睦月島の北端に周りを屏風のような岩に囲まれ、海の中に突き出した岩山がある。岩山の頂上は風雨で曲がりくねった松と低い雑木でおおわれ、睦月島からは堤防沿いに徒歩で渡れるが頂上に登るのは危険な岩山=『梅の子』と呼ばれている。この『梅の子』にまつわる話。
源平合戦の頃、一の谷、屋島の合戦に敗れた平家の船団は、ばらばらになって九州に向かっていた。本隊から離れたその中の一つの小さな船団が、睦月の瀬戸を西へ落ちて行く途中、一晩嵐にあってそのほとんどが沈んでしまった。ただそのうちの一艘が『梅の子』の岩に乗り上げ、数人の武士が命からがら岩にはいあがり助かった。その頃、この地方の島々=忽那七島=は、忽那水軍が組織されていて、源氏方に味方していた。難破した平家の武士達は、寒さと空腹でこのままでは死を待つのみであったので、相談の結果、死ぬ覚悟で屏風のように切り立った『梅の子』の岩を夜陰にまぎれてよじ登り、頂上にある見張り台を襲撃した。見張り台には数名の源氏の武士がいたが、嵐の夜に潮の流れの速いこの瀬戸を行きかう船もあるまいと安心して高いびきで眠っていた。平家の武士は、まんまと寝込みを襲い、なんなく見張りの武士達を殺し、少しばかりの食糧と弓矢を手に入れた。
翌朝、島の人々が難破船を見つけ、源氏の陣屋に知らせた。流れ着いた平家の武士達を探したが容易に見つからない。見張り役の交替時になり昨夜の出来事が解った。源氏の武士達は『梅の子』の岩山を囲んで、下から遠矢をしかけたが、距離が遠く届かない。時折頂上から放った矢が音をたてて飛んでくるが、数の少ないことが解った。遠巻きにして十数日が過ぎ、勇ましい一人が岩壁をよじ登り、やがて数十人の頑強な武士が登りはじめた。思い出したように矢が飛んできて2・3人の者が肩口などに矢を受けて岩から転げ落ちて死んでいった。頂上の平家方の武士達は、少しばかりの奪った食料も無くなりすき腹で気力も失せ、しつこく攻めてくる敵方に立ち向かう術も失せていたが、それでもある者は刀で、ある者は槍で必死になって戦った。やがて頂上にいた武士は皆討たれて死に果ててしまった。松の木や椎の木の根元の根をかきむしるようにして死んだ武士の顔は無念の顔つきであったという。その松と椎の木を切って作った展望台では、夜毎、柱から血が流れ気味悪く展望台も壊されえたいう。やがて何時の頃か五輪塔が祭られたという。