【姫だるま】にまつわる話

 1.「四世紀の昔」神功皇后が御征戦にご出陣の途中道後温泉にしばらくご滞在になり、そこで応神天皇を御懐妊され、その後颯爽とした鎧姿の勇装にて打ち続く苦難と不運にめげず大任を果たされた。美しく雄々しき皇后は、筑前の国に於いて、応神天皇を出産された。その応神天皇の真紅の真綿包みの可憐な幼児を記念とし、追想して造られたのが黒い髪毛の美しい優雅な姫だるまである。

 子供がもて遊ぶと健やかに育ち、病人が飾ると起き上がりが早くなるといわれ信仰にまつわる心意を示す玩具で人々の心の中に静かにしみて、その愛情は幾多の優美な媛だるまを生み出し、今日の優雅な姫だるまとなりました。神功皇后が応仁天皇を道後でみごもられたとの伝説から、郷土玩具の「姫だるま」が作られた。
 道後商店街では、男女ペアで観光みやげとしてこの姫だるまが人気をよんでいる。安産のお守りとしてまた、誕生日にこの姫だるまを贈られた女性は、1年以内に良縁があるともいわれています。

 

2.河野通有のおじの河野通時の娘がいた。この娘は、元寇の役で戦死した父を弔うため、長く義安寺にとどまり、この寺でなくなった。
この寺は禅寺なので、だるまに姫の顔をかいて供養したのが、伊予の姫だるまの起こりであるといわれている。
 義安寺の墓地の一番高い所にその姫の墓と父通時の墓が並んでおり、姫塚と呼ばれている。
 通時は元寇・弘安の役に際し、関東武士団が到着する前に河野通有と共に敵船を襲撃し、通有は負傷しながらも敵将を捕らえたが、通時は討死した。
 この奮戦により、一時衰退していた河野氏は再興の切っ掛けを掴んだ。戦後通有は元寇で亡くなった将士の供養のため、一族の一遍上人に頼んで「南無阿弥陀仏」の6文字を湯釜に刻んで貰ったという。その湯釜は今も湯築城跡(道後公園)内に湯釜薬師として現存している。一遍上人誕生の寺寶巌寺は義安寺からも近く、歩いて10分足らずの所にある。