比翼塚の話(軽皇子と軽皇女)

西暦412年・允恭(いんぎょう)天皇が第19代天皇として即位した。
 古事記や日本書紀にも残る話である。

 允恭天皇には、5男4女があり、長子に木梨軽皇子(きなしかるのみこ)、5子に軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)という兄妹がいた。長子で皇太子である木梨軽皇子は、眉目秀麗で心やさしく、妹の軽大娘皇女は匂うばかりの美女で、その美しさが衣を通してあらわれるようだという意味を込めて衣通姫(そとおりひめ)と呼ばれていた。

 当時は異母きょうだいであれば婚姻も認められていたが、同じ母を持つきょうだいが情を交わすことは禁忌であった。しかし木梨軽皇子は同母妹であるはずの軽大娘皇女に思慕し、年頃になるとお互いを異性として愛しあうようになり、狂うばかりの心情で、やがてその思いを遂げてしまうようになった。
      
   小竹葉(ささのは)に 打つや霰(あられ)の たしだしに
   率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと
   さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の
   乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

 これはその時に木梨軽皇子が詠んだ歌で、笹の葉にあられが打つように、人が何を言おうと気にしない、こうなったからには、何が乱れてしまっても構わない、というような意味である。

 二人の仲は許されず、允恭天皇をはじめ周囲に発覚し、このことを知った群臣は木梨軽皇子から離れて行き、そればかりか側近たちは、弟である穴穂皇子(あなほのみこ)を次の天皇にと考えるようになった。そこで、木梨軽皇子は腹心たちと共謀し、穴穂皇子を討とうとするが、逆に追いつめられ木梨軽皇子は捕えられてしまう。
 その後、木梨軽皇子は四国へ流罪とされることになった。木梨軽皇子は「私は必ず戻ってくるから待っていなさい」と言い残し愛しい軽大娘皇女に累が及ばないように願いながら流刑地の伊予へと流される。

 それからしばらくは兄を待ち続けていた軽大娘皇女であったが、やがてこのような歌を詠む。

君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの
迎えは行かむ 待つには待たじ

あなたが行ってしまってもうずいぶんになりました、もう待ってはいられません、帰ってこられないならば私が参ります。
かくして、軽大娘皇女は伊予・松山へとやって来て【姫原】に隠れ住んだ。

 二人の再会は劇的なものであった。二人が逢う事そのものがすなわち罪になることであるので、人目を避けての逢瀬であった。軽大娘皇女への追求の手は厳しく、しょせんこの世では結ばれぬ愛とばかりに、恋人同士の兄妹はお互いに差し合って相果てた。

 姫原には二人を祀る《軽之神社》があり、近くには、道ならぬ恋をいとおしむように兄妹の【比翼塚】がひっそりと建てられている。

 伝説の実際は、本来であれば皇位継承権を持っていた木梨軽皇子が権力争いの末に穴穂皇子に敗れ、皇位継承から排除された事件を語ったものであろう。「日本書記」の記述では、軽皇子と軽皇女の相姦が発覚し、皇太子を処刑することはできなかったので、軽皇女を伊予に追放したとある。「古事記」においては、軽皇子が伊予に流刑となったとの記述がある。 

 また、四国中央市 妻鳥(めんどり)には、「東宮陵」=東宮さんとも呼ばれる=があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、松山市姫原に流罪された軽皇女=衣通姫とは一度も逢うことなく、この地で果てられ、東宮さんに祀られているとの伝説がある。また、〈恋の池〉が近くにあり、軽皇女=衣通姫を偲んで池のほとりにたたずんだとき、池面に愛しい姫の姿が見れて、叶わぬ思いを囁いたとところから命名されたという伝えもある。

    (地図)松山市姫原 軽之神社 比翼塚  

軽之神社 比翼塚