蝶々捕まえた
  執筆者:藤花様



砂時計の砂が落ちるように日々は変わらず過ぎていった。
俺はあの日以来、心を奪われたかのように抜け殻になっていた。
古泉はあのとき俺の中にある心を持っていってしまったのだ。
だから俺は五年もの歳月をただぼんやりとあいつを待つためだけに費やした。

そうして過ごしてきたある日。
古泉に純潔を奪われたあの日以来、顔を合わせていなかった父親が縁談を持ってきた。
相手は四十過ぎの富豪で俺が傷物と知っていてなお欲しいのだと父親に話を持ちかけてきたらしい。
婚約がご破算になって以来、厄介者でしかなかった俺を引き取ってくれる人が現れたことに父親は歓喜した。
二返事でロクに相手の素性も調べずに婚約を了承したらしい。
よかったなと満面の笑みで告げる父親に俺は絶望しか感じなかった。

その富豪は奇妙な奴だった。
今は事情があり、あなたにお会いすることは出来ませんが、あなたのことをいつ何時もお慕い申し上げております。
要約するとそんな感じの手紙を最初に送ってきた。
別にそんなことしなくても構わないのにと思った。
俺はどうしたって古泉以外の男を愛すことは出来そうに無い。
ゆえに、この顔も知らぬ婚約者のことも愛することができない。
俺は返事を書くつもりは無く、それでも手紙を捨てるような真似はできなかったので机の引き出しにそっと手紙を仕舞った。

「それなのに、な」
思わず溜息が零れてしまうのは仕方の無いことだと思う。
顔も知らぬ婚約者からの贈り物。
まるで俺の好みを知っているかのように贈り物は届けられた。
たいていは珍しい外国の本を和訳したものだったりするのだがこの間届いたものには思わず息を呑んだ。
柔らかなオルゴールの旋律に合わせて舞い踊るバレリーナの飾られた小物入れ。
奏でられるメロディはひそかに好きだった物悲しい西洋音楽。
他の贈り物は一度開けてまた箱に戻したが、そのオルゴールつきの小物入れだけは枕元に置いて楽しんでいた。

古泉のことを思うならば、全てつき返すくらいの行動があってもいいものだが五年という歳月は俺の心をすり減らすのに十分な歳月だった。
待てども待てども便りの一つもない日々。
元々古泉以外の使用人とは折り合いの悪かった俺は話し相手すら居なかった。
あの事件の後からさらに距離は開き、俺と顔を合わせるのも嫌なメイドもいる。
家族にはこの五年間一度も顔を合わせていない。
そんな環境の中、手を差し伸べてくれたのは顔も知らぬ婚約者の富豪だけだった。
この人は筆まめな人で週に一度は必ず手紙をくれる。
手紙の内容は世間を騒がせている事件だったり、庭に咲く花の様子だったり。
そして最後は必ず貴方のことをいつも想っておりますという一文が添えられているのだ。
初めてその手紙を読んだときはなんて気障な男なのだろうと思った。
まるで古泉のようじゃないかと思った。
古泉はああ見えて結構格好つけな一面がある。
だから古泉に似ていると思ってしまった。
けれど、すぐに見知らぬ男に古泉を重ねてしまったことを後悔した。
いくら寂しいとはいえ、顔も知らぬ男に古泉を重ねるなんて最低だ。
その夜は古泉を想って、少しだけ泣いた。
泣いても古泉はいつもように傍に来て、涙を拭ってくれなかった。

富豪の求婚から三ヶ月。
見合い写真というべきだろうか、富豪の写真が来た。
メイドがテーブルの上に置いていった写真の入った封筒を震える手で開ける。
四十歳と言っていたが、俺は富豪が古泉であればいいと思った。
「・・・・・・」
綺麗に撮られた写真には恰幅の良い人の良さそうなおじさんが微笑んでいた。
顔は古泉に似ていない。
まったくの別人で古泉とは何の縁故もなさそうだ。
写真を持ったままずるずると椅子に座り込んで、俺は胸を刺す痛みに目を伏せた。
わかっていたことだった。
古泉に迎えに来る気があるならば、とっくに迎えに来ていたであろう事に。
あのとき言ってくれたように攫いたかったのならば、俺を犯した後連れ出す事だってできたのだ。
だけど、古泉はそうはしなかった。
「もう会わないでしょう」と言って、俺をこの屋敷に置いていった。
それでも俺は待ち続けた。ずっと、ずっと。
いつか迎えにきてくれることを信じて。
「・・・・・けど、潮時なのかもしれないな」
心変わりをしたわけではない。
今でも俺は古泉が好きだ。たぶんこれからもずっと。
だけれども、もう待つことはできないのかもしれない。
こうしてただ過ごしている間にも結婚式の準備は着々と進んでいる。
胸が痛くて俯くとぽたり、と水滴が写真にいくつも落とされた。
ああいけない。写真が濡れてしまうと思っても拭うことも涙を止めることもできない。
俺が傷物と知っていても求婚してくれて、さらには贈り物や手紙まで贈ってくれた。
良い人だろう。
手紙の文面からわかる。
返事も寄越さない俺を詰るどころか、心配し労わってくれる。
それでもこの人を愛することはできない。
俺の心の片隅には未だに古泉が笑っている。
お嬢様と柔らかく呼ぶ声がまだ耳に残っている。
「古泉・・・・・・」
名前を呼ぶのが好きだ。
「はい、お嬢様」と返事する心地よい声が好きだ。
好みの温度で提供される古泉の淹れてくれたコーヒーが好きだ。
「古泉・・・・・・」
野を駆けた日もあった。
市を覗きにいった日もあった。
小高い丘から街を見下ろした日もあった。
俺の思い出はすべて古泉と共にある。
だけどこれからは見知らぬこの富豪と思い出を作らなければならないのだ。
「古泉」
何度呼んでも返事は返ってこない。
あの穏やかで心が優しくなれる声で返事をしてくれない。
それは当たり前のことなのだが、今の俺にはとてもとても悲しいことだった。

それからさらに三ヶ月。
今日はとうとう富豪の家に嫁ぐ日だ。
俺の手荷物は小さな皮のトランク一つだけ。
ぐるりとほとんどそのままに近い部屋を見渡した。
本来、ここを出るのは五年と半年前のはずだった。
婚約は破棄され、俺はここに閉じ込められることになった。
そして半年前。
俺はとある富豪に求婚され、今日、俺は会ったことのない男の家に嫁ぐ。
結婚をするのだからもちろん肌を重ねることはあるだろ。
だが、肌を許しても俺の心は古泉の元にある。
一生、古泉以外の人を好きになることは無いだろう。
「お嬢様」
扉の向こう側からメイドの呼ぶ声が聞こえる。
どうやらお迎えが来たらしい。
俺は扉に手をかけたまま小さく別れを告げ、部屋を後にした。

一時間半ほど車に揺られ、たどり着いた館は俺の住んでいた館よりもずっと綺麗で大きかった。
庭には綺麗な花が色とりどりに咲き乱れており、よく手入れされている。
運転手だと思っていた人はこの館の執事で新川さんというらしい。
長い間、車に揺られていてお疲れでしょう。主を呼んでまいりますので
こちらでお寛ぎ下さいと通されたテラスは溜息が出るほど綺麗で寛ぐどころか、少し緊張をしてしまう。
ややあってこちらですと案内する新川さんの声が聞こえ、俺は背筋を伸ばした。
いよいよ俺を欲しいなどという奇遇な男との対面だ。
緊張もする。
「あなたが―――さんですか。初めまして。私は多丸圭一と申します」
新川さんと共に現れたのは写真から感じた印象通り、穏やかで優しそうな人だった。
椅子に腰掛けていた俺は慌てて立ち上がり挨拶をする。
お話通り可愛らしい方ですねという言い方にどこか違和感を感じ俺はわからないように心の中で首をかしげた。
まるで誰かに話を聞いていたかのような物言い。
―――――まさか。
「あなたに求婚したのは私ですが、じつは私には他に懸想している方が居まして」
「え・・・・・・?」
「申し訳ありませんが、私はあなたと結婚できません」
目の前が真っ暗になったような気がした。
この人と結婚をしたいわけではないが、結婚できないということは俺はまたあの館に戻されるということだ。
今更あの館に戻る気はなかった。
俺と結婚できないというならば、メイドとしてでも雇ってくれないだろうか?
何も出来ないがやる気だけはある。
下働きでも良い。あそこに戻らないならば何だってする。
「―――――それで、あなたにぜひ会って欲しい人が居ます」
「・・・・・・はい」
もうどうだってよかった。
どうせ、会わせたい人というのも懸想している人なのだろう。
正直、どうでもいい。
それよりも俺はあの館に戻らないで済む方法を考えないといけない。
圭一さんに呼ばれて、もう一人テラスに人が入ってくる。
俺はその人の顔を見たくなくて地面を睨み付ける。
「お久しぶりでございます。お嬢様」
「―――――っ!?」
柔らかで穏やかな声。
顔をあげた俺は目の前に現れた人物が誰なのか一瞬わからなかった。
驚きのあまり硬直して声を出すことすら出来ない俺にその人は歩み寄る。
そしてそっと壊れやすいものを抱きしめるように腰と背中に手を回された。
俺はしがみ付くようにぎゅっと抱きしめ返す。
「この五年間、ずっとお会いしたかった。すぐに迎えにいけず申し訳ございませんでした」
「・・・・・・遅いんだよ。・・・・・・ずっと、ずっと待っていたっ古泉!」
胸に押し付けていた顔をそっと上げられ、古泉の顔が近づく。
俺は人前ということも忘れて、五年ぶりの古泉の口唇をそっと受け入れた。
涙がまた溢れてくる。
だけどそれは哀しさからではなく嬉しさから出た涙だった。

古泉との再開後、早々に場を辞した俺は古泉の部屋に連れてこられた。
古泉の部屋は綺麗に片付けられているが、暖かい雰囲気の部屋だった。
ソファーに腰掛けるように言われても、古泉から離れがたく、べったりと引っ付いたまま古泉の話を聞くことにした。
「元々はこの館で母がお手伝いさんをしていたんです」
五年前、屋敷を追われた古泉親子はお手伝いさん募集の知らせを受けてこの館に来たらしい。
面接は無事に通り、忙しいながらも親子ともに働いていたある日
外国から帰ってきたこの館の主である多丸さんが古泉のお母さんに一目惚れをした。
古泉のお母さんは身分の差を気にして多丸さんの求婚をずっと断っているらしい。
だが、そろそろ承諾するのではないかというのが息子である古泉の予想だ。
そして多丸さんは息子の古泉をいずれはこの家を継ぐものだからと家督主としてこの五年間鍛え上げていた。
その最中、古泉から俺のことを聞き、多丸さんが一計を計ってくれたのが
今回の求婚だった。
「手紙を書いたのは圭一さんですが、内容を考えたのは全て僕です。あなたに贈ったものもそうです。僕が全て選びました」
穏やかに笑いながら古泉は言う。
そうか。だからあの贈り物は俺の気に入りそうなものばかりだったのか。
「あなたからの返事が無かったので心配しました。もしかして断られてしまうのではと圭一さんと心配していたのですよ」
断れるわけが無い。
傷物になった女を欲しがるような物好きは早々居ないからな。
それよりも古泉、お前多丸さんのこと圭一さんって呼んでいるんだな。
「最初はご主人様と呼んでいたのですが、息子になるであろう僕にご主人様と呼ばれるのは嫌だと圭一さんがおっしゃったんです」
なるほど。それで圭一さんと呼んでいるのか。
「・・・・・・僕はずっと後悔していました。あのようにあなたを傷つけたことを」
「確かに痛かったが、嫌ではなかったぞ。俺はあのときからずっとお前のことが好きだったからな」
「それでもあなたに嫌な思いをさせました。この五年間は寂しい思いもさせて」
古泉の顔が苦しそうに歪んだ。
俺は頬に手を伸ばして包む。
その手に古泉は自らの手を重ねて、俺の名前を呼んだ。
「だったらもう一人じゃないってことを実感させてくれよ」
驚きで見開かれている古泉に今度は俺からキスをする。
なあ古泉。話は後にしよう。
お前が俺に嫌な思いをさせたというならやり直そう。
今はお前のことを感じたいんだ。
「・・・・・・お嬢様には敵いませんね。では、僭越ながら御手を」
差し出された手を取ると古泉は恭しく手の甲にキスを落とした。
気障なやつ。
そしてベッドに抱きかかえられて運ばれ、服を脱がす古泉はこの期に及んで俺のことをお嬢様と呼んだ。
古泉。もう俺はお嬢様じゃない。だから名前で呼んでくれ。
俺も名前で呼ぶから。
・・・・・・一樹、もう離さないで。これからはずっと一緒にいよう。