蝶々飛んだ
  執筆者:ハチスカ様



昼過ぎに目覚め、眠れない夜を数える。今日も眠ることの出来ない俺はベッドを抜けしていた。
古泉がいなくなってから俺は日がな一日邸の中だ。
存在自体を隠すように、息を殺すように自室で過ごす。今はもう、忍んで出かけることもない。
望まぬ婚約が破棄されたことに喜びを感じていたが気持ちは晴れなかった。
この家に生まれ育てられた故の責任と恩というものがないわけじゃない。
その為に我を殺して生きるのは義務に近く、当たり前だと思っていた節もあった。
だからその時まで……、この家の駒として嫁ぐまで少しでも自由でありたいと願った。
そんな俺にとって乳母の息子である古泉の存在は都合が良かった。
血を分けた兄弟ではなかったが、側にいた時間はずっと長いだろう。
他の誰にも言えないような我儘を古泉にだけ、いくらも口にした。
そのたびに困ったように笑って古泉は好きにさせてくれたのだ。俺は家族の誰にもしない甘え方を古泉だけにしていた。
いつのまにか特別な存在であるという認識を持っていたがそれがどんな思いから来ているかなんて考えもしなかった。古泉の素性を知ったときにはもう、好きだったのかもしれない。
もうずっと昔から想いは通じあっていたのだな、とぼんやりと考えた。
古泉が俺に甘かったのも、俺のために叱責されていたのも、俺への気持ちがあったからなんだろう。
柔らかい、あいつの微笑む顔を思い出して呟く。
「好きだ」
言葉にしても届くことは無く、実感も沸かず、中身の伴わないもののように思えた。
まるで満たされない。自分の中に大きな虚空を感じるだけだ。
追い詰められるまで気づかないなんて愚かにも程がある。もし気づいていたら俺は、連れて逃げてと言っていただろうか?
唯一許された外界との接点である窓を見つめた。今だって逃げようと思えば可能だ。
売れば一財産築けそうな調度品も装飾品も衣服もここには揃っている。
誰にも必要とされていないのだから、いつでもそうすればいいのに出来ないでいた。
他のお嬢様に比べれば俺は世の中のことを知っていたが、それでも世間知らずといえるだろう。
家への責任や恩だけなく、外へ出る覚悟が出来ないでいる。
そして、古泉が戻ってくるのではないかと何処かで期待しているのだ。
「古泉」
いくら呼んだってもう返事は返らない。分かっているのに、求めている。
自分の出自をここまで呪ったのは初めてだ。極普通の家柄であればこんな思いはせずに済んだんだろう。
でもそれでは、古泉に出会うことはなかった。
もう取り戻すことは出来なくても、たくさんの思い出を振り返ることは出来る。
「古泉……」
お前の淹れてくれたコーヒーが一番美味しいんだ。俺の好みの加減をちゃんと覚えていてくれて。
「古泉っ」
姿がみえなくて邸中を呼んで回ったりもした。
「……こいずみ」
納屋でこっそり仔猫を飼った。邸では飼えず手放すしかなくなって落ち込んだ俺をずっと慰めてくれた。
「こいずみっ」
最後のあの日。
みたこともない冷たい目と、酷薄な笑み。内に秘め、蓄積したものをすべて奥底から吐き出すような激しさで責めて俺を打ちのめし傷つけながら俺を好きだと言った。
冷静になっている今なら分かる。古泉は本当に俺が好きなのだ。
父親の死や母親の境遇。様々な葛藤があっただろう。それでも古泉は俺を好きになった。
だったら、そんなに想ってくれていたのなら、
「お前こそ、俺を連れて逃げてくれたら良かったんじゃないかっ!」
使用人だからって遠慮なんかしてんじゃねえ! 俺を犯すなんて暴挙に出られるんだったらそれくらいわけないだろうっ!?
感情のままに叫んで立ち上がる。今しかないような気がした。今なら、この勢いにまかせてすべてをかなぐり捨てられる。
俺は窓に走りよってそっと音を立てないように開けた。
それほどの高さではない。カーテンでも繋ぎ合わせ、ベッドの脚に括れば降りることは可能だろう。
急いで荷物をまとめ、古泉と忍んで出かける為につくった服に着替えていると、こつんと何か部屋に転がりこんでくる。
小石だ。外から投げこまれたものに違いない。急いで着替え庭を覗き込む。
「いけないお嬢様ですね。こんな時刻におでかけですか?」
古泉だ。古泉だった。間違えようもない。月明かりの下で微笑している。俺は言葉をなくしてしばらく古泉を見おろした。
そんな俺をみあげてクスッと声を上げて笑う。仕草も声も本人以外ありえない。
「どうして。貴方は貴方なのでしょう?」
古泉がシェイクスピアの恋愛悲劇を思わせる台詞を口にした。
「お前は月と外灯に輝き方を教えてるんだろう?」
俺も笑って言い返す。嘘じゃない。俺の世界が古泉だけで鮮やかになったけれど、視界がぼやけて仕方が無い。
ぽたり、と俺がこぼした涙が古泉に向って落ちる。
「俺はお前に暇を出した覚えは無い」
「はい。申し訳ありません」
「俺は家名を捨てるよ。だからこれが最後の命令だ」
「はい」
畏まって真剣に古泉が俺を見つめる。射貫かれそうなその目はあの時とは違い、熱いものが仄見えて溶かされそうだった。
「俺を連れていってくれ」
「承知いたしました」
ふんわりと見慣れた笑みを浮かべ、恭しく古泉がお辞儀をする。荷物を下へ放り投げ、古泉をみると待ちきれないとばかりに俺に向って手を広げた。
「転ぶぞ」
「構いません」
俺は古泉に向って飛び降りた。案の定、庭の芝生に転がることになったが古泉は俺をしっかり抱きとめてくれていた。
「好きです」
そう言って涙の後を拭ってくれる。そっと頬を撫でる手を掴んで誓いのようなキスをしたまま上目遣いにみあげて俺は、言えなかった言葉を告げる。
「俺も、お前がずっと好きだったんだ」