太陽のない三日間



冬将軍が本気を出し始めたある日、私は高熱を出して倒れた。
それまで何の前触れもなかったにもかかわらず、だ。
同時に起こったのは、奇妙な異変――つまりは整合性の全くない記憶が自己増殖を繰り返すが如く、突然私の中に増えたことだった。
それが意味するところを考えることも出来ず、私は布団の中で唸っていた。
「大丈夫か?」
と顔を出したキョンくんは心配そうに私の額に手をやった。
「だい、じょうぶ、でも……ない…」
「病院に行かなくていいのか?」
「うん……多分……寝てれば、治る…」
というか落ち着く。
これは多分、あれだ。
知恵熱というと少し違うけど、要するにそんなところなのだ。
私の中に増えた記憶。
それを整理するために頭が、あるいは頭の中にあるナノマシンが動き回り、発熱しているとイメージすればいいだろう。
その、不可思議かつ不自然な記憶の中に、キョンくんに言わなきゃいけないことがある気がするのだが、それが何なのか分からない。
分からない以上、記憶の中から引き出すことも出来ない。
せめて記憶を何とか整理しなくては、と私は目を閉じた。
混濁した記憶という名の眠りの中へ、意識は簡単に落ちていった。
――春に私が入学したのは光陽園学院。
それはふたつの矛盾する記憶の間でも一致している。
ところが、私が知っていたはずのそこは女子校で、お嬢さんばっかりがいたのに対して、今朝私に追加された記憶――そうとしか思えなかった――では、そこは共学で、しかもかなりの進学校ということになっている。
そもそも、私はひとりの人間だというのに、記憶が二つあるというのもおかしい。
それもきっちり一年分だけ追加されている。
去年の今頃から今日までの一年。
私の生活の範囲では対して大きな変化とはなっていないようにも思えるが、明らかにおかしい。
これによって大きく影響を受けた人がいるはずだ。
私だけが気がついている。
変貌と言ってもいいほど世界が歪んでいる。
……この感覚は、あの夏の感覚に似ていた。
新しく追加された記憶の中では、私は極普通に高校生活を過ごしているらしく、北高へちょっかいをかけにいくこともなければ、SOS団に入ってもいない。
終ることを忘れたかのように繰り返された夏を過ごすこともなく、他校の文化祭のステージにいきなり引っ張り上げられることもない。
つまりは至って平凡で、つまらない生活。
誰が私にそんな記憶を植え付けたんだろうか。
そうしてそれは、全人類に起こっているのか、それとも私だけがおかしくなっているのか、それさえ分からなかった。
結局私は眠るだけでその日一日を消費してしまった。
追加された情報は膨大で、酷く私を疲れさせたのだ。
目を覚ますと翌日の朝で、キョンくんが異常に元気を失っていた。
妹の報告によると、キョンくんは昨日ネコのシャミセン――改めて思うけど、ハルちゃんのネーミングセンスって凄い――と会話を試みるなど数々の奇行をやらかしてくれたらしい。
私はまだ鈍った頭でキョンくんに尋ねた。
「キョンくん、何かあった?」
「……お前も、気がついてないのか?」
「いや、私が感じているのとキョンくんが感じてるのが同じなのかわかんないんだけど、そう言うところを見ると、何か起こってるのは間違いないみたいだね」
「…ハルヒがいないんだ」
「ハルちゃんが?」
キョンくんが暗い面持ちで頷く。
「それどころか古泉は教室ごといなくなってる。長門もいつもの長門と違うし、朝比奈さんは俺のことを知らないようだった。二人とも、ただの人間になってて、宇宙人とか未来人とかって感じもない。それから……朝倉がいた」
朝倉って言うと、キョンくんを殺そうとしたとかいう、不届きな有機ヒューマノイドのことだったよね。
なんてこったい。
「……お前の方は?」
問われて私は答えた。
「私は、一年分妙な記憶が追加されたよ。おかげで昨日寝込んだんだけどね」
おかげでまだ食欲がない、と言いながら私は箸をおいた。
「追加された記憶の中に、SOS団は出て来ない。ハルちゃんも、いっちゃんも、ゆきりんも、みくるちゃんも。私はただの光陽園学院生らしいよ?」
「どういうことだ?」
「分からないけど、何かあったのは確かだね。ただそれが、私とキョンくんにだけ何か起こったのか、それとも世界のうち私とキョンくんにだけ何も起こらなかったのかは分からないけど」
とりあえず、私はどうすればいいかな?
そう問い掛けるとキョンくんはたっぷり逡巡した後、答えた。
「…ハルヒを、それからついでに古泉を探してくれ」
「分かった。出来るかどうか分からないけど、やってみるよ」
でもせめて、もうちょっと情報が欲しいね。
このおかしくなった世界における情報が。
「とりあえず、今日は普通に学校に行ってきたんでいいかな。どう変わってるのか、記憶の中では分かってても実際に見てないから実感に乏しいんだ。見たら何か気がつくかもしれないし」
「ああ」
私は立ち上がりながら軽くキョンくんの肩を叩き、
「大丈夫だって。あのハルちゃんといっちゃんだよ? そう簡単にいなくなったりしないって。だから、元気出して、しっかりふたりを探してやらなきゃ」
「…そうだな」
少しだけ浮上したキョンくんと共に家を出て、歩きだす。
「諦めちゃいけないよ。しっかり頑張らないと」
そんな感じに力づけたのは、私の方も不安だったからかもしれない。
何しろ、記憶が二つあるのだ。
どちらが正しいのか、時間が経てば経つほどあやふやになりそうで怖い。
今はまだ、あの強烈過ぎる記憶があり、実際に変わってしまった世界を見ていないから「追加された」と言い切れるが、これがずっと続いていったとしたら、あの楽しかった日々をただの妄想と見なしてしまう時が来るかもしれない。
それはなんとしてでも避けたいところだ。
私は極力平常を装いながらキョンくんと分かれ、見慣れぬ黒い学生服が混ざる、見慣れた校内へ歩を進めた。
女子の比率の方が多いのはやっぱり本来女子校であった名残なんだろうか。
とりあえず朝一番に図書室へ入り、学校の歴史を記した普段なら見向きもしないような本を開く。
それによると、もとから共学であったらしい。
どうやら一年以上前の情報も改変されてるらしい。
それなのに、私の中に追加されたのは一年分だ。
どういうことだろう?
一年分遡って世界を改変したとでも言うんだろうか。
それ以前の情報は私たちに刷り込む形で改変し、それ以降は本当にそんな生活をしたように作り出した?
違う方法を用いる必要性が認められない。
世界を改変するなら、たった一分前に作り変えたとしても変わらないはずなのに。
一年――これは何かのキィになり得るんだろうか。
その方が改変による違和感が減るとか?
でも、私やキョンくんはそんなことに関係なくこの世界がおかしいと知っている。
それは、どうしてなんだろう。
関係ないのかもしれないけれど、関係あることも混ざっているかもしれない。
考え込みながら本を閉じる。
学校はいつものように静かだった。
大人しいのはお嬢さんばかりだからだと思っていたが、男がいても進学校ゆえか静かなままらしい。
お通夜じゃないんだから、もう少し騒々しく青春を味わったところで構わないと思うんだけれどね。
キョンくんのように、「やれやれ」と嘆息すると図書室を出て、教室へ向かった。
進学校になったため、授業のレベルが上がっているのは私としては有難い、というよりむしろ楽しいが、それさえも不気味だ。
一体どこまでのレベルで世界の改変はされたのだろうか。
私とキョンくんはこのまま、この違和感を抱いたまま、この世界で暮らして行かなければならないのだろうか。
……そんな退屈なことは嫌だな。
結局その日はほとんど収穫もなく、つまらないまま一日が終った。
それはそれまでの私の日常と、大して違わないはずなのに、どうしてだろう、今日ばかりは酷く退屈でうんざりしたものに思えた。
家に帰り、大人しく過ごすそのことさえ、嫌に思えた。
キョンくんは何か探していたんだろうか、なかなか帰って来ず、帰ってきた時には心底意気消沈していた。
「…大丈夫? キョンくん」
「……大丈夫じゃない」
だろうね。
「本当に…どうなってるんだ」
「世界が改変されたと私は思ってるけど……キョンくんは?」
「……俺もそう思う」
「そうじゃなかったらパラレルワールドに放り込まれたってのもありかと思うけど、私たち二人だけってのがおかしいし、それなら記憶の追加はないはずだから、やっぱり改変だよね。多分」
「ハルヒが春にやらかした時の感覚をお前が知ってたらもっとはっきりしたんだろうな」
「そうだろうね。……あの時は私はハルちゃんのことなんて知らなかったな」
そこでふと、気がついたことを口にしてみた。
「私たちの方がおかしいってことはないかとか、キョンくんは思った?」
「思ったとも」
吐き捨てるように言ったキョンくんに、私は頷く。
「私も、思ったよ。でも、キョンくんが同じことを言う、そんな整合性の取れた狂気があると思えない。いくら双子でも私とキョンくんは二卵性で、痛みや感情が伝わったこともないんだしね。だから、」
私は落ち込んでいるキョンくんの背中をぽすぽすと撫でながら言った。
「キョンくんがいてくれて、よかった」
「…俺もそう思う。姉さんがいてくれてよかった」
そうキョンくんは力なく笑った。
痛々しい笑み。
キョンくんにこんな表情をさせるようなことを、一体誰がしたんだろう。
「そうだ」
ふいに、キョンくんが言った。
「忘れるところだった」
「何?」
キョンくんはポケットから一枚の栞を取り出した。
書かれている文字には酷く見覚えがある。
印字したように見事な明朝体。
でも、その意味は?
「これ、ゆきりんが書いたの?」
「多分な。それも、俺たちの知ってる長門が書いたものだと思う。今の長門は知らないと言っていた」
「……よかった」
「姉さん?」
「やっぱり、こういう物的証拠が出てくると違うね。私は、これでもう迷わなくて済むよ」
思わず笑みがこぼれる。
「大丈夫、絶対何とかなる。ううん、してみせようよ。ね、キョンくん」
キョンくんは戸惑うような表情をしていたが、すぐに小さく笑い、
「ああ」
と頷いてくれた。
さっきの弱々しい笑みとは違う。
信じられる笑顔だ。
「私、明日、片っ端からハルちゃんを探して見るよ。ハルちゃんが好きそうなところとか、行ってみる。授業はどうせ半ドンだしね」
こうなったら形振りなんて構わなくていい。
頭がおかしいって言われても止めない。
街中で大声で、ハルちゃんと叫んだっていい。
狂人扱いされて病院に連れて行かれそうになったら、助けてよね、キョンくん。
「ああ、その時は俺も道連れかもしれないけどな」
そう冗談のように言って、笑いあえた。

とは言ったものの、一応ちゃんと学校にいかないとお母さんに心配を掛けるだろう。
妹の教育にもよろしくない。
受けても受けなくても変わらない授業を受け、ひたすらハルちゃんのことを念じていると、二時間目と三時間目の間の休み時間に、私の携帯が鳴った。
マナーモードにし忘れていたことに驚きながら、キョンくんからの電話に出る。
「もしも…」
『そこにハルヒはいないのか!?』
走っているのか、荒い呼吸と共にキョンくんが叫んだ。
「ど、どういうこと?」
『谷口が言ってたんだ。ハルヒはそこに通ってる。探してくれ、姉さん』
「ハルちゃんがうちに…?」
驚いた。
ハルちゃんがいるならもっと校内が騒々しくていいはずなのに、うちの校内はいつも通り静かだ。
『春先のままのハルヒならあり得る。あいつはあの頃、中学時代みたいな無茶をするのも嫌になって、無気力なくらい憂鬱状態だったからな』
「わ、分かった。とにかく探してみるよ。でも、キョンくん今どこにいるの?」
『そっちに向かってる。正門で待ち伏せするつもりでいるから、ハルヒを見つけたらなんとか足止めしてくれ。いや、足止めまではいらないかもしれない』
まあ、まだ三時間目もあるのに今から走って来てるんならね。
『別の門から出てったりしないようにしてくれると助かる』
「分かった。私に禁則事項はある?」
キョンくんは少し考え込んでから言った。
『ない。全部暴露してもいいくらいだ』
「じゃあ、出来るだけハルちゃんの興味を引けるようにがんばるよ」
『頼んだ』
「頼まれた」
嬉しさに口元が綻んでくる。
通話を切ったが、休み時間は後五分弱ある。
私は近くの席にいたそこそこ仲のいい子に聞いてみた。
「ねえ、涼宮ハルヒさんってどこのクラスだったかしら?」
そこ、話し方が気持ち悪いとか言わない。
これが高校での私の標準なんだ。
「涼宮さん? ああ、あの方? あの方なら確か、隣りのクラスですわ。どうかなさったの?」
「ええ、少し話したいことがあるんですの。失礼しますね」
笑みを貼り付けたまま、私は隣りのクラスへ入る。
いい具合に騒がしい中、私は見つけた。
恐ろしく不機嫌な、長い髪をした少女――でもそれは間違いなくハルちゃんだった。
その隣りにいるのはいっちゃんじゃないか。
こりゃ驚いた。
そこそこいい雰囲気になってるよ。
びっくりー。
でもまあ、邪魔させてもらおうかな。
「こんにちは」
いきなり話しかけてきた私に、ハルちゃんは不機嫌な目線をくれた。
Mっ気があったらぞくぞくしそうだ。
「誰?」
「私? 名前なんか気にしなくていいのよ」
だって言ってないし。
「私のことはお姉さんとでも呼んでよ。いつも通り」
というか他の呼び方は受け付けないよ。
「はぁ?」
あんた頭おかしいんじゃないの?
というハルちゃんの声なき声が聞こえた気がする。
「ハルちゃん、不思議なこと好きだよね」
「ハルちゃんって何よ。馴れ馴れしい」
「自分を残して世界の全てが変化する――そんな状況って、ハルちゃん的には不思議って言えるのかな? それとも、言えない?」
「…不思議だとは思うけど、それがどうしたっていうのよ」
「今の私の状況…というか、私と弟の状況がそれなんだ」
怪訝そうにハルちゃんが私を睨む。
「にしても、本当に忘れられちゃってるんだねー。ハルちゃんもいっちゃんも薄情だな」
こりゃあキョンくんがへこむのも分かるわ。
「いっちゃんというのはもしかすると僕のことでしょうか」
「他にいっちゃんがいたら紹介してもらいたいな」
まあ、と私は思わせぶりな笑みを浮かべ、
「私の話がただの妄想だと思うかどうかはともかく、不思議を味わいたいと思っているんなら、少し耳を貸したっていいんじゃないかな。嘘なら嘘で、ハルちゃんならすぐに判断出来るんだろうし」
「……いいわよ」
ハルちゃんは噛みつくように言った。
「その代わり、全然つまらなかったら許さないからね」
「うん、つまらないなんてことは絶対ないと思うけど」
それじゃ、と私は身を翻す。
次の授業の始業を告げるチャイムがもう鳴ろうとしているのだ。
「放課後、私の弟も交えて話そうよ。ここで待っていて。迎えに来るから。いっちゃんも、来るんだよね?」
「涼宮さんが行かれるのでしたら、お供しましょう」
いっちゃんの寒イボが出そうな発言に私は曖昧な笑みを返し、自分の教室へ帰った。
授業終了が待ち遠しいと、これまでになく思いながら。