伊予郡松前町の魚売婦(おたた)さんにまつわる話。
江戸時代の初めの慶長年間のころ、京都のさる公卿の息女の『滝姫』が流罪となり、泉州堺の港より、伊予松前の浜に漂着した。松前の人々は、流罪の身であったけれども都人の公卿の姫様=名を「滝姫」=を哀れと思い親切に接したため、姫様は松前の土地に住むこことなった。
滝姫は生計を立てるために、土地の人から教えら松前の浜で捕れる「魚」を売り歩いた。売り歩く姿は、黒髪に銀のかんざしを挿し、黒紋付に帯を前結びにした姿だったという。町の人々は、魚を売る「滝姫」を「おたきさま」と呼び、「おたき」が「おたた」に変わったのだという。これが「おたた」の始まりだといわれている。
松前の人たちも、頭の上に「魚」を入れた桶をのせて売り歩いていたので「魚売婦」と書いて「おたた」と読む。
松山城築城のとき、松前の港には大名から送られた紋入りの石垣用の石が山のようにあった。この石を毎日たくさんの松前の魚売女(おたた)が頭に乗せて松山まで運んでいた。その中の一人「お豊」は、長い勤めに疲労困憊していたが、その日も勤めに出た。
1つ丸に二の字の入った石は大きく、誰も顔を見合わせて運ぼうとしなかったが、お豊は率先して「私がやりましょう」と言った。
皆は止めたが、「このくらいのことができなくては御主人様に申し訳ない」と言って運び始めた。出合を過ぎる辺りからだんだんと遅れ始め、よろめいていた足も日招神社のところまで来て倒れてしまった。それで、けなげなお豊を哀れんで、その石を「お豊石」といい、この神社に残すことにした。
おたたサンが、その名を知られるようになったのは、松山藩城主=加藤嘉明公が松山城を築城の際、頭上の桶に魚の代わりに石を入れ運ばせたことによる。この功があって、おたたサンは税免除の鑑札を貰い受け、自由に松山城下で魚を売ることを許されたと言われている
(伊予郡松前町)松前城跡 | 日招神社 おとよ石 |