「…っ、古泉…!」 思わずそう叫んで飛び起きた俺は、自分が大仰な屋敷にいるのではなく、極普通の狭苦しい部屋にいることに気がつき、同時にさっきまでのがただの夢だと気がついて、うんざりとため息を吐いた。 夢で見たのは、楽しい日々。 悪夢のような事件。 そして、結局どうなったのか分からない男。 そんな一連の悪夢にうなされて、俺は目を覚ましたのだ。 ぐっしょりと寝汗をかいていて、気持ちが悪い。 起き出すには早過ぎる時間だが、シャワーでも浴びた方がいいだろうな。 俺はため息をつきながらベッドから出て風呂に向かった。 何度も何度も繰り返す夢は、それこそいつから見るようになったのかさえ分からない。 それくらい以前から見ていた。 下手をすると、生まれる前、母親の腹の中でさえ見ていたんじゃないかと思うくらい、あの夢との付き合いは長い。 幼い頃は余りにも訳が分からず、ただ夢の中の自分の感情に引き摺られるように悲しくて、苦しくて、分からないまま泣いていた。 やがて、夢の中で繰り返される事件の意味に気がついてからは、夢に見るたびにぞっとした。 夢の中での俺は良家のお嬢様で、そうであれば男に無理矢理犯されるなんてことは恐ろしいだけだと思うのだが、夢の中の俺は、それ以上に悲しくて堪らないのだ。 そうされるまで、その男を好きだと気付けなかったことが。 あるいは、その男がいなくなってしまったことが。 しかし、問題はそんな夢を見るということじゃないのだ。 夢を見るというだけなら、それこそもう十年以上の付き合いだから、慣れた。 相変わらずあの夢を見れば気分が悪くなるし、夢の中の自分に引き摺られるようにその日一日を憂鬱な気分で過ごす破目になるのだが、それだって度重なればどうってことなどない。 問題は、名前も忘れてしまっていたはずの、夢の中のあの男とそっくりな野郎に、今の俺が――良家のお嬢様でもなければそもそも女ですらない俺が、出会ってしまったということだ。 それ以来、夢の中の俺はその男を、そいつの名前で呼んでいるのだが、正直勘弁願いたい。 おかげで、まともに古泉の顔が見れん。 出来れば今日もあいつが例の危なっかしいバイトに行ってくれんものかね、などと人でなしのようなことを思いながら、俺はまだ温まりきっていないシャワーを頭から被った。 …しかし、本当にそっくりだな。 そろそろ一年半以上の付き合いになる古泉の面を眺めながら腹の中で独り言つ。 背の高さは俺の方の背の高さが違うからよく分からんが、多分、夢の男とほとんど同じだろう。 髪の色も、いつも湛えている笑みも、時折見せる冷淡な表情も、どこか裏があるような言動も、似ている。 似過ぎている、と思うほど。 大体、大分馴染んできたはずなのに、どうしてこいつはいつまで経っても俺に敬語を使うんだろうな。 そういうキャラクター設定だかなんだか知らんが、ハルヒの目の届かないところでくらい、そろそろ素を見せてもいいと思うのだが。 そんなことを思いながら、夢の中の男同様、恐ろしく弱いプレイヤーである古泉とチェスを進めていたのだが、じっと見つめすぎたのか、古泉に困ったように苦笑しながら、 「どうかしましたか?」 と聞かれてしまった。 「いや…。何でお前はいつまで経っても敬語を使うのかと思ってな」 半分嘘で半分本当のようなことを言うと、古泉は軽く目を見張った後、もう一度笑って見せた。 「そんなことは気にしなくていいんですよ?」 「まあ、そうなんだがな。少し気になっただけだ。どうせキャラ作りの一環だからとか言うんだろ?」 「そう……ですね」 古泉は意外にもどこか歯切れの悪い調子でそう呟いた。 頷きながらもどこか納得し切れていない様子で。 「違うのか?」 「いえ、確かにそれも大きいとは思うんです。でも、」 でも? 「それ以上に、あなたにはどうあっても敬語で、出来うる限り丁寧に接しなければならないと、なんとなくですが、思ってしまうんですよ。本当に感覚的なもので、それ以上の意図などは何もないのですが」 なんだそりゃ、と返すことも出来ず、俺は驚きに目を見開いたまま言葉を失うこととなった。 だって、そうだろう。 なんでそんなことを言うんだ? まさかとは思うが、こいつもあんな夢を見ているんじゃないだろうな? それとも、記憶として覚えているとか? ……まさかな。 そもそも、俺だってただの夢を見ているだけに過ぎないかも知れないだろう。 それにしてはリアル過ぎるとは思うが、あれが自分の前世だとしたら報われないにもほどがある。 俺はため息を吐くと、 「まあ、今更敬語じゃないお前ってのも想像し難いけどな」 と返してやった。 随分間が空いてしまった気がするから、違和感はあったかもしれないが、古泉は特に何も言わず、ただ笑って、 「そうですね。僕も、すっかり慣れてしまいましたから、今のこれが自然という気もしているんですよ。それに、敬語であろうとなかろうと、関係はないでしょう? 僕とあなたの間には既に十分な信頼関係が築けている、というのが僕の錯覚や思いあがりでなければ」 「そうだな」 古泉はこれが自然だと思ってしまっているというのは、俺も同じだ。 だから、今更素の古泉を見たいとは特に思わない。 若干の興味もないといえば嘘になるが。 そんな風に話したりしながら、俺たちは放課後を過ごした。 言い忘れたが、部室の中には当然、朝比奈さんも長門もいた。 ハルヒだけはどこかに雲隠れしており、部室にはいなかったのだが、俺たちが帰ろうとするとどこかから戻ってきて、朝比奈さんと長門を掻っ攫っていっちまった。 残された野郎どもは苦笑しながら戸締りをし、大人しく帰ったわけなのだが、それがいけなかったのだろうか。 古泉と並んで歩きながら、俺は夢の中でのことを思い返していた。 屋敷に閉じ込められていた俺を連れ出してくれたあいつと一緒に、あれこれ物珍しいものを眺めながら街を歩いた、楽しい思い出を。 あんな日々がいつまでも続いていたなら、せめて夢の中だけでもそうだったなら、どんなにかよかっただろう。 あるいは、あんな楽しい思い出がなければ、全てを嫌で恐ろしいものとして片付けられたかもしれないのに。 ため息を吐いた俺に、 「難しい顔をして考え込んだりして…どうなさったんですか? 何か、悩み事でも?」 心配そうな顔を近づけてくる古泉に、俺は慌てて距離を取りながら、 「なんでもない。ちょっと、夢見が悪かっただけだ」 と返した。 「夢見が……ですか」 ああ、それだけだ。 「どんな夢だったかは少々差し支えがあるから聞いてくれるなよ」 冗談のようにそう言えば、古泉は笑って頷き、 「分かりました。あなたがそう仰るのでしたら」 だからどうしてお前はあいつみたいにそう従順なんだ。 戸惑い、同時になぜか苛立ちながら、俺は古泉と別れ、家へと急いだ。 ほとんど駆け込むようにして飛び込んだ自分の部屋で、ベッドに突っ伏す。 もし、俺の見ているあの夢が、ただの夢なんかでなく、俺の前世だとしたら。 そして、古泉が、あいつの生まれ変わりだとしたら。 潜り込んだベッドの中でそんなことを思い描く。 理屈で行けば、今更何が変わるわけでもない。 俺は俺であり、夢の中の俺とは違う。 だから、古泉があいつの生まれ変わりだとしても関係ない。 そう思おうとするのに、もしも本当にそうだったらと思うだけで、胸の中がざわめく。 気持ちが悪くなりそうなくらい、奇妙な感情が膨らんでいく。 それは、幸福感とも好奇心とも恐怖ともつかない何かだ。 古泉が、あいつなら。 「…今度こそ、幸せになりたい……」 思わず口から飛び出した言葉に、俺は頭を抱えた。 幸せにって何だ。 しかも、何だ今の情けないことこの上ない声は。 夢の中の俺だってあんな声を出したことはないぞ。 顔が熱くなり、真っ赤になっているのが分かる。 当然だ。 なんつう恥ずかしいことを考えちまってるんだ、俺は。 冷静になれ、と深呼吸を繰り返す。 同時に、あの夢の中でも最も恐ろしい部分を思い出そうとした。 痛くて、怖くて、悲しくて、思い出すだけで震えそうになるシーンをわざと思い描く。 あんなこと、絶対にもう御免だろ。 そう、思うために。 煮え滾った頭に冷水をぶっかけるようにしてやると、少しだけ理性が戻ってきた。 そうだ。 夢の中ならともかく、現実の俺はもはや女などではなく、歴とした男である。 そうであれば、同じく男である古泉と幸せになることなどあり得ない。 それに、今の俺の性志向はいたって一般的なヘテロタイプであり、男に恋愛感情など抱きうるはずなどなく、そうであれば古泉に対してあれこれ思ってしまうのは間違いなく、ただの錯覚であり、幻想に引き摺られているだけに過ぎないのだ。 だから、と無理矢理打ち消そうとして気がつく。 ……何を必死になっているんだ、と。 「…重症だ」 だって、そうだろう。 必死になって無理矢理否定しなければならないということはつまり、裏を返せばそうする必要があるほど俺の気持ちは古泉と幸せになるという戯けた妄想に傾いちまっているということだろうからな。 諦めるようにため息をもうひとつ吐き、胸を抑える。 夢の中の俺も大概に貧乳だったが、それにもましてまっ平らな胸は、自分の性別を確かに教えてくれている。 それなのに、それでも結ばれたいと思ってしまうのは、長年あんな夢を見てきたせいなんだろうか。 それとも…俺自身が古泉に惹かれちまっているのだろうか。 考えながらごろりと寝返りを打ち、壁に額をくっつける。 硬く冷たい壁だけが、現実感を保っているように思えた。 俺の体は反対に、現実感を失い、夢の中をふわふわと漂うように思えてくる。 思考はさらに浮遊感を伴い、さ迷いだす。 ――あんな痛いことは嫌だ。 そう思うのは間違いなく真実だ。 それくらい、夢のあの部分は恐ろしい。 だが同時に、今度こそちゃんと愛し合えるなら、少しくらい痛くてもと思ってしまうことも恐ろしい。 むしろ、こっちの方が恐怖だ。 自分がどれだけ夢に侵食されているのかと思うとぞっとする。 男同士なのに、何考えてるんだ。 しかし、夢の中で見るあの男の辛そうな表情と、それでいて感じているらしい顔と声を思い出すと、ぞくりとしたものが走った。 古泉も、あんな顔をするんだろうか。 だとしたら、見てみたい。 気がつけば後戻りできないほど興奮していた俺は、簡単に言えばその夜あの夢と現実の古泉を重ね合わせるという妄想で二度イタしてしまったのだった。 それも、どこか物足りなさを感じながら。 ……正直、すまん、古泉。 というわけで、いよいよ古泉の顔をまともに見れなくなった俺は、全力で古泉を避けた。 普段の遭遇率を考えればわざわざ避けるまでもないはずだったのだが、何の悪戯か、そんな日に限って古泉と顔を合わせちまう。 登校途中にばったりとか、廊下でとか、とにかくよく会った。 それこそ、狙ってんじゃないかと思いながらも、俺は顔が赤くなる前に古泉の前から姿を消すのに必死で、放課後の部活もボイコットしてやろうとしていたのだが、正門を抜ける前に古泉にとっ捕まっちまっていた。 「今日は一体どうなさったんです?」 心配そう、と言うには余りにも険しい表情で問う古泉から必死に目をそらし、顔を背けながら、 「ちょっと調子が悪いんだ。悪いが帰らせてくれ」 「そうは見えません。……僕が何かしましたか? あなたに避けられるようなことを」 しょげかえったような声に驚いて古泉を見れば、悲しげに眉を下げ、肩を落とした古泉が見えた。 夢の中だって見たことのない表情に胸が痛む。 「あなたが僕の顔を見るのも嫌だということでしたら、出来るだけ顔を合わさないようにします。あなたと一緒に過ごしたいのは山々ですが、それも諦めます。……でも、お願いです。理由だけは、どうか、聞かせてくれませんか? これ以上、あなたを不快にさせないためにも」 「…っ、違う…!」 ダメだと思ったのに止まらなかった。 声が震えてどうしようもなく、しかもその理由が、自分が泣いているからだと分かっていても、止められなかった。 「違う、んだ…。悪いのは、お前じゃなくて、俺が、…おかしい、だけで……っく……」 「ど、どうして泣くんですか!?」 慌てる古泉の腕を掴み、ぼろぼろ零れる涙を押し付ける。 ここがどこかということも忘れて、人目も気にせず泣き続ける俺の肩を抱き、 「とりあえず、落ち着いて話せる場所に移動しませんか」 そうして呼び出された新川さんはいい迷惑だっただろうが、正直なところかなり助かった。 車で移動するのでなければ、俺はろくに動けなかっただろうというくらい、目も足もうまく働いてくれなかったからな。 古泉に支えられなければ車に乗り込むことも出来なかっただろう。 連れて行かれたのは古泉の部屋で、そこは、 「散らかってますが、」 という古泉の言葉に反して、整然としていた。 俺をソファに座らせた古泉がコーヒーを淹れて持ってくる。 暖かなカップを手にしただけで、涙がまたもや勢いを増すのを感じた。 手にした温度が、夢の中のものと変わらない。 口をつければ、コーヒーに塩味を加えてしまいそうになった。 「……大丈夫ですか?」 泣きじゃくり続ける俺の背中を優しく撫でる古泉に頷いて、俺は吃音混じりの情けない声で、夢のことを話した。 それだけでなく、あれが前世だと思っていることも、古泉があの男の生まれ変わりじゃないのかと思っていることも、そして、昨夜のことも全部、包み隠さず話した。 これ以上隠せるとは思えなかったし、こうして古泉に迷惑を掛けてしまった以上、説明する義務もあると思ったのだ。 古泉は驚きを滲ませながらも最後まで笑わずに俺の話を聞いてくれた上で、 「ひとつだけ、確認させてください」 「な、んだ…?」 「僕を避けたのは、本当に羞恥ゆえ、ですか? 夢の中とはいえ、その、……強姦、なんて、されたことを思い出すから、嫌なのでは、なく…」 「…ああ」 大体、強姦されたのを思い出すのが嫌だと言うなら最初からそうだろう。 もうずっと見続けて来たんだからな。 「そう…ですか。それなら、いいのですが…」 ほっとしたように言った古泉に、今度は俺が驚かされる番だった。 「怒って、ないのか…?」 「どうして怒る必要があるんですか?」 心底不思議そうに、古泉は言った。 「僕が怒らなくてはならない要素なんて、何一つ見当たらないように思うのですが」 どこがだよ。 どこもかしこも、怒って当然だろうが。 そんな夢を見るのは俺がおかしいからだとか、気色悪いとか言ったっていいはずだ。 ましてや、俺は間違いなく古泉で抜いてしまったわけで、そうであれば嫌悪の対象になって当然のはずだ。 それなのに、なんで。 「……僕は、前世の記憶なんて持ち合わせていません。夢を見たことも、ありません。でも、」 そう言った古泉の腕が俺を抱きしめる。 優しく、慈しむように。 「あなたを、守りたいと思うんです。あなたを見つめるたび、いえ、あなたを思うたびに、胸が熱く、暖かくなるんです。――意味、分かりますか?」 俺は答えられなかった。 ただ、一度は収まりかけたはずの涙がまた望陀の如く伝い落ちていくのが分かった。 古泉が優しく――夢の男よりも優しく、柔らかく微笑んで、俺に顔を近づける。 触れ合う寸前まで近づいて、 「……あなたが好きですよ」 答えられないまま抱きつけば、そっと背中を撫でられた。 「前世が不幸せだったとしてもそうでなかったとしても、関係ありません。僕は僕として、あなたと幸せになりたいと思うんです。あなたが、あなただから」 「…っ、あり、が、と……」 やっぱり古泉はあいつなんだと確信めいたものを感じながら俺はなんとかそう言い、 「今度こそ、いなく、なるなよ…」 すがるようにそう言えば、 「勿論です」 と頷かれた。 それだけのことに、安堵する。 だから俺は、冗談めかして、 「…今度は強姦なんてすんなよ」 と言ったのだが、古泉は一瞬目を見開いた後、にやっとどこか人の悪い、そして見覚えのないような笑みを見せ、 「その点は心配ないでしょう? 強姦ではなく、和姦になるでしょうから」 「…っ、ばか」 毒づきながらも笑って、俺は古泉の胸に頬を寄せる。 今度こそ、体からでなく、言葉から始めたい。 そして、今度こそ、二人で幸せになりたい。 だから、 「古泉…好きだ……」 精一杯はっきりと伝えようとしたつもりだったのだが、俺の声はどうしようもなく小さなものだった。 それでも、古泉にはきちんと通じたらしい。 「僕も、あなたが好きです」 そう言った古泉に優しくキスされながら、もう二度と、あんな夢は見ないと解った。 |