※若干の古泉受的表現が含まれますので苦手な方はご注意くださいませ
堕ちた蝶々
執筆者:Mt様
二年がたった。 時の流れは本当に酷いものだ。 楽しいと感じられていた時は自分でも怖くなるくらい速く過ぎ去ってしまうのに、希望もなくなり何一つとして喜びを見出せなくなった今になって、残酷な程に遅くなる。 本当に長かった、一人で部屋に閉じこもったままの生活。 あの事件以来、食事さえ自室で取る事になり勿論俺の部屋に訪れる事などない両親とは一切接触する機会がなくなった。 それでも時折、長い廊下の先にいたりするのを見かけたが、それは俺が一方的に見ただけであって決して向こうが俺の事を認識している様には思えなかった。 ただ、まだ幼い弟は俺の状況など理解出来ずに俺の部屋に遊びに来ては教育係に引き摺り出されるという行為を繰り返しており、その光景は俺の心を幾許か和ませてくれていた。 それ以外はそれこそ本を読む程度しか許されず、日がな一日活字を追うという事も珍しくはなくなった。 以前のように共犯となってくれる者などいるはずもなく、俺はただ与えられた女物の洋装で大人しく部屋に閉じ籠っていた。 だって俺にどうしろと言うんだよ、狂う事さえ許されなかった。 いっそ狂ってしまえたらと何度も思ったが、そうなるには周りの目が厳し過ぎた。 掛かり付けの医者によって、わけの分からんカウンセリングとかいう会話を強要されるし、少しでも精神的に辛くなるとすぐに薬を渡されて眠らされた。 そうこうしている内に何を考えても無駄なのだと悟ってしまい、ただ呼吸をしつづけるのが一番楽なのだと分かってしまった。 だから本の中に、空想の中に浸っていった。 それが一番簡単に現実から目を背ける事が出来たから。 そんな日々が日常となって久しく、古泉の事を思い出すのもそれが思い出に過ぎないと思えるようになった頃、ある転機が訪れた。 いつもは弟が飛び込んで来た後にしか来ない弟の教育係が俺の部屋の戸をノックしたのだ。 中に入って来て言った言葉に俺は驚いた。 「お父様と客人がお待ちです。応接間へ参りましょう、お嬢様」 最後に父親に会ったのはもういつの事だったか思い出せないほどには昔の話で、まして家族と使用人以外の人を見るのはそれこそ二年振りだ。 猜疑心を丸出しにして教育係に付いて行くと、おもむろに口を開いた。 「今からお嬢様がお会いになる方、多丸圭一様は言うまでもないでしょうが多丸家の当主様でいらっしゃいます。先代から係り合いの深い家ではありましたが、幾分、圭一様は変わった方でいらっしゃいます。決して無礼のないようにして下さい」 多丸圭一、確かに名前だけなら聞いた事があった。 そんなに大きくはなかった多丸家を一気にうちと同等、あるいはそれ以上にまでしたかなり頭の切れる実業家。 抜群に才覚の秀でた彼は若くして多丸家の当主となったが、未だ婚約者すらいない。 それは男色家だからという下賤な話さえ囁かれる程で。 ……というのが、二年前の噂だ。 それ以降、世間の情報を俺が手に入れる事は出来なかったので今でもそんな風に言われているのかどうかは分からない。 応接室の前で立ち止まった教育係は俺の事をちらりと見てから、その扉をノックした。 「失礼します。お嬢様をお連れしました」 そう言って、俺に前を譲る。 客人の前に出るのは本当に久し振りで、礼儀作法を忘れていないかとひやひやしたが、身体の方は勝手に動いてくれた。 変な噂を立てられている割に見た目は普通で、当主を名乗るにはその爽やかさの方が目立った。 あくまでそれは作られた印象にしかすぎなかったが。 「こんにちは、お嬢さん。呼び立ててしまって申し訳ないね」 「いえ、お呼びいただいて光栄です」 愛想笑いってどうやるんだったかな、出来ている自信がない。 父親が一瞬だけこちらを見たが、すぐにその視線は外された。 明らかに顔を顰めたが客人の手前堪えたようで、本当に微妙な変化でしかなかった。 そんなに俺の事が邪魔ならいっそ追い出してくれればと、会う度に思う。 「……あぁ、噂に違わぬちょっぴりお転婆そうなお嬢さんですね」 褒められては、いないのだろう。 けれど発せられたその言葉に棘はなく、むしろただ感心しているだけのような響きだった。 「本当にこんな娘でよろしいのですか?」 父親が心底不思議そうに口を開いた。 何の話かはさっぱり分らない、もう少し状況を教えて欲しかったぜ、教育係さんよ。 「えぇ、お嬢さんさえ同意していただければ……お嬢さん、もしよければ私の娘になってくれないかな?」 ……ん? さらに意味が分からなくなった俺に、圭一さんは説明を続ける。 「恥ずかしながら、この歳になってもまだ妻さえいない状況でね。別に跡取り云々は弟がいるから全く困っていないのだが、少しばかり寂しくてね。だから、養女をとろうと思っていたんだ。そうしたら、こちらのお嬢さんが婚約のご予定もないとの事だったから、是非にと思ったんだが。どうかな?」 俺が養女? ちょっと想定外の展開に頭が付いていかない。 「まぁ多少、私に構ってくれればそれでいい。お茶の相手か精々チェスの相手くらいだ。あぁ、お茶も入れてくれると嬉がね。お嬢さんだがそういう事は得意だと窺っている。残りの時間は好きなようにしてくれて構わないし、私は何の文句も言わない」 魅力的だった。 向こうの家でだって幽閉される事は同じだろう、でも少なくともこの人は俺に構ってくれる。 彼がいつまで自分を相手にしてくれるかは分らないが、居辛いだけのここに居続けるよりはずっとずっと魅力的だった。 それに俺がここに呼ばれている時点でそもそも頷く以外の選択肢などない。 それは父親が許さないし、母親も許さない。 「えぇ喜んで」 今度は笑えた、と思う。 だって、ここから解放されると思うだけで十分に嬉しかったんだから。 「良かった。それでは来週あたりにお迎えに上がってもよろしいですかな?」 多丸さんがそう父に問いかければ、 「いつでも構いませんが、そうですね……来週の日曜日あたりでは?」 と、父は神妙な顔で答える。 「それでは来週日曜日の昼過ぎにお迎えに上がりますよ」 機嫌良さそうに言った圭一さんはそのままの笑顔で応接室から消えていった。 残された俺に父親が話しかける。 「よく分らんが、お前の事を先方はご所望だ。お前を世間に晒すのは一家の恥だが仕方あるまい。ここで多丸家との縁を強くするのは意味が大きい。分かるな? 絶対に不躾な真似だけはするなよ。それから多丸家の養女となったら二度とこの家の門はくぐらなくていいからな」 俺に厳命した上で、控えていた弟の教育係に俺の礼儀作法をもう一度叩き直せと命令してから部屋を出ていった。 バタンと閉められた中にいるのは俺だけで、思わずガッツポーズをとった。 家から出られる。 そんな絶縁状を叩きつけてくれなくとも、誰が帰ってやるものか。 それに向こうの家なら少しくらいの我儘は許されるかもしれない。 そうしたら、もしかして、古泉の事を探せるかもしれない。 二年たった、その間、アイツはどうしているんだろう。 希望に胸が膨らむ、来週の事がもう待ち切れなかった。 「こんにちは、お嬢さん」 待ちに待った日曜日、約束通り多丸さんは午後一時過ぎに現れた。 それまでの間に俺は教育係からかなりしごかれたのだが、全く苦にならなかった。 久し振りに吸う外の空気は本当に新鮮で、塀の外から仰ぎ見た洋館に別れを告げた。 古泉と一緒に育った家、けれどもうここに古泉はいない。 俺には何の価値もなかった。 車の後部座席で揺られていると、隣から多丸さんが話しかけてくる。 「家を離れるのが寂しいのなら、時々は帰っても構わないよ」 心配してくれているのだろうか? そんな優しさが嬉しい。 「いえ、そんな事は……これからは、よろしくお願いします、多丸様」 「いや、こちらこそよろしく頼むよ。今日から君は私の娘だ。そんなに堅苦しいのは私の望むところではない。もっと気を抜いてくれて構わんよ。私は君のご両親のように厳しくしようとは思わない。もっと君のしたいようにさせてやりたい。やってみたい事があればどんどん言いなさい、出来る限り応えよう。だから、一つだけ、守ってくれないかな?」 「何をでしょうか?」 「簡単な事だよ、多丸様って呼ぶのを止めてくれないかな? 君は私の娘なんだよ?」 「はい、分りました……お父様」 神様なんてずっといないと思っていた、特にこの二年間は。 でも、それでも神様に感謝したいと思った。 だってこんなにもいい人に拾ってもらえるなんて、運が良いどころの話ではない。 させてもらえなかった外出も、もっとさせてもらえるかもしれない。 教えてくれなかった色んな事を教えてくれるかもしれない。 そう考えるだけで、頬が緩んでしまう。 二時間ほどで着いた館はやっぱり洋館で、しかしながら築十年にはなっていないだろう割合新しいものだった。 そのままお父様の私室に通される。 家族だってなかなか入れないだろう部屋に何の躊躇もなく案内してくれるのは本当に嬉しかった。 「さて、君にはいくつか知っておいてもらいたい事があるんだ。私に関して、あるいはこの家に関して。……入りたまえ、そこにいるんだろう?」 突然、扉に向かって話しかけると、おもむろに扉が開いた。 「失礼します……」 うそ……だって、なんで…… 「こい、ずみ……?」 そこにいたのは古泉で、いつも湛えていた笑みもそのままで。 「おや? 彼の事を知っているのかい? うん、それなら詳しく教えて貰いたいね。おいで、いつき」 「はい」 笑った古泉は俺の事など気にも留めずにお父様の隣に立った。 「ちょっと背中を見せてあげなさい」 言われるままにシャツを脱いだ古泉の背中は表現しがたい傷に覆われていた。 あざとも言い難いし、何かで切った訳でもなさそうで、どうしてそんなものが付いたのか見当もつかないし、少なくとも二年前までそんなものはなかった。 「お嬢さんには分からないかな、これはね火傷の痕なんだよ。もう二年近く前になるかな? 大火傷で瀕死状態のこれを私が拾ったんだ。ただ、怪我の影響か全くそれ以前の記憶が無くてね。自分の名前が「こいずみいつき」である以外何一つ思い出せないらしい。困ったものだ。それで、これを知っているのかい?」 「え、えぇ……」 知っているどころではない。 その二年前までずっとずっと一緒にいたんだ。 「うちの、使用人でした……」 それ以上の言葉を告げる事は躊躇われた。 だって俺の親になってくれるという人に、あの事件は告げられるものじゃない。 「うむ、そうか……それが何であんなところで……まぁ、深い詮索はよそう、大抵失敗するか、一層面倒な事になるだけだ。彼には私の身の回りを見て貰っている。こういった意味でもね。おいで」 そう言いながら、お父様は片手で古泉の事をさらに招き寄せた。 隣に立っていた半裸の古泉はその手に従って屈み、そのままお父様に口付けた。 「えっ……」 絶句した。 なんで? 古泉がなんでお父様に? 「私が男色家だなんていう噂を耳にした事はないかね?」 にんまりと笑ったお父様は先程までとはまるで別人で。 そう言えばと、今更のように思い出す。 「これは本当に顔が綺麗だろう? だから拾ったんだ。本当に、火傷した時に顔が傷付かなくってよかったよ。作法なんかもきちんと出来るから重宝している。公にはただの使用人だ。実際、君も好きに使ってくれて構わない。昔は君のご両親に仕えていたのだろう?」 お父様の声が遠くに聞こえる。 古泉が、古泉がお父様の男娼? そんな馬鹿な…… 「う、そ……だろ? 古泉、なぁ……」 俺の事を好きだと言ってくれたのはお前だった。 それがうそかもしれないと思いながらも、それでも俺はその言葉をずっと信じてたんだ。 古泉、お前……なんで……? どうしてっ!? うそだって言ってくれ、これは何かの悪い夢だと言ってくれ。 それでも古泉は不思議そうに首を傾げるだけで。 「初めまして、お嬢様。これからはよろしくお願いしますね。何なりとお申し付け下さい。……それから、以前の僕が何をしていたのかは分りません。分からないからこそ、怖いんです。今、圭一様にこうして仕えられているだけで十分に幸せなんです。だから、どうか以前の僕とは別の人間として扱ってはいただけないでしょうか」 遅過ぎる自己紹介。 そして、俺を絶望に突き落とすには十分過ぎる要求。 どうして、お前が好きって言ってくれたのに…… 「まぁ、あと瑣末な事はいつきに聞いてくれるかな。と言う事で、部屋に戻ってくれていいよ、今日は疲れただろうし。何だか酷く動揺しているようだしね。また、夕食で会おう」 そう言われ追い出された俺は部屋を案内してくれるという古泉にトボトボとついて行く。 部屋に着いて扉が閉まると同時に、俺は古泉を抱き締めた。 「お、お嬢様!?」 困惑した声が、昔の事を思い出させる。 よく我儘を言いまくって振り回しては、古泉にこんな声を上げさせていた。 でも、今抱き締めている古泉は俺の事など何一つ知らないただの使用人、そしてお父様の男娼。 「お前、本当に覚えてないのかよ……なぁ、古泉……」 堪え切れない涙で視界が歪む。 「……スミマセン、お嬢様。何一つ思い出せないんです……」 「……」 好きだって言ってくれた事も? そう咎めようと開いた口はその音を立てなかった。 その前に古泉が口を開いたから。 「先程、圭一様が仰られた通り、瀕死状態だった僕を圭一様が拾って下さいました。そして素性も知れない僕を傍に置いて下さったんです。その恩は報いても報いきれない程です。だから、少しでも多く返したいんです。圭一様が望む事なら何だってして差し上げたい。……それで、僕の事を欲して下さるなら言うまでもない。むしろ嬉しいくらいです。軽蔑されますか? それでも僕は圭一様をお慕いしているのです」 途中から自嘲気味に語った古泉の声に思わず耳を塞いでしまいたくなる。 俺の事を好きだと言った口で、他の人の事をそんなにも愛おしそうに言わないで。 俺の事を抱いた身体を、他の人になんか見せないで。 ボロボロと泣き始めた俺に驚いた古泉は懸命になって俺をなだめた。 そのやり方も俺が覚えているのと一致していて、俺の好きな古泉と同じで。 止まりようもない涙を堪えもせずに、温かい古泉の腕の中で泣き続けた。 三日三晩、泣き腫らした後、俺は元の平穏を取り戻した。 諦めが付いたからだ。 古泉は相変わらずお父様にべったりで、お父様も満更でもなさそうで。 流石に他の使用人がいる前では何もしないが、三人だけになると何の遠慮もしないのが苦しい。 お父様がそんな状況を俺に見せつけて楽しむ節があるのも否めない。 むしろそのために娘を欲しがったんじゃないかと考えてしまう程に。 ……いいんだ、これで。 俺の我儘を聞いてくれるお父様。 呼べばすぐに来てくれる古泉。 幸せそうな、古泉…… その傍にいられるだけでいい。 もう二度と会えないと思ってたんだから、それに比べたら天と地の差だ。 お前と愛し合う事は許されないけど、近くにいる事は咎められない。 だから俺は何の遠慮もなく古泉を呼びつける。 「なぁ、古泉」 そうすれば、お前は返してくれるんだ。 昔から変わらぬ調子で、 「はい、どうしましたかお嬢様」 と。 |