三度、籠の中
執筆者:あめ様
姉上、彼に会いたいですか? まだ幼いと思っていた弟への認識を改めざるを得なかったのは、そう尋ねられた時だった。目に悲痛な色が見え隠れする様はここ最近と全く変わらなかったのだが、問いかけであり且つ震えてさえいた其の言葉に強い決意を感じ取ったのは確かだ。 俺が家の奥で半ば幽閉のような状態で暮らすようになり、半年が過ぎていた。移った其の部屋には嵌め込みの天窓があるばかりで外と断絶されている。シャワールームとトイレまでが何故か備え付けられていたことで、俺は廊下へと繋がるドア内側から開くこともなかった。忙しい父はともかく家に居る筈の母ともずっと顔を合わせてはいない。――合わせたくないのだろう。両親たちの目を盗んで弟が訪れる他は、食事や身の回りのことで使用人が来るくらいで、俺は人と会話をする機会さえ殆ど無くしていた。それでも寂しく思わなかったのは、きっと一番会いたい人間が其の扉を開けるはずがないだろうことを理解していたからだ。迎えにきてほしいとは祈りさえしているけれど、あの日逃げるようにして此の家を去った彼が表立って堂々と此処を訪れる筈も無い。 彼に会いたいですか。すっかり固まってしまっていた俺に、弟はもう一度同じ事を訊いた。反射的に首が下へと落ちる。「そうですか」と返すと弟は立ち上がり、部屋に入ってすぐにテーブルへと置いていた本の隙間から一枚のメモを取り出し俺に渡した。折り畳んでいたあった紙片を開く、其の手元で立つ音がやけに大きく響いた気がした。天窓から赤い陽の光が差して紙片に当たり、浮かび上がる文字は不気味にさえ思える。並んだ文字列はどこかの住所を示しているようだった。 彼の居場所です、と弟は静かに告げた。顔を上げると真っ直ぐに視線が合わさったが、其処に嘘の色は見当たらなかった。曰く、知人の伝で紹介された店に行った時に偶然見かけたのだそうだ。父も彼も気づいていない筈だと付け足した弟はそこでまた口を閉じた。 指先に知れず力が入り、紙がその形状を変える。其れを胸元に押し付けながら「会いたい」と今度は声に出した。 「会いたいんだ。俺は、古泉に会いたい」 頬を何かが伝っていくのが分かったが、気にしてはいられなかった。唯一の手がかりを抱きしめて俯く俺の肩に弟は手を置いた。其のあまりの優しさに、部屋が闇に包まれても暫く涙が止まることはなかった。 決行は、三日後になされた。父と母が連れ立って出かけ、使用人たちはスケジュールを弄った弟により俺の部屋の周りから遠ざけられた。見事なまでに脱出路が完成していた。 家を出て数時間。目的地まであと僅かというところで雨が降り出してきたのは誤算だった。空を見上げることなどすっかり頭から抜け落ちてしまっていて、体を打つ冷たい雫を甘んじて受ける他無かったのだ。 服と体を濡らしながら進んだ俺は、メモの住所と対応する建物を視界に入れたところで動けなくなった。会いたいという気持ちばかりが先急いでいたせいで、実際に会った時に何て言えばいいのだろうと今更になって思う。 俯いて考え込んで、そして、顔を上げて建物を眺める。其れを幾度繰り返した時だったか。出入り口から古泉の姿が現れた。視線が交わり、表情が歪む。古泉は手にしていた傘を打ち捨てて俺の方へと駆け寄ってきた。すぐに視界は黒く染まる。古泉の着ている上着の色だ。 「何故、来たんです」 ごめんなさい。 低い声が耳に入ると、反射的にそんな言葉が飛び出した。怒って――いるのだろうか。 「謝罪の言葉が聞きたいわけではありません。――僕が、どんな思いであなたを置いていったか分かっているんですか」 痛いくらいの腕の感触で、求めていたところに自分がいることを認識した。張り詰めていた気持ちが少しばかり緩む。体が熱いのは、自分を囲う体温のせいなのか、それとも、長い間雨に打たれていたからなのか、どちらだろう。 「どんな場所であれ、あなたがあなたとして生きていけるのであれば構わないと思っていたんです。其れが他人の腕の中でさえなければ」 滔滔と語られる言葉は、あの日俺が求めていた答えだった。何故、古泉があんな風な行動をとったのか。父への憎しみとともに、告げられた好きだという言葉。今なら、どちらもが本音なのだと素直に受け入れることができる。 「あなたが傍にいれば、僕はまた、あなた自身の望まぬ籠の中に閉じ込めてしまう。誰にも見せず触れさせず、僕だけのものにせずにはいられない」 構わない。そう返すと腕の締め付けがほんの少し弱まった。其の分を使い半歩退いて顔を上げると、目を見開く古泉の姿があった。 「連れていって構わないんですか。今度こそあなたをあの家に帰しはしません。それでいいんですか?」 家という単語を聞いて此処を教えてくれた弟の顔が頭を過ぎったが、其れもすぐに消えた。愛おしくなかったわけではない。けれど、きっと弟は、メモを渡した時点でこうなることを予測していただろう。帰らないだろうことを知って後押しをしてくれたのだ。 連れていってくれ。 掠れる声で告げた。再び苦しい程に強く抱きしめられたが、抗うことはしなかった。 「愛しています、 」 熱が上がる。「お嬢様」でもなく「あなた」でもなく、彼がけして今まで呼ぶことのなかった名を耳元で囁かれると同時に、俺の意識は遠のいていった。色を無くしていくその様に恐怖は感じない。だって、今度こそ目を開けたときに古泉がいてくれるだろうことを信じているからだ。彼は此の手を離したりはしない。其れはもはや祈りでなく、純然たる事実。 一度目は、実業家の娘としての立場。生まれてきたときから離れてはならないのだと思い込まされていた。 二度目は、家の奥深く。あの日以来どこに居たって似たようなものだったから、放り込まれたところで然程苦痛は覚えなかった。 そして、三度目は――――。 自分を囲う新たな籠の中へ、俺は望んで身を投げ出した。 |