いつか送る、時を繰る
「時計買ってやろうか」
やおらガラスケースを覗き込んだ男は、居並ぶ商品の数々が押し返す光の切っ先に、目を細めつつもこう言った。
少女は思わず、首を傾げてしまう。
いくら値切り上手な男とはいえ、そこにお行儀よく構えている品々の気取り顔を見れば、そう軽々しく手を伸ばせはしない筈だ。
第一、雑多な商店街でならばまだしも、このような高級デパートでお得意の技を披露されるは恥である。
そんな理由もあって、少女はにべもなく答えた。
「不要だ」
「お前なァ、ちっとはこっちの身になれよ」
げんなりとした様子を作りながら、男は虚空にぼやきかけた。
「靴も服も要らない。アクセサリーなんぞ以ての外。だったらせめて実用品をと思いきや、そう取り付く島もなく断られたんじゃ、立つ瀬がねえや」
「私が要らないと言っているんだ。気にしなければよかろうに」
「そうじゃなくってさ、男としての面子の問題だっつの」
その時、隣でガラスケースを覗いていたカップルの片割れが、きらりと瞳を光らせた。
獲物を見つけたときの獣の動きだ、と少女は思わずにはいられなかった。
「ねえ、コレ。これがいいなあ、あたし」
二十歳そこそこの女性である。恋人に腕を絡ませて、あからさまな猫なで声で言うのだった。
「どれ。う、ううん……ちょっと高いなぁ」
「いいじゃないの。今日はぁ、二人の記念日なんだし。ね?」
しぶしぶ首を縦に振った男は、存外まんざらでもなさそうだ。
少女は怪訝そうな視線を向けて、傍らの男に問いかけた。
「つまり、お前は私に、あのような行いを、望んでいるわけか?」
一語一語、噛んで含めるような物言いに、男は思わず身震いする。とても「あのような」少女の姿は想像出来なかった。
「いや、遠慮するぜ。空から槍が降る」
「逆だな。槍は地面から突き出る筈だ。何せ天地がひっくり返るだろうからな」
「自分で言ってりゃ世話ないぜ……」
そんなことを言い合って、恋人同士と見るには余りにもその風情に欠けた二人は、揃って踵を返すのだった。
デパートを出、大通りを抜けて、人気のない小道にたどり着いた。
ようやく握ることを許された少女の手を、男は揚々と受け取って、黄昏に沈む前途を歩む。
「久しぶりだなぁ、こういうの」
「長らく仕事が忙しかったからな……」
少女が男の視線から逃れるように、俯き加減に歩いているのは、照れのために他ならない。
カタい言葉遣いに似合わぬこういうところが、また可愛いと男には思えてしまう。
その華奢な白い手を握り締めていると、どういうわけだかガキ大将に戻ったような心持がしてきて、ぶうらり、ぶらり。
二人の手は繋がれたまま、宙に踊った。
「まるでピクニックにやって来た子供だ」
少女の呆れ笑いは、くすり、と耳に心地よい。
男は調子付いて、
「それは違うぞ、クラピカ。予行練習だ。いつかこの間に、子供が挟まるわけだしな」
「……っ」
顔を赤らめて、照れ隠しとばかりに怒り出すだろうと予期した男は、挑戦的な眼差しで彼女を見遣ったのだが、予想は的中しなかった。
その顔色はどこか青ざめて、心なしか手は震えている。
呆けてしまった目が、一体どこを見ているのか、男には皆目分からない。
「おい……どうしたよ?」
ついに立ち止まってしまった少女に、気遣わしく声を掛けると、ようやく彼女は口を開いた。
「いつか……」
「ん?」
「あ。いや……。何でもない……」
俯いた少女の目は、やっと焦点を取り戻す。
すると、もう一度小さく「あ」と声を洩らした。
「ホントにどうしたって言うんだよ。大丈夫か?」
「私のことより、レオリオ!お前こそ必要じゃないか」
「……は?」
熱に浮かされてでもいるのかと訝しむ男を尻目に、少女は手を振りほどき、彼の手首を掴んでぐいっと持ち上げた。
「腕時計のことだ!」
男が身に付けている腕時計が、どうにもみすぼらしく見えるのは、何も辺りが暗くなってきたせいばかりではあるまい。
硝子盤には細かな傷が付き、革のベルトには逆毛が立ち、針は鈍色にくすんでいる。
「これから受験に挑まんとする者がこのような時計では、試験中の士気の下がること受け合いだろうに」
「ほんとに大袈裟な奴だよな、お前」
男は多少辟易しながら、どこかいとおしげに時計に手を遣った。
「どんな高価な時計より、俺にとっては価値があんだよ」
少女が瞳を見張るのを見届けて、男は続ける。
「元々、ダチが親父から譲り受けたものだって言うんだ。今度は、それを俺が」
「……!」
思い当たることがあって、少女は息を呑んだ。
そう……彼の言う「ダチ」とは、男がいつか語って聞かせてくれた、早世した――助けられなかった親友のことに違いないのだ。
少女に構わず、男の口からは、とつとつと言葉が溢れ出た。
「不思議なもんだよ。あいつの時間は止まっちまったのに、こいつの中で、時間は生きてる。今日の天気、明日のテレビ、明後日食う飯。
秒針がチクタクいうほどによ、俺はあいつの知らない時間を生きてるんだって、感じるんだ。まあ、なんだ……俺が頑張れるのは、こいつのおかげってワケ」
「それは……すまなかった」
しかし男は特に気を害した風もなく、遠慮がちに言葉を発する。
「その、だから……さ、お前に、時計――買ってやるよ」
思わず、少女は男を見上げた。
男の真摯な瞳からは、どこまでも自分を案じているのが分かる。
それに気付いた時、温かい涙の波紋が、心の内にうねって広がってゆくのを少女は感じた。
しかし、それでも。
「いらないよ……本当に、いらないんだ」
「そう、か……」
「嫌いなんだ。腕時計って、手かせみたいで。私の村には無かったから、どうも慣れなくてな。
それに、えっと……携帯電話があるから、時を読むのに不自由してはいないし」
「いいさ。無理にとは言わねえよ」
「すまない……」
すっかり冷えてしまった少女の手を、再び握って歩み始める。
入り日陰はとうに失せて、夜空には星が瞬いていた。
無言で歩む二人の後を、長い影が、まるで囚人の足かせのように引き摺られていく。
「なあ……本当の理由、聞いてもいいか?」
暫く歩いて、俄かに発せられたその問いに、少女は久しく沈黙した。
やがて口を開いた少女の口調には、常に無い素直な響きがあった。
レオリオ、知っているはずだよ。
私はいつも、過去と向き合って生きているって。
私の時間は、十二歳のあの日のまま、止まっているんだ。
それでいい。動かしちゃいけない。
この憎しみが風化することを、私は何より恐れてる。
私は私の怒りと憎しみとによって、仲間の無念を晴らすために、この生を犠牲にしようと決めたんだ。
奴らの首と、仲間の瞳以外、欲するものは、何も無い。
だから……お願いだ。「いつか」の話はしないでくれ、レオリオ。
お前という仲間を、友人を、――恋人を得ておいて……勝手なようだが、過去に生きる人間にとって、未来への望みほど苦しいものはないよ。
私は、きっとそこには辿り着けないから。
そこで少女は言葉を飲み込んだ。
彼に対してとても言える筈のない言葉を、胸の内でそっと呟く。
(使命を果たしたら、私は……仲間たちのもとへ手を伸ばす。きっと彼らは、迎えてくれる)
その時、ぐらりと揺れた重心にはっとなり、少女は大きく瞳を瞬いた。
少女の腕を身に引き寄せて、そのまま体ごと抱きすくめながら、男は消え入るような声で語りかける。
「構わねぇよ、別に。今はそれでもさ」
「……?」
「お前が苦しんできた時間ってのは、俺にも測り知れないもんがあるし。お前の決意に、とやかくは言えない――とも思うんだけど」
「ちょっ……苦し」
「っと、悪ィ」
男は腕の力を緩め、軽く咳払いした。そしてきまりが悪そうに顔をしかめた。
「いや……でもやっぱダメ。俺言っちゃう。俺はなぁっ、今のことには口出ししねえよ?
けど『いつか』お前がやらにゃならんことを全部終えたら!引っ張ってでも、引きずってでも、俺はお前を未来に連れて行くんだからな!覚えとけよ」
横暴な物言いに、少女は覚えず苦笑した。
「……勝手な奴だ」
「どっちが勝手だっつうの。俺は幼女趣味になった覚えはないんだぞ」
吹き出すと、恨めしそうに睨まれた。
こうしている今だって、男はまるで卵を守る親鳥のように、ひたぶるに温もりだけを提供し続けて、じっとしているのだった。
男の本能というものがどれくらいのものなのか、少女には知る由もない。だが、それを律するには相当の理性を要すると言う。
しかし、今この男を縛り付けているものは、理の働きではない。
彼の本質そのものとも言える、優しさだ。
「いつまでもガキのままいられると思うなよ。お前に明日が無いなんて言わせるかっての」
――いいのだろうか。
少女はぎゅっと瞳を閉じた。
心音は速く、それでも規則正しく、男の胸に鳴り響いている。
それは今、自身の胸の内にも存在するであろう、刻々と時を爪弾く針の音だ。
いつかこの胸に手を当てて、どんな罪に穢れても、どれだけ心が苛んでも、未来を生きることを許す自分がいたならば。
その時は……
この男に引かれる腕に、時のしるべを飾ってもらうとしよう。
――どうせなら、とびきり高級品をねだって、ちょっと困らせてみようか。
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はじめて読んだとき、黄昏の道をぶうらりぶうらり手をつないで歩くふたりが、ひどく印象的だったことを覚えています。
全編「男と少女」の表記が、また、えも言われずそそられるんですよ。
ひとめぼれした作品を転載させていただけて、ありがたく思っています。
061105