羽など無くとも
  執筆者:FKさん

今日も俺は、女中が運んでくれたコーヒーを吹き冷まして啜っている。
それは御丁寧に、あらかじめカップまで温められて用意されているに違いないような熱さだ。
もちろん、もっと温い方が好みだとか、これは熱過ぎるだろうと抗議をすれば、それくらいの言い分は通るくらいに大事にされてはいるが、嫌だった。
俺の好みを知っているのは古泉だけでいい。俺の好みを知っていた古泉を、忘れたくない。あの日々が夢だったなんて、思いたく・・・ない。
だから、他の誰かが淹れてくれたお茶に対する違和感を味わうことで、俺だけでも古泉を憶えていようと決めたのだ。
それくらいしか手立てがないほど、古泉がこの屋敷にいた形跡は、俺のそばにいた痕跡は、消されてしまった。
まるで屋敷中が一丸となり、古泉を ”忌むべき存在” としたかのように。
・・・仕方ないことなのだろうが。
あの後、劇薬を飲まされたのだからと強制入院させられた俺が戻った自室には、家宅捜査よろしく手が入ったようで、清掃や消毒ばかりか、古泉の筆跡も混じっている子供の頃の落書帳、古泉に連れ出してもらう際に使っていた男物の服、古泉とよく遊んだ碁や双六までもが、本来あった場所から排除されていた。
ベッドが以前の物のままで残されていたのは、かえって取り替えたほうが意味深だからなのだろうか・・・あえて確認はしていない。
女中らは示し合わせたかのように、って、示し合わせたに決まっているのだろうが、揃いも揃って古泉の名を口に上らす者はいなかった。
俺の乳母であった古泉の母親も、あの日、逃げるようにここから消えてしまったらしい・・・当然だろう、息子がお嬢様である俺に不貞を働いた挙句に逃げてしまったんだからな。
いや、たとえ古泉が逃げていなくても、不貞を働いた時点で乳母やは居た堪れずに去っているだろうが。
数年経った今となっては、本当に何もかもが、夢の中での出来事であったかのように思い出される。
全身が硬直した感覚も、突き刺すような痛みも、古泉の言葉も。
あの日以来、話し相手が誰も来ない俺の部屋はいつだって静かで、今夜のように屋敷内がバタバタと活気づいていても、まるでよそ事だ。
さして興味もないのだが、ちょうど茶器を下げに女中が来たので、なんとなしに聞いてみた。
「この時分にしては騒がしいな」
それに対し、まったく事務的に返答される。
「明日は旦那様が別邸を御使用されますので、その準備でございます」
あぁ、そうかい。だが、その別邸とやらも、俺がこの軟禁生活に入ってから建てられたものだからな、知ったこっちゃない。



いっそあの時、気がふれてしまえば良かったんだ。古泉に陵辱されたショックでもなんでも、俺の時が止まってしまえば良かったのさ。
古泉がいなけりゃ、日常なんてただの日常に過ぎない。ループのように繰り返されるだけの、平坦な毎日。
それでも、古泉を探す術も持たない俺には、ここでヤツを待ち続けるしかない。
俺は嘆息し、毎晩律儀にやって来る睡魔のために、床に付こうと服を着替えた。

正確には、着替えようとした、だ。

胸元のボタンを外そうと両手を掛けた所で、背後から抱き付かれてしまったんだからな。なるほど、これでは抵抗できん。
しかも相手は片手で俺を拘束したまま、もう片方の手で俺の口を塞ぎやがった。・・・期待に膨らんだ胸がはちきれそうだ。
だって、この流れで、あいつ以外の誰が俺にこんな無体を働く?今の俺には何の価値もないんだぞ?断言したっていい、誘拐されたところで身代金なんざ誰も払ってくれはしないだろう。だから早く、何か言ってくれ・・・!古泉、なんだろう?

「あなたにしてはおとなし過ぎる反応ですね・・・本当に、あなた、なのでしょうか?」
耳に吹き込まれる、間違えようもない古泉の声・・・古泉、古泉だ!
「・・・んん・・・ん!」
抵抗なんてしないから、顔を見せやがれ!喜びに、知らず溢れた涙が、俺の口に被さっている古泉の手を濡らしてゆく。
「僕のせいで廃人にでもなってしまったのかと思いましたよ・・・」
そんなわけがあるかと首を横に振る。古泉の手がジャマだったが、俺の髪が濡れた顔に張り付くくらいには意思表示できたようだ。
すると、懐かしい苦笑が目に浮かぶような、ちょっと困った時の古泉の声がした。
「すみません、しばらくはこのままで・・・もう少しあなたが落ち着かれましたら、必ず解放しますから・・・」
言いたいことは山ほどあるのだが、それすらも発言権がないんだから、このままでいるしかあるまい。
俺が小さく頷くと、古泉は低くひそめた声で言った。
「では申し訳ないのですが、このまま聞いて下さい・・・・・・明日の別邸での催し、表向きはなんらかの祝賀会だそうですが、その実、あなたのせりであるということは御存知ないのでしょうね・・・あの一件で婚約を破棄させたところで、魅力的なあなたのこと、いずれ後妻や愛人としてあなたを欲しがる輩が現れるであろうことは予測できましたし、それがあなたの父親にとって渡りに舟の条件であれば、本来なら価値がないはずの傷物である娘を差し出すこともでき、双方利害が一致するというわけですよ。おそらく、そのような考察あればこそ、あなたがあの後もこの家に留めさせられ続けていたのでしょう。これほど好都合なことはありませんからね。あなたの父親は一族の恥を厄介払いでき、あなたを頂いた輩は・・・言わずもがな、でしょう?あなたはさぞ恩着せがましく虐げられ、玩具にされることでしょうね」
前言撤回。どうやら俺にはまだ身代金を要求されるような価値はあったようだな。
「・・・あぁ、もう泣かないで下さい。仮説としての一例ですよ。もちろんそうなる前に、そうさせないよう僕はここに来たのですから」
ひどいことを言われたから泣いたわけじゃない。っていうかだな、さっきから俺は泣きっぱなしだろうが。お前の顔が見たいんだよ!!
苛立ち任せに動かすことができた両手を伸ばし、やっと口を覆う手をひっぺがしてやった。
「古泉・・・いいかげん、顔、見せろよ・・・っ!」
小声で言いながら振り返ると、涙でぼやけた視界で古泉を確認する前に、唇を塞がれた。
「・・・んっ・・・は、ぁ・・・」
その舌の動きは情熱的で、初めての接吻に応えながら俺は、あの時欲しかった古泉の劣情や欲望を、確かに感じ取ることができた・・・。



「すみません、落ち着けなかったのは、実は僕です。あなたの声を聞いて、その瞳で見据えられてしまっては、理性に自信が持てないと判断したものですから・・・」
事実、そうだったようだな。が、接吻以上の行為に及んで来なかったのは、おそらく古泉の罪悪感によるものであろう。
古泉は、さっき俺が思い描いていた通りの、へらりとした苦笑を浮かべて、申し訳なさそうにしていた。
でも、嬉しかった。目の前にいる存在が、間違えようもなく古泉であることが、信じられないくらいに嬉しかった。
「なぁ、古泉・・・俺を迎えに来てくれたんだろ?今度こそ、俺を一緒に連れて行ってくれるんだろう?」
古泉は、それには答えず、
「・・・あの時の僕にはあれが精一杯でした。あなたと共に逃げるには力不足も甚だしく、それを自覚していながら、あなたにやつ当たりするような言葉を投げつけてしまい、僕にできることといったら、あのようにあなたを強引に手に入れることで、あなたの婚約を白紙に戻すくらいしか」
「古泉・・・もう教えてくれ、本当のことを、全部」
今思い出してもぞっとするような、あの時の残酷な古泉は演技だったんだと思いたい俺の気持ちもわかってくれ。
「・・・本当にあれきりで終わらすつもりであったのなら、あなたへの想いなど、どうして伝える必要があったでしょうか。・・・ふふ、血塗れのペチコートを婚約者に贈るというのも、あなたにもう会うこともないと告げたのも、あの場に登場してくれた女中に聞かせるための嘘八百です。ですが、あれほど後ろ髪を引かれたのは初めてでしたよ。断腸の思い、とは、あのような時に使ってこそ相応しい言葉なのでしょうね・・・お察しの通り、女中に目撃させたのはわざとです。そうでなければ、僕はあの物証を手に入れた時点で屋敷から去るはずでした。そうすべきだったんです。でも、できませんでした。証拠品にことのほか愛着が沸いてしまったのでね、あれを手元に置いておきたくなったんです。僕自身に対する戒めであり、僕が初めてあなたを貫いたという証、なのですから・・・宝物と言ってもいいくらいですが、むしろ秘宝と呼ぶに値する代物ですね」
延々語っておいて、そこでいきなり砕けるな、恥ずかしい言い回しをするんじゃない!俺は、それをごまかすように話題を変えた。
「乳母やは・・・お前の母親は元気でいるのか?一緒だったんだろ?」
「えぇ。僕の気持ちも含め、あの計画のことも伝えてありましたから、あらかじめ逃走先に決めておいた親族の家で合流しました。今はそことは別の家で、一緒に生活しています」
柔和な雰囲気できびきび働く乳母やの姿を思い出し、懐かしい気持ちになった。
「そっか・・・俺も、会えるんだろう?」
それは暗に、俺もそこに連れて行ってくれるんだろ?という確認なのだが。
「はい、もちろん。母も会いたがっていると思いますよ、あなたの人柄をとても好もしく思っていましたから」
待てよ・・・?
「でも、怨まれていてもおかしくないんだよな、俺の立場からいって・・・」
「あぁ、あの際の僕の発言は少々事実を誇張したものでしたから、復讐めいたことを仄めかした件については忘れて下さるとありがたいですね・・・確かに僕の父親は自殺しましたが、僕らをこちらで引き取って下さったことでもわかるように、僕も母も、あなたやあなたの御家族に怨みは持っていませんよ。それに母は、僕の計画を聞いたときは泣いて止めてきたほどですし」
・・・それ、俺のためというよりも、息子の非道さに泣いたんじゃないのか?いや、これは言うまい。
「さて・・・夜は長いとはいえ、明るくなるまでにはこちらを出立してこの近辺からも去らなければなりませんことですし、そろそろ・・・」
「逃げるんだな?」
期待に声を弾ませた俺に対して、古泉は、なんとも緊迫感のないことを、無駄にいい声で言った。
「あの時、僕もあなたも達していませんでしたからね。この場所での最後に、良い思い出を残してから旅立つことにしませんか?」
ぎしり、とベッドが軋む音を耳にしながら、そこに寝かせられ、デジャヴの恐怖が頭を掠める。こんな状況なのに、ときめくよりも恐怖が先に立つ自分が、まったくもって不憫だな。
「さ、さっきから思っていたんだが、どうしてお前そんなに余裕なんだよっ。また女中がいきなり部屋に入って来ないとも限らないだろう!?」
と、古泉は眉を上げた。
「おや、言ってませんでしたか?僕が事前に入手したスケジュールによると、あなた付きの女中陣は現在別邸に泊り込みで、おそらく今この部屋に来ることができる唯一の人物は執事のみですね。もっとも、あの方でしたら就寝中だと思いますが」
男である執事がこの部屋に入ってくるなどということは、よっぽどでない限り、ありえんと言えよう・・・今までだってこの部屋に出入りした男は古泉くらいだからな。
「それなら・・・構わんが・・・・・・ヤったらお前また一人で消える気じゃないだろうな?」
古泉が、驚いたように目を見開く。
「まさか。僕はあの日の行為に対して後悔の念でいっぱいだというのに・・・最初は証拠を手に入れるため、あなたに出血して頂くのが目的であったわけですが、処女喪失の際の出血というのは、人によってはしないこともあるのだそうで、念には念を・・・無体にせざるを得なかったというわけです。ですので、あなたを優しく扱えなかったことについては今でも胸が痛むのですよ・・・それを、挽回、させて下さい・・・・・・」
・・・古泉に、そう囁かれながら喉元に唇を埋められて、なお抵抗できる女子がこの世にいるというなら挙手してみやがれ。全力で拍手喝采してやろうじゃないか。



「あ・・・ゃ、やぁっ!古泉っ、やめっ」
「どうしてです?気持ち、いいのでしょう?」
「だっ、だって・・・変なんだ、これ。ふわふわして、夢の中、みたいで・・・だから、目が覚めるとお前はやっぱりいなくって、女中の持ってくるコーヒーは熱くって、それが現実でっ!」
ぐしゃぐしゃななりで必死に捲くし立てると、動きを止めた古泉が苦笑を浮かべた。
「よく、わからないのですが・・・こちらの女中であれば、少々事務的でも皆優秀なはずでしょう?どなたであっても、一度あなたの好みを申し付ければ」
「嫌、だったんだ。他の者がお前のようにしてくれたところで、そんなことに慣れちまったら、お前の存在が嘘だったみたく思えそうで、怖かったんだ」
古泉の言葉を遮るように早口で並べ立てた。行為を止められても妙な気持ちは騒ぐばかりで、会話をしていないと本当に古泉が目の前から消えてしまいそうで不安だった。
「僕は、いるでしょう?目の前に・・・・そして、あなたの中に。これが嘘であるはずがありません。そんなのは僕だって嫌ですよ」



果たして、良い思い出ができたと言えるかどうかは不明だが、俺は古泉の肩越しに山が燃えるのを見たわけだ・・・・・・多分。



かくして、最大の共犯を犯した俺たちは、ここを発つ準備をした。しかし立つ鳥跡を濁しすぎだろ、これ。
俺は以前の手持ちの男物の服を捨てられてしまったこともあり、古泉が用意してくれていた服を着ることになった。
なんだかこうして男の格好をして古泉と並ぶと、とてつもなく懐かしかった。これから屋敷の外に連れ出してもらえるんだ、という高揚感を思い出す。
古泉もそうだったのか、いよいよ部屋を後にするという時に、お忍びの外出の際に使わせていた呼称で俺を呼んだ。
「では参りましょうか、キョンくん」
あの頃と同じ言葉と笑顔が、嬉しかった。