蝶々めぐり
  ネタ提供:銀様



卒業式を明日に控えていれば、普通、部室になんて来ないもんだろう。
大抵の部活は三年ともなればとっとと引退しているだろうし、そうであろうとなかろうと、卒業式前日ってのは練習が終ったら帰るもんでもあるはずだ。
それなのになんで俺がわざわざ部室に来ているかというと目の前で下手な碁ならぬ下手なオセロを打つ野郎――結局ろくに上達しなかった――が誘ったからである。
それに、幸か不幸かはたまた何かの陰謀か、俺たちはそろって同じ大学に進学することが決まっているせいで、SOS団の活動はまだ続くらしいしな。
ため息を吐くと、
「すみません、こんな時間まで付き合わせてしまって。もうここでオセロをする機会もないと思うと、なんだか惜しく思えてしまったものですからつい…」
「ああいや、そういうことが言いたかったんじゃない。ただ、いつまでこうしているのかと思ってな」
「……ええと、それはもう帰りたいという意味ではないんですか?」
情けなく眉を下げながら言った古泉に、俺は軽く首を振り、
「そういう意味じゃない。…こうしてられるのも、今日が多分最後だろ。そう思うと、やっぱり惜しくてな」
古泉はどういうわけか黙り込んでしまったが、俺は構わず続ける。
「勿論、あいつのことだから大学に入ってもやることは変わらんだろうし、俺たちが暇を持て余してどこか空き教室なんかでこんな風にゲームしたりすることになるかも知れないが、それでも、こことじゃ違うだろう?」
「そうですね。……ああ、でも、そうですね。大学構内にいい場所がなかったら各自の家を提供するというのも、涼宮さんに提案してみたら面白いかもしれません」
「勘弁してくれ。どうせ俺の部屋ばっか使うつもりだろ」
それか長門の部屋だ。
「僕の部屋でもいいんですよ?」
「……そういや、お前の部屋なんて、一度も行ったことがないままだったな」
俺が呟くと、古泉は妙な間を空けて、
「……いらっしゃいますか? 今日、これから」
「……は?」
「下見を兼ねて、ってところでどうでしょう」
言いながら古泉はすでに片付けの体勢に入っている。
「うん、いいですね。もう二月も終りとはいえ、ここではまだまだ冷えますし、僕の部屋なら暖房も完備です。寒い思いはさせませんよ」
にっこりと微笑んだ古泉の提案に乗っちまったのは……なんでだろうな。
魔がさした、あるいは試してみたくなった、とでも言うんだろうか。
俺は古泉に連れられて古泉の部屋を訪ねた。
三年弱の付き合いがありながら、それまで一度も訪ねてみたこともないままだったのだが、初めて入ったその部屋は、想像以上に小奇麗にしてあった。
「……これはあれか。週に一度は清掃サービスでも入ってるとかそういうことか」
「違います。ちゃんと自分で片付けているだけですよ」
どんな風に思ってたんです? という問いは無視して、俺は勧められるままソファに腰を下ろした。
部室から持って帰った最後のボードゲームであるところのオセロをガラステーブルの上に置く。
「ああ、ちょっと待ってください。今コーヒーを淹れて来ますから」
そう言って古泉はリビングルームを出て行った。
「……やっぱりまた…コーヒー…か」
ため息めいた俺の呟きは、果たして古泉の耳に届いたのだろうか。
届いていたとしても、その意味は分からなかっただろう。
俺は改めてため息を吐き、何も知らない顔を作った。
今感じているのはただの予感だと思いながら、それだけじゃないんだろうなとどこかで確信めいたものを感じて。
少しして戻ってきた古泉は、俺の前にコーヒーカップを置いた。
「冷めないうちにどうぞ」
「ああ」
そう答えておいて、俺はコーヒーカップではなくオセロに手を伸ばした。
「お前が先手だろ」
「そうですね」
答えた古泉が石を置く。
部屋の中にしばらく、パチパチと快い音だけが響いた。
俺も古泉も何も言わない。
何か言いたいと思いながら、言葉を見つけることが出来なかった。
ややあって、古泉が口を開いたかと思うと、
「涼宮さんから、告白されたそうですね」
という話題で、俺は思わず口をへの字に曲げたが、
「…ああ」
と正直に返した。
どうせ、調べられているんだろうがな。
「返事は…どうされたんです?」
「保留だ」
「もう、決まっているんじゃないですか? 機関には内緒にしておきますから、教えてくださいよ」
馴れ馴れしくもそう言った古泉に俺は眉を寄せつつも、
「……そうだな。大学に入ったら……付き合ってもいいかとは思ってる」
その方がいいんだろ?
お前らとしてはさ。
「そう…ですか」
「不満そうだな」
「不満だなんて、そんなことは決して。むしろ、大変喜ばしいことだと思っていますよ。これで、今度こそ彼女の持つ能力も収束に向かってくれるかもしれませんし、そうなれば我々も辛い任務からやっと解放してもらえるわけですからね」
嘘吐け。
俺は眉を寄せながら、言葉を何とか飲み込んだ。
どうやったってこいつが素直じゃないことは分かってる。
それから、俺の口じゃこいつに勝てないってこともな。
だったら、意表をつくしかないだろう。
だから俺は黒を表にした石を緑色の盤上に置いて、古泉を見つめた。
そうして口を開く。
「変態」
古泉は何か思い当たる節でもあったのか、石を置こうとした指をびくりと震わせて俺を見つめた。
「……すみません、発言の意図が理解出来ないのですが…。『幼虫が成虫へと姿を変える現象』について、何か仰りたいことでもあるんですか?」
残念だが、俺が言いたいのは虫なんかに当てはまるやつじゃなくて、人類に当てはまる方の変態だ。
「そうですね…。変態という神秘は、よく、人々の変身願望やサクセスストーリーにたとえられています。しかし、時には全く逆の解釈が当てはめられるのが興味深いと思いませんか?」
饒舌に話す古泉に、なんとなく、懐かしいと感じた。
こいつの行動パターンが分かるからだろうか。
俺がそんなことを思っているとも知らず、古泉は話を続ける。
「たとえば、蝶になって百年、花の上で遊ぶ夢をみた後、自分こそが蝶の見ている夢なのではないか、と疑った『胡蝶の夢』という故事があります。そうやって疑い始めると夢と現実の境が判別出来ないものだということは、あなたにも感じられるのではないでしょうか。蝶になる夢がめぐりめぐって、この世の生の儚さに結び付けられているわけです。どちらのパターンにも共通しているのは、一度別のものに生まれ変わる、という概念でしょうか。それを裏づけるかのごとく、実際の蛹はいったんどろどろの溶けて、形をなくしてから蝶になるそうですよ」
そこまで捲くし立てていつもの貼り付けた笑顔でピリオドを打つ。
相変わらず――本当に全然変わってない――本心を隠すためにはよく回る舌だ。
「変わらねえな。お前も」
俺も、変わってないんだろうか。
こんなにも長い時間が流れたってのに。
「…どういう意味でしょうか」
戸惑う古泉は、やはり覚えていないんだろう。
俺だけが覚えているとしたら、それは何かの呪いなんだろうか。
あるいは、俺の執着心の方が強すぎたってことか?
俺は、これまで誰にも言わずにいたことを言って聞かせてやるべく口を開き、
「古泉、お前は知らんだろうが……」
と切り出そうとしてやめた。
その前に言うべきことがある。
「俺がさっき言った変態という言葉の意味はな、『なんにもないような顔をしてコーヒーに薬を盛った挙句、人を無理矢理犯そうとするやつ』という意味と、そんな野郎に対する罵りだ」
古泉の顔からさっと血の気が引くのを見ながら、俺は指先で軽くコーヒーカップを弾いて鳴らした。
金属質な軽い音が響き、暗い色をした液体が揺れる。
この中に沈んでいるのはやはり痺れ薬なんだろうか。
それとも催淫剤か睡眠薬か、俺じゃ思いもしないような薬か。
「それ…は……どういう…」
引きつった顔で、上擦った声で古泉が言う。
俺は卑しく唇を歪めて、古泉に代わって笑みを見せ、
「入れたんだろ? また」
「また…?」
そう、まただ。
本当にお前という奴は進歩がない。
あれから何年経ったと思ってるんだ。
「あの、仰っている意味がさっぱり理解出来ないのですが…」
「そりゃそうだろうな」
そう笑って、俺はコーヒーカップを手に取り、自分の過去を映し出すような濁った液面に視線を注ぎつつ、話し始めた。
丁度百年前の悲恋の物語を。
それを話しながら、どうしてだろうな、辛いはずの内容だってのに、気がつけば俺は笑っていた。
酷く懐かしく、楽しい思い出にさえ思えたのは、最終的に過去の俺が壊れてしまったからなんだろうか。
「…信じられません……」
古泉の感想はそれだった。
「生まれ変わりでも転生でも胡蝶の夢でも一炊の夢でもなんでもいい。あるいはあれは歪んだ形での予知夢なのかも知れん。それに、これが夢で、あっちの方が現実って可能性もないとは言い切れないってのが、お前の考え方だろ?」
だが、と俺はコーヒーカップの縁に唇を滑らせ、
「とりあえず、お前が俺の見た夢と同じことをやらかしたってことに間違いはないようだな」
ぎくりと身を竦ませた古泉を挑発するように俺は笑う。
「お前がどっちの説を取るかは分からんが、とりあえず俺の考えを言ってやろうか」
古泉の返事はない。
それを肯定と受け止めて、俺は言ってやった。
「俺はあれが本当に遭ったことだと思っている。俺とお前の前世だとも。そんなものを俺が覚えたままこうして生きてきたことも、あれから丁度百年目の、今日のこの日に、全くではないにせよ同じようなことをやらかしてくれたってことにも多分、意味はあるんだろう」
そう言葉を途切れさせても、古泉は何も言わなかった。
ただ、冷や汗でもかいているんだろう、珍しくも縮み上がった様子のまま、テーブルを見つめていた。
「古泉、人が歴史を学ぶ意義は何だと思う?」
「…さあ、なんでしょうか……」
掠れた、古泉らしくない声が返ってきた。
「俺はな、同じ過ちを繰り返さないために学ぶんだと思ってる。それでも何度も同じような失敗をしちまうのが人間って奴なのかも知れんが、少なくとも少しは改善して、前進するべきだろ。だから……俺が過去を覚えていると言うことは、同じ失敗をするなってことなんだろう。あの時のようにお前を失って、自分が壊れるようなことのないように」
だから、さあ、今度こそお前の心の内を聞かせろよ。
手の内は、もう百年も前に割れてるんだから。
「それとも……もう一度このコーヒーを飲み干して見せようか」
あの時と同じように。
薄く笑った俺がコーヒーカップの縁をかじると、古泉はやっと観念した様子を見せた。
その口が開くようにと、俺は更に問い詰める。
「俺が頼んだら、お前、俺を連れて逃げてくれるか? ハルヒの機嫌なんてとらなくていい、ハルヒと付き合う必要なんかないって、俺を止めてくれるか? それとも俺が好きと言ったら、」
「言われなくても、そうするつもりでいました」
古泉は俺の言葉を遮って、意外と強くそう言った。
それでもなお、苦しげに顔を歪めながら、
「あなたに嫌われても、あなたにどんなに罵られても、あなたを手に入れたいと思ってしまったんです。どんな手を使ってもいいと、そう、思って……」
「ありがとな」
俺が言うと、古泉は心底驚いた様子で俺を見た。
だが、俺は唇を柔らかく緩めながら、
「それくらい、俺のことを想ってくれたんだろ? 違うのか?」
「そう……です、僕は、それくらい、あなたが…好きで……世界なんて、いえ、それどころか、あなたの気持ちさえ、どうでもいいと思ってしまって……でも…なのに、どうして……」
困惑する古泉の目の前で、俺はコーヒーカップをソーサーの上に戻し、空いた手を古泉に向けて伸ばす。
そうして抱きしめると、古泉が震えているのがよく分かった。
震えながらも、怯えるような拙い動きでその手が俺を抱きしめてくる。
「……これは、夢…ですか…?」
そう聞かれた俺は笑い、
「確かめてみればいいだろ」
と挑発的な言葉を口にして、抱き寄せられるまま、目を閉じた。