一遍は、伊予の国の豪族=河野氏の一族 別府通広の第2子として
延応元年(1239年)生まれた。宝厳寺が生誕地といわれている。
幼名は松寿丸。
一遍の母は一遍の生まれる1年前に不思議な夢をみた。日頃信心の観音様が夢の中に現われ、みるみるうちに小指の先ほどの小さな姿となり、念仏を唱える母の口に入ったという。
10才の時、母が亡くなり父の勧めで天台宗の寺へ出家する
3年後大宰府に移り、浄土宗の開祖「法然」の孫弟子に当たる「聖達」
の下で、法名=「智真」として、10年以上に渡り「浄土宗」を学んだ。
父の死(当時25才)をきっかけに還俗して伊予に帰り、豪族の一員
として執政を行っていたが、一族の所領争い等により32才で再出家
信濃の国「善光寺」、伊予の国「窪寺」「岩屋寺」、摂津の国「四天王寺」、紀伊の国「高野山」など各地を転々としながら修行に励み、民衆の魂を救おうと地位も名誉も財産も一切の欲を捨て、ただただ人々のために、一心に念仏を唱え「南無阿弥陀仏」の六字名号を記した念仏札を配り、諸国を遊行して回っていた。
各地を遊行行脚する40才のころ、信濃の国で何遍も念仏を唱えているうち、ひとりでに手足が動き身体が躍り上がってきた。一緒に念仏を唱えていた者たちも、いつのまにか踊り始めている。皆は嬉しくて涙を流して踊りながら夢中で念仏を唱えたという。
【踊り念仏】の始まりだった。
ひたすら人の魂を救おうとして、ぼろぼろの衣を身にまとい念仏勧進しながら一生を送り、51歳で摂津の国で没した。
秘仏「一遍上人立像」=重要文化財が道後湯月町「宝厳寺」に安置されている。
宝厳寺 本堂 |