ顔を顰めた。
「…あなたは、どう思ったんです?」
「え?」
「その僕に、好意を寄せられたと認識して、どう感じたんです?」
いっちゃん、もしかして妬いてんのかい?
だって、相手は自分だよ?
改変されてたから少し違ったとはいえ、どちらにしろいっちゃんで、その意味では昨日のいっちゃんと今のいっちゃんが同じってのと同じくらいには同じいっちゃんなのに。
「昨日のことも、僕は気に食わないんです。女性になっていたとかそういうことでなく、僕が考えてもいなかったような形で衝動的にあなたに思いを告げるなんて」
そうため息を吐くいっちゃんに、私は苦笑した。
「つまり、自分とは違うって言いたいんだ?」
「ええ、全く違いますね。昨日のことはともかく、改変された世界のことは僕に関知出来ることではありませんし。だから、教えてください。どう思ったのか」
私は少し考え込む。
さて、どう思ったんだっけね。
多分、少し不思議で、くすぐったくて、でも確実に、嬉しかったんだ。
「……その時のことも忘れていただきたい気分ですね」
苦い顔でいっちゃんは言った。
いっちゃんらしくない表情は多分、いっちゃんが演技をすることさえ忘れているからだ。
「僕があなたに初めて告げたつもりの言葉を、ことごとく先回りされているかと思うと、腹立たしい気持ちになります」
そんなものなのかね。
私にはよく分からないよ。
私としては、いっちゃんがどう変わっても、考えてることなんかが絶対に変わらない証拠みたいに思えるんだけどな。
「…そんなことを仰るんですか」
困惑顔でいっちゃんが言った。
私はまた何か妙なことを言ったのかな。
「あなたは思わせぶりなことを軽々しく口にしすぎなんです。僕がそれに踊らされるのを見て、面白がってるんですか?」
そんなつもりはないんだけど。
「じゃあ、どういうつもりなんです?」
つもりも何も、思ったままを口にしてるだけだって。
深く考えすぎなんだよ、いっちゃんは。
「そういう性分なんです、すみません」
と苦笑し、
「思ったままを言っているだけ、と仰るのでしたら、僕は期待してもいいんですか?」
「期待?」
「あなたも僕を好きでいてくれるのではないかと、…思い上がっても、いいですか?」
その時のいっちゃんの表情は、いつになく嬉しそうで、そのくせ不安そうにも見えた。
どうしてそんな風に怖がってるんだろう。
普通、男子高校生なんてもっと思い込みで行動して、調子こいた結果として玉砕しちゃうようなものだと思うんだけど、これは私の偏見だろうか。
それとも、いっちゃんが極端に臆病なんだろうか。
普通の幸せとか楽しさとかに対して、尻込みするようになってしまっているんだろうか。
だとしたらそれは哀しい。
どうにかしてあげたいと思うほど、哀しい。
いっちゃんを、守りたい。
少しでも普通を楽しめるように、それを邪魔するものから守りたい。
そう思った瞬間、理解した。
私は小さく笑いながら、少しだけいっちゃんに近づいた。
軽く触れた肩が、温かくて、くすぐったい。
戸惑ういっちゃんも可愛い、と思いながら私は言った。
「思い上がって、いいよ」
「……本当ですか?」
頷いた私の前に、ベンチから立ち上がったいっちゃんが軽く屈み込むようにして立つ。
敵前逃亡は許さないとでも言うように、真剣な表情で私の顔をのぞきこみ、
「さっきも言いましたけど、昨日のことは忘れてください。出来れば、改変された世界でのことも、なかったことにしてください。…これが、初めてだと思って欲しいんです」
そう微笑んで、
「――あなたが好きです」
と告げられた。
言葉だけでこんなにも胸の中が温かくなるのは、生まれて初めてかもしれない。
「ありがとう。私も…いっちゃんが、好きだよ」
そう言うと、強く抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと、いっちゃん、痛いって…」
私がそう訴えると、少し力を緩められたがそれでもまだ少し痛い。
いっちゃんは見た目以上に体格がいいから、力もあるんだな。
「すみません、嬉しくて、つい」
それは分かるけどね。
そこまで喜ばれると胸が痛むよ。
「…どういうことですか?」
軽く眉を寄せたいっちゃんに、私は口を開いた。
「私は――私とキョンくんは、ただの人間じゃないかもしれない」
「……はい?」
ぽかんとするいっちゃんに、私は、冬の合宿で遭遇した周防九曜との会話について説明した。
これまでずっとぼかして、誤魔化してきたことについて。
ハルちゃんの不思議な力の、そもそもの原因が、私たちかもしれないと。
話しているうちに、どんどん怖くなった。
自分が人間じゃないかもしれない。
それどころか、いっちゃんが普通でなくなって、苦しむようになってしまった、その原因でさえあるかもしれない。
自分が何か分からなくて、どうしたらいいのかも分からなくて、涙が零れた。
その私を落ち着かせようとしてか、私のことを抱きしめ、背中をなでてくれるいっちゃんの優しさがなかったら、もっと正体なく泣き叫んでいただろう。
「…そんな、私でも、…っ、いい…?」
泣きながら、しゃくり上げながらそう聞くと、いっちゃんは優しい笑みで答えてくれた。
「あなたの正体がなんであろうと、あなたに変わりはないでしょう。僕が好きになったのはあなた自身であり、あなたにいかなる属性が付与されていようと関係はありません」
「…ありがと……」
そんな風に言ってくれるいっちゃんが、私は好きだよ。
私はいっちゃんの頬を両手で包むようにして、そうっとキスをした。
頬にじゃなく、唇にする、私から初めてのキスだ。
「…僕と、付き合ってくれますよね?」
確かめるように聞いてきたいっちゃんに私は、出来るだけいつものように笑うと、
「キョンくんが許してくれたらね」
と返した。
「それは、手強いですね」
苦笑するいっちゃんに、
「頑張れ」
とエールを送り、ぎゅっと抱きしめておいた。