眠り月

古泉一樹の中学生時代を妄想してみました
自分なりの古泉一樹像がある場合見ない方がきっと無難




























前夜


「こら、早く起きなさーい!」威勢のいい明るい声と共に布団を剥ぎ取られ、僕はあえなく床の上に落下した。
ドスッといい音がして、腰が痛む。
「うあ……おはよ……」
「朝ごはん出来てるから、さっさと着替えて下りてきなさいよ」
それだけ言っていなくなった母親は、僕の二度寝防止のつもりなのかそれともすぐに干したいということなのか、布団を持ったままだったらしい。
布団のなくなったベッドの上を恨めしく見ながら起き上がり、僕は大きく伸びをした。
「ふああ……」
欠伸をして、にじんだ涙を擦る。
のそのそと立ち上がり、放り投げたままになってる目覚まし時計を見ると、いつもと同じ時間だった。
中学生になったんだから、と買ってもらった目覚まし時計だけど、まるで役に立っていない。
どうせならもっといいものをくれたらよかったのに。
文房具なら、僕も好きだし、新入学のお祝いとして相応しくも思えるんだけれど、えてして贈り物なんてものはこちらの都合を考えてくれないものだろうからと諦める。
身支度を整えてダイニングに行くと、両親はもう食事を取り始めていて、僕の分のトーストが冷めかけていた。
それをじっと見ると、
「冷めたのが嫌ならさっさと起きなさい」
と言われた。
全くその通りだから文句は言わなかったのに、お見通しらしい。
マーガリンを塗ってもうまくとけないトーストに、四苦八苦しながら表面が薄っすらと白くなるまで塗りたくると、かぷりと食いつく。
体温でようやくとけたマーガリンの塩味で、ほの甘いトーストを流し込む。
「まずそうな顔して食べて」
「おいしいよ?」
「まずそうに見えるって言ってんの」
ぺしりと額を叩かれたけれど、食べてる時の顔に文句をつけられても困る。
「あんた、顔はいいんだからもうちょっと愛想でも振り撒いたら?」
「めんどいし、別に今のままでも不都合ないし」
「もー…」
勿体無いと繰り返し呟く母親を横目に、僕はサラダとスープを平らげ、最後にぐっと牛乳を飲んだ。
「ごちそうさま」
短く声を掛けて、立ち上がる。
「忘れ物しないようにねー」
「分かってる」
家事をしっかりしてくれて、とても頼りになるいい母親でもいいんだけれど、少しばかり口うるさいのはなんとかならないものだろうか。
聞きとがめられないようにこっそりとため息を吐いて、カバンの中に荷物を詰める。
今日提出の宿題が手付かずのままだけれど、これくらいなら学校でやって十分だ。
手早くまとめた荷物を手に、
「じゃ、いってきます」
と言って家を出る。
まだ早いけれど、宿題をやる時間がいるからこれくらいで丁度いい。
足早に中学校まで歩いていると、早い時間でも何人かは知った顔にあうもので、
「おっはよー」
と元気よく声を掛けられたりする。
「おはようございます」
ときちんと返すのは、そういう風に躾けられてるからでもあるし、相手がまだそんなに親しくはないからでもある。
これが親しい相手なら、んーとかああとかで済ませるんだけど。
多すぎる階段を上り、ようやく教室に入ると、主に英和辞典と和英辞典のせいで重たいカバンの中身を机の中に押し込めて、数学の宿題を引っ張り出す。
ワークブックを1ページだけ、という程度だから、すぐに終る。
内容だって前回の授業の復習でしかないから、今日の授業の前にやるのはある意味利にかなっているんじゃないか。
言い訳めいたことを考えつつ、ちょこちょこと数式を解いていると、
「古泉ーっ」
と声を掛けられた。
「ん? …ああ、おはよう」
割と親しいと言えなくもないクラスメイトにそう言われ、僕はちょっと笑いながら素っ気無く返す。
彼もそれは分かっているから、気にした様子もなく、
「はよ。なあ、それ見せてくれよ」
とストレートに言われた。
「ええ? これくらい自分でしたら?」
「それが面倒だから言ってんだろ。内容は分かってるから大丈夫だって」
「だーめ」
笑いながら言っても本気には聞こえないんだろうし、実際本気でもないから、彼もしつこく食い下がる。
「なあ、ちょっとだけでいい、基本問題のところだけで、応用編は自分でやるからさあ」
「えー」
渋る素振りを繰り返し、
「どうせならジュースでもおごってよ」
と譲歩とも嫌がらせともつかない戯れを口にすると、
「84円のジュースな」
という言葉と共に、書き込み終わったワークブックを取り上げられた。
「全くもう…」
そんなことをしていると、
「俺にも見せてくれよ」
とか、
「私にもー」
なんて声と共に僕のワークブックはあっという間に人だかりの中心に置かれてしまった。
……まだこんな段階から宿題を写させてもらってると、後で困るのは自分だと思うんだけれど、わざわざ言ってあげるほどでもないから放っておく。
朝礼ギリギリになって帰ってきたワークブックを机の中に滑り込ませて、朝礼に臨む。
今日も無駄に元気がいい国語教師は、あれこれ注意事項を並べた後、おすすめの本だかなんだかの話をしていたけれど、その時には大半の人間は船を漕ぎそうになっていた。
僕はそれほどでもないし、そもそも授業中に眠れるタイプじゃない。
…そう思っていたのに、その日の数学の時間、僕はうかうかと眠ってしまったらしい。
眠ってしまったとか、眠いなんて意識もないまま、僕はそこにいた。
真っ暗な中、短いスカートにも関わらずどっかと胡坐をかいた少女の背中が見えていた。
彼女はなんだかとてもイライラしていた。
背中だけでそれが分かるほどのイライラは、母親が月の一度にどうのというのよりはるかに強そうだ。
イライラした彼女は本当に刺々しくて、痛々しい。
なのに、どうしてだろう。
僕には彼女が何を思っているのか、分かるような気がした。
彼女が寂しがっているのも、不満に思っているのも、僕には分かった。
分かるから、僕が側にいるからと、抱き締めたくなるような姿だった。
実際その背に向かって手を伸ばした時、
「こら」
と低い声がして机を叩かれた。
はっとして顔を上げると、いかつい顔をした数学教師が僕を睨みおろしていた。
「す、すみません」
「…今日みたいに暑い日によく眠れるもんだな」
皮肉っぽく言われ、余計に顔が熱くなる。
でも僕は、それ以上に今見た夢が気になってならなかった。
あの子は誰なんだろう。
知らない人間を夢に見るのもおかしな話だけれど、知っている誰かではない気がした。
どうして僕はこんな夢を見たんだろう。
分からないことばかりだけれど、だからこそ、彼女のことが気になった。
そのせいだろうか。
胸の中がざわざわして堪らない。
でもこのざわざわは悪いものではないように思える。
少し楽しくて、少し怖くて、なんだか台風が接近してきている時の気分に似ている。
彼女はどこにいるんだろう。
彼女に会えたら、彼女を知ることが出来たら、何か変わるんだろうか。
ざわざわがどきどきに変わるのを感じながら、僕は小さく笑みを浮かべた。
彼女を探したい。
どうやって、とも思うけれど、どうやってでも、とも思う。
ずっと考えていたから、放課後もぼんやりしてしまっていて、うっかり惰性で歩いていると、塾に行くのを忘れそうになった。
「古泉、塾じゃないのか?」
と声を掛けられて、
「あ」
と絶句したくらい、忘れきっていた。
「お前でもそんなうっかりすることあるんだなー」
とからかわれながら、慌てて進路を変更した。
ようやく家に帰り、
「おかえり」
と迎えられて、今度こそ熱々美味しい夕食が待っている食卓につく。
今夜は鶏の唐揚がメインで、熱くてカリカリのそれは見ているだけだとお腹がどんどん空いてくる。
「もう食べていい?」
「手を洗って着替えてからにしなさい」
伸ばしかけた手をぺしりと叩かれる。
「はぁい」
不貞腐れたような返事をしながら、家中にただよういい匂いを吸い込んで、言われた通りにする。
楽な服に着替えて、ぺこぺこのお腹で食卓につき、
「いただきます」
と手を合わせて唐揚に噛み付いた。
じゅわりと熱い肉汁に舌を焼きそうになりながら、でも、だからこそおいしくて嬉しいのに、
「あんたって本当においしくなさそうに食べるんだから」
「おいしいって思ってるんだけど」
「もっと顔に出さなきゃ、色々損するわよ」
「もう耳にタコが出来てるよ」
小さく笑った僕に、母親は少し呆れたように笑って、
「まあ、そのうち変わるかもね。好きな子でも出来たら」
好きな子、と言われてあの夢を思い出した僕はちょっとおかしいだろうか。
「…授業中、珍しく居眠りなんかしたら、変な夢を見たよ。知らない人が出てくる夢。夢って、知ってることしか出てこないと思ってたんだけど、そんなことってあるのかな?」
「知らないと思ってるけど知っている人ってこともあるかもしれないな」
と柔らかく言ってくれた父親とは反対に、母親は苦笑して、
「授業中に寝たりするからよ」
とたしなめる。
寛容というのか、非常に鷹揚な父に、少し口うるさいけどしっかり者の母はぴったりなのかも知れないとぼんやり思いながら、
「今度からはちゃんと気をつけるよ」
と返し、僕はまた夢の彼女のことを思った。
明日になったら、何か分かるだろうか。
明日になったら、何か変わるだろうか。
なんだか妙な胸騒ぎを抱え、でも、どこかわくわくしながら、その日僕は眠りについた。

それが僕の、普通の人間としての最後の一日。