寵蝶消えた
  執筆者:神無弥生さん



これから私が語る物語は、ある、悲しい娘の物語です。

あるところに、美しくはないが、心優しく、勇敢な娘がいました。
館に閉じ込められてばかりの日々でしたが、ともに過ごした使用人のお陰で、それなりに楽しく幸せな日々を暮らしていました。
けれど、その幸せは半年後に結婚が決まったその日、もろくも崩れ去ってしまったのです。
なんとその娘の純潔が、一番信じていたその使用人の男に奪われてしまったのです。
娘にとっての一番の不幸は、純潔を奪われた事ではありません。
そのことによってその男を愛していたと自覚した事、そして、その男が目の前からいなくなってしまったことでした。
娘は泣きました。毎日、毎日。愛しい男の名を呼びながら。
皆彼女を腫れ物を触るかのように扱い、小さな一室に閉じ込められてばかりの日々。
○○、○○、と彼女は毎日泣き続けました。
いつか彼が迎えに来るのだと、信じ続けて彼女は泣きながらも待ち続けました。
一年が経ち、二年が経ち、それでも待ち続けた彼女は、やがて壊れて行きました。
彼女は泣かなくなりました。もう、涙も涸れてしまったのです。かわりに、食事をとらなくなりました。誰が勧めても、何も口にしません。
そのうち無理矢理押さえつけられて、食事をとらされるようになりました。けれどそれも長く続きません。
いつの間にか、彼女はそれすらも吐き出してしまうようになりました。この世のすべてを否定するように、彼女は食べ物も、誰かの言葉も、受け付けなくなりました。
見る見るうちに彼女はやせ細り、衰弱して行きました。
そのうちに、小さく彼女の部屋からうたが聞こえるようになりました。

ちょうちょ ちょうちょ なのはにとまれ
なのはにあいたらさくらにとまれ…

彼女はその歌を壊れた蓄音機のように繰り返し繰り返し、歌い続けていました。
最初は誰も気味悪がって近づかなかったのですが、どうしても気になった下女が彼女の部屋を覗けば、彼女はいるはずも無い蝶を手の平で遊ばせるようにしながら、ずっと窓を眺めていました。
そして、彼女の手の中の蝶はひらり、と窓の外へ飛んでしまったのでしょう。彼女は窓を開けて、蝶に手を伸ばします。あるいは、その蝶が、出て行ってしまう愛しい男に見えていたのかもしれません。
小さく彼女が、「待って、○○」と彼の名を呼ぶのが聞こえました。
下女があ、と思った時には、彼女の姿は窓から外へ消えていました。鈍い音がして、下女の悲鳴が屋敷に響きます。
慌てて彼女の落ちた場所を見に行った人々は絶句しました。何故なら、

彼女の体から流れた血は、まるで蝶の羽のように彼女の横たわる場所に広がっていたのですから。

…おや、お兄さん、泣いておられるのですか?
あなたの愛しい人にでも、彼女の生い立ちが似ておられましたか?

…彼女のために泣いて下さるあなたに、一つだけお教えしましょう。
彼女が最後に呟いた名前は

古泉

と言ったそうですよ。
…おや、お兄さんと同じ名前ですか。それはそれは。

さて、これにて私の物語は終わりです。
彼女のために泣いて下さるあなたに、幸あらんことを…




寵蝶 寵蝶 名の華に富まれ
名の華に飽いたら 裂く裸に疎まれ
裂く裸の花の 華から破名へ
留まれよ逢添べ 遊べよ止まれ