いつか舞う空
  執筆者:kazica様



拝啓

下弦の月が沈む頃、私はこの家を出ます。
父上、母上、今まで大切に育てて下さってありがとうございました。そして本当にごめんなさい。あの様な事があった上に出ていく親不孝な娘をお許し下さい。
あれから私は3日3晩泣き通し、一週間の錯乱を経て、ひと月の間考えました。
初めは自分の身の上に降りかかった不幸を嘆くばかりで、何をする気も起きませんでした。

 不幸

真実あれは不幸だったのです。
使用人の中には口さがなく私たちを元からそのような関係にあったのだとか、普段の素行のせいでしょうか、あれは私から誘ったのだなどと申す者もおりますが、そのような事は一切ございません。これは自分の為の弁明でもまた古泉の為のそれでもなく、ただ彼の母君の為を思っての言葉です。
彼の母はこの屋敷を追われてから、あの様な事を起こした男の母と、先々でそしられ追われ、何処にも雇って貰えぬのだと聞きました。彼女に何の罪があるのでしょうか。彼女はかつて父上や母上が信頼して、私を託した立派な方ではなかったのでしょうか。
彼女らと父上の関係は問いません。それを父上がご存知であったかどうかも。
そんな関係を超越して、私達は在ったのだと信じたいのです。

古泉の事も、きっかけはきっと本当にただの不幸でした。常に共に在ったのに、
私達の心は全く通じておりませんでした。古泉だけが気付いていたその真実がいつか古泉の心に歪(ひず)みを生み、私が無自覚であり続ける事でその歪(ゆが)みがあの様な事件として発露して仕舞ったのでしょう。あの時まで私は、何も知ろうとはせずにただ古泉を信じていたのですから。
だからと言って私は、彼を許すつもりは毛頭ございません。彼もまた、それを望まないでしょう。
彼は言いました。
私は自由を望み外出を迫るのに、家に帰らない事など考えもしないのだと。
そう、私は外に出たというだけで自由を知った気になっていたのです。自身が一番、自分を縛っていると気付かず。
私は飛ばない蝶でした。美しく大きな翅を持つだけで、飛んだつもりの蝶でした。羽ばたく事をしようともせず、満足している蝶でした。
ですが、蝶が本当に蝶である為には飛ばなければなりません。
例えそこに恐ろしい蜘蛛や螳螂が待ち構えていようとも、舞わねば蝶である意味がありません。標本箱に収まる事が、蝶の蝶としての命でないように。

古泉はその事で酷く私を責めました。
そして私を置いて去りました。
そう、私を連れて出る事だって出来たのに!

それを言うなら、彼はもっと上手くやる事も出来たはずです。何も知らぬままの私を連れ出す事も、助けの来ぬ場所で私を犯す事も。
私が羽ばたく事を知る前に、自分の標本箱に止めて仕舞うくらいわけはなかったはずです。
でも古泉はそれをしませんでした。
それは私に失望したのか、それともまた他の理由かは分かりません。
ただ、私はもう無知では居られないのです!
例え翅が傷付こうとも、ぼろぼろになって肢ではう事になろうとも、舞うことなく蟲に喰われようとも、この翅で飛べる可能性がある限り、空へ!
大切に育てられた私には、風はきっと強く、初めはきっと風に乗ることさえかなわなくて、でも誰でも初めから、風に乗れたわけではないと思うのです。
だから私は自分の力で旅立とうと思います。
でないときっと古泉も私を、受け入れてくれないと思うのです。あの日私に好きだと告げつつも、変わる気のない私を連れ出すことも出来ずに去った、あの状態から変われないと思うのです。ただ迎えに来るのを待つだけの私は、再び古泉を苦しめかねないのですから。

最後にもう一度、我侭な娘でごめんなさい。そして二十年足らずの間でしたが、本当に色々と感謝をしております。見捨てずに育ててくださった事、社交界に出てから苦労せぬようにと心を砕き、厳しく躾けて下さった事、それでも抜け出すお転婆な娘を、完全に軟禁する事はなさらなかった事、そして古泉と出会わせて下さった事……
本当はもっと別の形で恩に報いるべきなのでしょうが、それのかなわぬ事をお許し下さい。そして出来れば、私の旅立ちを祝福して下さればと思います。
いつまでも愛しています。さようなら。

                                     かしこ


弟へ
色々任せちまって悪かったな。元気に、心の信じるままに生きろ。