愛翅
  執筆者:祭様



冷たい柵をにぎった俺をおそったのは、凍えるような夜気だった。
そっと、生まれてこのかたずっと育ってきた家を見あげた。
愛着というものは持っているかもしれない。
家族で唯一、弟は可愛かった。
けれど、哀愁といえるほどのものは感じない。
足を踏みしめて、柵の外に出る。
着の身着のまま飛び出して、これからどうなるかは分からない。
けれどコレが始まりだと言い聞かせて、俺は振り返らずに走り去った。

俺がお嬢様と呼ばれ、傅かれる身分になったのは生まれてからのことだった。
父は名士という呼び名ばかりがむなしい虚栄家で、胴欲だった。
母は浪費事にしか目がない女で、他に継子の弟がいた。
家は広く、お金はあったが、幼い頃から自由を制限されていた俺にはただの牢獄に過ぎない。
父は娘を都合のいい道具程度に考え、そのように扱った。
普通なら気詰まりでしかない屋敷暮らしを耐え忍べたのは、ひとえに、あの男のおかげだろう。
―――古泉。
俺の半身ともいえる俺の乳兄弟。
幼い時から片時も離れることなく生活し、奴に頼み込んで邸を抜け出した思い出は今でさえ目映い。
―――古泉。
そして俺を、あの邸に置き去りにしたのも奴だった。
俺を好きだと言った時に純潔を奪ったあの日、あいつは俺を置いて逃げた。
俺はあの時、返事を返せなかったことを後悔して後悔して、奴が迎えに来てくれるのを待った。
幽閉されるようになって約一年。
季節がほぼ一巡りをするのを見て俺はキレた。
もうそれこそ色んなところがブチ切れて、出奔という形になったのだった。
迎えに来ないなら追いかければいい。
女の大事なもの(いろいろ)を奪った責任を負わせてやる!
そしてあの日言えなかった返事を必ず奴に伝えてやるんだ!
そう一念発起して屋敷を飛び出した俺は、現在、下町の小料理屋に身を寄せている。
世間というものを何も知らない俺が倒れこんだのが、その店の前だったのだ。
老年の夫婦が切り盛りするお店は繁盛していて、子供がいない夫妻のご好意に甘え、俺は住み込みで働かせてもらっている。
最初、まともに労働をしたことがない箱入り娘だった俺は、慣れない仕事にとても戸惑った。
任されたのは簡単なお運びの仕事だったが、くたくたになって床につくのは毎日だったし、なれない水仕事で手は荒れた。
けど、慣れた今では、うまくやれていると思う。
俺は少しでも時間が空くと、町を駆けずって古泉のことを聞き回った。
今のところ成果はないが、働いてご飯を食べるということに満足しているし、いつかきっと会えると信じている。
今まで、それこそあの事件までは、遠くに離れるなんてことがなかった。
古泉がいなくなって感じるのは、どうしようもない寂しさと、凍えるような寒さだった。
もう一度会いたい。
それだけを願ってその日も床についた。

身を寄せてから3月もすると、顔見知りの客もぐっと増えてきたのだが、
「出前ですか?」
それと同時に、言い寄られる回数も増えた。
俺はお世話になっている身なので強く断れず、それでも何とかかわしていたが、一部の客はしつこかった。
「俺が・・・、ですか?」
茶屋に料理を届けろといったのは、普段からしつこい男の一人で、はっきり言って気乗りはしない。
けれど―――。
「ごめんねキョンちゃん。あのお客さんがどーしてもキョンちゃんじゃなきゃダメって言うんだよ。あの茶屋の主人とは顔見知りで、おかしなこと起こらないように見張といてって言ってあるから」
店の主人が申し訳なさそうに言った。
俺は、前で手を合わせている人のよさそうな顔を眺めて、
「分かりました」
と引き受けた。
そして、不安になりながらもお店を後にした。

指定の茶屋に着いたとき、男はもう深酔いだった。
男はじろじろと無遠慮な視線で俺を見て、汚く笑った。
俺はすぐにでも帰ろうとしたが、
「酌の一つもしないのか」
と男が暴れだしたので、酌の一つだけだと誓って男の隣に座った。
近寄ってきた、男のだらしない口元と、酒臭い息に眉をしかめた。
古泉なら――、と考えて少し悲しくなった。
乳兄弟となれて以来、男達の下卑た振る舞いを見るたび、胸の中でしたわしさばかりが募る。
あいつに無理やり体を開かされた後でさえ、どうしようもなく好きだった。
「何を考えている?」
「別に」
ふいに、男が腕を掴んできた。
必死に身をよじって抵抗するが、引きずられて隣室にあった布団に押し付けられた。
茶屋の主人に話は通してあるといってたが、どれだけ大声を出しても人がくる気配はなかった。
事前にこの男が主人と打ち合わせでもしておいたのだろう。
俺は裾から侵入してくる手に絶望しながらも、いっそこと死んでしまおうと舌を噛もうとした――その時だった。

俺の上で、うめき声がした。
それから、酒におぼれた息遣いとは違う声。
そして男その体は、ゆっくりと倒れた。

その時、俺の視界に現れたのは、見慣れた優しい眼差しだった。
「あっ・・・・・・」
言葉が喉を通らず、思わず固まった俺に差し伸べられたのは懐かしい腕。
いつの間にか、男のいたはずの位置に、古泉がいた。
古泉は床に倒れている男を一瞥すると、優しく声をかけてきた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
微笑む顔と目が合った。
耳障りの良い声が名前を呼んだ。
懐かしい声が名前を呼んだ。
「遅くなってすいません。間に合ってよかった」
「・・・そいんだよバカッ」
思わず首にしがみついた。強く。
「いままで何してたんだ!」
苦笑いする気配がした。
「すいませんお嬢様。すぐにでもお迎えに行く予定だったのですが、時間がかかってしまいました。いざ迎えにいったら、既にあなたが逃げ出した後だったんですよ」
古泉は俺の髪をやさしく梳くと、今度は唇で俺の涙をすすった。
「お待たせしました。でも、あなたが無事で本当によかった・・・」
「バカ。コレでもいろいろと大変だったんだぞ」
可愛くない性格の俺は、こんな時でも悪態をついてしまう。
少しドキドキしながら古泉の方を伺うと、優しく笑む顔がそこにあった。
「えぇ、今は小料理屋にいらっしゃるんですよね。今まで働いたこともなかったあなたのことです。さぞかし大変だったでしょう」
白魚の手を荒れさせてしまって。
そう言って古泉は、俺の指先に労わるように触れた。――唇で。
俺は古泉の顔を見る。
「なんで・・・、知ってるんだ?」
「あなたに似た綺麗な人が働いているということと、その女性が僕らしき人物を探しているということで、そうではないかと思っていたんです。・・・すいません。本当は少し前に、あなたを見つけていたんですよ」
「どうしてだよ?なんで声をかけてくれなかったんだ」
目の前にある古泉の顔が、苦しげに歪められた。
「僕には罪科があった。何も知らなかったあなたを犯し、恨み言を残して立ち去った罪です。僕はあの時あなたの婚約者に狂い死にそうな嫉妬を感じていました。だからといって、許されることじゃない。僕は、あなたに会って拒絶されることが怖かった。――勝手、ですよね。誰よりまっすぐで綺麗なあなたを汚したのは、僕だというのに」
俺は、痛みに揺れる古泉の瞳をそっと覗き込んだ。
頬を包み込むように手を伸ばして、その暖かさに思わず息が漏れる。
喫驚という波が去った後、新たに押し寄せてきたのは感激の波だった。
本当に古泉がいる、目の前に。
俺はこみ上げてくる気持ちをうまく言葉にできなくて、涙を一筋流した。
「古泉、・・・・・・今でも俺が嫌いか?」
「嫌いだなんて!」
驚愕に見開かれた顔で、奴は俺の肩を掴んだ
「でもあの時、俺の父のせいで人生が狂ったと・・・」
「あれはっ・・・。あれは、ああ言えば、あなたが僕を忘れないだろうと思って!」
古泉が大きくうなだれた。
「たとえあなたに愛されなくても、あなたの忘れなれない人になるだろうと思って・・・・・・すいません」
それきり奴はだまりこんだ。
俺は肩に置かれた手に手を重ねて、問いかける。
「なぁ、今の俺は嫌いか? お前にあげられるものは何もないけど、お前のために屋敷を飛び出しちまうような、俺は嫌いか?」
「僕は・・・」
「・・・まあ、まずは俺に言わせろ」
そう言って、ニカっと笑う。
「俺は、お前が好きだよ、古泉。正直、あの時のことがなければ、お前への気持ちに気づいたは分からん。でも今は、お前のためなら何を捨てても怖くないくらいお前が好きだよ。好き、なんだ」
深いため息の後、古泉の綺麗な顔に、涙が幾筋もこぼれた。
「あなたには敵いませんね。僕のためなんかに、屋敷を飛び出していくなんて」
「だろう? だから、もう手を離すなよ」
「離せませんよ。……ずっと前から、あなたは僕のものなんでしょう?」
俺達はそのまま、きつく抱きしめあった。
まるで、離れていた時を埋めるように。

後で古泉に聞いたのだが、迎えが遅くなったのは、屋敷に勤めていた時から隠れて手がけていた事業(いつの間にだ)、が安定するまで時間がかかったとのことらしい。
全ては安心して俺を迎えられるようにと。
そして古泉は、砂が吐きそうなくらい甘い笑顔で、こう言った。

「お嬢様、いえキョン。僕の妻になって頂けませんか?」