おこり地蔵の話

  御幸1丁目の山手にある【龍仙院(りゅうせんいん)】に安置されている地蔵さんの話

1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆が投下された。焼野が原となった町のある場所に、砂に埋もれ、顔だけ出した石地蔵があった。
その石地蔵の近くに、火傷を負った女の子が座りこみ飢えと渇きに水を欲しがっていた。地蔵は、女の子を何とか助けてやりたい一心で目から涙を流し女の子に飲ませた。しかし女の子は地藏の願いも叶わず死んでしまった。女の子を助けられなかった地蔵は、やがて怒りのためか顔は崩れ、胴体だけの地蔵になってしまった。数日が経ち、家族を失い顔をこわばらせた老人が、ふと砂の中に半分埋もれた丸い石を見つけた。
石は怒っているような形相の顔であったという。人々はこの怒ってるように見える石と胴体だけの地蔵を「おこり地蔵」と呼ぶようになったといわれる。


広島で原爆の被害にあい、焼け跡で粗末になっていたお地蔵さんを【龍仙院】の住職の義母(西原ミサオ)が全部で七体自宅(広島市千田町)へ持ち帰り、玄関先にまつっていました。「おこり地蔵」はその中の一体で、義母は「首なしではかわいそうじゃ」と言って、新しく頭をつけてもらいましたがそれが怒っているように見えたところから「おこり地蔵」と呼ぶようになったといわれています。昭和45年娘の住む【龍仙院】へ身を寄せた際、他のお地蔵さんと一緒におこり地蔵を運び安置したといわれている。

【山口勇子】原作の絵本=【おこりじぞう】=金の星社
広島で被爆した地蔵をもとに、【山口勇子】原作の絵本=【おこりじぞう】=金の星社、として
書かれている。
 
 昔、日本が戦争をしていたころ、、広島の、ある横丁にたっていたおじぞうさんは「うふふふ」と笑った顔をしていたので、笑い地蔵と呼ばれていた。 夏の暑いある朝、真っ青に晴れ上がった空に敵の飛行機が現れたかと想うと、街の真ん中に爆弾を投げつけた。 太陽が落ちたような衝撃の後、すべてのものが吹き飛ばされ、目や耳がつぶれ体中やけどを負った人々が
苦しそうに叫ぶ。横丁のおじぞうさんも吹き飛ばされ、笑った顔だけが地面から覗いていた。垂れ下がった皮膚を引きずりながら逃げる人々、黒こげになって横たわる人々。そして、ひどいやけどを負った女の子がフラフラと近づき、おじぞうさんのところでバッタリと倒れてしまった。
笑ったおじぞうさんの顔を見て、母を想い出し「かあちゃーん。水がのみたいよー」という女の子。「みず…、みず…」と声が弱弱しく消え入りそうになった時、おじぞうさんの顔が変わります。 仁王像のように恐ろしく怒った表情になったおじぞうさんの顔。そして、クイッと見開いたおじぞうさんの目からボタボタと涙があふれ、女の子の口へ注がれて…

    ・/A>(地図)松山市御幸1 【龍仙院】

龍仙院