フタリノムシカゴ
執筆者:なつ様
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あらあら、お久しぶりで御座いますわね。ご機嫌如何かしら?
今日という日にこんな場所でだなんて世というものは随分と非道ですわね。 このような御見苦しい顔で御免なさいね。醜いでしょう? うふふ、お世辞はよして。そのようなもの、要りませんもの。 だって私は散々泣き明かしましたのよ。おわかりかしら? あら、そうね。わかるわね。だって私の顔は醜いもの。 目は真っ赤で瞼は腫れてしまっているでしょう。 でも良いの。こんな私でもまだマシなの。 ねぇあなたは知っていらっしゃるかしら。 飛び降りた死体ってとても無残な姿になるらしいのよ。 何もかもが地面に叩きつけられてぐちゃぐちゃになってしまうのだもの。 そうなっても仕方がないのでしょうね。 あなたも想像がつくのではなくて?ともかく無残な姿になってしまうの。 無残な姿になってしまった死体よりは綺麗な顔をしているでしょう。 ああ、ああ、御可哀相に。 私は散々泣き明かしましたのよ。 お嬢様を想って、一晩中泣き明かしましたの。 ご存知のように私はお嬢様の世話をさせていただいていました。 お嬢様はとても愛らしい方で、それはもう大変素晴らしい女性でしたの。 私はそんなお嬢様の成長を見てきました。 お嬢様の成長をずっと楽しませていただいていました。 お嬢様が女性になるのが、楽しみで、幸せで、けれど怖かった。 だってお嬢様がご結婚なされれば、お嬢様はこの屋敷からいなくなってしまうもの。 私はお嬢様に情を注いでいましたもの。 でも、あなたもご存知のように私よりもあの男の方がお嬢様を愛していました。 駄目。名を口にしてはなりません。あなたも咎められてしまいます。 ええ、ええ。あの男の名はこの屋敷では禁忌なのです。 私もこうしてあの男の話をしていることが知られれば咎められてしまうでしょう。 けれども構いません。だって私はお嬢様を愛していました。 だから誰かがお話しなくては、可哀想だわ。 あの男はね、お嬢様を愛していたわ。 そんなものはお嬢様とあの男の傍にいた者なら誰だって知っている。 ただ誰も口にしなかっただけ。認めてあげられなかっただけ。 だってそうでしょう?男は所詮は使用人でしかないの。 報われない恋だわ。そう私たちは知っていました。 だけれどもあの男のお嬢様を見つめる目を、きっと私たちは認めていたの。 だってお嬢様はいつでも幸せそうだったもの。 あの男がいてこそお嬢様は立派な女性だったんですもの。 ああ、お嬢様。お嬢様もあの男がきっと好きだったんだわ。 お嬢様は気づいていなかったかもしれないけれど、私にはわかります。 だって私はお嬢様をずっと見ていたもの。 私は、寄り添い合う二人をずっと見ていたんだもの。 あなたはあの事件をご存知? そう、あの男がいなくなってしまった事件。 お嬢様があの男に裏切られてしまったあの「不幸な事件」のことを。 あの日以来お嬢様は不幸に叩き落されてしまったわ。 安泰した将来を手に入れるはずでしたのにその結婚も取り消され、 お嬢様は皆から腫れ物のように扱われ、 そして実のご両親からも見放されてしまいました。 何より、お嬢様はあの男を失ってしまいました。 それがきっと一番苦しかったでしょうに。 何があってもあの男さえいればお嬢様は乗り越えられたはずでした。 それなのにあの男はお嬢様の傍にいないのですから。 ええ、ええ。 あの男の話もいろいろと聞きました。 でもあの男が復讐のためにお嬢様を傷つけるはずがありません。 あの男ならば旦那様に直接恨みを晴らしたでしょうに。 しかし男はそれをしなかった。 そう、そうなの。男はね、お嬢様を傷つけたわ。 男はお嬢様を傷つけた。 何故かあなたはおわかりかしら? お嬢様が他の男のものになることが耐えられなかったのでしょうね。 もしあの男がお嬢様を無理やり連れ去ったのだとしたら。 そうしたらお嬢様はきっと今も幸せに笑われていたわ。 苦しい生活かもしれない。貧しい生活かもいしれない。 それでも二人でならきっと。 ああ、ああ。 今更嘆いたとてどうしようもないとわかっています。 だって男はお嬢様を置いて逃げてしまったのですもの。 どうしてお嬢様を連れ去ってくれなかったの? お嬢様は泣いていたわ。こいずみ、こいずみって泣いていたわ。 名前?もしかして今、私は名前を言ってしまったかしら。 ああでももういいわ。だって私はもうこの家とは関係ありませんもの。 昨夜お暇をいただきましたわ。ええ、もう良いのです。 だってこの家には誰もいませんもの。 昨日はね、お嬢様はお部屋で読書をされていたわ。 窓辺で温かい日差しに抱かれながらお嬢様は本を読んでいたの。 私はそんなお嬢様を見て、胸を痛めていた。 だってお嬢様はあの日以来笑わなくなってしまったのだから。 でもね、お嬢様は昨夜突然本を閉じていったの。 今日は温かいな、と。そう私に仰られたわ。 私はそれに驚いてしまったの。だって、お嬢様が私に話しかけてくださるなんて。 私は嬉しくなって笑ったわ。ああ、お嬢様がって。 お嬢様はね、窓の外を見て微笑まれたわ。 久しぶりに見るお嬢様の笑顔だった。 そうして私に紅茶が飲みたいと仰られたの。 だから私は、頷いて。 その時ね、私は気づかなかったの。 お嬢様がどうして微笑まれたのかに。 私はただ、ただ嬉しくなってしまったの。 そうして私が紅茶を持ってお部屋に戻れば、お嬢様はいなかった。 窓がね、ただ開いていたわ。カーテンがふわふわって風に揺られて。 私は紅茶を落として、窓辺に駆け寄ったわ。 お嬢様が誤って落ちてしまったと思ったから。 でも覗き込んだ下に、お嬢様の姿はなかったの。 ふふふ。じゃあ今日のこれはなんなのかって? そう、これはなんなのかしらね。どうしてみんな泣き真似をしているのかしら。 可笑しなものでしょう。泣く必要などないのに。 みんなはね、ただ哀しんでいるふりをしているだけよ。 自殺なのか事故なのかはわからないけれど、お嬢様は窓から転落して亡くなられてしまった。 だからこそ可哀想なお嬢様と泣いているふりをしているだけよ。 死体なんて当然ないわ。それはぐちゃぐちゃになってしまったからではないの。 だってお嬢様は死んでいないんだもの。 だからこの葬儀にはお嬢様の死体はないの。 ねぇ、マシでしょう?ぐちゃぐちゃになったということにされたお嬢様よりは。 私の今の顔は見苦しいでしょうけれどマシでしょう。 可笑しなものよね。みんなみんな、口を閉ざすの。 みんなみんな知っているのよ。お嬢様が死んでいないということを。 だけどみんなみんなお嬢様を殺したの。 だって傷物にされたお嬢様が次は家からいなくなった、だなんてこの御家にとっては恥でしかないから。 だからみんな悲劇のお嬢様に仕立て上げたんだわ。 信じていた男に裏切られ、そして哀れにも命まで失ってしまった不幸な少女なのだと。 ああ、可哀想なお嬢様。 だから私は泣き明かしたの。 お嬢様を想って泣き明かしたの。 ああ、可哀想なお嬢様って。 お嬢様は、あの男が連れ去ったのかしら? それともお嬢様はお一人で何処かへ行かれてしまったのかしら? お嬢様は、今頃何処かで笑っているかしら? それともお嬢様はお一人で何処かで泣かれているかしら? 私はね、きっとこいずみが迎えに来たのだと信じるわ。 でないとお嬢様が微笑む理由が見つからないもの。 私はね、きっとこいずみと幸せになるのだと信じるわ。 きっと貧しくて苦労続きの生活でしょうけれど二人は幸せなのだと。 お嬢様はね、此処にはいない。 棺の中がからっぽな理由はお嬢様の死体が無残だからじゃない。 ふふふ、だからそう、あなたは泣かなくとも良いの。 私ももう泣かないわ。 だって私は昨夜お暇を頂いたんだもの。 お嬢様もこいずみもいないこの屋敷に用などないのだから。 だから私はこの屋敷を出るわ。 それにこんな馬鹿げたものに付き合っていられないもの。 あなたもご一緒に如何? こんなふざけたものなどすっぽかしてしまいましょう。 何処かで一緒にお茶でもしながらお嬢様の思い出話でもしましょうよ。 そしてお嬢様が幸せになれるように願いましょうよ。 きっと大丈夫よ。 私は信じているわ。 お嬢様はこいずみと往ったのだと、信じているわ。 お嬢様はね、美しく羽ばたく翅をもがれてしまったわ。 けれどきっと大丈夫。 だってあの男がずっとお嬢様を抱き締めていてくれる。 こいずみのもとからお嬢様は羽ばたかなくても良いの。 それはまるで虫籠のようだとあなたは思うかしら? そうね、ある意味そうなのかもしれないわ。 だってお嬢様にはもう帰る場所などないわ。往く場所もないのだから。 けれどそれは甘美な虫籠。 だってこいずみの腕の中こそがお嬢様の至福の場所。 私は知っているわ。だってずっと二人を見て来たのだから。 蝶々は、翅をもがれて地に堕ちたわ。 けれどもね、ただ一人の愛しい男が拾い上げて抱き締めてくれたの。 ふふふ、ただ翅をもいだのがその男ということだけが少しの悲劇だけれど。 けれどもね、きっと大丈夫よ。翅などなくとも蝶々は。 だってもう、何処にも往く必要がないのだから。 だってもう、誰かを魅せる必要がないのだから。 男の腕の中だけで生きていけばいいんだわ。 それこそがきっと、最高のハッピーエンドでしょう? ああ、可哀想なお嬢様。 こんな素敵な物語を認めるのが、私だけだなんて。 誰もがなかったこととして認めようとしないだけなんて。 だからこそあなたも、せめてこの物語を知っていて。 これはね、可哀想で、けれども幸せな二人の物語。 小さな小さな、二人だけの「虫籠」の物語。 「お嬢様、古泉、おしあわせに」
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