昔、睦月は大洲藩の殿様が治め、野忽那は松山の殿様が治めていたという。
睦月と野忽那の間の芋子(いもこ)の瀬戸は、潮の流れが良く、今も魚や海藻がよく取れる場所で、昔から皆が競争で海の幸を求めていたという。
芋子の瀬戸は睦月と野忽那は治める殿様の違う瀬戸なもので、違う島の者が漁に出て、海上瀬戸で出会うと、漁船からそれぞれが大声を張上げ喧嘩が絶えなかったかったという。
ある年の夏のこと、畑の肥料にする海藻を取る藻場で、野忽那の者と睦月の者が出会い、罵声とともに互いの舟に飛び移り小競り合いになった。大喧嘩になり、とうとう睦月の一人が死んでしまった。野忽那の者は、揃って睦月に「ことわり」を入れたが、睦月の者は下手人を出せと迫った。野忽那の者はひどく困り、皆が喧嘩をしたのだから誰がどのようにしたものか解らなかった。野忽那の者は困り果てていたが、気前の良い「源八」という男が、『犯人は源八じゃと言うておくれ』と名乗り出た。それから何日かして、睦月の漁師が、夜更けにこっそりと野忽那にやって来て「源八」の寝込みを襲った。「源八」は夏なので蚊帳を吊るしうとうとしていたが、物音に気付き起き上がろうとしたが蚊帳の四隅が切り落とされ、蚊帳巻きにされて打殺されてしまった。睦月の者は死んだ仲間の仇をうって気もないだろうが、可哀想なのは「源八」さん。
野忽那の人々は、「源八さん」に感謝して丁重な葬儀を執り行ない祠を建ててねんごろにお弔いをしたという。今も夏になると「源八さん」の祠に集まり、お経をあげて供養をしているという。