薄墨桜(うすずみざくら)の話

この桜の木には、こんな話が伝わっとらい。(松山のむかし話」より )

 昔、昔、どの天皇の時代じゃったろか。お后がご病気になられたんよ。天皇は全国の寺々に命じて、お后の病気が治るようにお祈りさせなさったんと。そのころの伊台の西法寺というたら、広い境内にたくさんの寺が立ち並ぶ、それは見事な寺じゃった。その寺一山をあげてお后のご病気が治るようお祈りをおしたそうな。

 まもなくお后はすっかりようなられた。天皇はたいへん歓ばれ、お使いにお礼の手紙を持たせて西法寺にお届になったんよ。
 その手紙が薄墨色の紙に書かれとったんで、それからは寺の桜を薄墨桜というようになったんじゃと。

 もうひとつにはこんな話もあるんじゃ。

 都で、歌人の藤原良盛りさまがお亡くなりになって、その遺体を火葬にしたんと。するとその煙がかかった桜は、みんな薄墨桜の花を咲かせるようになってしもたんと。その桜を西法寺の境内に移し植えたということよ。
まあ、いずれにしても薄墨桜とはいうけんど、薄桃色の花びらのようけある、綺麗な花よ。

白鳳時代、天武天皇の皇后が病気にかかられたとき、この寺の薬師如来に御祈りして全快された。
その喜びのあまり、薄墨の輪旨(勅旨をうけて蔵人=くらうどから出す文書)を賜ったので、
境内の桜を薄墨桜と呼ぶようになったと伝えられるなど、諸説ある。

柳原極堂の句碑

   薄墨の 綸旨かしこき 桜かな

   (地図)松山市下伊台町 西法寺