本会の歩み
◇歩二会の結成 |
終戦後、水戸歩兵第二連隊跡の兵舎には、旧制水戸高等学校が移転し、そののち同校を中核として新設された茨城大学の校舎になりました。 一方、終戦後の混沌たる世相の中にあっても、元歩兵第二連隊出身の有志は、ペリリュー島で玉砕した軍旗の栄光と先輩・戦友たちの武勲を後世に伝えること、および英霊顕彰の熱意から昭和22年(1947)、故鶴見鴻二氏(元大佐)、故助川次雄氏らが提唱して戦友会である「歩二会」を結成しました。それ以来、この趣旨に賛同する者の参加により、平成10年(1998)まで、毎年4月19日に茨城県護国神社において慰霊祭を開催してきました。 |
◇ペリリュー島慰霊推進会の結成 |
「ペリリュー島慰霊推進会」は、同島で戦死された方々の遺族会であり、平成9年まで、毎年11月24日に茨城県護国神社において慰霊祭を開催してきました。 |
◇東京歩二会の結成 |
「歩二会」の会員の内の東京在住者により、新たに結成されました。毎年12月19日の靖国神社での永代神楽祭は、「東京歩二会」が主催し、「歩二会」および、「ペリリュー島慰霊推進会」も参加する形で催行されていました。それは、名称が「水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会」となった今も変わりません。 |
◇歩二会ペリリュー島慰霊会の結成 |
「歩二会」「ペリリュー島慰霊推進会」とも、時代が平成に入り、慰霊祭の回を重ねるにつれ、参加者の高齢化、世代交代の問題に直面するようになりました。平成10年(1998)の「歩二会」と「ペリリュー島慰霊推進会」との合同役員会において、合併の話し合いが行われ、同年11月24日に茨城県護国神社にて、「歩二会ペリリュー島慰霊会」としての初めての慰霊祭を開催しました。 |
◇水戸歩二会ペリリュー島慰霊会への改称 |
平成18年(2006)9月の役員会において、本会を「水戸歩二会ペリリュー島慰霊会」と改称することを決定しました。(歩兵第二連隊には水戸歩兵第二連隊と近衛歩兵第二連隊があるため。) |
◇水戸二連隊ペリリュー島慰霊会への改称 |
平成22年(2010)8月の役員会において、本会を「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」と改称することを決定しました。 |
実施年度 | 活 動 |
昭和50年(1975) 9月18~25日 |
第一次慰霊巡拝 「歩二会」から、13名が参加し、「ペリリュー島みたま会」と合同の慰霊団を結成し、訪島しました。 |
昭和56年(1981) 7月30~8月6日 |
第ニ次慰霊巡拝 茨城県パラオ慰霊団に「歩二会」より、戦友5名、「ペリリュー島慰霊推進会」より遺族14名が参加しました。 |
昭和60年(1985) 2月15日~21日 |
第三次慰霊巡拝 「東京歩二会」が計画をして、36名が参加しました。 組織的に、初めての戦友会、遺族会の合同慰霊団でした。 |
昭和62年(1987) 2月15日~22日 |
第四次慰霊巡拝 第三次慰霊巡拝実施の結果から、慰霊巡拝の継続と現地の戦跡保存事業計画が立案され、「歩二会・ペリリュー島慰霊推進会」が結成され、この事業の推進に努力することになりました。 まず、この事業の一環として、第四次慰霊巡拝が計画され、30名が参加しました。 この慰霊団の滞在中の2月17日、に酋長イサオ・オバック氏と「歩二会・ペリリュー島慰霊推進会」会長:井上幹一氏との間で、「ペリリュー島戦跡保存施設設置に関する覚書」を交換しました。 第一次事業として、ジャングルを切り開いて、大山東側の聯隊本部跡の洞窟にいたる道路の開設を依頼し、年内に実現しました。 |
平成元年(1989) 2月 |
第五次慰霊巡拝 「歩二会・ペリリュー島慰霊推進会」第二次事業として、顕彰碑、鎮魂碑の建設を計画し、平成元年1月までに完了しました。 2月21日の第五次慰霊巡拝時に除幕式を挙行しました。 |
第五次慰霊巡拝以降も、第十二次まで2年毎に本会主催の組織的な慰霊巡拝を実施しましたが、会員の高齢化による参加人数の減少があり、平成15年(2003)の第十二次以降は、個人での慰霊巡拝となっています。 |
現地ペリリュー島における対応 |
私たちが、慰霊巡拝、戦跡保存について、強い関心を持ってその実施にあたっているとき、シゲオ・テオン氏とトヨミ・オキヤマ女史の御夫妻、およびその御家族は陰に陽に慰霊推進事業に深い理解と協力を惜しみませんでした。 トヨミ・オキヤマ女史は、現ペリリュー島酋長のイサオ・オバック氏の母親であり、慰霊団の訪島を我がことのように歓迎してくれた一人でありましたが、平成13年(2001)7月4日惜しまれつつ亡くなられました。 女史をはじめ島の人たちは、自ら「墓守り」を任じ、墓苑を常に清掃し、戦跡を大切に保存してくれています。女史は、また、ペリリュー島守備隊の敢闘を称えて「ペ島の櫻を讃える歌」と題して、作詞し、その啓もうにも努めていました。 |
左:トヨミ・オキヤマ女史、右:アイバドル酋長(コロール)
7年後の平成20年(2008)10月21日、シゲオ・テオン氏も惜しまれつつ亡くなられました。本会が全国の関係者に参加を呼び掛け、平成21年(2009)1月6~11日にパラオを34名の墓参団で訪問し、7日にシゲオ・テオン氏が眠るパラオ本島の空港近くの墓前にて、御冥福を祈りました。 御夫妻の存在なくしては、ペリリュー島の遺骨収集の道は開けませんでした。今後は御夫妻の遺骨収集をめぐる現地政府との折衝への御尽力および、慰霊で訪れた帰還兵、遺族を暖かく迎え入れてきてくれたことを感謝し、顕彰碑の建立に取り組みたいと考えております。 |
左:トヨミ・オキヤマ女史、右:シゲオ・テオン氏
シゲオ・テオン氏の墓前で手を合わせる墓参団
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