授業終了を告げるチャイムを聞くなり、私は荷物をカバンに放り込んだ。 皆が礼をしている中をダッシュで脱出する。 普段優等生の私がそんなことをしたからだろうか、教師も注意するのを忘れてぽかんとしているのが目の端に見えた。 私は丁度礼を終えたところの隣りのクラスへ飛び込み、 「ハルちゃん、いっちゃん、迎えに来たよ！」 と喜色満面で言ったのだが、ハルちゃんの目は冷たく、いっちゃんは苦笑を浮かべていた。 ……冷たい。 ほんっとうに冷たいよ…。 「恥ずかしいわね」 ハルちゃんがそう言ったが、私としてはバニーガール姿でビラ配りよりよっぽど恥ずかしくないと思うよ。 「バニーガールって何よ」 「私の知ってるハルちゃんがやってたこと、かな。文化祭の時に、自主製作映画の宣伝だったかＳＯＳ団の宣伝だったかでばしばし撒いてたよ」 「そのＳＯＳ団って何なの？」 えぇと確か、 「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」 だったと思うんだけど。 「『世界を大いに盛り上げるための』…？」 おや、これはハルちゃんに対して効果のある言葉だったんだっけ。 少し反応がこれまでと違った。 「あなた、何なの？」 ハルちゃんが怪訝そうに私をみた。 私は笑顔を返す。 「ハルちゃんが作ったＳＯＳ団の準団員だよ」 「準団員？」 「そう。私はハルちゃんと学校が違ったし、毎日参加するのは難しかったから、準団員ってことにしてもらったんだ。正団員は私の弟のキョンくんと、ゆきりん、それから副団長がいっちゃんで、副々団長がみくるちゃん」 「学校が違うって？ あなたも光陽園生でしょ？」 「ＳＯＳ団は北高の非公認サークルだし、ハルちゃんといっちゃんも北高生だったよ」 「…もう、わけ分かんない」 「説明は多分、私よりキョンくんの方が得意だから、私の話は分かんなくていいよ」 ハルちゃんについてきてもらうための撒き餌みたいなもんだし。 そうだ、と思いついたまま、私は言う。 「もしかして、キョンくんの声で話した方が思い出せるのかな」 キョンくん、前に三年前のハルちゃんと接触したって言ってたし、それが三年前なら、一年前よりも前なら、ハルちゃんの記憶にあるかも知れない。 「どういう意味よ」 眉間に皺を寄せて唸るハルちゃんに私は、 「こういう意味だ」 とキョンくんの声で言った。 キョンくんの声真似は相変わらずそっくりなままのはずだ。 ハルちゃんは、うん？ と首を傾げ、 「その声……どこかで聞いたような気が……」 「するだろ。まあ、その辺の話もキョンから聞いてくれ。古泉はどうだ？」 いっちゃんは困ったような笑みを浮かべ、 「聞き覚えはありませんね。しかし、あなたのような女性が男性の声で喋るというのはどうも違和感があります」 「そりゃなあ。でも、キョンと俺はほとんど同じ顔だぞ。何しろ双子だからな」 二卵性だけど。 「双子？」 と食いついたのはハルちゃんだった。 「双子だったら何か不思議に面白いこととかあるの？」 悪いが、と私はキョンくんのように憮然として、 「二卵性だからか、生まれてこの方感情が伝わったこともなければ痛みが伝わったこともないな。そういうことがあれば面白いと俺も思うが」 「つまらないわね」 「それが現実ってものかもな。ああでも――現実の方がよっぽど面白いんだよな。俺とキョンと……他、ＳＯＳ団メンバーにしてみれば」 いっちゃんは面白くなかったかもしれないけど。 「そのあたりも、俺よりキョンの方が詳しいって。キョンは団員その一だし」 あれ、その二だったっけ？ よく分かんないや。 順番なんてどうでもいいしね。 「……分かった。それなら、さっさと行きましょ。そのキョンとかいうのが逃げないうちに」 「別に逃げたりはしないって」 むしろ、待ち構えていると思うよ。 笑いながら私はいっちゃんを促し、ハルちゃんと三人で教室を出た。 そのまま真っ直ぐ正門へ向かうと、黒いブレザーや学生服の群れの中に、北高のブレザーが見えた。 「キョンくん！」 手を上げて私が駆け寄るまでもなく、キョンくんは私たちに気がついていたらしい。 珍しくも嬉しそうな笑顔だ。 「ハルちゃん見つけたよ！」 「分かってる。ありがとうな、姉さん」 「かわいいキョンくんの頼みだからね。それに私も、」 と私は苦笑し、 「ハルちゃんといっちゃんに冷たい目で見られてへこんだから、キョンくんの気持ちは痛いほど分かったし」 「よしよし」 と頭を撫でられると結構嬉しい。 「それじゃあキョンくん、ハルちゃんに色々説明してあげて。私じゃ無理だと思ったからほとんど話してないんだ。でも多分、このハルちゃんは三年前のハルちゃんと繋がってると思う」 改変を一年前に遡った、ってのもその辺に関わりがあるんじゃないかと思うけど、その辺の矛盾を突くのは私よりキョンくんの方が得意だよね。 「分かった」 そう笑ったキョンくんだったがすぐに表情を引き締める。 目の先にいるのは仏頂面のハルちゃんと、不審そうないっちゃんだ。 ……どうでもいいけど、この二人、こういう部外者視点で見ると怖いな。 「あんたがキョンとか言う奴？」 「そうだ。けど、お前にはこう名乗った方がいいだろ。――ジョン・スミスだ」 ジョンって何よキョンくん。 しかしその名前はハルちゃんにとってなかなかの効力を発揮するものだったらしい。 それからキョンくんがいくつかのことを説明するだけで、私たちに起きている不可思議な現象を、ハルちゃんは理解してくれた。 いっちゃんは半信半疑、というよりもむしろ都市伝説的救急車を呼びたいとでも言いたげな顔でキョンくんを見ていたけど、ハルちゃんの顔は見る間に輝きだす。 それでこそハルちゃんだ。 私たちは近くの喫茶店に入り、キョンくんが語るＳＯＳ団の活動記録に耳を傾けた。 ――大丈夫。 変な自信に、私は知らないうちに笑ってた。 それから、北高に忍びこむ、ということになったのはいいんだけれど、キョンくんの体操服を三人で分けるのは無理だろう。 私はどうしようかな。 ……そうだ。 「キョンくん、職員室かどこかで大きくて目立つ茶封筒でももらってきてもらえる？」 「構わんが、どうするんだ？」 「私が初めて北高に行った時のこと、忘れたのかい？ 封筒を抱えて行けば、お使いに出されたんだなと判断されるものなんだよ」 難だったら、私がキョンくんの体操服を着てもいいよ？ ハルちゃん嫌じゃない？ 「あたしは別に構わないわよ。どっちでも。あ、でもちょっと考えてることがあるから、私が北高生に成りすました方がいいわね」 「何やる気なの？」 「それは秘密」 楽しそうに笑うハルちゃんにほっとしたけど、いっちゃんの表情の固さが気になるな。 「いっちゃん？ どうしたの？」 「いえ」 愛想笑いも強張って見えるよ。 「やっぱり、信用出来ないかな。まあ、それが当然だとは思うけど……」 「僕が気になっていることは、」 といっちゃんは苦笑混じりに言った。 「涼宮さんは三年前のことを覚えており、あなたはそれ以前のことを覚えていて尚且つここ一年の追加された記憶というものを持っていると仰った。それなのに何故、僕はその超能力者だったという経歴を忘れているのかと思いましてね」 「それはね、いっちゃん、」 と私は自分の考えを述べる。 「世界の改変の範囲と言うか、改変者が意図を持って改変させた範囲があるからだと思うよ。改変者はいっちゃんやハルちゃん、それからゆきりんとみくるちゃんからそれぞれ特殊能力とそれに伴う肩書きを退けた。能力がないのに、そんな能力を持っていたと記憶してるのは変だろ？ それと……ハルちゃんの三年前の記憶に関しては、意図的に残されたんじゃないかと、私は疑っているんだ」 「意図的に？」 「そう。――ハルちゃんとキョンくんを繋ぐために」 それは同時に、キョンくんにだけ明らかに意図的に記憶が残されている理由でもある。 改変者は、キョンくんに選ばせようとしているんだろう。 この世界と、これまでの世界と、どちらがいいか、と。 私は思わず顔を歪めた。 「どうかしましたか？」 問い掛けてくるいっちゃんに首を振って、私は黙り込んだ。 改変者が誰なのか。 それに気がついてしまったことが胸に痛かった。 堂々と嘘を吐くハルちゃんに呆れながらも、私の目はみくるちゃんに釘付けだった。 可愛い。 わたわたしてるところも、胸まさぐられて声を上げてるところも、すっごい可愛い。 「ハルちゃんハルちゃん、私にも触らせて」 いそいそと近づくとみくるちゃんがふひぃーと悲鳴をあげ、キョンくんに頭を殴られた。 「痛いよキョンくん」 「暴挙に出るなと大分前に言わなかったか？」 「だってこのみくるちゃんについては言われてないし…」 「いついかなる時のどのような朝比奈さんであっても却下だ」 「そんなに言うならハルちゃんも止めなよ」 私のもっともな発言は思いきり黙殺された。 意気地なしめ。 私はキョンくんの肩へ飛びつくと有無を言わさず上着を奪った。 「こらっ、何すんだ」 「いいじゃん、いっちゃんが寒そうで可愛そうだよ」 何しろこの寒いのに半袖短パン、ぶっちゃけ目にも優しくない。 「お前の発言も古泉には優しくないぞ」 「うるさい」 私はとりゃあっといっちゃんに上着を掛けてあげた。 足踏みをしてなんとか体温を上げようとしていたいっちゃんは小さく微笑み、 「ありがとうございます」 「いやいや、いっちゃんには世話になってるからね。主にキョンくんが」 「世話になってねえ！」 というキョンくんの抗議は無視だ。 いっちゃんはくっと笑い、 「姉弟仲がよろしいんですね」 「もちろん」 なにせ、生まれる前から一緒だからね。 いっちゃんも混ぜて欲しいなら義兄弟の契りを結んであげよう。 場所指定は春爛漫の桃園でどうだい？ 「いいですね」 ゆきりんがいるはずの部室へ向かいながらそんなバカみたいな話をした。 この世界で春を見る前に元の世界へ戻すつもりのくせに、無責任な話だと私自身思う。 だけど、他人行儀過ぎるいっちゃんを見るよりは、バカ話で笑っている姿を見た方が楽しい。 「あなたはご存知でないかもしれませんけれど」 部室棟へさしかかった辺りで、いっちゃんが言った。 小声で、しかも私の耳元でこっそりと。 「僕は、あなたのことを前々から知っていましたよ」 「うん？」 どういう意味かな。 くすぐったさに顔を緩めながら私が聞くと、いっちゃんは更にくすぐったいことを言った。 「光陽園始まって以来の才女。そのくせ気さくで優しくて、人に慕われる方だと、有名でしたから。……実はこっそり憧れていたんです」 噂というものは元の世界でされているそれと変わらないらしい。 私は苦笑しながら、 「噂ってのはひとり歩きするものだよ。実際の私を見て幻滅しただろう」 「逆に、魅せられましたね」 「やっぱりいっちゃんはスケコマシだなぁ」 そう笑ってもいっちゃんは気を悪くした様子もなく、 「僕は真面目に言ってるんですよ？」 「ハルちゃんにべったりしてたくせに、何言ってるんだい？」 ニヤニヤ笑いながら言うと、いっちゃんは苦笑した。 「僕にとっては、あなたの方がよっぽど高嶺の花だったんですけどね」 「幻想だよ、幻想。私はそんな大したものじゃない」 私の言葉にいっちゃんは曖昧に笑っただけだった。 慣れ親しんだはずの部室は、物が少なくて寂しかった。 最初はこうだったのかと見回していると、ゆきりんの姿が目に入る。 弱々しい、普通の少女の姿が、痛々しく思えるのは私のせいだろう。 ゆきりんに声を掛けるべきかと悩んでいると、パソコンが突然、自動的に起動した。 これでよかったんだとほっとすると共に心配になる。 ゆきりんからのメッセージを読み、顔を上げたキョンくんに私は笑って言った。 「選択はキョンくんに任せるよ。どーんと決めちゃえ」 「……ああ」 頷いたキョンくんはいい笑顔をしていた。 これでもし世界がなくなっても、私は後悔しないね。 キョンくんは皆に一言二言言って、エンターボタンへ手を伸ばす。 その間に私はちょっといっちゃんに駆け寄り、 「もうちょっといい顔しなよ、いっちゃん」 と言っていっちゃんの頬へ軽くキスをした。 それはキョンくんがボタンを押すのとほとんど同時で、それと共に世界が足元から揺らぐのが分かった。 暗くなって消えて行く世界。 その中で最後に見えたのは、いっちゃんの困惑と嬉しさを混ぜたような顔だった。 後はそのまま、ブラックアウト。 気がつくと私は、道に立っていた。 見慣れた通学路。 家まであと一息と言うところだ。 頭がくらくらしているのは、三日分記憶を追加されたせいだろう。 あの、私とキョンくんが過ごしたのとは違う、三日間の記憶。 キョンくんは意識不明の重体（？）らしいけど、多分、私と同じように戻ってきているに違いない。 私は知らず早足になりながら家に帰る。 そうして玄関を開けるなり、携帯が鳴った。 いっちゃんからだ。 「もしもし」 『彼が目を覚ましましたよ』 「あ、やっぱり？」 『やっぱり、とは妙なことを仰いますね』 「そうでもないよ。ま、そのうち説明するから。ところでいっちゃんよ」 『なんでしょう』 私のこと、どう思ってるんだい？ ――と聞いてみようかと思ったけれど、やめておこう。 「……やっぱりいいや。今はそれどころじゃないしね」 『よく分かりませんが、とりあえず僕たちは病院でお待ちしていますね』 「うん、そうして」 携帯を切り、私は妹とお母さんに嬉しい報せを叫んだ。 そうして病院へ向かうと、いつも通り、貼り付けたような笑顔のいっちゃんと、ほっとしているらしいハルちゃんと、うれし泣きのみくるちゃんがいた。 ゆきりんの姿がないのが気になったけど、三人の姿を見れただけでも嬉しい。 本来なら私はここで、やっと目覚めたということになっているキョンくんに駆け寄るべきなんだろうけれど、私は自分に正直に行動することにし、ハルちゃんとみくるちゃんに思いっきり抱きついた。 「ハルちゃん、みくるちゃん、私のこと分かるよねっ？」 「ど、どうしたのお姉さん」 「何かあったんですか？」 驚く二人を抱きしめて、私は少しだけ嘘を吐く。 「ちょっとした悪夢を見ちゃったんだよ。キョンくんがこんなことになってるのに、更に皆が私のことを忘れちゃう、夢」 怖かった、と泣き笑う私をキョンくんがほっとしたように見ていた。 それから何か思いだしたような顔をし、キョンくんはニッと笑って私を手招きした。 「うん？ なんだい？」 「いいから来いって」 呼ばれるままベッドの脇まで行ったのだが、キョンくんはまだ手招きをする。 私はそのまま近づき、言われるまま、頭をキョンくんの横に持っていった。 何を言われるのかな、と思って意識を集中させた耳を、思いっきり引っ張られる。 「痛いってキョンくん、やめてー！！」 「お前、最後に何してた？」 ぼそりと耳元で囁かれる。 いやん、キョンくんイイ声だね。 「誤魔化すんじゃない」 「最後？ 最後って何のことかなっ？」 「嘘吐け」 怒ってる、怒ってるよキョンくん。 まさかあれを見られてるとは思わなかった。 一生の不覚だよ！ 「いいじゃん、もうなかったことにしてよ」 「出来るかっ！」 「キョンくんのシスコンーっ」 「違う」 違わないくせに。 「大体前にお前言ってただろうが。古泉みたいなのは好みじゃないとか何とか」 「うん、好みじゃないよ」 「じゃあなんで…」 「うーん、……挨拶？」 お別れの。 「そんなアメリカナイズされた姉なんか持った記憶はないぞ」 「分かった分かった。そんなに言うならキョンくんにもしてあげるよ」 「はっ？」 抗議の声を上げようとしたキョンくんを抱きしめて、頬にちゅうっとキスをすると、小声でのケンカを黙って見守っていた全員の目が点になったのが見えた。 そうじゃないのは妹だけだ。 「あたしもキョンくんにちゅうするー！」 と主張する妹を抱き上げ、キョンくんの横に座らせると、妹が可愛くキスをした。 二の句が継げない状態のキョンくんから逃れ、私は病室を出た。 「…本当に、戻れて良かった」 私の呟きが反響した廊下に、ゆきりんの姿が見える。 「ゆきりん？ 中に入らないの？」 「……後で」 「そう。まあ、今は人がいっぱいだしね」 「……あなたが怒っていないのは、何故？」 ガラス玉のような目で問われ、私は微笑むしかない。 「それなりに楽しめたから、かな。それに、ゆきりんは選択肢を残してくれた。だから、怒ったりしないよ」 それは多分、キョンくんも同じだろう。 私はゆきりんの細くて小さい体を抱きしめた。 その体はちゃんと暖かいのに、こんなことをしてしまうくらい、感情だってあるのに、どうしてこの子は人間でないことに負い目を感じるんだろう。 「私は、ゆきりんが大好きだよ。だから、落ち込まないで。失敗したり、暴走したりしてもいいんだよ。いくらだって、やり直そうと思えば出来るんだから」 「……そう」 私の奇妙な三日間はこうして終った。 これでもう当分、何もないだろうと、そう思った。 |