虫籠、蝶々、ひらり、ひらり。
執筆者:スハラ様
部屋の中に閉じ込められるようになってから、もうどれくらいの時間が経ったのか分からなかった。 朝なのか、夜なのか。 それさえも分からないくらい長い時間この部屋に居る気がする。 目の前はずっと闇が広がっていて、どこまでも暗い。 『−……お嬢様』 あいつの幻聴が聞こえた気がして何度も部屋の中を見渡すが何度探しても古泉の姿は見つからない。 「……こ、いずみ」 名前を呼んで空に手を差し伸ばしても掴み返してくれる手はもう、ない。 支えがなくなり、不安定になって、ぐらり、と身体が倒れていく。 ぎしり、とベッドのスプリングが軋んだ。 「……古泉」 うつ伏せの体勢で今度ははっきりとした口調で古泉の名前を呼んだが、部屋の中は静寂が満ちるばかりだ。 吐き気がする。 顔も合わせようとしないくせに俺をこの部屋に閉じ込める親が酷く憎く思えた。 ―いらないのなら、勘当にでも何でもしてしまえばいいのに。 何度もそう思って、部屋の中で暴れてみても両親は相変わらず顔も見せないし、女中だって俺を腫れ物に触るような態度だ。 正直言おう。 生きていることがひどくしんどい。 いっそ、死んでしまえば楽になれるだろうか? そう考えたこともある。しかし、行動に移す段階で女中が必ずと言っていいほど邪魔に入った。 何故だ。 俺はこんなにも苦しいのに、 どうして、死なせてくれないんだ。 つ、と顎の辺りに液体が流れる感覚がして、指で拭ってみるとそれが自分の血だということに気づいた。知らず知らずのうちに唇を強く噛んでいたようだ。 拭ったその血を見て俺は自嘲気味に笑った。 ―結局、俺は全てに見放されたってことだよな。 乾いた自分の笑い声が耳に残る。 何気なく視線を窓に向けると、牽かれたカーテン越しに薄い光が差し込んでくる。 どうやら、今は夜明けのようだ。 俺は重たい身体をゆっくりと起こすと、窓際に近づいてカーテンを開けた。 空はまだ薄暗く、星も幾つか見える。月もまだ空の上の方にあった。 俺は鍵を開けて、窓を開くと冷えた空気を部屋の中へと誘い込む。 吐く息が白く煙り、息を吸い込む度に冷たく乾燥した空気が肺に沁み込んでいく。 すぅっと頭の中が冷えていき、クリアになっていく。 そうだ。 今なら、誰にも見つからずに死ねるんじゃないだろうか。 思い立った俺は窓の桟に手をかけて身を乗り出そうとした。 その瞬間、庭に生えている木ががさっという音を立てた。 俺は驚いてそちらの方へと視線を向ける。誰か人がいるのがぼんやり分かったが、顔までは見えない。 にゅっ、と茂みから手らしきものが突き出されるとそこから見えたのは赤い色をした火。 ―……え? 赤い火は、手から滑り落ちるようにゆっくりとした動きで下へと落ちていく。 かつんっ。 金属でできた物が地面に落ちる音が朝の静寂の中に響いた。 何か細工でもされていたのか火はそのまま木に燃え移って勢いに乗り、屋敷へとその権威を揮おうとした。 瓦屋敷なため、燃え移りはしないだろうが俺の家の周りには木がぐるりと囲ってある。 誰がやったのか分からないが、成程。これで退路は絶たれたようなものだ。 まぁ、親父のことだからきっと万が一の時の用に非難経路は造ってあるだろうが。 ばたばたばた、と廊下が騒がしくなっていく。 夜明けだから、朝が早い使用人や女中くらいはもう目を覚ましている頃か。 それにしたって親父、あんた一体誰の恨みを買ったんだよ……。 冷静に火を見つめながら、俺はそんなことを考える。 どちらにしろ、死ぬつもりだったんだし、こうなってしまえば焼死も墜落死も大差無い。 俺の部屋はあの一件以来、外からしか鍵がかけられないようになっている。 用無しになった俺なんざこの家には必要ないのだから、この部屋はどんな事態になってもきっと開かない。 俺には逃げる術など最初から無いのだ。 人間、追い詰められると本当に余裕が出てくるもので、俺は至って冷静なまま、火を見つめていた。 廊下の前でばたばたと騒がしい足音が聞こえる。 叩き起こす声、泣き叫ぶ声、色んな声が混ざって俺の耳へと届いた。 「きゃああぁあぁぁぁぁぁぁっ――!」 突然、俺の部屋の前で女中の声が響いた。 しかし、それも直ぐに途絶えてしまう。 何だ? 不思議に思った俺は扉の前へと近寄った。すると今度は扉に何かがぶつかってきた。 何度も何度もぶつかってきては扉に跳ね返されている様子が窺える。 俺の心はそこで初めて恐怖に覆われた。 一体、誰がここにやってくるというのだ。 ―……誰が、 がぎぃんっという金属が壊れる音がして、俺は扉の方を凝視した。 ゆっくりとした動きで扉が開かれるとそこに見えたのは、人間。 光の逆光で顔は見えない。しかし、その後ろには先程悲鳴を上げたであろう女中が見えた。 「……ここにいらっしゃったんですね」 何かに安堵したような声が暗い室内に響く。 聞き間違える筈が無い。 いつも、俺を暖かく包み込んでくれていたどこまでも優しいこの声は、 「こ、いずみ……?」 俺は目を見開いたままその人物に話しかけた。 するとその人物はくすっと笑った後、俺に聞こえるくらいはっきりとした声で。 「はい」 と一言だけ返してきた。 古泉だ。 俺が知ってるあの、古泉一樹が目の前に居た。 何で? どうして、お前がここにいる? 「……すみません。あなたに酷いことをした身としては、こんな所に来るべきではないのですが……。どうしても、あなたにお会いしたくて」 古泉が下に俯く。 重たい沈黙が流れて俺は古泉に話しかけようと口を開いた。 「いたぞっ! お嬢様の部屋の前だ!」 その瞬間に野太い男の声が廊下に響いた。 古泉はそちらを一瞥すると、ちっと舌打ちして俺の方へと近寄ってくる。 そのまま俺の手首を掴んで引き寄せ、膝の後ろに手を差し入れるとひょいっと身体を持ち上げた。 いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。 「……こ、古泉?」 些か不安になって、俺は古泉に問いかける。 すると古泉はこちらを見て軽くウィンクすると、「掴まっていてください」と俺の耳元で囁いた。 不思議に思いながらも俺は古泉の首にしがみ付いた。 温かい、古泉の体温が俺に伝わる。 俺がしっかり掴まったことを確認した古泉はぎゅっと俺を持ち上げている手に力を込めると先程開けた窓の方へと勢いよく走り出した。 「え、ちょっ、古泉…!?」 何が起きてるのか分からず、古泉の名前を呼んだ時には既に遅く、俺の身体は古泉とともに外の世界へと飛び出していた。 古泉の肩越しに見えたのは先程まで俺が居た部屋。 その少し上を見れば、空が広々と広がっていて、星は変わらずそこにあった。 俺の部屋の扉には先程の野太い声の男――多分、親父の護衛の一人――が驚いたような顔でこちらを見ていた。 「――――…様がっ!!」 炎の轟音で後半部分しか聞こえなかったけど、多分「お嬢様」と言ったのだろう。 何がお嬢様だ。形ばかりのお嬢様など誰もなりたくなどない。 奇跡的に着地は凄く綺麗にできて、俺にも古泉にも怪我はなかった。 「驚かせてしまってすみません。……大丈夫ですか?」 古泉は心配そうな顔で俺の顔を覗き込んでくる。 俺はそんな古泉の顔を両手で挟むとぐいっと自分の顔の前まで引き寄せた。 「古泉」 その行動に驚いたのであろう古泉は暫く目を瞬かせた後、間の抜けた声で「はい?」と返事を返してきた。 「何でお前がここに居るんだとか、どうしてあのまま出て行ったんだとか、火をつけたのはお前かとか、色々聞きたいことはあるがそんなのは全部後だ。いいか、古泉。一回しか言わないからよく聞けよ」 「……」 古泉は無言で俺を見ている。俺はその動作を肯定とみなして矢継ぎ早に口を開いた。 「あの日、お前が出て行った日に、お前が言ったあの言葉……あの、感情は……まだお前のなかにあるか?」 火がすぐ傍にあって熱い。それでも逃げることなく真っ直ぐに古泉を見据えてやると古泉は俺を見てくすっと笑った。 「もちろん、ありますよ。僕はお嬢様が好きです。でなければ、別れを告げたのにこんなところまで来たりしません」 その笑みにいつもの古泉を垣間見ることができて俺は少しだけほっとした。 緩みそうになるその口元を引き結び、顔から手を離すと俺は古泉を真っ直ぐに見つめる。 「なら、古泉。……俺を、ここから……連れ出せ」 古泉は数秒目を見開いた後、いつもの笑みを浮かべて「はい」とはっきりと頷いた。 そうだ。 こんなつまらない場所に用なんて無い。 俺にはこいつが傍にいればそれでいい。 差し伸ばされた手を取って俺は古泉と共に屋敷から逃げ出した。 一度だけ後ろを振り向いて屋敷を見たときには、屋敷はただ赤々とした炎に包まれ、それでもただじっと黙ってそびえ立っていた。 もう来ることもないだろうよ。 さよなら。 |