矢取川の鬼女(大森彦七と矢取川の鬼女)

湊川の戦い=健武3年(1336年)=足利尊氏方に味方した
『大森彦七』がいた。『大森彦七』は敵将《楠木正成》を自刃に追いつめた功により、足利尊氏から伊予に所領を与えられた。伊予郡砥部町に館を構え、戦に明け暮れ心の休まる暇もなかった心を酒宴や舞で慰め日々暮らしていた。

 ちょうどその頃、伊予郡松前町の「金蓮寺」で猿楽を催すこととなり、『大森彦七』も舞を舞うため「金蓮寺」に赴くこととなった。

 道中、館を出て魔住ケ窪(現・茄子ケ窪)をぬけて【矢取川】にさしかかった。もう日も暮れかかっていた。 さて、川を渡ろうとしていると、誰やら河畔に佇んむ者がいた。

 見ると美しい姫であった。 声をかけると、「川向こうに行きたいけれど、流れが速く深い川に難渋している」と答える。そこで、『大森彦七』が背中をかして【矢取川】を渡り始めた。
 ちょうどその時、東の山の上に月が出て、辺りがぱっと明るくなって、月明かりを頼りに川を渡って行った。

 ところが、川の中ほどまで来たところで背中の姫が急に重たくなった。川面に写る様子を見ると、口は耳まで裂け、振り乱した髪からは角が生え恐ろしい鬼女となり、『大森彦七』の頭髪をわしづかみにし、天空へ舞い上がろうとしていた。

 『大森彦七』は鬼女の手をシカと離さず岸へ取って返し、「おのれ・妖怪ッ」と押し付けたが「正成参上」と鬼女は手向かってきた。家来の者が駆けつけると、鬼女は空へ向かって忽然と消え去った。それ以後、『大森彦七』は正気を失い、狂死したという。

 「金蓮寺」の舞も中止になったとのこと。このことがあってから【おおごと、金蓮寺】という言葉が、使われるようになったという。
 思いがけない事にでくわして、大慌てをすること の意味である。
 

         (地図)伊予郡砥部町 矢取川