囚われた蜘蛛
執筆者:やすとし様
築三十年ほどにもなる和洋折衷の瓦屋根の洋館は、僕にとって深い憎悪の対象だった。そこに暮らす主人も、その奥方も、使用人でさえ恨みを覚えていた。何故なら、僕の優しかった父をその主人が汚い手を使って破産させ、自殺にまで追い込み、その借金の分を母に働いて返せと迫った。母は父を失った事に嘆き悲しむ暇もなくその館に仕える事になり、僕も自動的にそこで働く事になっていた。あの主人が裏で何かしたに決まっている。でなければあの誠実な父が破産になんて追い込まれる訳がない。あの主人さえいなければ、僕ら家族は皆で幸せに暮らしていけたのに…!!恨みは深く募り、僕は主人だけではなくその館を含めた何もかもを憎んだ。いつか復讐をしてやるのだ、と。あの高慢な顔に泥を叩き付けて、僕達家族にそうしたように幸せを奪い取ってやるのだと、幼い頃よりずっとずっとそう思い続けていた。 僕にまわされた仕事は、母が乳母を務めていたこの館の娘に仕える、…執事の役目だった。僕は正直この話を聞いたとき胸の奥でほくそ笑んだ。例えあの男が血も涙もない非人間であろうとも、血の繋がった娘は人並みに大事に想っている事だろう。もしその娘に何かあった場合、あの顔をどれだけ歪ませるか………想像しただけで胸が躍った。さて、何をしてやろうか。すぐに行動に移すのは愚かだ。娘の信頼を勝ち取るまでは僕は猫を被っている事にしよう。そして信頼を勝ち得たその時には……。すっかり顔に張り付いた笑顔を浮かべて、僕は喜んでその仕事を受ける事にした。そして、僕は娘……そう、彼女に出会った。笑顔で僕に挨拶をする彼女を見て、僕は心の中で舌なめずりをする。 恨むならば父親の所業を恨むといい。その晴れやかな笑顔が絶望に歪み崩れ落ちる様を、僕は見たいのだ、と。 彼女に仕える事になって、僕はまた別の視点からこの館を見る事になった。はたして、あの父親の娘とはどんなに高慢で我が儘な人間なのかと思いきや……彼女は確かに我が儘ではあったが、それは如何にも子どもらしい小さなものでしかなかった。女性であるのに自身の事を「俺」と呼び、男のような喋り方をして、部屋に閉じこもっているのは退屈だとごねてスカートを振り乱して駆け回る。正直、僕の脳内にあった予想とは大分外れていて、暫くは調子が狂った。しかも彼女や他の使用人達から詳しい話を聞いていけば彼女はこの館や主人達を疎んじているようで、この館における彼女の扱いというのも、仕事の為の道具でしかなかった。彼女には華族らしく、幼い頃に親同士で婚約を結んだ相手がいるのだが……その相手というのが主人にとって多大な利益を与える存在であるというのだ。血の繋がった実の娘でさえ、自分の為に簡単に捨ててしまえるのか、と僕はその時にゾッとした。彼女は利益を得る為の大切な道具ではある、だからこうして部屋に閉じこめて道具に少しでも傷がつかないように、としている。決して娘を守る為にではなかったのだ。その事実を知れば知るほど、僕は彼女に同情的になっていた。憎悪するあの男の娘である事は確かだ、でもそれ以上に、彼女も僕と同じようにあの男に道具扱いをされている人間なのだ。そう思えば思うほど、彼女の我が儘にも親身になって付き合うようになっていた。外に出たい、が彼女の口癖で、僕に外に一緒に出かけてくれと必死になって頼み込んできた。男装をすればすぐにはばれない、とイタズラっぽく笑う彼女を前に、僕はそれでもすぐにばれて引き戻される事を分かっていながら、彼女の願いを了承した。彼女がどのような所に行って喜ぶかは分からなかった、が僕が知っている限りの場所に連れて歩くとそれだけで大はしゃぎして喜んでいた。いや、きっと場所など何処でも良かったのだろう。彼女にとっては、僕とこうして外を出歩いている時間だけが自由を感じられていたのだろうから。そう思うと、暫く忘れていた温かなものが胸によぎった。後で見つかって、母や憎き主人に叱られ説教される事になっても、僕は彼女の願いをずっと聞き入れてきた。仕えている身分として逆らえないからじゃない。僕自身の意思で、僕は彼女と共に外に出たかったのだ。 何度も外に出ては連れ戻される中、僕は気付けば一つの欲求を抱いていた。最初はただ彼女と外を出歩く事が出来れば良かった。あの晴れやかな笑顔を見る事が出来れば良かった。…本気でそう思っていたはずなのに。年を経るごとに、その欲求は色を変えていった。彼女はこの館を出たがっている。自由になりたいと思っている。そして、彼女はきっと僕に何かしらの好意を抱いてはいてくれているはずだ。それは、共犯者、友人、といったものでしかないかもしれないけれど…それでも、この館にいる他の誰よりも、彼女は僕を信頼してくれているはずだろう。それならば…彼女は、僕を求めてはくれないだろうか。このまま逃げてしまいたい、と。館にはもう戻らない、お前と逃げる、と言ってはくれないだろうか。彼女の口からそう言ってくれれば、僕は復讐も、父の事も母の事もこの館の事も何もかも忘れて、共に手を取り合い何処までも行けると思っていた。 ………そう、僕は彼女をそれほどまでに愛してしまっていたのだ。 しかし、彼女はいつも館の者に見つかると諦めた目になって、帰ろうと僕に告げた。何故。どうして。今ここで彼女が逃げるぞ、と言ってくれればどんな手を使ってでも館の者を振り切って一緒に逃げ出すのに。否、その時だけじゃない。彼女と外を出歩いている間に、一言だけでもそう告げてくれれば、館の者に見つかる事もなく逃げおおせる自信があった。それなのに、何故。彼女は外に出たいと、この館から逃れたいと思っているのではなかったのか?それなのに、どうしてまた館に戻っていくのか。何もかも全て諦めたような顔をして、あの牢獄の中にいる事を受け入れているのか。僕はそこまでの信用に足る人間ではないと言うのか?それとも……出て行きたい、逃げたい、と口にしながらもこの館に閉じこめられる身分に甘んじているのだろうか。そんな事は勝手だ!!なら僕はどうすればいいのか…彼女の口にする願いを叶えてやりたい、それ以上に彼女と共にどこまでも逃げてしまいたいと思っている僕の願いを、どこに投げ置けばいいのか!!身体が引き裂けそうなその思いに藻掻き苦しみながら、僕は彼女からまた外に行きたいと願われる時を待った。今度こそ、また次こそ、彼女からのもう一言が聞ける事を信じて。 嗚呼、それなのに。気付けばどれだけの年が経ってしまったのだろうか。半年後には、例の婚約者と彼女が結婚式を挙げる事になってしまった。仕方ない、という表情を浮かべたままの彼女に、僕は絶望した。彼女はこのまま結婚という事実も受け入れ、諦めて嫁いでいくというのか?あの男の駒にされているだけという事も知らずに、望んで結婚したいとも思っていない相手の腕に抱かれるというのか?……僕の腕に抱かれる事も、なく。そう思うと、何処までも深淵に真っ逆さまに突き落とされる心地になった。この館は、どれだけ僕を絶望の淵に陥れれば気が済むというのか…!それならばいっその事……!! “彼女を無理矢理奪って、踏みにじってしまえばいい” 悪魔がそっと耳に囁きかけた。その声のあまりもの甘美さに、はたとする。………彼女を、奪う? “このまま彼女を嫁がせてしまっていいのか?それでお前の気が晴れる事はあるのか?彼女を奪え。処女を奪ってしまえ。婚約など破棄に追い込んでしまえばいい。自分を選ばなかった彼女に復讐を。自分を追い込んだ館に復讐を。お前が望んでいた事だろう?復讐と、彼女。一度に両方叶うんだぞ?自分の気持ちに気付かなかった彼女に教えてやればいい。自分の苦しみを、恨みを、全てをズタズタにする事で教えてやろう!” けらけらと悪魔が嘲笑する。僕の心はあまりにも不安定で、ぐしゃぐしゃに乱れていた。故に、その悪魔の誘いはあまりにも優しく甘いもので……僕は迷うことなく、その誘いに乗ってしまった。 ───それから。僕は薬を手に入れ、彼女を奪った。どうしてと歪む顔、僕が事実を告げた時に見開かれた目、すすり泣く声。そしてペチコートの切れ端についた赤。今でも一つ一つハッキリと思い出せる。僕はそっとポケットの中に入れておいたその切れ端を取り出した。彼女に告げた言葉ははったりな訳ではなかった。それなのに、いざ婚約者に贈ってやろうと思うと手が止まってしまった。何故彼女の破瓜の証を婚約者に見せなければいけないのだ。これは僕が彼女を奪ったという証だ。僕だけのものだ。僕だけが目にしたものだ。他の誰にも見せる事なんて出来ない。そうグルグルと思考を巡らせて、結局ポケットの中にずっとしまってある。捨てる事も出来なかった。僕以外の誰かの目につくという事だけでも許せなかったから。それに、わざわざ僕が贈らずとも婚約は破棄されたと噂に聞いた。当然だ、女中に見られた訳だし、大事な道具に傷物がついたのだ、売れる訳がない。彼女は変わらず家に閉じこもったままだ、と…いや、閉じこめられたままだ、とも聞いた。 “これで良かったんだろう?復讐も果たせた、彼女も奪えた。最高に晴れやかな気分だろう?なあ?” 悪魔がまた頭で囁く。僕はその言葉に頷けないまま、切れ端を握りしめて俯いた。そうだ。復讐は果たした。母が今どうなっているのかは分からないが、こうしてあの主人の完璧だった計画に泥を塗り付け、高慢な顔を歪ませる事は出来ただろう。そして、彼女を婚約者に奪われる事なく、奪う事が出来た。全てを告げ、僕を刻みつけて、二度と僕を忘れないようにしてきた。彼女が僕に対してどんな感情を抱いたとしても、きっと僕を忘れる事は出来ない。一生、延々と、あの日の事を思い返す事だろう。………そこまで考えた所で、彼女の泣き顔が頭にまたよぎった。 待て、と制止の声を上げた彼女。僕は最後まで聞かずに部屋を飛び出していったが…彼女は、次になんと告げようとしていたのだろうか。彼女が薬が切れたのにもかかわらず抵抗しなかったのは、何故。助けを求める事も容易に出来たはずなのに、声を上げずに泣いていたのは。僕に問いかけてきた言葉は。嘔吐を起こしそうな程頭をめぐる答えのでない問いかけに、僕は頭を抱えて蹲った。すると、僕があの館を飛び出してた後、素性を偽って住み込みで働かせてもらっている店の主人がどうかしたのかと心配そうに声をかけてくる。なんでもないですよ、と笑みを浮かべるも主人の顔は余計にしかめっ面になるだけだ。最近ずっとそうやっている事が多い、具合でも悪いんじゃないか、と。その言葉を聞いて、僕は茫然とした。 ………なんて事だ。彼女に二度と忘れぬように、などと刻みつけてきたにも関わらず、僕がこうして彼女を忘れられないでいる。それどころか、何度も思い出しては悔やんでいる。…そうだ、僕は悔やんでいたのだ。どうしようもない程、後悔の念に襲われていたのだ。何故ああして奪う事しか出来なかったのか。何故あの時彼女を連れて逃げなかったのか。何故、復讐して奪うだけならば好きだという想いを告げてしまったのか。恨まれたくなかったから?彼女にどう思われても、などと思いながら、恨まれ憎まれるのが恐ろしかったからか?少しでもいいから、彼女に想いが届いて欲しいと……応えてはもらえないかと、期待したのか?もう二度と会う事はない、などと告げておきながら、僕は迷いに取り憑かれていた。そして、一つの考えがぽつんと浮かぶ。もし、まだ彼女があの部屋にいるのならば。もし、彼女と会う事が出来たのなら。もし、彼女が、僕がずっとずっと望んで焦がれていた言葉を告げてくれるとしたら。僕は………………。 衝動に突き動かされるまま、僕はもう二度と訪れる事も見ることもないだろうと思っていた洋館の元に足を運んだ。久しぶりに見上げるその洋館はやはり何も変わっていない。ならば、彼女のいる部屋も……そう思って、そっと身を隠すようにしながら入り込む。見張りの目をかいくぐる事など造作もなかった。そして僕は、彼女の部屋が見える窓の前に来た。気付かれぬよう、離れた位置からそっと覗き込むと……彼女はそこにいた。椅子に座り、祈りを捧げるように両手を組んで額につけ、目をつぶっている彼女。やはり彼女はここから動かないままなのか、とふと思ったが、それ以上に組まれた手が気になった。一体何の祈りを捧げているのだろうか。もしかして…と思うと心臓がドクンと高鳴った。まさか、そんな、いや、でも。期待と不安とで身体がみっともなく震え出す。僕は彼女を傷つけたのだ。ズタズタにして、思い出さえも裏切ったのだ。それなのに、それなのに……でも、彼女は……… 「………、…っ!?」 僕の足は自然と窓の傍に寄っていっていたらしい。彼女はふ、と息を吐くと目を開いて顔を上げ………僕に、気付いた。 「あっ……」 しまった、と思う間もなかった。彼女はただでさえ大きな瞳をこぼれ落ちそうな位に見開くと、椅子を蹴り倒すようにして此方に駆け寄り、窓にバンッと顔をぶつけるような勢いで張り付いた。 「……夢、………じゃ、ない……!古泉……、本当に、古泉、……なのか……!?」 窓越しのくぐもった声で、彼女が僕に声をかけてくる。信じられない、といったような驚愕の表情はやがてぐしゃりと歪み、目から真珠のようにボロボロと涙を流し始めた。あの日の彼女の顔と被りそうで被らない顔。僕はからからに喉が渇いてしまっていて、返事を告げられない。ただその場から逃げる事も出来ず、目を逸らす事も出来ず、立ちつくしたままだ。彼女は不安そうに目を揺らしながら窓に爪を立てて僕を見つめていたが、立ち去る気がないのをくみ取ったか、その目に別の色を浮かべた。 「ごめん、…ごめん、俺、ずっと気付く事が出来なくて……父親の事も…、お前自身の事も……何も、気付かなくて、考えなくて………。」 ごめん、とまた謝罪を繰り返す彼女。違う。僕が聞きたいのはその言葉じゃない。そうじゃなくて……。 「俺、外に出たいなんて言いながら、お前にずっと甘えていたんだ……ううん、この館にいる身分というのにも、甘えてたんだ…。出たいなんて口では言いながらも、俺みたいな世間知らずの娘が、とかどうせ使用人がすぐに見つける、なんて消極的に考えてそうしようとしなかった………。そんなひどい我が儘を、ずっとお前に繰り返していたんだな……。」 でも、と続いた言葉にビクッと情けない程身体が強ばる。彼女の目に映った僕の姿はどれだけ情けなく見えている事だろうか。それでも、僕は彼女の次に告げる言葉を聞きたくて仕方なかった。 「俺は……古泉、お前が、…お前の事が好きなんだ……。お前だけが、俺の唯一の救いなんだ…。あの夜、お前を引き止める事が出来たら……その前からも、お前と一緒にここから逃げる事が出来たら、って何度も何度も後悔した…っ。俺にはお前を捜す手段を考える事も出来なくて……それさえもまた悔しくて、辛くて……っ、どれだけ俺は世間知らずの大馬鹿娘なんだ、って……!」 嗚咽を混じらせながら、彼女がギギギ、と窓に爪を立てる。僕は今、この時こそが夢なのではないかと思いながら彼女を見つめ続け、その言葉を聞いていた。彼女が、僕を、好き?憎まれても恨まれても仕方のない事をしたはずだ。それなのに、彼女は謝罪を告げた。後悔をしていた。そして僕の姿を見て、涙を流し、僕を好きだと告げている。僕が意識の奥にずっと燻らせていた期待どおりの言葉ばかりが返ってくる。これは、一体何の夢なんだろうか? 僕は未だみっともなく震えたままの手をあげて、窓越しに彼女の手に重ねた。 一番の願いを、叶える事は出来るのだろうか。喉から手が出る程焦がれて、欲しくて仕方なかった彼女の言葉。 まだ、遅くはないのだろうか。何もかも全てを踏みにじってしまった後だというのに。 いや、それでも………彼女が願ってくれるのならば。彼女がその一言を告げてくれるのならば。僕にはもう、迷う事なんてなかった。 だからお願い。これが僕が彼女にする一番の願いだから。その一言があれば、すぐに僕は動くことが出来る。どうなっても構わない。 今すぐにでもこの窓を蹴破って、何処までも逃げおおせてみせる。無謀だと笑う者がいるなら笑えばいい。 だから、どうか…………僕に、願って欲しい。その一言だけで、僕は何処までも貴女と共に……。 「古泉、お願いだ………俺を、……俺と………!!」 |