第百九十八段
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11月30日(金) 昨日に引き続いて「エデンシアター」でドキュメンタリーを見る。 日本映画「八重子のハミング」(監督佐々木清 出演 升毅 高橋洋子ほか 2016年度作品) 観客はオンリー1名。暗闇の中で、思いっきり涙を流しながらこの映画を見る。木下恵介監督の「野菊のごとき君なりき」を大学時代に渋谷で見て涙が止まらなかったが、今回も最後まで涙・涙・涙であった。 夫婦とも山口県の小学校教員で僻地では「男先生」「女先生」として慕われた。主人公石崎誠吾は萩市の教育長まで務めた。妻八重子が若年性アルツハイマーとなる。同病の生存年数は4〜8年くらいだが12年も家族看護で過ごせたことも奇跡に近いらしい。 私が同じ立場なら可能かと問われたら正直無理だと思う。妻は私の無能さを知っているから、死の瞬間まで家事をしていて心臓が止まった。妻の限りなく優しい「死出の旅」であった。映画を見ながら生前の妻のことを想い涙が止まらなくなった。一人っきりの観客でよかった。 11時40分のバスで帰宅。妻の眠る義安寺の墓苑に出掛け、線香を灯す。メルパルクでランチ(和食)、「フジ」で3日間の自炊の食料品を調達する。 11月29日(木) 初めて「エデンシアター」を見る。客人は4名。こんなものだろう。 アメリカ映画「ぼくと魔法の言葉たち」(監督ロジャー・ロス・ウイリアムズ 出演サスカインド一家ほか 2016年度作品)。 7歳ころに「自閉症」と診断された少年をとりまく両親と兄と支援団体の物語。この映画の主人公、両親が「俳優」として登場している。「自閉症」の少年と家族の共通の「言語」は、ディズニーアニメの台詞であり、少年は「ビデオ」でアニメの台詞を殆ど暗記していたことだ。 第三者的言語は「自閉症」の少年にとっては「他人の言語」ではなく、「内なる言語」あるいは「記号」であったのかもしれない。「言語による意思表現の在り方」を深く考えさせられた。 11時のバスで帰宅。昼食は「花楽里」。身障者のレストランだが、食後食器をカウンターに運ぼうとしたら健常者のマスターから「片付けないでくれ」と注意された。身障者の神聖な仕事を奪うことになるのだ。健常者の驕りである。「小さな親切大きなお世話(驕り」を教えられた。 11月28日(水) 「絶不調」が続く。流感でなく風邪と思うが・・・ 思考能力はゼロである。 午前中、「エデン」の担当者から入居1ヶ月経過後の「面接」がある。 終末期医療についての「申告」の必要がある。「エデン」としては遺族との確執が生じたときに「健康時の入居者の意思」を「文書」で確認・保管しておくことは必要不可欠と思う。 ○永井信子さん 一遍会正月例会時の「紙芝居」。「おつえつばき」「てんぐの面」 ○伊予銀行「定期預金」書き換え ○四国電力「10月度料金」ミスマッチ請求 ○ファミリー「毎朝コール」 11月27日(火) 風邪か? 全身がだるく、終日ベッドで横になりラジオを聞く。 石田善人著『一遍と時衆』(法蔵館1996)再読。 11月26日(月) 朝4時起床、書斎にて作業。 「エデン」新規契約口座(NHK・電気など)、リゾートトラスト次年度契約など支払いを済ます。混雑していて立っていたら伊佐爾波神社の野口宮司から席を譲られる。 午後、住友信託シルバーカレッジ受講。 @高橋雅史(別子銅山記念館 館長)「別子銅山と井庭貞剛」 A愚陀仏庵の子規と漱石 〜新しい文学の夜明け〜 【メモ】 講演テーマ「時衆から時宗へ@ 一遍智真と聖戒・他阿真教」 はじめに 正統と異端 形而上と形而下(祈りと「三種の神器」「皇統」に触れて 出会い 『一遍聖絵』『遊行縁起(前段)』『一向上人縁起』 同行 『一遍聖絵』『遊行縁起(前段)』 別れ 『一遍聖絵』『遊行縁起(後段)』『開山弥阿上人行状』 終わりに 「一人のすゝめ」は「いちじん」(天子)か、「いちにん」(右大臣)か「いちのひと」(摂政関白)か「ひとり」(他阿真教他)か 11月25日(日) ホテルから伊佐爾波神社に立ち寄り、来春大学と高校に進学する孫の「学業成就] を祈願する。義安寺に立ち寄り線香を供える。腰痛はひどく息子2人に庭木の剪定を一任する。14時見送る。 一人になると急に疲れが出て、3時間ベッドで横になる。寒いので「おでん」を煮込む。 梅谷繁樹氏論文「『一遍聖絵』についての小考 ― 一遍の遊行念仏勧進と一人のすすめ ―」(『日本言語文化研究』二十三号) 「一人」については諸氏の説がある。 右大臣、摂政関白(九条忠教)、土御門忠実、久我通基、他阿弥陀仏、他者の働きかけなどなどであるが、時宗二祖他阿弥陀仏真教(高野修説)に驚く。個人的には斯くあってほしいと思うのだが・・・・・ 珍しく大河ドラマ「西郷どん」も見ず、19時半にはベッドに入る。 11月24日(土) 湯築城歴史塾D出席(子規博10:00〜12:00)。講師は幡上敬一氏(鬼北町教委)、テーマは「鬼北地域の山岳霊場「奈良山」とその世界 ―国史跡等妙寺旧境内の調査から―」。 天台の戒律復興と四国西南の地に法隆寺流律院と四方戒場(四国戒場)がこの地に設置され、現実に運用されていた。一体誰が、何時の時代に、保護者は・・・ 講演を聞きながら、戦慄が走る。ともかく全体像を把握したい。 神戸から長男・次男が帰省し、庭木の伐採・枝きり作業。大いに助かる、「湯快リゾート道後道後彩朝楽」でバイキング&入浴。四人収容の和室で南方に開いた眺望は秀逸である。息子2人を残し、最終の送迎車(21時)で道後駅に戻る。 11月23日(金) 一遍会12月度例会案内をマスコミ・ミニコミに流す。「エデン」の電気料金やNHK料金の請求・支払いの手続き申請を済ます。 午後、「秋山真之生誕150年記念シンポジウム」に参加(14:00〜16:30 坂の上の雲ミュージアム)。副題は「村上海賊から秋山真之へ ―受け継がれる海の歴史― 」である。 講演@山内譲(伊予史談会会長)「村上海賊の実像」 講演A戸高一成(大和ミュージアム館長) パネルディシカッション パネリスト 和田龍(作家)、山内譲、戸高一成 所謂「司馬遼太郎史観」が前提にあるので、厳密な歴史的考証でいくと村上海賊と秋山真之を結びつけるのは無理であろう。ロマンとでも云うべきか。 日露海戦でのT字作戦はどうやら司馬さんの創作らしい。 山内譲氏とはエレベーターの中で挨拶が出来た。当方の参加に驚いていたようだ。「秋山兄弟生誕地館」の宇都宮良治氏と話す。他には坂雲関係者以外の知人には出会わず。 「椿の湯」。 11月22日(木) 「いい夫婦の日」である。数年前までは妻と海外・国内旅行に出かけていた。国内旅行は11,220円の語呂合わせツアー価格が魅力的であった。 アマゾンから青山淳平著『明治の空 至誠の人新田長次郎』(燃焼社2009)届く。ベッドで読むとするか。 数日遅れたが「一遍会11月度定期便」を本日郵便局から発送する。 夕、「エデン」での月1回の「ほろ酔いサロン」。同席に加藤さん(女性)。道後小学校、今市上町内会と聞くと、近所に住んでいたらしい。旧姓は知らず。 『異端の時代ー正統のかたちを求めて』森本あんりと モーリー・ロバートソン (ジャーナリスト)と大田俊寛 (宗教学者)の鼎談を「ニコニコドキュメンタリー」でキャッチする。 飲みすぎたので21時にベッドにダウン。早朝3時に目覚め、森本あんり『異端の時代ー正統のかたちを求めて』読了。難解な本である。 (キリスト教)神学の基礎知識が欠如しているので「熟語」の理解が不十分である。 「正統」と「異端」、「民主主義」と「ポピュリズム」「トランプとオバマ」等、対立・対比して概念把握するほうが理解が容易ではないかと思う。 11月21日(水) 日中も肌寒い。「木枯らし1号」が関西では吹くらしい。 午前中は残務整理。 午後、県文化振興財団セミナー受講(ひめぎんホール)。青木亮人氏(愛媛大学准教授)の「愛媛学」Eは「写真、絵と愛媛―南予の段々畑や三津浜、大竹伸朗など」。 写真を中心に戦前の松山を中心に語る。受講生でも80歳以上は実体験があるだけに講師も話しにくいだろうと思う。 〇池田洋三『新版忘れかけの街 松山戦前戦後』(愛媛新聞サービスセンター2002年) 〇『目で見る松山・北条・温泉郡の100年』(郷土出版社2004年) 〇『伊予鉄が走る街』(JTBパブリッシング2006年) 県立農事試験場の戦前戦後の話は「農地解放」に関連して歴史的事実を伝えた。 来月は子規会例会で講演をお願いしているのでよろしく申し上げておいた。 アマゾンから砂川博『徹底検証 一遍聖絵』届く。一遍関連事典として活用していきたい。 夜、引き続き『異端の時代ー正統のかたちを求めて』読書。 「三位一体論」をめぐって異端派とされたアリウス派とネストリウス派に記述に興味あり。 アウリス派→ユニテリアン教会(トリニテリン教会) ネストリウス派→アルメニア・コプト・シリア・エチオピア教会等) 11月20日(火) 穏やかな一日だが気温は15度を越えない。肌着は厚手に代える。冬近しの感が強まる。 一遍会、松山子規会11月例会資料の整理と復習。関西小旅行記がやっとまとまる。 森本あんり『異端の時代ー正統のかたちを求めて』精読。丸山眞男の「?正統」と「O正統」の論理展開を自分なり再構築するか。同氏の説明では 「?正統」とは「統治者又は統治体系を主体とする正統論義」 「O正統」とは「教義・世界観を中核とするオーソドクシー問題」 11月19日(月) 高島屋に出掛け、伊予鉄高速バスセンターで払い戻しを済ませ、紀伊国屋で森本あんり『異端の時代ー正統のかたちを求めて』(岩波新書)購入。 昼食は日切食堂の「鍋焼きうどん」と「日切焼き」。 子規会11月例会出席(正宗寺 13:30〜) 1)渡部平人副会長「『はて知らずの記』をめぐって ー出羽路を中心に―」 2)今村威相談役「清水則遠は子規の中に生きていた」 残念ながら「はて知らずの記」を読んでいないので折角の真摯な研究が十分理解できず。一読してからコメントしたい。 11月18日(日) 青山淳平氏(作家)講演「新田長次郎 ―近代社会「明治」の志― 」の復習。同氏の『明治の空―至誠の人 新田長次郎』をアマゾンに注文する。定価の四分の一で購入できた。 午後、田中さんの車に同乗して「東温市仏教会特別講演会」(大安寺)に出かける。講演は前園俊恵師(法蓮寺住職)「お釈迦さまの生涯」。 前園氏は略毎年仏教関係の遺跡を訪ねている「考古学者」でもあり、一遍会の特別講師でもある。 10年ほど前に温子と釈迦の遺跡を訪ねるツアーに参加し、ガンジス川のベネレスの夕景・朝景を一緒に眺めてことを思い出す。 会員の小島孝子さんも出席しており、帰途三人で「珈琲ブレイク」して講演の印象を語る。 夜、NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。今日も多くのことを学ぶことができた。 11月17日(土) 秋晴れ、洗濯から一日が始まる。 江刺さんから依頼があった元道後村大庄屋「三好家」について江戸末期の道後村地図(原図は県歴博所蔵)と第1回「伊予三好会」で講演したレジュメを取り揃え印刷する。 午後、一遍会11月度例会並びに理事会(道後公民館 13:00〜15:30)。講演は青山淳平氏(作家)「新田長次郎 ―近代社会「明治」の志― 」。かなり脱線したが、逆に真実が見えたのは収穫であった。 新田長次郎氏(安政4年5月)は温泉郡味生村山西で誕生。工業用皮革事業で日本のオンリーワン企業となり、後年教育事業・社会事業を積極的に支援、大正12年には「松山高等商業学校」(現 松山大学)の建設資金を全額寄付した。 秋山好古陸軍大将の「親友」であるが、司馬遼太郎は『坂の上の雲』では一切採り上げていない。実は『竜馬が行く』の中で被差別民を採り上げ、当時の「部落解放同盟」に徹底的に絞り上げられた経緯があり、『坂の上の雲』には新田以外にも取り上げていない経済人が居る。 これ以上は個人情報になるので記述しないが、作家の取材を信じると 『坂の上の雲』の暗黒部分がにじみ出てくる。 講談社版『子規全集』でも、子規の差別に関する記述や俳句で、これまた当時の「部落解放同盟」に多額の和解金を払った経緯がある。個人的には今後『子規全集』の発刊はムリで『子規選集』にならざるを得ないと思う。講話内容を『一遍会報』に掲載できるかどうか、悩みが生じた。 例会終了後、広島から見えた森さんと「伊予三好家」について喫茶「セラ」で情報交換する。先祖探しに非常に熱心な方で奥道後(食場)の三好家宅を訪ねて「隠居三好家」の子孫の女性に会って来たとのこと。 女性の方は「系図」や「伝来の刀剣類」についてはあまりご存じなかった由。相続したのは女性の兄と思うが、博物館等に寄託してもらえないものかと思う。 夕食の支度から「椿の湯」の入浴までの私的生活で21時半。正直多忙な一日であった。 11月16日(金) 一遍会11月度例会の資料作成・印刷。 @『一遍会報』 A「一遍会11月度ニュース」 来春京都国立博物館で開催される「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」と京の宿「遊行庵」の紹介を付した。 B 11月例会講話「秋山好古と新田長次郎」レジュメ C「一遍会正月懇親会申し込み」 JA支店長の年末挨拶第1号。例によって貯金箱は猪(亥)だが、あまり可愛くはない。年男としては残念である。いやはや。 三井住友信託からシルバーカレッジ特別講座の案内あり。高橋雅史氏(別子銅山記念館館長)の「別子銅山と伊庭貞剛」なので出席することにする。 一週間ぶりに「椿の湯」。夜は結構冷え込むようになった。 11月15日(木) 朝6時起床、爽やかである。8時間熟睡す、関西旅行は結構疲れていたのだろうか。本日の「松山歴史文化研究会」は、大事をとって欠席する。近藤元規君に連絡する。 JAバンクの満期定期の切り替え、歳暮第1号は横須賀の従兄からの「鳩サブレー」。来客のお茶請に何よりの品である。感謝。 関西小旅行の日誌を書く。 午後5時「エデン」に徒歩で向かう。夜、引き続き旅の記録を書く。夜「プレバト」を見る. 東国原英夫「名人」の句は「炊き出しや 並べば遠き 秋の雲」。夏井いつき宗匠が絶賛する、確かに巧い。 11月14日(水) 朝6時に目覚める。京都嵯峨の朝は清々しい。朝散歩は大覚寺近くの広沢池と遍照寺。京料理の朝食、TV朝ドラを見て、送迎車(8時45分発)でJR嵯峨嵐山駅に向かう。満員の客車だが高校生に席を譲ってもらう、有難し。 京都駅からはバスで京都国立博物館に着く。特別展「京(みやこ)のかたな 匠のわざと雅のこころ」が開催中である。 30分ほど庭園に並び10時頃入館、それにしても女性、特に若い女性が多い。マスコミ用語では「カタナ女」というらしい。スマホで劇画(表現が古すぎるナ)が流行っているらしい。 出品数は200、大半が国宝・重文級の刀剣である。鑑賞の仕方が分からなかったがそれなりに専門家の一口コメントを耳にしながら格好は真似たが、アルコールの利き酒と同じで正直なにも分からなかった。 同時出品の絵巻物に興味が湧く。 「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵巻」「平治物語絵巻」「真如堂絵巻」「十二類縁起絵巻」(初見)「秀次公縁起絵巻」<残酷悲惨>「阿国歌舞伎図屏風」「祇園祭礼図」など。図録(@2,600)購入。 混雑を避けて庭園から正門に抜ける。警備の男性に写真を撮ってもらい雑談、昭和20年京都生まれのガードマンだがお気に入りは西山は粟生の光明寺の由。「京都西山短大」があるからバスで行けるか。来年秋の再会を約す。 来春には「特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝一遍聖絵と時宗の名宝」が開催されるので是非鑑賞したい。 バスで京都駅に出て、タイミングよくリムジンが停車しており、飛び乗って伊丹空港に向かう。 空港はすべてが変わっていた。オリンピック、大阪万博の伏線はあるのだろうが管理が厳重になった。 最大の誤算は保安検査を通過してイザ昼食をと思ったらレストランがない。わずかに売店のみ。慌てて「たこやき」で飢えをしのぐ。いやはや。 予約(16時半発)より1時間半早い15時発のプロペラ機で松山空港に16時着。 リムジンで前園実知雄氏(奈良女子短大教授 一遍会講師)に出会い、奈良京都の花に情報を交換する。 17時過ぎ帰宅。神戸・東京のファミリーに安着メール。夕飯の支度。熱燗一合で酔いがまわり21時頃就寝。 11月13日(火) 6時目覚める。7時朝食バイキング。心斎橋駅から京橋駅に出て、京阪で京洛に向かう。通学・通勤客で満員である。 「鳥羽街道駅」で下車、維新当時の鳥羽街道を回想しながら「東福寺」に入る。寺域は広すぎて見当もつかないが、九条家の菩提寺で「東大寺・興福寺」にあやかっての命名である。山門(三門)・仏殿を経て方丈に回る。 方丈は禅宗寺院の僧侶の住居であるが庭は東西南北の四っに分かれ、特に南庭の「八相の庭」は石庭である自問自答すにるに相応しい沈思の庭である。 紅葉は七分といったところで通天橋からの展望にとどめた。洋の東西の外国人観光客多し。土産に「伍八山椒堂」のちりめん購入。 「東福寺駅」から「京阪四条駅」下車、「南座」の華麗な役者の看板、八坂神社参拝。和服姿の若者多し、「昨今都にはやるもの」の類か。 円山公園の平野屋本店の「いもぼう」を頂く。決して安くはないが、シニアにとっては懐かしい店である。客人の中に京都の歴史の通が居て京の古代・中世史を語っている。 鴨川から東は「無縁の人」が多く住んでいたことは知られているが、二条城や聚楽第の場所は沼地で人が住めぬ土地であったことを力説している。JR山陰本線(嵯峨野線)の敷設当時は付近は「寒村」だったのかもしれない。 今回の旅行の目的の一つである黄台山時宗長楽寺を訪ねる。大谷祖廟(東大谷)に道一つ向かい合っている。四度目のお参りか。前回は宝物庫が出火し幸い文化財が運び出された直後であった。 牧野住職夫人にご挨拶をして、本堂、平安の滝、収蔵庫を経て頼山陽の墓所に参る。収蔵庫で一遍上人、他阿真教上人像はじめ遊行上人像7体と「対面」する。 これらは明治39年「七条道場金光寺」が同寺に合併されたことによる由。 一般的には、壇ノ浦で入水した建礼門院(平清盛娘)の出家の寺として著名であり、建礼門院寺宝と祖阿弥作の庭園で休憩する。 祇園にある長楽寺の宿坊「遊行庵」は健在であった。40年ほど前に立ち寄っている。 京阪で三条に出て、地下鉄東西線で二条駅でJRに乗り換え嵯峨嵐山駅下車、夕暮れの丸田町通りを20分ほど歩いて「サンメンバーズ京都嵯峨」に到着。一年振りである。今回は「リゾートトラスト梶v招待の京料理「雅」(@8,000円)である。 11月12日(月) 6時に起床する。コンフォートホテルの朝食バイキングは気に入っているが、珈琲の質が落ちたのは気になる。NHK朝ドラ「まんぷく」を見て8時前にホテルを出立、バスで「奈良国立博物館」に急ぐ。 恒例の「正倉院展」は第70回である。本日が最終日である。当日券売り場に並んでいると、とある「紳士」が軽く肩をたたいて招待券があるので使ってくださいと手渡される。 「地獄に仏」とまでは云わぬが、入場まで30分以上は稼げた。丁重にお礼を述べてコインローカーにリュックを預ける。とある「紳士」の方は先に並んでいたので、その後後姿しか見ていない。 今回の展示での注目の御物 @三合鞘御刀子(さんごうさやのおんとうす) A平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう) B錦紫綾紅臈纈?間縫裳(にしきむらさきあやべにろうけちあしぎぬのまぬいのも) C繍線鞋(ぬいのせんかい) D磁鼓(しこ) E新羅琴(しらぎこと) F白銅剪子(はくどうのせんし) G犀角如意(さいかくにょい) 個人的にはスプーンの原型かと思うが、貝殻をしっかりと竹の枝に固定した食器である。後日、細工をしようと思う。 一時間後、東福寺までぶらぶら歩き、お目当ての「中金堂」拝観。 和銅三年(710)藤原不比等が興福寺最初の堂宇として創建した「中金堂」の再建落慶(平成三十年)で、創建当時の様式での復元と云う。本尊は釈迦如来坐像。法相の教えを伝える「法相柱」、薬王・薬上菩薩立像(重文)など必見。 商店街で「柿の葉鮨」を求め、近鉄で「西ノ京」に向かい、薬師寺の写経道場で「般若心経」一巻を「為三香院春雅温妙大姉」に写経する。 玄奘三蔵院伽藍と白鳳伽藍を拝観、休ヶ岡八幡宮と孫太郎稲荷神社に詣でる。 16時頃近鉄難波駅、心斎橋まで歩き「コンフォートホテル大阪心斎橋」チェックイン。 18時次男ファミリーと落ち合い、ホテル地下の「魚匠 銀平」で食事。 11月11日(日) 定刻5時45分名鉄バスセンター到着。早朝でもあり飲食店は開店していない。名古屋から京都経由ならまでの「ジパング」チケットを購入、大垣に直行する。 早朝7時大垣に着く。午前中はフリーなので、60年前の記憶を頼りに大垣の町をぶらつく。大垣は戸田藩の御城下で10万石であるが、肥沃な美濃の農村を抱えているだけに実質12万石とか・・・・・ 60年前の新婚アパート「住吉荘」は現在の大垣市の観光センター「奥の細道むすびの地記念館」の並びに建っていたが、解体されて駐車場になっている。 10年ほど前に温子と再訪した時はアパートは健在で3階の居室まで上った。廊下に汚れたイヌのおもちゃがあったので記念に持ち帰った。現在も勝手口に「鎮座」している。 開館までに1時間余りあるのでベンチに腰を下ろして道後から持参したコンビニのおにぎりとお茶でのんびり過ごす。 その後、水門川に沿って散策、大垣城公園、大垣市郷土館に立ち寄り、クインテッサホテルに11時に着く。 第34回鐘紡大垣会開催(12時〜15時 クインテッサホテル)。出席は56名(男子40名、女子16名)。椎名義太郎君の代表挨拶、乾杯は指名されて私がスピーチする。 「明治150年 鐘紡創業130年 大垣市100年 おめでとう。人生100年 鐘紡大垣会100年を目指してご一緒に頑張っていきましょう。乾杯!」 3時間の懇親会は60年前に戻って大いに「青春」をエンジョイした。来年もぜひ参加したいものだ。 大垣発16:04発の列車で米原乗り換え、京都駅から奈良線に乗り換えて奈良駅着18:29。駅前のローソンで弁当とビール、牛乳などを調達、一年ぶり「コンフォーとホテル奈良」で旅装を解く。 このホテル系列を気に入っているのは欧米人サイズなのでバスが広くベッドがダブルサイズでありゆっくりできることだ。ズボンプレッサーで皺を伸ばす。 昨夜が深夜バスであったので、ほろ酔いで20時過ぎにベッドに入る。深夜目覚めるが、また深い眠りについた。 11月10日(土) 関西小旅行で数日家を空けるので、何かと雑務に追われる。 夕、「まつやま子規亭」第二夜」(子規博18:30〜20:00)。出演はイッセー尾形の一人芝居。 @「コンビニ」佐多稲子『女店員とストライキ」 A「製作所」横光利一『機械』 B「外套」ゴーゴリー『外套』 C「立体紙芝居」川端康成『浅草紅団』 D「オーロラ銀座」太宰 治『斜陽』 イッセー尾形は昭和27年(1952)生まれ。随分古典的な小説をベースに演じるのか。50歳代以下は読んだことのない小説家と思うが・・・・・ 道後駅発21:40の深夜バスで名古屋に向かう。車中のトイレが心配だったが、熟睡したのか朝まで行かず。やれやれ。 11月9日(金) 朝一番に県立図書館に立ち寄り、砂川博『徹底検証 一遍聖絵』返却。伊予銀で一遍会10月度収支決算の確認、ひめ銀で桜井よしこ氏の新春講演会「頼るな、備えよ。勁き日本へ!」の入場券を受け取る。 義安寺の墓参り後、「メルパルク」でランチ(中華)&スパ。 12月例会講演の大本敬久氏から『一遍会報』掲載の草稿を受け取る。 『文芸春秋』K入手。6ヶ月で退職を余儀なくされた靖国神社前宮司 小堀邦夫氏の独占手記「靖国神社は危機にある」はまったく知らなかったニュースである。 夜、大垣・奈良・京都・大阪の観光、見学コースの泥縄的下調べ・・・といっても、温子と歩いた場所の再訪だから特には問題はなかろう。淳志から心斎橋で食事をの誘いがあり、楽しみである。 11月8日(木) 午前中、昨日に引き続き亭庭の除草作業。悪戦苦闘である。 午後、一遍会10月度収支決算。 来週大垣の帰途奈良・京都に立ち寄るが、キャンセル待ちの京都嵯峨野の隠れ家が一室確保できた。リゾートトラスト鰍フ招待である。のんびりと京都の紅葉を楽しみたいが、ほんの少々早いかもしれない。 朝日旅行の「5つの休暇村を繋ぐ関東周遊浪漫ルート」の予約が取れる。妻の三回忌法要次第ではキャンセルせねばならないか。 「プレバト」(夏井いつき宗匠)は「エデン」でも浴場の話題になりつつある。そのうち句会も催されるか。 【メモ】 『一遍聖絵』にふれて「一遍は行く先々で土地の名神・大社に結縁し、その数は十三社に及んでいる。このうち、大隅八幡宮を始めとする一宮が七社。 『聖絵』は言わぬが、一遍は豊後一宮の柞原八幡宮、豊後一宮の宇佐八幡宮(『奉納縁起記』)にも参詣しているようだから、淡路一宮たる伊弉諾神社にも当然参詣したはずで・・・」(791頁) ⇒一遍と一向上人の宇佐八幡宮の出会いは歴史的真実か。 11月7日(水) 午前中、亭庭の除草作業。 午後、武智利博氏の校正と事務局からの加筆で最終原稿となる。来週印刷の予定。 後期高齢者健康診断を申し込む(12月7日(金)「県看護センター」受診) 「5つの休暇村を繋ぐ関東周遊浪漫ルート〜冬編〜」を申し込む。定員30名の大名旅行?である。 妻の三回忌法要の日程につき息子たちに照会。孫の大学・高校受験と重なりがちなので早めにしてはどうかと提案する。 夜は砂川博『徹底検証 一遍聖絵』読書。 【メモ】 1)『聖絵』で月日明示の出来事と聖戒の関連(26項目) 〇弘長3年5月24日 父如仏 帰寂 〇文永11年2月8日 一遍、超一らと遊行へ(聖戒途中まで同行 同6月13日) 念仏の形木受け取る 〇弘安5年3月1日〜同7月16日 鎌倉(6件) 〇弘安7年4月16日〜同5月22日 四条京極釈迦堂 桂(2件) 〇正応元年12月16日大山祇神社〜2年2月9日(6件) 〇正応元年6月1日〜8月23日 最後の遊行 入寂(10件) ⇒聖戒は「鎌倉」に居たか?! 2)藤原長清「夫木和歌集」記載一遍歌7首の真偽 3)一遍継承の正統性に触れて・・・・・歴史的事実か宗教的真実か 「一遍」最後の賦算 25億1724人目 淡河殿の女房 「他阿」最初の賦算 淡河殿 11月6日(火) 朝夕「エデン」からの徒歩往復6キロ、杖を突かずに完歩。片道5分の節約になった。 午前中2時間表庭のカイヅカイブキの剪定。午後は11月度友隣サミット(14:00〜16:30)。『一遍会報』第405号を配布。 夜は砂川博『徹底検証 一遍聖絵』読書。 【メモ】 1)悪党・・・ 常陸の悪党と美濃の悪党のネットは暴論ヵ 美濃の悪党は幕府の統制に従わない地方領主等であり、常陸の悪党は山賊・強盗の類 2)安達泰盛・・・ 伴野時長、大井朝光、北条時宗、貞時の血族関係。 「踊り念仏」に関連する信濃の出来事の背景、底流 自論の「一遍時衆の遊行を支えた鎌倉武士層」を補強される系図。 11月5日(月) 秋晴れ。洗濯。午前中表庭の「カイズカ」5本の剪定作業。午後、書斎の冬支度。夏物の残りをクリーニングに出す。 「11月度一遍会ニュース」を会員に流す。 「エデン」図書館で柚月裕子『盤上の向日葵』(2017中央公論新社)と旧版だが「毛利元就展 その時代と至宝」貸出。 入居一ヶ月で大浴場の仲間が高瀬君と安芸の三好さんに絞られてきた。浴客は19時台が3人、20時台が1〜2人ka 【メモ】 一遍聖絵 〇豊後大友頼泰の叔父大友経基は河野通信の女婿(のち離婚) 歴史的事実か 〇吉備津宮神主子息夫妻の出家譚 「聖絵」・・・吉備津宮神主子息夫妻 「絵詞伝」・・・備前国藤井(荘)領主の娘 夫は備中の吉備津宮の神主の子 ○吉備津宮@吉備津彦神社(一宮)A吉備津神社(真備)B安仁神社(西大寺藤井 朝山円祥説) →夫の了解なしに出家・夫は養子 Bが自然の成り行きか 〇福岡の市 邑久郡長船町福岡 11月4日(日) 部屋の暖房器(エアコン)5台の点検、書斎の石油暖房器は灯油を満杯にする。これで来客がきても大丈夫である。 神戸からのメールでは、2人の孫は京大オープン模試と兵庫V模試で休日は大忙しであるらしい。両親は経済的な負担もあり、国立大に進学してほしいようだ。 庭仕事。表庭の丈の低い庭木の剪定、枝切りが中心となる。結構暖かで午前中2時間で汗をかき下着を着替える。午後2時間は座敷の庭の整美。明日からは亭庭の整備に取り組もう。4時間の作業で結構疲れた。読書はお休みである。NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 11月3日(土) 温子との結婚記念日である。妻が生きておれば58回目の記念日である。2年前まで60回目の結婚記念日(ダイヤモンド婚)を楽しみにしていたのだが・・・恐らく数ヶ月の世界旅行に企画したと思う。 「快食・快眠・快便」でスタートする。午前中に事務処理を済ませ、義安寺に出掛け墓参りしてシキミと線香を手向ける。メルパルクでランチ(和食)&スパ。 その足で市駅に出掛け、来週の大垣OB会への名古屋行き「深夜バス」手配。当日は早朝に名古屋に着いて大垣に向かう。新婚時代の「船町アパート」(芭蕉『奥の細道)終焉の地の傍)に立ち寄り、昭和35年当時の新婚生活を偲ぶことにしようと思う。 道後に戻り、コンビニと業務スーパーで食料を調達。 正子さんの白内障の手術は問題なく午前中に帰宅、電話連絡あり。「椿の湯」。 11月2日(金) 正子さんの白内障手術(入院)の立会いもあり、日赤病院に8時前に入り朝食、8時半受付。病院の流れに任せて正午過ぎにやっと手術と後処理が終わる。日赤で昼食(カレーライス)、帰宅は13時頃になる。 待機時間を読書に充てたので森まゆみ『子規の音』を読了。森さんの指摘だが、子規研究を縦割り(俳句、短歌、漢詩、新体詩、評論)で進めると子規の本質を見失う。時系列的(横割り)に捉えるべきだは至言である。 子規博11月度子規さん俳句「冬や今年我病めり古書二百巻 子規」の鑑賞エッセイを執筆し、例の子規さんもどき句は「冬や今年吾七度目の年男」。HP一遍会の11月度更改が完了、アップロードする。『一遍会報』第405号の決定稿をテスト印刷する。 「エデン」に較べて随分寒く感じる。いつから暖房を入れるかという感じである。 「椿の湯」。 【→俳友】 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年11月の句は「冬や今年我病めり古書二百巻 子規」です。 季語は「冬」(冬)です。『子規全集』第二巻 俳句二「寒山落木」巻四 356頁(明治二十八年 冬)と『子規全集』第二十一巻 草稿 ノート「病余漫吟」108頁(明治二十八年 冬)に掲載されています。 明治28年は子規にとって疾風怒濤のような一年でした。従軍記者として清国に派遣され、船中で喀血し九死に一生を得、帰郷し愚陀仏庵で漱石や松風会の仲間と俳句を実作し、俳句の指導を通して『俳諧大要』の執筆に取りかかる。 明治22年の大喀血後からライフワークとして俳句分類に取り掛かるが、第一段として明治28年10月から「俳句大要」が新聞「日本」に掲載される。この研究は残念ながら未完に終わったが、虚子、碧梧桐はじめ子規の後継者による研究発展はなかった。 「冬や今年」にはもう一句あり「冬や今年今年や冬となりにけり」がある。今年の冬には二百巻もの俳句集、俳論集を読んで俳句革新の決意を新たにしたいということであろうか。 子規さんにあやかって一句 「冬や今年我七度目の年男 子規もどき」 道後関所番 11月1日(木) 午前中、11月例会についての諸準備を行う。 午後、神楽岡幼子氏(愛媛大教授)の文化講座(歌舞伎)受講。今回の演題は「名作案内 伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)」。 子規博の11月度子規さん俳句「冬や今年我病めり古書二百巻」の鑑賞エッセイを執筆する。 森まゆみ『子規の音』。やっと明治25年まで読み進む。 【メモ】 10月度湯築城歴史塾の萬井良夫氏「塩泉城はほんとう湯築城か」が引っかかる。 「塩泉」→「塩湯」とすれば瀬戸内の海岸沿いの城が該当しないか。例えば「港山城」。記憶では堀江近くに塩湯温泉があった。 【メモ】 〇「臘八のあとにかしましくりすます 子規」 (臘八=臘月八日の略。釈迦成道の日で、この日の法会が成道会である。曹洞宗で盛ん。) 明治25年当時「かしましクリスマス」があったのか。クリスマス商戦の元祖は明治39年「明治屋」が嚆矢、救世軍の「社会鍋は明治39年からである。 〇根岸住人 亀の井ホテル 油屋熊八翁 |
10月31日(水) HP一遍会の11月度更改は「11月度子規さん俳句」を除いて完了。『一遍会報』第405号の校正をファックス原稿で依頼する。一件落着である。 砂川博『徹底検証 一遍聖絵』はやっと第三章を読了する。第十二章(最終章)までの道のりは長い。 伊予国に在る「三輩九品の念仏の道場」は@通信の菩提寺である若松寺(東禅寺)かA楠本寺(楠本道場)か、今後検討を加えていきたい。 10月30日(火) 『一遍会報』第405号の編集・割付完了(@小沼大八代表「鑑真と戒律の問題」A武智利博会員「海の民 浮鯛抄を読む」)。講師のレジュメをかなり修文したので、校正に一週間かけることにする。それにしても編集に半日を要したので草引きは出来ず。 砂川博『徹底検証 一遍聖絵』はやっと高野山・熊野参宮の条まで進む。博覧強記的な資料列挙だけに中級の研究者以上でないと読みこなせないのではあるまいか。 関西カネボウ薬品新OB会事務局の岡本君からメール届く。OB会の深刻な現状に驚く。医薬と薬専の無意識な反発が影を落としているのではあるまいか。何とか相談に乗ってあげたいのだが・・・・・ 10月29日(月) 防寒対策でアンカ、シャッポ、ネッウォーマーを半年振りに取り出す。来信の整理。一遍会業務の整理などなど。 【関西カネボウ薬品新OB会事務局(野上・岡本君) 松山市道後に隠遁しました三好恭治です。「関西カネボウ薬品会報」などをご送付いただき、懐かしく拝見しました。また、クラシエの現況を知らせていただき、後輩たちの奮闘に頭が下がるとともに大いに喜んでおります。 関西カネボウ薬品OB会の新たなる出発に時代・世代の流れを感じております。鐘紡人事部長の最後が昭和61年ですから、当時の新入社員も50歳台で大活躍中かと思っております。 現在、「松山子規会」副会長、時宗宗祖一遍智真(道後宝厳寺生誕寺)の「一遍会」事務局長として郷土松山・道後の文化活動のお手伝いをしております。四国遍路などで道後温泉にお立ち寄りに際にはご連絡ください。(とは云っても、なかなか電話をかけにくいと思いますので、事前にメールをください。) OB会にはここ数年欠席していますが、支店長時代のメンバーが多数出席しているのであれば顔を出しやすいのですが・・・ 84歳になりましたので、恐らく最長老の一員になるのだろうと思っています。 新OB会の益々の発展と事務局のご両氏のご活躍を念じております。今後ともよろしくお願いいたします。 【西龍寺 児島一晴師】 謹啓朝夕めっきり肌寒くなり、いつの間にか秋も深まったなと実感しております。ご清祥のこととお慶び申し上げます。 この度は西龍寺さまでの「子規句碑除幕式」(平成30年9月20日)の写真をご恵送いただき有難うございました。深謝申し上げます。 写真を拝見しながら、西龍寺さま三世代のご家族の皆様とご一緒に貴重な時間を過ごしたのだなあと改めて感じました。ご子息の作務衣はほほえましく存じました。 昨秋出版されました『松山 子規事典』では、道後に生まれ育った者として、戦前の道後国民学校時代の記憶をよみがえらしながら執筆しました。お役に立てたのであれば幸甚です。これを期に子規『散策記』を手にして、愚陀仏庵から出発し、石手寺・湯築城・義安寺・宝厳寺・道後温泉・市隠軒から西龍寺・松山東高校(明教館・安部能成像)・・・の新散策コースを実現してみたいと思います。 十年近く前に『子規会誌』に発表しました「『散策記』注釈(その三)石手・道後コース」の掲載誌(一一七号 平成二十年四月号)を同封いたしました。秋の夜長、ご笑覧いただければ幸甚です。先ずは御礼まで。 10月28日(日) 9時半から昨日に引き続き「四国遍路・世界の巡礼研究センター」公開シンポ・研究集会参加(愛媛大学)。研究発表は4本あるが、午前の2本だけ聴講する。 @「「四国遍路」以前―古典文学と山林修行―」 西耕生(愛媛大教授) A「厄除けの寺・四国霊場第23番札所薬王寺の調査と地域振興」須藤茂樹(四国大教授) B「信仰とレジャーの狭間で―現代イスラームの参詣から社会的心性をまなざす」 安田慎(高崎経済大准教授) C「フィリピンにおける聖母崇敬―アンティポーロの「平安と航海の安全の聖母」を中心に―」 菅谷成子(愛媛大教授) 愛大キャンパス内で、梅木賢正君と@藤田達生「湯築城」説A小嶋博巳「六十六部」等について見解を交換する。 午後、『一遍会報』第405号パソコン取り込み作業。@武智利博会員「海の民 浮鯛抄を読む」A小沼大八代表「鑑真と戒律の問題」 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 10月27日(土) 多忙なる一日であった。 10時から湯築城歴史塾C。 講師は萬井良夫氏(神奈川大学日本常民研究所研究員)、テーマは「塩泉城はほんとう湯築城か」。興味ある内容である。 先行研究では藤田達生氏が「湯築城」説、故 宮尾克彦氏が「今治城説」、土居聡朋氏(県歴博研究員)が湯築城・今治城説をともに否定し「浮穴郡内の城」を提示、萬井氏は双海町上灘にある「由並本尊城」の可能性を示す。 それぞれに興味あるが、肝心の「塩泉城」のイメージが湧かない。讃岐に行基菩薩ゆかりの塩江(古くは塩井)温泉があるが、道後温泉が塩泉とはいかないだろう。 12時半から二神将氏夫人明子さんの告別式(ベルモニー会館天山)。享年73歳の由。時宗宝厳寺の檀家であり陽子尼が執り行う。伊予史談会からは山内・高須賀新旧会長、子規会からは今村・平岡顧問、為山会からは近藤元規代表等仲間が列席する。 14時前に愛媛大学に滑り込み、四国遍路・世界の巡礼公開シンポに参加する。 基調講演は小嶋博巳氏(ノートルダム清心女子大教授)「巡礼と巡礼地―六十六部、そして四国遍路ー」 関連報告は@田中静明氏(瀬戸内海歴史民俗資料館長)「小豆島霊場と香川の写し霊場概観」A山田由等(愛媛大学教授)「知多半島の巡礼の歴史と現在―知多四国を中心に―」。 六十六部と四国遍路についての問題提起は強烈な刺激を受けた。じっくり復習して、宗教的な視点から自分なりに取りまとめてみたい。 「椿の湯」 10月26日(金) 松山市駅9時30分発高速バスで昼前に新居浜駅前の「あかがねミュージアム」到着。石鎚山系とミュージアム庭園の芝生を見ながらランチ。 1階の展示室で新居浜の秋祭りを彩る太鼓台(実物)とドーム内で360度見物できる祭の実写を楽しむ。客の一人が気分が悪くなって退場するほどの迫力だ。合わせて新居浜ロケの映画「ふたつの昨日と僕の未来」の紹介。 日暮別邸移築記念特別企画展と銘打った「至宝の中国古銅器〜別子銅山ゆかりの住友コレクション」を見学する。 時代はBC1,000〜1,200年(日本では縄文初期)、中国は殷王朝、素材は青銅器という予備知識はあったが、あまりの精巧な青銅の祭器に圧倒される。70点弱の展示であるが、気がついたら2時間半青銅器を眺めていた。 住友家15代住友吉左衛門友純(ともいと)[号春翠]が明治三十年代に主導して蒐集した逸品だけに、ど素人の私にも「美」が伝わったのだろうか。住友家の「日暮別邸」移築記念というから、日を改めて「日暮別邸」を見学することにしたい。 夕方16時半発の高速バスで週末の渋滞もあり19時前に大街道に着く。 アエルの「明屋書展」に岩波新書のコーナーがなく、女店員に尋ねたら「岩波新書」は知らないという。書店員の「無知」よりも岩波文化の衰退いや瓦解とでも云うべきか。岩波文化と朝日文化の下で育った世代としてはショックが大きかった。 夜、予報通り雨になり「椿の湯」はお休みにした。 10月25日(木) 週末には台風の影響で天気が崩れるとの予報、明日新居浜のあかがねミュージアムの特別展「至宝の中国古銅器展」を鑑賞して西条の「十河信二記念館(鉄道歴史パーク)に立ち寄ることにした。 せっかくならケチケチ作戦で予算は500円(入館量250円、新居浜〜西条260円、伊予鉄バスはフリー)、松山市駅までベテル病院の送迎車である。 午後、草引き。2時間の作業がきつくなった。体力が随分落ちてきたを自覚する。 夜、浴場から見る満月が美しい。旧暦の9月の名月であろう。 森まゆみ(地域雑誌『谷中・根津・千駄木』創刊・編集者)『子規の音』(新潮社2017)と砂川博『徹底検証 一遍聖絵』を併読。 10月24日(水) 土塀の修理が3ヶ月余かかり本日完了する。早速支払いを済ます。割引が端数のみであった。今回は左官の真面目な働き振りに感心していたので了解した。 土塀を見て回る。土塀に沿った庭木で不要なものを伐採すると江戸期の庭の雰囲気が再現できるどうか楽しみである。 後を引き継ぐ息子たちの意見を聞いてから庭木の処置を考えていくことにする。 砂川博『徹底検証 一遍聖絵』を読み始める。2日で一章のテンポだが、書誌学的な展開もあり読むのに苦労する。砂川氏は大学退職後の現状が気になる。一遍会での講話を頼めないものか。 午後、裏庭の除草。「エデン」に毛布を持参する。ぐっすりと安眠できそうだ。 10月23日(火) 11月に大垣(OB会)に出掛けるので奈良(正倉院展、興福寺、薬師寺、唐招提寺)を2泊3日で観光することにした。マイ会員制ホテルが休業したので「コンフォートホテルを予約。 外人向けだけでベッドが広く、珈琲はフリードリンク、朝食が豪華(フリー)でネットが完備し、アクセスが便利な点が気に入っている。妻も気に入ってよく利用したホテルである。 土塀の修理も略完了し、ドラックが破損させて浄化槽の修理が終わる。土塀の改修工事はキイチの左官も初体験で大いに勉強させてもらったと感謝される。早速、大洲の旧家の土塀修理に役立てたいとのこと。まずは良かった。 一遍会11月例会案内をマスコミ、ミニコミに流す。月末までに『一遍会報』第405号の編集に入いるか。 合田洋一著『葬られた驚愕の古代史』を読了。合田氏の最新刊(2018年5月)であるが、同氏の九州王朝説の独自解釈も多く、何度か読書に挑戦したのだが10ページくらい読むとお手上げした。 エデンで泊まった日には早朝5時から2時間読書に充てていたので、22・23日両日でやっと読了した。著者の論述に全面的には肯定していないが、膨大な史資料は大いに研究に役立てたい。 第一篇 伊予に育った古代王国「越智国」 第二編 「日出ずる処の天子・多利思北孤(たりしほこ)」の伊予行幸 第三編 万葉集を彩る九州王朝の天子・中皇子とは 第四編 九州王朝の天子・斉明(さいみょう)と熟田津 第五編 永納山古代山城築造の背景 第六編 九州王朝存在の証ー「評」による証言 第七編 越智国に「紫宸殿」あり 九州王朝の幻の首都だった 第八編 天武天皇の謎ー「万世一系」系図作成の真相 第九編 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 追編 「古代史の万華鏡」 10月22日(月) 四国がんセンターで一年ぶりに前立腺がんの定期検査。(平成)天皇が前立腺がんの手術を受けられた時、同世代もあり検診を開始した。20年になる。本年も異常なしである。 ドクターの「転勤」で今が4人目だが、次回は別のドクターが九大から着任とのこと。早々にお別れの挨拶をする。いやはや。 昼食は衣山の「餃子の王将」、確かに安くて旨い。 「シネマサンシャイン衣山」で「散り椿」を鑑賞。直木賞作家・葉室麟の時代小説の映画化で主演は岡田准一。俳優は岡田准一・西島秀俊・黒木華・緒形直人・柳楽優弥・富司純子・奥田瑛二ら豪華メンバーである。 黒木華を見ていると気持ちが安らぐ。良き時代の日本女性の強さ、弱さを体現している貴重な存在である。合田洋一著『葬られた驚愕の古代史』読む。 第一篇 伊予に育った古代王国「越智国」 第二編 「日出ずる処の天子・多利思北孤(たりしほこ)」の伊予行幸 10月21日(日) 秋の一日、洗濯、掃除、書斎の整理に追われる。 長澤昌幸師(時宗宗学林学頭)の『時宗教学年報第46輯』抜刷「遊行七祖他阿弥陀仏述『条条行儀法則』講説」の最後に「また、伊予における時宗寺院に関しては一遍会三好恭治氏にご助言を賜ることができた。」と謝意が述べられておる。驚いた次第。 論文は伊予の宝厳寺、松前道場・八蔵道場が触れられているので、一遍会で機会があれば紹介しておきたい。 NHK「西郷どん」を見て「椿の湯」。 10月20日(土) 秋晴れ、爽快な一日を文化的に過ごす。八塚君の洋品店を訪ね、娘さんに元気である旨伝える。 県図書館に『一遍会報』第304号を届ける。書架で砂川博『徹底検証 一遍聖絵』を手にする。 金井清光・砂川博師弟の論考を『時衆文化』で学びマイ研究の糧としたが、それらの論文が骨子になっている916頁の大冊である。12章あるので2日に1章のペースで読み上げるか。 県美術館で開館20周年記念「川端康成と東山魁夷」展を再度鑑賞する。本日から「生誕100年古茂田守介」展がオープン。ラッキーである。 古茂田守介画伯は親友であった故明神正君(NHK宮内庁カップ)の伯父に当たる。兄の公雄画伯の作品はよく見るが、守介画伯の絵をゆっくり鑑賞するのは初めてである。 日赤地下食堂で昼食(中華定食) 午後2時から、愛媛大学で公開セミナー受講。(グリーンホール)。 講師は米徳大輔氏(金沢大学 理工研究域 数理科学系 教授)で、テーマは「宇宙最大の爆発ガンマー線ハースト ―大学衛星によるブラックホール誕生への挑戦―」 興味ある内容であるが、アトム的宇宙の世界は皆目不案内である。宇宙研究は20年後には天文学の主流になるだろうが・・・・・場違いの聴講者には居眠りしないことが講師への最大の誠意であった、いやはや。 大学ミュージアムで「鈴鹿文庫貴重書展」を見る。鈴鹿文庫は京都・吉田神社の社家である鈴鹿家の「鈴鹿三七」収集のコレクションである。 @吉田兼好はいなかった A異本方丈記の世界 B吉田兼倶ほか吉田家の著述 付増穂残口 C三七蒐集の稀少本 D近世和歌資料―鈴鹿連胤と香川景樹(桂園派) 学会では吉田兼好という人物は居なかったという説が有力であること、一方鴨長明と『方丈記』は事実であるなど素人には驚くこと多し。 監修は福田安典日本女子大(前・愛媛大学)教授で責任者は神楽岡幼子愛媛大学教授である。お二人とは「安西法師三百回忌」の祝宴で同席しただけに親しみを感じた。 貴重なコレクションが愛媛大学に寄贈されたのは鈴鹿三七の妻が井手家で、井手康夫氏の叔母に当たる様だ。(未確認) 第2ゾーンの「明治150年 明治時代の四国遍路展」出品の28点の遍路関連資料は、説明も的確でる理解に大いに役立った。 誰かに語りたい興奮の中で、夕暮れ時徒歩で帰宅する。 夜、NHK「ブラタモリ」は「有田(焼)」。地質学に造詣深いタモリの有田の地質のコメントに驚く。有田に温泉が出ないのは温泉フアンにとって残念であるが・・・ 「椿の湯」。 10月19日(金) 快晴・雨・晴れを一日に2回繰り返す。地上は秋だが天上では大荒れのようだ。 松山子規会10月例会出席(正宗寺)。 @卓話:高村昌雄講師「『阿部里雪』という人の一端」 A講話:二神 将講師「子規が見た故郷の風景」 1)阿部里雪(1892〜1973)は伯方島出身の極堂に繋がる俳人だが20歳までの履歴は不詳。県美術館で彼のコレクションを鑑賞した。 「宝厳寺(松ヶ枝町) 郭の上に寺寂し紅葉す柿一本」(大正三年『層雲』2月号) 2)二神将氏の講話は期待したがパソコンの故障もあり構想の四分の一程度か。残念。 資料(1)年表 (2)小学校時代のいじめ(「随筆1」) (3)『子規を語る』(河東河東碧梧桐 ○母堂の断面 ○妹律から聞いた話 ○子規の久万・岩屋行き (4)三戸正虎老人の語る子規の思い出(井手淳二郎・康夫) 散会後「紀乃国屋」で井手前会長を囲んで有志懇談。 「フジ」で3日分の食料調達。「椿の湯」。 同期生間で小生が老人施設入居で連絡つかずという情報が流れている由、子規会で近藤元規君から聞く。夜、白水台に住むMYさんに事情を聞く。発信元はどうやら八塚君のようだ。友情に感謝しつつも、いやはや・・・である。 10月18日(木) 気温も25度、爽やかな秋日和である。庭の手入れを11月末まで注力したい。羽藤英二氏(都市工学者、東京大学大学院教授)らを拙宅で迎えるとなると、落ち着いた庭の風情を出したいものだ。茶室周辺から取りかかる。 午後、文化講座「歌舞伎」出席(ひめぎんホール)。講師は神楽岡幼子愛媛大教授、テーマは「松本幸四郎の代々」。 夕、「エデン」で「ほろよいサロン」初参加。出席は20名で男女半々である。飲兵衛グループに合流、大いに飲み且つしゃべる。酔っ払い、TV「プレバト」は夢の中である。いやはや。 深夜、島本里生『ファーストラブ』を一気に読み、読了する。さすが直木賞受賞作、小説の面白さを満喫する。 10月17日(水) 「エデンの園ライフ」と「マイ・アクションプラン」を集約した日程表を作成する。多少物忘れがひどくなっても対応できるようにしたいものだ。 午後2時からエデンの月例会があるので昼食後出掛ける。 10月度新入居者紹介・挨拶、10月度誕生者花束贈呈、園長挨拶、事務局提案説明・・・と続く。60年前、大垣や防府の寄宿舎舎監としてやっていた寮生大会、お誕生会など 懐かしく思い出す。月例会には出席せねばと思う。 「エデン」に図書室があるのを知る。小部屋だが閲覧室と書庫があり、ざっとみて1000冊以上の書籍が整頓されている。小説だけでなく、事典・辞典も揃っている。早速島本里生『ファーストラブ』を借りる。本年度の「第159回直木賞受賞作」である。エデンの夜は小説を読む楽しみが増えた。 新しいパソコンを操作、検索とメールはスムースにいくようになった。 10月16日(火) 一遍会IT会員向けの「10月度定期便」を道後郵便局から発送する。その足で、宝厳寺を訪問、先住夫人と平成31年の「二祖真教上人七百年御遠忌」について相談する。寺としては団体参拝を考えているが一遍会としてどこまで協力できるかは疑問。 メルパルクでランチ(洋食)&スパ。義安寺の墓苑に詣でる。シキミも異常なく生き生きしている。 【小林小太郎の照会】 1)小林小四郎と小林大介(大助)が同一人であることは@池谷鉱太郎『長尾藩史譚』とA」『鳴雪自叙伝』から『伊予史談』338号に拙論を発表しました。同誌を「慶応義塾福沢研究センター」に送付し、学界的に承認を受けました。 「軍隊洋式訓練の必要が唱へらるゝや、我が藩は直ちに採用して、和蘭式の銃隊を編成することとなり、その教授の為に下曽根〔金三郎〕の門人なる小林大助と云ふを召し抱へられ」(『鳴雪自叙伝』) 小林小太郎の「松山藩洋学司教」の拝命は明治元年10月5日で、同2年9月には大学(昌平黌の後身)に少助教として出仕、翌年大阪洋学所に転じています。父・大介(大助)の松山居住期間は短かったと推察されます。詳細は未調査です。 2)松山藩の江戸屋敷は上屋敷(愛宕下薬師小路)、中屋敷(三田/現港区三田二丁目の慶応義塾大学と三井倶楽部の間のイタリア大使館付近)、下屋敷(戸越村・下蛇窪村)の外に抱屋敷、借地等が点在したが、百五十石の家禄とすれば中屋敷に居住したものと考えられる。 尚、藩地松山での偶居は「四番丁・代官町横三番丁西詰」(現千舟町三丁目三番地)に所在したと推察いたします。(法務局未確認) 10月15日(月) 午前中「エデン」設置のパソコンをCATVの担当者によりセット完了。自宅と「エデン」が繋がったことになる。双方で初メールを交換する。 午後、一遍会IT会員向けの「10月度定期便」を取りまとめ、封筒入れまで完了する。 夜、新しいパソコンの操作法の学習。『文芸春秋』J通読。 10月14日(日) 伊予史談会10月例会は子規記念博物館で開催。「伊予史談会創立105周年記念講演会2」として講師は上杉和央氏、テーマは「江戸時代の地図と伊予」。上杉氏は京都府立大学文学部准教授で歴史地理学が専攻である。著書、研究論文も多く40才台の新鋭の学者であるらしい。 もっとも記念講演としてはお粗末である。大学の学部生相手か市民講座の講演ならともかく、地方向けのレベルを下げた内容だけに残念である。往々にして「大先生」といわれる学者や評論家ではこのようなケースはあるが、まさか准教授クラスとは「恐れ入谷の鬼子母神」である。いやはや。 子規博竹田美喜館長と昨日の一遍会例会での小沼大八代表「鑑真と戒律の問題」について情報交換する。万葉学者である竹田館長から万葉集歌人と鑑真について興味ある話を拝聴する。是非一遍会例会でお話願うことで内諾を得た。 昼食はグランフジの「ザ丼」。一燈園(西田天香師)、ダスキン(鈴木清一・山田宏)の「祈りの経営」を継承しているので愛着を持っているチェーン店である。次いで「エディオン」で初期化した僅か1キロのノートパソコンを受け取る。手で下げて帰宅する。 自宅前の今市川の掃除。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 10月13日(土) 一遍会10月例会開催(道後公民館)。出席44名。 1)卓話 杉野祥一理事 「『一遍語録』を読む(25)」 2)講話 小沼大八代表 「鑑真と戒律の問題」 理事会は平成30年上期収支決算審議ほか。 「湯築城観月祭」見物。大盛会であった。湯築城資料館関係者&ボランティアガイド、一遍会の仲間との語らいが続く。小島さんにアテンドしてもらい、「いも煮」に食べながら宗教文化について語り合う。名物「いも煮」はことのほか旨し。 「町屋の三好さん」から道後町おこしのブレーンである羽藤英二氏(都市工学者、東京大学大学院教授)らと拙宅で話し合いをお願いたいとの依頼を受ける。恐らく「道後村庄屋跡」も加えた広域ゾーンの町おこしを考えているのだろう。了承する。 さすがに体が冷えてきて「椿の湯」で温める。今夜から掛け布団を2枚にする。ぐっすり眠れそうだ。 10月12日(金) 「エディオン」で「エデン」に設置するパソコン(富士通)購入。1キログラムの持ち運び便利なノートパソコンである。来週初CATVのサービスエンジニアにセットを依頼する。担当者(山下青年)から『できるWindows10』(インプレス)と『よくわかるoffice2016スタートガイド』(富士通)を手渡される。この機会にテキストを勉強するか。 昼食はグランドフジの3階のレストランと1階の珈琲試飲。妻とのお決まりコースだったが、今は懐かしい思い出になった。 「ダイキ」で一遍会10月例会配布資料印刷(略300枚)。帰宅後、例会出席予定者分(30名)をセットする。かなり疲れた。腰が痛い。 夕飯は手抜きして「コンビニのすきやき」。TV「チコちゃんに叱られる」を楽しんで「椿の湯」でのんびりする。 10月11日(木) 終日雨、しかも肌寒い。チョッキを着る。秋が本格化してきたか。冬物準備に一日かかりそうである。 「エデン」と自宅の二重生活は当初考えていたよりも多忙である。それぞれに時間的な制約があるからだろう。もっとも「エデン」で4時間の読書時間が取れるのはハッピーである。 一遍会10月例会配布資料(『一遍会報』第403号・一遍会10月度ニュース」・「理事会資料」)のテスト印刷完了。 夜、網野善彦『増補 無縁・公界・楽』読書。 10月10日(水) 本々の「体育の日」である。運動靴に履き替えてのエデンの往復は90分(革靴より10分短縮)、片道40〜50分であればあまり負担にもなるまい。 『一遍会報』第403号(田中弘道論文「河野通直の死、九百名の名簿の謎」)テスト印刷。「一遍会10月度ニュース」「理事会資料」編集作業。 夜、網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(380頁)読書。網野節(?)に圧倒される。イデオロギー的だし、史料の拡大解釈も多く、正しく読解することがなかなか難しい。 「エデン」居室のインターネット配線が完了、やれやれ。 10月9日(火) 祭り明けで「ゴミ出し」もないので、エデン〜自宅を徒歩で往復する。下り45分、上り55分で所要時間100分である。10〜11月は気候もよいので健康の為にも歩くとするか。 一遍会上期収支決算を銀行口座で確認、上期決算書を作成する。週末の理事会で報告し承認を得たい。 午後、「10月度友隣サミット」。 夜、横山百合子『江戸東京の明治維新』読了。網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(380頁)読み始める。 【恒治→】 次回父上の観賞予定の「あん」の樹木希林のハンセン病患者の演技は素晴らしかったです。あの役は樹木希林以外ムリでしょう。是非ご覧ください。 「あん」は数年前の映画で、その当時はミニシアターでの上映でした。今回は追悼ということで全国で大々的に上映するのだと思います。 因みに、最後作品は今上映中の「日々是好日」のお茶の先生役のはずてす。ご参考まで。 10月8日(月) 朝8時、町内の世話人と秋祭りの提灯の片付け、来年もこのメンバーで実施することを約した。 一遍会10月度例会ニュースを会員に流す。一遍会平成30年上期収支決算を取りまとめる。収支ともに特に問題はない。後は会員をいかに拡大するかであろう。 夕、エデンのCATV・TVの設置完了。「チコちゃんに叱られる」を楽しむ。横山百合子著『江戸東京の明治維新』を読む。 第一章「江戸から東京へ」で江戸幕府から公家・薩長政権の統治の変革を土地区画から分析する。新鮮な切り口に驚く。松山藩の御城下地図では・・・ 第三章『遊郭の明治維新』では遊郭を支える金融と人身売買、遊郭から取り立てる税金が予算の20%を占める実態に驚く、道後・松ヶ枝町遊郭からの税金が道後町の財政に占めたウエイトを知りたい。 【→KKさん】 ご照会ありました「雨宮 照雄」氏は昭和26年(1951)生まれで、愛媛大学文理学部・明治大学大学院から三重短期大学法経学科教授、同短大第11代学長などを歴任し一昨年退官された由。68歳ですから、ご実父も中川某氏もおそらく数年前に卒寿をお迎えかと思います。 一遍会にとっては第U世代(越智通敏2代目代表)の方かと思います。第T世代は浅山圓祥師、佐々木安隆初代代表の時代です。将来「一遍会史」を取りまとめる際の先人の記憶として残しておきます。有難うございました。 10月7日(日) 朝5時、秋祭りの伊佐爾波神社からの「宮出し」のマイクの「騒音」に目覚める。ここ数年はCATVで「鉢合わせ」の放映を眺めるだけである。人気とは逆に道後駅前ロータリーの狭さが目立つようになった。 二日遅れで義安寺に詣で、メルパルクでランチ(和食)&スパ。義安寺を清掃している老人が後藤さん(前旅館組合事務局長)とは驚きである。 旅館組合に所属する各旅館の従業員の内無縁仏になった故人があり哀悼をこめて清掃しているという。頭が下がる思いである。後藤さんは私より一歳下の子年である。隠れた善行を記録にと留めておきたい。 市内に出て銀天街の瀟洒な時計店「プリベタイムレスコンフォート」(意味不明)で電池とベルトを求める。」で腕時計の電池とバンドをリニューアル。 「ジュンク堂」で岩波新書最新版である横山百合子(国立歴史民俗博物館教授)著『江戸東京の明治維新』購入。第四章「遊郭の明治維新」に関心がある。 来年6月の松山子規会例会での講演は「子規と遊里遊郭」(仮題)、副題は「道後松ヶ枝町遊郭と東京新吉原遊郭」を予定しており現在文献調査(資料漁り)中である。 シネマサンシャイン大街道で「万引き家族」鑑賞。日本映画としては1997年の「うなぎ」以来21年ぶりとなる、最高賞のパルムドールを受賞。「うなぎ」は役所高次主演で淡々としたドラマ展開であった。 「万引き家族」は「家族」とはいえ生活費を万引きで稼ぐという一家であるが仕合せな日常生活を送っているところから話がはじまる。亡くなった樹木希林の存在感を痛感した。 来週は樹木希林の最後の主演作「あん」が上映される。鑑賞せねばなるまい。 『文芸春秋』J届く。来週は読書の秋に相応しくたっぷりと本が読めそうである。 NHK大河「西郷どん」は「江戸城開場」。西郷・勝会談、西郷・篤姫応接、西郷・慶喜対談と虚構を織り交ぜてのドラマ展開、実に興味深い。 10月6日(土) 台風25号の余波で風強し。雨は降らず天候よし。気温は30度近くに上がる。座敷庭の除草作業2時間。 網野善彦『増補 無縁・公界・楽』、桜井哲夫『一遍と時衆の謎』を読む。特に網野論文中、一遍時衆の記述はメモする。 『葬られた驚愕の古代史 越智国に”九州王朝の首都”紫宸殿ありや』の著者合田洋一氏から『図書新聞』(20181006)書評が届く。隠れ「九州王朝説」者としては、その配慮が嬉しい。 NHKブラタモリは「箱根」。「箱根七湯」の歴史、強羅の高級住宅地開発、藤原雷太旧邸など大いに勉強となった。 「椿の湯」。 10月5日(金) 終日雨。「エデン」から8時半発の「定期便」で帰宅。朝のライフスタイル固まる。(7時半朝食、8時NHK「まんぷく」+モーニング珈琲、8時15分ロビーで「愛媛新聞」) 「アマゾン」から網野善彦『増補 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』(平凡ライブラリー1996)届く。 「大黒屋」で村上公平君(跡見女子大名誉教授)と落ち合い、1年半ぶりの旧交を暖める。3時間ほど話し込む。「松茸釜飯」を注文したが松茸の香りがまったくない、値段相応の松茸であったか。いやはや。 村上空山師も健康を回復された由だが、外出はままならないとか。一遍会でお話をしていただきたかったのだが・・・。 週末は自宅泊なので掃除、買い物などで結構多忙である。「椿の湯」。 夜、道後温泉広場は秋祭りの「宮入」で大いに賑わう。 10月4日(木) 「エデン」から7時半発の「定期便」で帰宅、8時から町内の世話人が集合して明日から始まる秋祭り(伊佐爾波神社大祭)の提灯を立てる。週末の台風25号が心配だが・・・ 10時、三井住友信託新旧担当者挨拶来訪。 松山子規会佐伯健常任理事に『子規会誌』校正原稿「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」メール送信、一件落着。 午後、台風を前にして庭を点検する。夜、引き続き、桜井哲夫『一遍と時衆の謎』読書。 【メモ】桜井哲夫『一遍と時衆の謎』 〇「十一不二の頌」 「窪寺の閑室」の位置づけ 〇超一、超二、念仏房 「此三人発因縁」か「此三人発心因縁」 「奇特」とは「特にすぐれて珍しいこと。また、心がけや行いがすぐれてほめるべきものであること。殊勝。」(広辞苑) 〇再出家の原因 @〜C 河野家内部の権力争いと一遍自身の個人的問題 〇縁教(教縁)→随縁→智真 智真→真教 聖達→聖戒 10月3日(水) 「エデン」から8時半発の「定期便」で帰宅する。ゴミ出し、メール&郵便処理などで慌しい。『子規会誌』原稿「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」の校正完了す。 週末にかけて、秋祭り準備、村上公平君帰省、住友信託担当者交代挨拶、CATV作業等多忙。 夜、引き続き、桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社2014)読書。 【メモ】 桜井哲夫『一遍と時衆の謎』 〇『聖絵』の詞書執筆者 聖戒+二祖真教(高野修) 〇『玉葉和歌集』 一遍智真 真教 聖戒 〇『奥の細道』 御砂持ち 〇世阿弥 お国 時衆ヵ 10月2日(火) 午前中「エデンの園」担当者からガイダンスを受ける。正午帰宅。 『子規会誌』掲載の拙稿「生死の執着と安心 ―一遍と子規と―」の校正作業(週末締め切り)。「エデン」に持参する追加の生活用品の取り揃えでバタバタする。 夕5時半「エデン」帰着。夜、桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社2014)読書。 【メモ】 桜井哲夫『一遍と時衆の謎』 〇『大菩薩峠』 中里介山(1885〜1944) 遊行上人の賦算・・・生涯二十五億千七百二十四人 「億」とは 白川静『字通』 (平凡社1996)「古くは十万、のち万万をいう」 〇『蒙古来る』海音寺潮五郎(1901〜1977) 一遍と通有 鎌倉の対面 〇『一遍聖絵・六条縁起』浅山圓祥(1911〜1976) 連合軍司令部民間情報教育部担当将校呼び出し アッシジの聖フランチェスコと一遍 清貧・ハンセン病救済 〇『 ? 』唐木順三(1904〜1980) 「南無阿弥陀仏が往生するなり」(一遍) 「南無阿弥陀仏で往生する」(法然「弥陀の願」 親鸞「菩薩の本願」) 10月1日(月) 道後公民館で一遍会12月度例会の会場申し込み。子規博で10月度子規さん俳句「虚子を待つ松茸鮓に酒二合 子規」を確認・帰宅後鑑賞エッセイを書き、例の子規もどき句は「君慕ふ 松山鮨の 彼岸入り」。少々女々しいかな、いやはや。 伊予銀道後支店の貸し金庫が自動化されるので手続きを済ます。 午後4時、セカンドハウスである「エデンの園」に向かう。いよいよ入居である。夕食事、理事長の紹介で挨拶する。84才は「エデンの園」では中堅らしい。食事の片付けがないので祝谷周辺を「夕散歩」して、入浴を済ませ、20時からゆったりと読書。 本日から土塀修理の職人が入る。 |
9月30日(日) 昨夜半から雨(時に大雨)が降り続く。 『一遍会報』第404号掲載予定の田中弘道理事の原稿がメールで届く。『一遍会報』4面ぴったりの内容である。校正を済ます。一件落着。引き続き、一遍会HP10月度改訂作業に入る。 20時過ぎ、台風24号は紀州(田辺)に上陸、四国は大荒れだが、松山・道後は雨は降っているが強風ではない。台風報道でNHK「西郷どん」の放映なし。残念。 【→恒治】 台風見舞い有難う。 松山・道後は「安穏」です。四国最高峰石鎚山を越える台風は記憶にありません。わが家は300年被害なしです。ご安心ください。 阿波の三好市や吉野川の氾濫が心配ですね。 新居浜、西条、松前町(重信川)は、上流のダムがいよいよ「放流」しますから、水害の危機が迫っています。台風21号の時はダムの放流で南予は大被害になりましたが、今回は昼からダムの放流を開始しましたから異常はないようです。 NHK大河「西郷どん」の放映が中止になりがっかりです。いやはや。 9月29日(土) 「湯築城歴史塾」(第三回)出席。(子規博 10:00〜12:00) 講師は亀澤一平氏(松野町教委)テーマは「予土国境最戦線の山城 河後森城の変遷 河後森城の発掘調査成果を中心に〜」。 先週(9月17日)歴博開催の戦国伊予三城連携シンポ『伊予の城と戦 ―海城・守護所・境目の城、それぞれの戦国−』で同氏の「河後森城と南予・土佐の勢力」を聞いたばかりである。同氏の専門は考古学であるので、今回の発掘調査の方が本職である。同好の仲間と今秋河後森城跡に出掛けたいものだ。 昼食は道後駅でコンビニにおにぎり2個調達。 午後1時から市民会館で「俳都松山×俳句ポスト50周年記念フェスティバル」出席。 第1部は「50周年記念俳句ポストーク」(夏井いつき、櫛部天思)、第2部は「50周年記念俳句対局」。主役は夏井いつき宗匠か。 記念対局@は北大路翼(新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」家元ほか)対川又夕(俳句甲子園OBOG会会長)。俳句の世界では著名らしいが・・・記念対局Aはプロの岸本尚毅氏と関悦史氏(と云っても、まったく知らない俳人。)午後はたっぷり俳句の世界に浸る。ほかに高野ムツオ宗匠、坊城俊樹宗匠。著名な俳人だが、体質的には異質な存在だ。 「三越」でヨーロッパサイズのスペアインク購入。 NHK「チコちゃんに叱られる」を楽しむ。「カラオケでマイクを手に歌うと何故小指を立てるのか」→「握る動作とつまむ動作は別である。」「椿の湯」は台風前でがらがらである。明日には台風24号が九州に襲来、日本を縦断するようだ。「セブン」で2日分の食料を調達。 9月28日(金) 11月に最初の勤務先である「鐘紡大垣会」と「鐘紡人事労務OB会」がある。悩んだ末、ことしは大垣に出掛け、帰途に薬師寺で七回目の写経をと考えている。 昼、メルパルクでランチ(和食)&スパ。義安寺に詣でる。シキミは生き生きとしており一安心。 「フジ」でセカンドハウスのIH適応の「湯沸し」と中型鍋を購入。 CATV担当の田中さんの母親が高校同期星野さんと聞き驚く。ご主人を早く亡くして一人住まいだが大分足が弱ってきたとか・・・他人事とも思えない。 【→烏谷氏】 冠省 県美の「川端康成と東山魁夷」の招待券2枚拝受しました。お心遣い感謝しております。有難うございました。小沼大八様にもお手渡し致しておきます。 ことしの子規忌はじめ数々の行事(子規博、正宗寺、西龍寺、大法寺等)は印象に残るものでした。ご苦労様でした。 松山子規会の新任役員の積極的な活動は見事なものでした。 「子規の日を過ぎて芒の日々ありぬ 夏井いつき」(子規忌) 「鰯雲 仰臥の子規の 無重力 東国原英夫」(プレバト) まずは、御礼まで。 9月27日(金) 友近道弘氏からの「小林小太郎」に関するメールの返信。 午後3時間、座敷庭の草引き清掃。やっと午後の庭作業が可能になった。三分の一進捗す。 土塀の修理は9月の豪雨もあり納期が1ヶ月遅れの10月末の由。やむなし。 夏蒲団から合い掛け布団 に代える。最低温度が25度を切ってきた。台風24号は大型で日本を縦断するらしい。 TV「プレバト」は特集「錦秋戦」。優勝は梅沢登美男の「廃村のポストに小鳥来て夜明け」。やさしい心温まる句である。 【→友近氏】 すっかり伊予路も秋めいてまいりました。お変わりなくお過ごしのことと存じ上げます。今般は「小林小太郎」に関する大変貴重な情報をご教示頂き衷心より御礼申し上げます。ありがとうございました。 「友近新五兵衛忠成」を軸とする友近姓のルーツの精力的なご調査には頭が下がります。少しでもお役に立てればと願っていますが、史談会の仲間の情報もご期待に沿いえません。申し訳ありません。 「御意打二被仰付たり」から意外な史実が・・・とも期待しています。 先週のNHK大河「西郷どん」を見ておりましたら、負傷した薩摩藩の武士を治療すべく上洛したイギリス公使館付医師である「ウイリアム ウイリス」が登場したのに驚きました。 『アーネスト サトウ日記』によれば、小林少年と赴任間もないウイリスはイギリス公使館で同宿しており、互いの母国語を教えあったようです。ウイリスのカタコト日本語は小林少年伝授でしょうか。 福沢の慶応義塾(英語塾)では小太郎はウイリスからのキングズイングリッシュで「助教」として活躍した由、福沢は蘭学は抜群でしたが英学は今ひとつだったようです。 『長尾藩史譚』は10数年前に長尾藩が在った藤枝図書館で蔵書を発見、「小林小四郎長男小太郎」を確認できました。 『伊予史談』に発表し、後に『慶応義塾史事典』(2008年刊行)で小林小太郎文献として紹介され知名度が増しました。私事では忘れがたい書籍でもあります。 『小林氏族の歴史』は、再度論文を執筆する際には参考にさせていただきます。 「ウイリアム ウイリス」については、ご教示のアドレスで検索し、早々に閲読する予定です。ご教示ありがとうございました。 引き続き、ご教示の程お願い申し上げます。 当方は、来年に向けて、東雲女子大での子規に関する特別講義と時宗二祖他阿真教七百年御遠忌関連で「一遍と真教・聖戒の正統性」の講義が控えており、バタバタしております。 早く「伊予における英学事情」の研究にも手を伸ばしたいのですが・・・まずは御礼まで。 9月26日(木) 午前中に「エデン」に出掛け、食事等の事前手続きを済ます。電波が弱くラジオが聞きとれない。ショックである。TVは一括受信なので問題はないのだが・・・ 昼食は「香楽里」のカツライス@600円。洗濯 午後、文化講座愛媛学C「愛媛と食事」(青木亮人愛媛大学准教授)受講。 「椿の湯」。 友近道弘氏から教授いただいた「小林小太郎」に関する資料、情報を整理する。 9月25日(火) 朝5時から「時衆から時宗へ 一遍・真教・聖戒 〜正統とは〜」の読書メモの取りまとめ。「正統論」は研究者によって微妙に違う。カトリックの正統・異端論争は日本では起きていない。「八百万の神々」を前にして仏教の正統論は共感を得られなかったのだろう。 孫娘2人からの敬老の日の手紙の返事を書く。先週義安寺の帰途立ち寄れなかったので、メルパルクでランチ(和食)&スパ。「フジ」で食料品の調達。洗濯。 今春の町内会総会で秋祭りに町内の提灯取り付けをしない旨決まった。会長は地元の男でないので短絡的に考えたのだろう。 伊佐爾波神社の祭礼は、中世は不明だが、江戸時代から数百年続いている。元道後村庄屋としては屋敷周辺は提灯の取り付けを決めていたが、町内の有志5名が名乗り出てくれて例年通り祭り提灯を点灯することにした。一安心である。 9月24日(月) 父子3人で庭の除草作業。座敷庭と亭庭がすっきりしてきた。苔に中に生えた草は時間をかけて抜いていくことしよう。 12月には庭木の剪定で帰省の予定、大助かりである。 昼食は「珈琲蔵人 珈蔵祝谷店」のサンドイッチセット。しゃれていて美味しい。女性が好みそうなティータイムとなった。14時半に別れる。 15時から雨降り始める。「椿の湯」はお休み。 夜、今井雅晴『時宗成立史の研究』(吉川弘文館)を読み始める。一遍の時衆統制の限界である@不信心A男女不純と時宗制裁をめぐっての議論は更に研究を進めたい。 9月23日(日) セカンドハウス「エデンの園・松山」への荷物運び込み。 11時神戸から息子二人帰宅。午後2時から業者(エディオン、アイソウ、CATV)到着。エデンの日直は赤松さん。スムースにと云いたいが据付工事もあり16時半完了。 秋彼岸であり、義安寺の墓苑に行き、シキミと線香を供える。 「道後彩朝楽」に17時半着。温泉で汗を流し、父子3人でディナーバイキング。20時からのNHK大河「西郷どん」を見て21時発のホテルの送迎車で帰宅する。息子はホテル宿泊。 TV「西郷どん」で幕府軍を戦った薩摩軍の治療にイギリス公使館の医師「ウイリアム ウイリス」が登場したのに驚く。 アーネスト・サトウの「日記」に、公使館で同居した小林小太郎少年とウイリアム・ウイリスが相互に母国語を教えあった記述がある。 ウイリスは後年鹿児島英学校の教官になり海軍(主体は薩摩系)を支援し、陸軍(主体は長州系)を支援したのは軍医総監森林太郎(鴎外)である。「脚気論争」では白米が主食の陸軍の決定的ミスとなった。鴎外は責任者として九州に飛ばされる。 小林小太郎は伊予松山藩士で慶応義塾では福沢先生の助教となり、松山藩の英学の種まきをした。後年日本初の「翻訳局長」として近代化に努めた。内藤鳴雪とは終生交流があった。 こんな史実の感慨に耽るのは日本で数人だろう。いやはや。 9月22日(土) 週間の日誌や資料の取りまとめ。子規忌を挟んで子規さんオンパレードの一週間となった。 土塀や屋根修理に2ヶ月近く要したが、瓦の葺き替えが終わったので庭園が引き締まってきたように思う。 気温が20度C近くになれば、本格的に庭の美化に取り組みたい。剪定は11月末の予定である。 一遍会例会講話「一遍と真教 〜時衆から時宗へ〜」の副題は「正統とは」の問いかけでまとめつつある。 真教と聖戒との「正当性」、藤沢派(呑海)と当麻派(真光)との「正当性」の検証である。皇統の「正当性」の証である「三種の神器」と「新嘗祭」が大いに参考になる。 家の中の片付け。「椿の湯」。 9月21日(金) 県立図書館に「一遍会報」第 号を届ける。司書OBの古茂田さん(高校・大学後輩)に道後(温泉)における差別(牛馬湯、非人湯、牛馬塚など)事象について意見・情報交換する。 県美術館で開館20周年記念「川端康成と東山魁夷」展を鑑賞する。 〇川端康成コレクション 〇東山魁夷コレクション 〇川端・東山と愛媛とのゆかり 期待以上の展示物の質の高さに驚くと同時に 川端・東山両氏の人物像に迫ることができた。当初1時間半を予定したが2時間たっぷりかかった。再度訪れたい。 15時、松山子規会役員会。今後の運営について意見交換する。私からは東京在住の会員と子規の「東京・松山対比」の現代版の共同作業に取り組みたいと提言する。 夕、「紀ノ国屋」で役員有志と懇談(烏谷・嶌川・高木・佐伯&三好)。 9月20日(木) 朝10時持田に在る曹洞宗 佛海山西龍寺での子規句碑の除幕式に出席する。雨である。 西龍寺は持田村庄屋三好家と道を隔てて向き合っている。 持田は江戸期は本村であり、中世には河野家の武士層たちの住居跡である。庄屋屋敷は2反あるから、武将の住居だったのかも知れぬ。児島一晴ご職ならびに同夫人、檀家代表総代、義安寺ご住職とお話する。 この度の西龍寺の子規句碑「鶏頭の丈を揃へらる土塀哉 子規」の建立には、私自身はかかわっている事情が、ご住職の挨拶から分かってきた。 今春『松山 子規事典』が子規生誕150年を記念して発刊されたが、子規の『散策集』をテキストにした私の執筆のなかに「西龍寺」や「土塀」について触れている。 この事典を檀家総代が読んでご住職に連絡、松山子規会からお寺に『事典』を寄贈、やがて句碑を建設しようという機運が檀家の中で芽生えてきたという次第である。 今回の『松山 子規事典』の私の執筆が契機になって3つの出来事があった。 @東京に現存する「久松小学校」の記述に現地の住民が驚き、松山観光時に子規庵(正宗寺)を訪問した。 A複本一郎氏(神奈川大学名誉教授)が、「松山の花街・遊郭」の記述から、参考文献として挙げた『全国花街めぐり』を捜し求めて入手できたと云う「愛媛新聞」(ふるさと伝言20180610)の記事。 B今回の「西龍寺句碑」建立の背景。 午後、CATVとセカンドハウスのケーブル設置の契約。23日(日)の家電製品運び込みにどうやら間に合いそうである。 TV「プレバト」。「椿の湯」。 9月19日(水) 正岡子規の命日であり、終日多忙な一日となる。 午前10時から子規記念博物館の「糸瓜忌〜子規追悼の集い〜」に出席。 〇追悼式 献茶・献花(鶏頭) 〇一人芝居『喀血とベースボール 明治22年夏−松山野球こと始め−」(渡部和也) 〇講演 竹田美喜子規博館長 「子規とベースボール」 散会後、子規会渡部平人副会長の車に同乗して正宗寺に直行、式場準備。軽食。 午後1時半から法要、続いて記念講演。 講師は正岡明氏(正岡子規研究所主宰)で演題は「明治維新一五〇年 書簡から読み解く明治人の生き方」。 記念撮影後、平岡英相談役と電車にて道後に帰る。 【メモ】 @子規忌献句 南無糸瓜仏即ち子規の生命なり 子規の日を過ぎて芒の日々ありぬ 夏井いつき A法要閉式の辞から 記録によれば・・・ 子規居士が亡くなりました明治三五年九月一九日「午後四時頃豪雨沛然として至り雷鳴とどろく」とあります。子規居士の死を悼み転地又慟哭したのでありましょうか。 117年が経過した本日は、子規忌に相応しい好天に恵まれました。ご同慶の至りであります。 9月18日(火) 昨日県歴博で聴講した「戦国伊予三城連携シンポ『伊予の城と戦 ―海城・守護所・境目の城、それぞれの戦国−』」の復習。ファミリーや一遍会会員とのメール交換。 午後、9月度「友隣サミット」出席。梅木さんの八ヶ岳縦走(5泊6日)の報告に圧倒される。当方は石鎚山の登頂も無理な体になってしまった。 夕、松竹大歌舞伎(夜の部)鑑賞。出し物は「義経千本桜 道行初音旅」と「義経千本桜 川連法眼館(かわづれほうげんやかた)」。 役者は片岡愛之助(佐藤忠信、源九郎狐)、中村壱太郎(静御前)、市川門之助(源義経)、市川猿弥、中村松江ほかである。 愛之助は話題の多い人物であるが、役者としての愛之助を観るのははじめてである。演技力特に身のこなしに驚く。狐の動作でもあるのだが、身体的な能力は抜群である。壱太郎の女形美にも驚く。今後、この2人の活躍に注目したい。 二つの出し物については、事前に文化講座(歌舞伎)でたっぷり予習し、花道サイドの10列目で観劇したので、足捌き、手の動きをじっくり観察できた。実に楽しい歌舞伎であった。愛之助を歌舞伎役者として評価できたのは大収穫であった。 余韻を楽しみかったので「椿の湯」はお休みにする。 9月17日(月) 田中弘道さんの車に同乗して宇和の愛媛県歴史文化博物館に向け午前8時出立。テーマは「戦国伊予三城連携シンポ『伊予の城と戦 ―海城・守護所・境目の城、それぞれの戦国−』」。三城とは@能島城A河後森城B湯築城である。 城フアンで聴衆は200人も集まる。 〇基調報告は山内治朋氏(県歴博学芸員)「よみがえる鳥坂合戦の記憶」 〇事例報告 @大上幹広(村上水軍博物館学芸員)「能島城と村上海賊」 A神石都(湯築城資料館学芸員)「湯築城と河野氏」 B亀澤一平(松野町教委)「河後森城と南予・土佐の勢力」 〇ディスカッション 「伊予の城と戦を考える」コーディネーター日和佐宣正(県教委) 昼食は宇和「どんぶり館」、物品館で「しょうがと青のり ひなあられ」(@320円)を求める。雛節句中に亡くなった温子にふさわしいので帰宅後仏壇に供える。 18時帰宅。さすがに疲れる。「椿の湯」。シンポの資料を読み返す気力もなく就寝す。 9月16日(日) 朝8時から表庭の整備に取り掛かったが、首筋ほかを虫に食われて痒さに耐えられず退散、シャワーで洗い流す。ギブアップ。 大橋俊雄『一遍と時宗教団』読書。昭和53年刊行の名著だが、手元の新書版は1997年新装版である。特に第二章「時衆教団の成立」は説得力があり歯が立たない。 セカンドハウスに書架を移動するので書庫の整理。 NHK大河「西郷どん」。「椿の湯」。 9月15日(土) 曇天で湿度多し、冷房は切り扇風機で過ごす。下着類が溜まったのでやむなく洗濯す。 三日続きで長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』(321頁)読了。 第二章「時宗宗学の基底」 第三章「時宗宗学と儀礼の接点」 第三章は一遍と真教に限定されないので深くは読まなかったが、第三節「時宗教団と密教修法」は注目すべき論文である。 時宗宗学の碩学である長澤昌幸師に脱帽。 「椿の湯」。 9月14日(金) 引き続き長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』読書。第一部「一遍教学の形成」の核心部分である第四節「時宗教学における念仏往生観」と第六節「一遍教学とその展開」の読解に注力する。 温子の「七の八十日」(没560日目)に当たるので、メルパルクでランチ(和食)&スパの後で義安寺に詣でる。毎週墓参りしているので、義安寺の中ではもっとも手入れが行き届いている墓苑の一つと云えよう。 夕食後『文芸春秋』Iを読む。但し特集「昭和の軍人に見る「日本型悪人」の研究」の保坂正康氏の指摘は、かの立花卓氏のそれには遥かに及ばない。残念。「読書の秋」とはよく言ったものだ。 9月13日(木) 早朝から長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』読書。 「第二節 一向俊聖の念仏思想」で鎮西派の一向と西山派の一遍の特質と念仏思想の相違について学ぶ。蓮華寺編『一向上人の御伝集成』を参考にする。 「第三節 一遍教学における「このとき」攷」、「第五節 門流による一遍呼称の変遷」の切り口に驚く。着想が次々浮かんできた。 午前中晴れ間の2時間、表庭の除草作業。午後は雨が降り続く。 TV「プレバト」。雨の中「椿の湯」。 9月12日(水) 長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』(法蔵館2017)再読。長澤氏は時宗宗学林学頭。今春本山で個人的に面談したこともある。史料分析が精緻で、素人研究者は難解でついて行けないところもあるが9月中に読破したい。 〇第一章 第一節 證空教学から一遍教学へ 「機法一体」 『一遍上人語録』 一遍と心地覚心との参禅譚 となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏 午後3時間表庭の除草作業、涼しくなったとは云え暑い。夕、シャワーを浴びる。 「椿の湯」。 9月11日(火) 松山極堂会の会長であった故 高橋俊夫氏のお別れ会に出席する。発起人は同会の近藤元規、山上茂次郎、加藤幸男の三氏。場所は高橋家の菩提寺(日蓮宗)大法寺である。14時法要が開始され、終了が16時半になった。吉田蔵澤の墓がある。蔵澤は池大雅、与謝蕪村と並ぶ南画派の画家であると云われる。 「一日一件」のつきあいで何とかと破綻もなくこなしているという感じである。 「椿の湯」。 9月10日(月) 一遍会IT会員への定期便発送作業に半日を要する。 恒例の人事労務OB・OG会(梅田・河久)出席の旨、幹事の高木氏に連絡する。大垣会とバッティングしなければよいが・・・ 併せて上京のプランをセットせねばなるまい。 夕2時間、表庭の除草作業。涼しくなりはかどる。このペースでいけば、秋祭りまでには、わが家は例年通りの美観が保たれるか、な。 松山の住人で中川某なる人物(松山大卒、中年で出家(時宗か?))の調査開始。松山大(旧松山商大)出身の篠浦君、青山さんらに照会し情報収集に努める。 「椿の湯」。 『文芸春秋』I、『サライ』Iに目を通す。北川悦吏子「『半分、青い』は私の人生そのものです」は胸を打つ。迫り来る「死」を予知しての「遺言」か。今月一杯で終了する朝ドラ『半分、青い』を真剣に見ておきたい。 『サライ』付録の「若冲万年筆」だが、若冲が愛した鮮やかな赤色は良し。大塚国際美術館の絵画の陶板焼付けの妙に類似するか。 9月9日(日) 新暦では感じないが菊節句「重陽の日」に当たる。終日雨であり、松山の大部分が「避難警告」の対象になっている。 伊予史談会9月例会出席(県生活文化センター)。明治150年記念「幕末維新の伊予」シンポジウム」である。 1)「明治維新と宇和島」 仙波ひとみ(宇和島伊達文化保存会研究員) 2)「大洲・新谷藩の幕末・維新」 白石尚寛(大洲市教委) 3)第2次長州征討における大島口の戦いと松山藩 井原恒久(県図書館長) 松山藩、大洲藩、宇和島藩の幕末維新の対応については概念的には知っているが、文献、現地調査による報告だけに実に興味が湧いた。特に井原氏の報告は実地を歩いているだけに説得力があり軍記物を聞くような楽しみがあった。 午後、一遍会例会資料を取りまとめ、IT会員への「定期便」の準備。 夜は大分涼しくなってきた。一遍会で2回にわたって発表する「二祖他阿真教と一遍上人 〜時衆から時宗へ」の勉強を開始する。年末までに先人の優れた研究書5冊を再読・精読することになる。 @大橋俊雄『一遍と時宗教団』(ニュートンプレス1978) A今井雅晴『時宗成立史の研究』(吉川弘文館1981) B高野修『時宗教団史』(岩田書院2003) C小野澤眞『中世時衆史の研究』(八木書店2012) D長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』(法蔵館2017) 【→KT氏】 例会ご苦労様でした。本日の伊予史談会で田中、江刺両氏と会いました。江刺氏は湯築城ボランティアの当番ということで中座されました。 「かつて勝山町で喫茶店をしていた一遍好きな人がいて「中川」という人」で「時宗の僧侶になった人」となると皆目分かりません。小沼代表なら、僧侶ということで存知の可能性があるかもしれませんが・・・ もしかして勝山町(寄与町?)の「喫茶店」というと、喫茶「ひょん」のことでしょうか。昔の一遍会のことを知りたいとママさんに会いに行ったことがあります。一遍会の古い会員のことをよくご存知でした。 お役に立てなくて残念です。豪雨ですね。お大事に。 【→YK氏】 伊予史談会9月例会は、なかなか興味ある内容でした。「親藩だから幕府側」という松山人の短絡的な発想が堂々と述べられていることには正直驚きました。松山藩の儒学者について批判的に研究された郷土史家はいないのでしょうか。 ところで、書籍『アルネ』の件ですが、愛媛大学図書館は蔵書していました。お知らせまで。 9月8日(土) 午前3時過ぎに目覚める。深夜ラジオでは北海道地震中心の報道が続き、あまり眠れず、とろとろ仮眠していて6時頃起床す。 午前、一遍会9月例会の準備、点検。 午後、例会開催。 講師は武智利博会員、テーマは「海の民 浮鯛抄 を読む」。武智氏は高校教員で県立図書館長、伊予史談会会長を歴任した愛媛の漁業史の権威である。 三原市幸崎町能地と竹原市忠海町二窓の海上漂泊する漁民集団が持つ『浮鯛抄』の歴史的な分析である。実に興味ある被差別漁民の史実である。 前期末理事会では、次年度から卓話は会員持ち回りの全員参加の形式に変えることとした。夕、小沼大八代表の「快気祝い」を兼ねて理事懇親会を「アジアン・ラサ・キッチン」で開催(@4,500)。病後、代表の酒量は大幅に落ち車の運転もやっていない由で寂しそうであった。出席は小沼・蜂須賀・大西・田中・江刺・今村・岩田&三好の8氏。 9月7日(金) 朝9時、三井住友信託の担当者来訪。 温子の「七の七十九日」(没553日目)に当たるので、義安寺に詣でる。メルパルクのレストランが満席で、近くの「にきたつ荘」のランチ&スパ。「にきたつ荘」はフルーツがビュフェ形式で有難い。@1,050円 温泉浴場は水準以下であるが・・・ ファミリーに定期メールを送る。 土塀修理の左官が入る。彼岸までに完了するかどうかだが、ギリギリ秋祭りまでには完工してもらいたいものだ。 午後はのんびり過ごす。NHKの健康番組で、「75歳で睡眠時間4時間は問題なし」と慶応大学病院の某医師(教授)が語る。15歳の標準睡眠時間を7時間とし、10歳ごとに30分減るとして▼0.5時間×6=▼3時間 7時間−3時間=4時間。 問題はベッドに横になってる時間が7〜8時間の方が大問題との問題提起である。当方も10時就寝で6時起床、睡眠4〜5時間だから該当する。妻が居た当時の12時就寝、6時起床の生活パターンに戻すかどうか、検討せねばなるまい。 雨催いの夕方、法師蝉と秋の虫の鳴き声がミックスして耳に届く。「秋はさやかに見えねども」である。 9月6日(木) 一遍会9月例会配布資料を「ダイキ」で印刷。『一遍会報』第403号(200)「一遍会ニュース」(60)「一遍会理事会資料」(20)合計280枚。 午後、文化講座「歌舞伎」C「名作案内 義経千本桜―川連法眼館―」(神楽岡幼子愛大准教授)受講。 「義経」が「ヨシツネ」→「ギツネ」となり、狐忠信(源九郎狐)が静御前に仕えるというトリックを初めて知った。昔、国立劇場で先代の市川猿之助丈に代わり市川右近が相勤めた、幕切れの花道を宙乗りで三階席に入った「澤瀉屋型」の天晴れな演出が忘れられない。今秋の松山公演では「宙乗り」を見ることはできない。残念。 夕、「フジ」で買出し。「プレバト」を見て「椿の湯」。 9月5日(水) 朝は爽快であったが、午後からは30度cを越す。残暑はまだまだ厳しい。 「一遍会ニュース」「一遍会理事会資料」(上期総括)を取りまとめる。8月までの収支決算をし、9月度の見通しを立てて上期の仮決算を行う。平成30年度の一遍会は、松山市の文化団体としては健全な体質であるといえる。 夕、防虫ネットの服を着用して、表庭の除草作業開始。9月中に畑は別として、中庭までの除草は済ましておきたい。 夜、2ヶ月ぶりに作務衣にて「椿の湯」。 【→一遍会会員】 @図書紹介 八月例会に鳥取から出席された赤井厚生氏との懇親の中で話題になった書籍が2冊ありました。会員各位が一度は手に取っていただきたい書籍としてご紹介させていただきます。 〇柳 宗悦 『南無阿弥陀仏 付 心偈 』岩波文庫 青169−4(@700+税) 〇栗田 勇 『一遍上人 ―旅の思索者』 新潮社 1977年初版 (@2300)<入手困難ヵ> 又は 〇栗田 勇 『捨ててこそ生きる 一遍遊行上人 』 NHK出版 2001年初版 (@2,800+税) (注)アマゾン古本で@1,000+送料で入手可能。 9月4日(火) 台風21号は、紀伊水道から京阪神を通過し、日本海に出て、右回り北日本を抜けるようだ。今回も松山への直撃を避けられた。 神戸のファミリーに台風見舞い。50年以来の暴風雨というが、当時芦屋に住んでいたから「大丈夫、大丈夫」と伝える。 海岸沿いの深江方面は被害があったが、阪神国道線(廃線)から山手は大丈夫だったと記憶している。 雨も止んだので久方に表庭の草引き。湿度高く能率は上がらず。 HP一遍会の9月更改分を3日遅れで掲載する。一遍会フアンは事務局の健在ぶりに安堵してくれるだろう。 雨が激しくて「みよしの湯」。 【→俳友】 平成30年9月 「鮎はあれど 鰻はあれど 秋茄子 子規」 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年9月の句は「鮎はあれど 鰻はあれど 秋茄子 子規」です。 季語は「秋茄子」(秋)です。 『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」338頁(明治二十八年 秋)、第二十一巻 草稿 ノート 「病床漫吟」96頁(明治二十八年 秋)に掲載されています。 詞書に「田舎」とある。田舎とは故郷松山のことである。明治二十八年の夏から秋にかけて病気療養で帰省し、漱石と52日間「愚陀仏庵」で過ごした。子規は漱石のお金で勝手に蒲焼を注文している。さすがに漱石もこのことをこぼしている。 「病床漫吟」では「鮎もあれど 鰻はあれど 秋茄子」を、「鮎もあれど」を「鮎はあれど」に変更している。 「鮎」「鰻」「茄子」の季語は「夏」であることに注目したい。「秋茄子は嫁に食わすな」と下世話に云われる様に、これ又旨い、旨い。特に醤油の味が染み込んだ冷えた秋茄子で食が進む。 食いしん坊の子規さんにとって、石手川、重信川の鮎も鰻も旨いが、なんと云っても秋茄子が最高だと評価している。いかにも子規さんらしい一句と思う。 子規さんにあやかって一句 「松はあれど 桜はあれど 秋の城 子規もどき」 道後関所番 9月3日(月) 一遍会11月度例会会場の予約。公民館の文化祭があるので第三土曜日に変更する。子規博に立ち寄るも肝心の「子規さん九月度懸垂幕俳句」の発表がない。トラブルが気になる。 「アイソウ」(近藤寿樹・松山店店長)で「シモンズベッド」と「木製食卓」等、 「エディオン」(外商 古味繁与利)でエアコン、冷蔵庫、テレビ等購入。 昼食は「グランフジ」の3階レストラン。温子とは度々立ち寄ったが、一人での食事は1年半ぶりか。大衆の中での孤独感を味合うのはいささか気が重い。 セカンドハウスへの家具、家電の運び込みは9月23・24日、応援に来る息子たちの宿は「湯快リゾート」でセットする。 帰途、七月再オープンの「ABC一万店」に立ち寄る。コンパクトだが清潔感あり。コーヒースポットも良し。夕食用に寿司を買う。@800円、旨い。「椿の湯」。 9月2日(日) 『一遍会報』第403号の校正を済ませテスト印刷。 行事予定表(9〜11月)作成。なんとか月1回は旅に出たいのだが・・・10月からセカンドハウス(「エデンの園」)も利用することになるので結構忙しくなりそうだ。一泊旅行で辛抱するかな。 NHK大河「西郷どん」。3日ぶりの「椿の湯」。 9月1日(土) 読売旅行企画の「足立美術館たっぷり3時間」なるそのものズバリのツアーに参加。 7時に市駅を出発、5時間のバスの旅となる。 @大観生誕150年記念「横山大観vs日本画の巨匠たち」。絢爛豪華な六曲一双の屏風「紅葉」には圧倒される。 A学芸員による大観作品のギャラリートーク(美人学芸員に驚く、声も良し。一目ぼれである。いやはや。) B岡本喜八構成・演出・ナレーションによる『全康さんの一日』。全康さんとは美術館創設者足立全康(1899〜1990)の76歳当時のエネルギッシュなロマンを追い求める姿の実写である。 残り2時間は庭園や絵画、陶芸(河合寛次郎、北大路魯山人)と静かに再会する。 往復の寄り道は主に「道の駅」となる。(「たかの」「酒蔵奥出雲交流館」「世羅」など、地産地消型だが、酒蔵には驚いた。) 市内電車で元県図書館司書古茂田さんに出会う。故 和田克司氏の思い出話。 21時半帰宅。夕食。 |
8月31日(金) 八月は秋の季語であるが、残暑どころか猛暑がぴったりの8月末である。日中はエアコンがなければ過ごせない。 温子の「七の七十八日」(没546日目)に当たるので、義安寺に詣で、メルパルクでランチ(和食)&スパ。週4〜5日は夫婦でメルパルクに来るという御仁と初めて声を交わす。 昨日の文化講座「愛媛と戦争」(青木亮人愛媛大学准教授)の復習。 『一遍会報』第403号執筆の杉野祥一氏から校正が入る。掲載写真の検討と複写作業。 TVは全局で体操女子の幹部に対するセクハラ報道が続く。自民党総裁選挙の報道は影が薄い。いやはや。 8月30日(木) 酷暑が続く。うんざりである。 『一遍会報』第403号は@前園実知雄A杉野祥一両氏の論文のほか、「事務局便り」としてB「有朋自遠方来、不亦楽乎」C「宝厳寺境内の斎藤茂吉の歌碑は遺髪碑か?」を加えて完了する。両氏に校正を依頼する。 午後、文化講座「愛媛学」受講(ひめぎんホール)。 青木亮人氏(愛媛大学准教授)「愛媛と戦争」は、イデオロギー的臭みがなく文学的視点からの解説である。正直物足りなさもあるが、これはこれで一般向けには良いのだろうと納得する。 「プレバト」をみる。東国原英夫名人「草茂る洞窟のこと他言せず」 「椿の湯」。 【『一遍会報』事務局便り】 本堂前庭南端中程に「斎藤茂吉歌碑」がある。歌碑の下に茂吉の遺髪が埋められていることをこの度「斉藤茂吉埋髪歌碑建立」の記事で確認しましたのでご報告します。 〇愛媛新聞 平成三年三月十一、十二日掲載 〇一遍会報 第一五七号(平成三年四月一日) 茂吉は第二次大戦中郷里山形に疎開したが、親身に世話した一人に板垣家子夫が居た。昭和二一年四月子息昭雄が茂吉の散髪した折、茂吉に内緒で髪を持ち帰り父に手渡した。昭和四七年家子夫は、茂吉に師事した歌人山上次郎(愛媛県出身)に遺髪の託した。 山上は、昭和一二年五月二十日に茂吉が永井ふさ子と宝厳寺に参詣したことに因んで、一遍会代表越智通敏と宝厳寺住職長岡隆祥師とも相談、平成三年三月十五日一遍生誕会・一遍会三月例会当日に除幕式を執り行った。 永井ふさ子(松山出身)は、茂吉の弟子であり愛人でもあった。詳しくは菊池佐紀「斎藤茂吉と永井ふさ子の愛〜四国なるをとめ恋しも」(『一遍会報』第三一七号)をご覧ください。 8月29日(水) 日中は34〜35℃の猛暑である。無理をせず、エアコンの効いたリビングでTVとともに過ごす。 『一遍会報』第403号編集作業を進める。 夕、フジでショッピング。「椿の湯」。 【→杉野氏】 玉稿拝受しました。ありがとうございました。素晴らしい見解と思います。小沼代表の所見は分かりませんが・・・・・ 『一遍聖絵』等を批判的に摂取していくことにより、一遍会のアイデンティーが意義あるのではないでしょうか。どしどし発表の「場」に使ってください。「異端」大いに結構です。 聖戒は時衆であることを拒否しましたが、彼は「融通念仏」の信奉者であった言われています。熊野のご神託でも、熊野権現は一遍に対して「融通念仏すすむる聖」と呼びかけています。又、「六十万人の融通念仏」とも規定しています。このあたりも議論したいですね。 これから『一遍会報』の割付をします。ありがとうございました。 8月28日(火) セカンドハウスの家電製品のリストアップを進める。最小限のシンプルライフを考えてはいるが、大学生の下宿よりは荷物が多くなりそうだ。当然のことだが・・・いやはや。 杉野祥一理事から論文「一遍上人 最期の御遺誡を巡って」寄稿。早速『一遍会報』第403号(9月例会配布)の割付開始。 事務局だよりを1.5段分執筆する。@会員紹介A宝厳寺境内の斎藤茂吉の歌碑は遺髪碑か。ほぼ輪郭はできた。一安心である。 「椿の湯」。 8月27日(月) 月末の処理業務で動き回る。 郵便局、伊予銀行、三井住友信託、「アイソウ」と回り、昼食は高島屋の「とんかつの活」。「愛媛CATV」(営業・田中さん)で「エデン」のインターネットとTV配線を依頼する。 ベッドは「シモンズ」のセミダブル、デスクは頑丈な木製、チェアは長椅子を第一候補にした。10%カットで予算内に納まる予定だ。 午後、一遍会9月度例会案内をマスコミ、ミニコミに流す。ギリギリのタイミングである。やれやれ。「椿の湯」。 8月26日(日) HP一遍会の9月度改訂版作成作業。 第35期慶応義塾卒業生評議員選挙に当たり松下正幸君(パナソニック副会長)に投票する。 日本大学のガバメントが今回関心が集まったが、慶応義塾長は理事長で慶応義塾大学長を兼ねている。諮問機関として評議員会がある。 株式会社的日本大学理事会よりは慶応義塾の方が学問の府としての位置づけにある。もっとも肝心の慶応義塾長の選挙には疑問が残る。 過半数を取った細田衛士氏(経済学部教授)でなく第2位の長谷山彰氏(常任理事)が慶応義塾長に指名された。 情報の公開が叫ばれて久しいが、ともあれ民主主義とは厄介なものである。気に入らないと「フェイクニュース」と云われ、朝日新聞が虚報を流しても「守秘義務」という正体不明の立て看板で世論はそれを許してしまっている。いやはや。 キッチンを整理していたら温子が新婚時代に重宝した料理のバイブル『婦人倶楽部・編 家庭の料理百科 巻末付録 新しい医学に基づいた=病人食』が出て来た。 60年前のクッキングテキストである。仏間の温子の写真の前に供えた次第。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 8月25日(土) 朝から32度、日中は35度。残暑は猛暑なり。 T、初秋に久万高原に出かけるプランを作成する。 第1案は久万高原トレッキング。 (第1日目)JRバスと伊予鉄南予バスを乗り継いで「土小屋」で石鎚を遥拝する。「岩屋寺」下車、44番札所岩屋寺参詣、遍路道を歩いて国民宿舎「古岩屋荘」宿泊。 (第2日目)古岩屋散策(バス)久万美術館、43番札所大宝寺参詣。久万高原駅からJRバスで松山夕刻着 第2案は秋の面河渓谷トレッキング。 U、セカンドハウスの設備の検討開始。家電関連は新規購入するが、家具等は、使い慣れた、温子と共有したものを利用する方向で検討する。大荷物は「ベッド」である。これも運び込むか。 本箱は無理だから書架で辛抱して、「三好家資料」を一括管理して「史料集」として取りまとめたい。 「椿の湯」。 8月24日(金) 温子の「七の七十七日」(没533日)に当たるので、義安寺に詣で、メルパルクでランチ(洋食)&スパ。 スパで全身刺青の初老の男性に出会う。松山では有名な御仁らしい。お馴染みがシニアが「先生」と云っている。昔話がそれとなく耳に入る。刑務所経験もあるらしい。逃亡するには山の中が一番安全という体験談は聞かせる。 当方は鎌倉期に一遍遊行と「山人」との出会いを想起した。山には食料はあるし、水はあるし、見通しがよく捜索隊を事前に把握できるなど・・・時々メルパルクに来てるそうだから、機会があればお近づきに預かり市民では思いつかない山の生活を聞きたいものだ・・・ 〇ファミリーとメール交換。 〇関西薬友会執行部の若返り通知 〇博文館新社から記念品 〇帝国ホテルから正月行事の案内 〇「ゆこゆこ」から旅の案内などなど 8月23日(木) 台風20号、四国に上陸。 三井住友信託のコンサルタントと担当者来訪。相続と贈与について相談する。節税型贈与(相続税額よりも贈与税額が安く済む金融商品)について説明を受ける。なかなか興味ある内容であった。 午後に入って、道後地区の過半に「避難準備」が出されたが、道後町1・2丁目(旧道後村の中核)は除外されている。大事をとって「椿の湯」に出かけるのを止めて「みよしの湯」で済ます。 もっぱら雑誌を読んで時間を過ごす。 8月22日(水) 午前中「エデンの園」で赤松・高橋両氏と打ち合わせ。手続き完了、10月から「セカンドハウス」としてウイークデイに利用することとした。 昼食は「大黒うどん」。県文化振興財団から明日台風襲来が予定されるのでセミナー中止の連絡あり。 「椿の湯」。 8月21日(火) 午前中、市役所道後支所、銀行等金融機関を回る。 明日「エデンの園」の契約締結予定。今冬からセカンドハウスとして朝・夕食と宿泊に効率的に活用したい。徒歩25分の距離だから健康増進にも役立つか。 台風の影響か、結構蒸し暑い。夕、川掃除、水遣り。「椿の湯」。 8月20日(月) 今村威氏から指摘があった「伊予湯岡碑」の字句について現地で確認する。指摘は数点あり、例えば近代の流布本では「万機所以妙応」であるが、底本では「万所以機妙応」である。 聖徳太子当時の碑を書き写す時に間違えたか、それとも碑そのものが「万所以機」であったか・・・ 「飛鳥乃湯泉」広場に建立された碑は底本に拠り、可能な限り聖徳太子の親筆の字を拾い集めたものであり、前園実知雄氏らの指導によると考えたい。 その旨、今村氏に連絡する。この機会に「伊予風土記」に記載された文章を確認しておきたい。 瓦葺きの棟梁来訪。来週から土塀の瓦葺きが始まるが、極力古い瓦を使用してほしいと要望する。 夕、小一時間表庭の草引き、まだまだ地面は熱い。「椿の湯」。 8月19日(日) 午前中、愛媛県立図書館。『一遍会報』第402号を届ける。『史談会速記録にみえる伊予関係記事』全6冊に目を通し、6冊分の目次を複写する。今後の郷土史研究に役立てたい。 昼食は東京第一ホテル松山内の割烹「花のれん」。 午後、松山子規会8月例会(愛媛新聞社ホール)。 1)卓話:高木貞雄氏「河東家の出自について 相模国・伊豆国〜伊賀国〜備前〜伊予国まで 竹村 鍛一家のその後」 2)講話:山上茂次郎「『子規から茂吉へ』(下)―子規の継承と茂吉短歌の世界―」 高木氏の卓話は「河東静渓」が所持した「奥家・河東家 家系図」(仮称)をベースに河東家の華麗な歴史を紹介する。三好家の家系図も同様だが、身内には大変興味あるが、他家の者にとってはそれほど関心は湧いてこない。 山上氏の講話で是非確認したかった山上次郎氏が建立した宝厳寺の斎藤茂吉の「句碑」であるが、茂吉の遺髪を納めていることについて子息である茂次郎氏が事実であることを明言された。一遍会会員にも報告したい。 今村威氏から「飛鳥乃湯泉」広場に新たに建立した「温泉碑」の誤字の指摘に驚く。明日、現地で確認してきたい。今村氏の指摘が正しければ大問題になろう。 帰途、平岡英氏と語る。 夕、仮眠。NHK大河「西郷どん」。疲れが出たのか「椿の湯」はお休み。 8月18日(土) 気温は27度、湿度があまりないので、爽快な晩夏の一日であった。 松山藩「友近家」の関連で、和泉(村)字弥八馬場について、松山藩の武士の記述に目を通す。明治から大正にかけての内藤素行の講述速記録に出喰わし、深読みしてしまう。 〇松山藩の切腹の事例 〇長州再度征伐の事跡 〇明治初年松山藩の基督宗徒取り扱い事例 〇松山藩の穢多の制度と取り扱い事例など 肝心の松山藩の馬場についての話はなかった。別の文献に当たるしかあるまい。 地勢的には『洪水の市坪村備忘録―松山中央公園化する市坪村を眺めつつ―』(池田逞 平成10年)が参考になった。 昨日(8月17日)義安寺に墓参できなかったので、義安寺に立ち寄り、「メルパルク」でランチ(中華)&スパ。 8月17日(金) 温子の「七の七十六日」(没532日)に当たるので、昼前に義安寺に行く予定をしていたが、晃子さんと長野から美也さんが来訪、小一時間温子(妻・姉・伯母)の想い出を語り合う。 友近道弘様から詳細な「三好家資料」が届く。お盆に帰省されて、松山藩士である友近家の調査を続けておられる由。 『松山市史料集』から三好家資料を整然と整理していただいて大いに感謝したい。なんとか「温泉郡大庄屋三好家」の研究をまとめて、江戸期の庄屋の実像を浮かび上げさせたい。 赤井厚生氏(鳥取 一遍会)から礼状が届く。『聖絵』の山陰における一遍遊行の描写が鮮明であるのは何故か。 9月子規博で開催の「坊ちゃん文学賞トークイベント『親譲りの無鉄砲』」参加申し込み。 「椿の湯」。 8月16日(木) 5時に起床、お盆中の日記を書く。引き続き、仏間の片付け。昼までに完了。 一遍会8月例会に鳥取県から出席の赤井厚生氏(新会員)から礼状が届く。山陰地区の「『一遍聖絵』の世界」の紹介エッセイを期待したい。 11月例会講師の青山淳平氏(作家)からテーマ名「新田長次郎 ―近代社会「明治」の志―」が届く。3月までの一遍会例会講師のラインアップが完了する。 午後、高校野球3回戦で済美高校と高知商業の対戦。3対1で済美が勝ち、いよいよ準々決勝に進出する。地元びいきでTV観戦を楽しむ。 夕食後、TV「プレバト」。「椿の湯」。セブンで買い物。秋の虫の声を耳にする。お盆が過ぎれば秋なんだなあ。 8月15日(水) 73回目の終戦記念日である。小学校4年生であったので記憶は鮮明である。正午の「玉音放送」の「時と場と人」を思い出しながら時報に合わせて黙祷する。 11時過ぎ、義安寺住職の「棚経」。同じ曹洞宗の持田の「西龍寺」の児島住職が遷化し、義安寺住職と同年の副住職が後を継いだ由。先住は建築家でもあり、お寺を一新させたが、今回南隣に12階建てマンションの建設計画がある由。街中の寺院は避けては通れない「悲劇」である。 後片付けは長男夫婦に任せる。妻の里である卯之町の銘菓「山田屋まんじゅう」を土産に用意する。 「大黒屋」は並び客が多すぎて、昼食を諦めて「エデンの園」に向かう。セカンドハウスとなる居室を見学してもらう。息子夫婦にインテリアを頼むことにする。15時現地で別れる。 1ヵ月後には草引きで帰省する予定、ご苦労なことではある。今回で最低限の「家の行事」の引継ぎが終わる。来年85歳で「隠居」ができそうである。さすがに疲れがどっと出る、仮眠。 夕方「みよしの湯」で汗を流し、レトルト食品で夕食をセット。「送り火」を点し、20時ベッドイン。ファミリーの帰宅電話を聞いて21時就寝。 8月14日(火) 朝6時、龍穏寺住職父子の「棚経」。昨夜「御料具」を早々に仏壇と精霊棚に供えたので慌てずに対応できた、やれやれ。 「家の引継ぎ」を兼ねて、鴨川等の駐車場、湯山に残る遠祖「三好長門守」の居城「菊ヶ森城址」と湯山・食場墓苑に詣でる。奥道後温泉(「壱湯の守」)でランチ&スパ、ホテル内の「坪内寿夫記念館」と「和田文庫」を見学する。夕食は湯之町の「魚武」で瀬戸内の魚料理でファミリーは満足したようだ。 8月13日(水) 午後、神戸からファミリー2家族(6人)揃う。男の孫2人は受験勉強で神戸に居残り、やむなし。 長男夫婦には「棚経」の準備、次男夫婦には墓苑の清掃を任せる。時代がかってはいるが、十二代目から十三代目への世代「引継ぎ」である。妻が生きていれば、これから後の楽しみも多くあるのだろうが・・・ 近くの「大黒屋」で夕食、ファミリーごとに道後温泉に出かける。当方は「椿の湯」。 8月12日(日) 午前中は伊予史談会8月例会出席(県生活文化センター 9:30〜12:00) 1)遠部慎氏(久万高原町教委(上黒岩遺跡担当)「『上黒岩遺跡の研究』刊行10周年を前に ―石偶・殺傷人骨(寛骨)・イヌの新展開―」 2)中川未明氏(愛媛大学)「瀬戸内塩業者の直輸出構想とアジア」」 遠部慎氏報告の「上黒岩遺跡」だが教科書的には古くから承知していたが、数度のわたる調査で次々と石器・縄文・弥生期の新発見が続いているのに驚いた。「四国山人」とでも云うべき古代人のイメージが湧かないが・・・ 遠部慎氏は考古学の博士だが、九州から、北海道、国立歴史民族博物館などで勤務、3年前から愛媛の由。研究テーマに応じて移動しており、遠部氏に大いに興味を抱く。愛媛県の考古学に研究者としてもっと評価すべきではあるまいか。 中川未明氏の瀬戸内塩業者の報告だが、経済史的鳥瞰も経済・流通の詳細な分析もないし、日本塩業史の一齣かなという印象である。同氏は愛媛大学法文学部准教授で「四国遍路の研究」ではお馴染みではあるが、まさか塩業史とは・・・ 「ダイキ」で一遍会 田中弘道氏のレジュメを追加印刷、午後一杯かけて一遍会IT会員30名宛「8月度定期便」を取りまとめる。発送は明日となる。 『一遍会報』第403号は前園実知雄氏論文と合わせ、杉野祥一理事の「一遍の遺戒をめぐって(仮題)」で内定する。 午後、お盆の用意スタート。茶室もファミリーの寝室になるので念入りに掃除す。 NHK大河「西郷どん」は見たが、遅くまで掃除が続く。「椿の湯」には行けず「みよしの湯」で辛抱する。肉体的には完全に疲労した。いやはや。 8月11日(土) 知的な一日ではあったが、猛暑の中で体力的には疲れ果てた。 朝9時から子規博で記念講演会。講師は加藤国安氏(二松学舎大学東アジア学術総合研究所特命教授 愛媛大学・名古屋大学名誉教授)、演題は「大原観山の新資料から見る幕末、そして子規へ―観山生誕200年記念―」。 子規の外祖父である松山藩儒者「大原観山」家に伝わる新資料による観山の生涯と思想と後世への影響について熱っぽく講演される。 第一章 温厚・文雅な少年時代(文化・文政年間) 第二章 昌平黌での覚醒(天保・弘化年間) 第三章 海外への注視(天保〜嘉永/年間〜)―阿片戦争とペリー来航の衝撃 第四章 国内動乱、観山の言葉、子規へ 伊予国でも宇和島藩では「実学」であった西欧文明の情報が大原観山に代表される松山藩の一部の学者しか共有されなかった松山藩の「朝敵」として幕末を迎えた歴史的事実が逆によく理解できた。 一部の子規愛好者が講師の新発見資料と理路整然とした講演に心酔して、子規はじめ明治の改革者への影響力の過大評価することを危惧する。維新後、大原観山はじめ藩お抱えの儒学者は内藤志行(鳴雪)らの若手官僚により「追放」された事実も忘れてはなるまい。 それにしても最近稀にみる感銘と知的刺激を受けた2時間であった。 おにぎり2個で腹ごしらえして一遍会8月例会(道後公民館)の準備である。 盆前で出席者の減少を危惧したが熱心なの出席者に救われた。 1)講話 講 師:田中弘道理事 テーマ:「河野通直の死、九百名の名簿の謎」 序説 「八幡の藪事件」「河野通直の生涯 七月説 四月説」の謎 二章 「小早川史料」、「河野遺臣史料」間の異同は、何故生じたか・・・試論 三章 「中国国分」「四国国分」と河野氏 四章 天正十三年以降の伊予 小早川隆景の伊予領有 五章 天正十五年七月二十四日付け 能島武吉、元吉宛の小早川書簡 考 六章 八幡の藪事件 試論 既に『東温史談』(第13号 2018年)に論文は発表されているが、改めて直接話を聴くと説得力があるが疑問も生じる。第一次史料の不足と史実と伝承の区分が不明瞭である。 河野通直の死が天正十五年七月説をしろ四月説にしろ、それぞれ諸説に基づいて「二つの物語」が成立している。 当「三好氏系図」は七月説で組み立てられており、河野通直死後、小早川隆景に五百石で召抱えられて居る。 2)卓話 講 師:杉野祥一理事 テーマ:「一遍の往生」(『一遍語録』を読む(24)) 引き続き理事会で、秋の理事懇談会(飲み会)打ち合わせ。 散会後、鳥取県から一遍会に参加された赤井厚生氏を宝厳寺に案内(小島、江刺)、大和屋ホテルで珈琲を飲みながら一遍関係基礎書籍を照会し18時過ぎ散会する。 「椿の湯」で疲れを取ったが22時就寝する。 8月10日(金) 朝6時に義安寺に向かう。温子が生前移植したシキミが背丈を越えるほど生育した。「道後 三好家之墓」と「仏壇」用に枝を切る。 帰宅後、温子の「七の七十五日」(没525日)に当たるので、いつもと同様にファミリーにメールを送る。 11時、メルパルクでランチ(和食)&スパ。帰宅途中で下痢が押さえ切れない。道後温泉駅のトイレで何とか処理する。 食後1時間後のトラブルとなると、犯人はメルパルクの穴子かな。「食あたり」しか考えられないが・・・・・ 13時半ぎりぎりに県民文化会館に駆けつけ文化講座「歌舞伎」を受講。今月のテーマは「名作案内『義経千本桜―道行初音旅」である。歌舞伎座や国立劇場でも観劇しているので神楽岡幼子・愛大教授の話はほぼ理解できた。 下痢のトラブルもあり、下着類を処分しズボンは洗濯する。大事に至らねばよいが・・・夕食を抜き、水分補給につとめる。 8月9日(木) 徳島の「三好長慶会」代表の出水康生氏、「伊予三好会」発起人の三好晶子さんにメールを送り旧交を深める。 一遍会8月例会後の島根から来訪される赤井厚生氏の2日間のアテンドを計画する。宿泊は「友輪荘」の由。日中、表庭の草引きなど。「プレバト」を見て「椿の湯」。『文芸春秋』H入手。芥川賞受賞作 高橋弘希著「送り火」が全文掲載である。今年のお盆の送り火までには読了したい。 【→出水氏】 暑中お見舞い申し上げます。例年にない猛暑ですが、ご清祥にてお過ごしでしょうか。久しくご無沙汰を重ねております。この度のご書状を懐かしく拝見いたしました。ご案内有難うございました。偶々三好晶子さんが帰省しており、電話ではありますが「伊予三好会」のこと、出水様のご消息など話し合いました。 当方は、特に大きな変化もなく、一遍会(事務局長)、松山子規会(副会長)、伊予史談会等で、引き続き郷土史の語らいの場を持っております。 出水様の「市民公開講演会」レジュメ冊子、NHK大河ドラマ署名ご依頼とあわせ、「三好長慶会20周年記念誌」寄稿ご依頼を拝読致しました。年末までに伊予三好氏の歴史的な「ものがたり」をとりまとめておきたいと考えております。阿波三好氏との「つながり」まで筆が進めば良いのですが・・・・・ ご指導方、よろしくお願い申し上げます。 立秋を過ぎたとは申せ、猛暑は続くかと存じます。呉々もご自愛のほどご祈念申し上げます。まずは、ご案内御礼と近況ご報告まで。 8月8日(水) 10時過ぎ自転車で「ダイキ城北店」に出掛け『一遍会報』第302号と「一遍会ニュース」合計160枚印刷。帰宅後、例会配布用に整理する。一件落着。 前園実知雄先生から7月度例会講話概要「奈良・宮瀧遺跡と吉野宮」がメールで届く。『一遍会報』第303号の巻頭論文である。割付を済ます。 午後4時から義安寺のお施餓鬼であるが、金曜日には予定通り墓参りするので、今回は体調を考えて欠席する。 「エデンの園」(赤松氏)から電話、盆中にファミリー全員で伺う旨返信、改装は完了した由。 「椿の湯」 8月7日(火) 一遍会10月例会講師に予定していた山田斌治氏が「体調不調」の為、急遽講師の差し替え、調整。各講師の理解と協力でスムースに決定できた。一件落着。 10月例会 講師:小沼大八氏 テーマ:鑑真と戒律の問題 11月例会 講師:青山淳平氏 テーマ:新田長次郎 「椿の湯」。 8月6日(月) 『一遍会報』第302号割付完了しテスト印刷。 @梅谷繁樹氏「『一遍聖絵』の十劫正覚について」 A圓増治之氏「保福寺峠の『一遍水』」 午後はぼけーっとして過ごす。ともかく暑くてたまらない。 夕、嬉しい便りが届く。徳島の「三好長慶会」の代表である出水康生氏から @「三好長慶をNHK大河ドラマに!!」の署名依頼 A「三好長慶20周年記念誌」執筆依頼 が届く。 出水康生氏ら各地の三好長慶会の幹部を招いて遠祖三好長門守ゆかりの「ホテル奥道後」(現「壱湯乃守」)で「伊予三好会」を10数年前に結成したのだが、目下鳴かず飛ばずの状態にある。 「記念誌」に@「伊予三好会」の経過A三好長門守の説明B温泉郡大庄屋三好家の四五〇年史を取りまとめて寄稿することにしたい。 「椿の湯」。 8月5日(日) 東日本が豪雨で大荒れであるが、松山は真夏日である。気温が35度Cを越えると,急にやる気が出て来なくなる。体とは正直なものだ。 TV「旅サンデイ『発見大江戸歴史旅』」を見る。磯田道史×高橋英樹の異色のコンビ。江戸城、上野公園(江戸期の寛永寺寺域)の「見学」は大いに参考になった。 第100回全国高校野球選手権大会のTV観戦。第2試合は済美高校(愛媛)対中央学院高校(西千葉)。5対4で済美高校が緒戦を飾る。おめでとう。 例会講師の山田斌治氏から手術の連絡を受ける。あらたに10月例会講師の人選に入る。 日中は『マンダラと生きる』(正木晃)精読。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 8月4日(土) 一遍会7月度収支決算確定。 10時、湯築城歴史塾出席(子規博)。 テーマは「四国国分の背景」講師は中平景介氏(松山西中等教育校)。40歳前後の気鋭の郷土史研究者である。道後中学校を卒業しているので、思春期当時の「記憶」が残っているようだ。 天正12〜15年の僅か数年の秀吉による四国統一という目まぐるしい時代の転換期を、政治史だけでなく、外交史、経済史などなど斬新な切り口で展開する。やや図式的な説明もあったが大いに興味を抱く。伊予国国司でもある河野氏も織豊時代には「大名格」ではなく最有力の「国衆」の位置づけであったことを明らかにする。 昼からは猛暑でありクーラーの部屋に閉じこもる。JCBからの贈り物「DEEBOTMINI](小型自動掃除機)をセットする。初回の充電は4時間である。寝室と応接室の清掃では重宝したい。 「椿の湯」。 8月3日(金) 気温が35度Cを越える「真夏日」となる。 温子の「七の七十四日」(没518日)に当たるので、いつもと同様にファミリーにメールを送る。 郵便局、伊予銀、ひめ銀道後支店を回る。一遍会の7月度収支を銀行口座確認する。 義安寺に着く頃には汗びっしょりになる。墓苑を掃除し、線香を供える。メルパルクでランチ(和食)+スパ。常連が8割を占める。 子規博で企画展「幕末維新と松山藩―時代の激流、人びとの決断―」を解説書を見ながら再度見学する。宿題は @明治20年11月完成の常盤会寄宿舎の場所(本郷真砂町18番地)確認 A松山藩十四代藩主松平定昭公の歴史的評価 B儒学者「三上是庵」 次いで湯築城資料館で鳥坂合戦450年記念巡回展を見る。「続日本100名城」として伊予国では@能島城A河後森城等がリストアップされている由。 ここで田中弘道氏とガイドの沖野マスミさんに出会う。二人は高校の同期であり、彼女は御幸中学からの後輩である由。先週の「歩音」で会った岩手出身の時宗檀家の女性同様「犬棒」であった。一遍会例会出席を誘う。 ランチがご馳走だったので、夕食はカレーライスで済ます。 8月2日(木) HP一遍会8月分は昨日完了と思い違い。今朝7月度日録を整理して「一遍徒然草紙」に再録する。 昼をはさんで、お盆にファミリーが帰省するのでリビングの大整理。数ヶ月ぶりにすっきりした感じである。 「プレバト」を見て「椿の湯」。「プライムニュース」で「ニュウプア論」が採り上げられ深刻な事態を改めて認識する。 【メモ ニュウプア<新貧乏>論】 @資本家258万人(4.1%)A新中間層1285万人(20.6%)B旧中間層806万人(12.9%)C労働者2192万人(36.1%)Dパート<女子>786万人(12.6%)Eアンダー<男子>929万人(14.9%) 8月1日(水) 道後公民館の最初の来訪者である。一遍会10月例会の申し込み。 9時半から「道後村夏祭り」の開始を告げる「湯釜薬師法要」が道後公園北口であり、一遍会を代表して列席する。 円満寺の尼住職の息子が亡くなりどうなるか心配していたが、副住職の尼がデビューする。息子さんの奥さんに当たるのだろうか、年配者である。宝厳寺、円満寺の住職が当分尼住職の体制で行くのだろうか。 事務局から「六時屋のタルト」手渡し、仏壇に供える。 子規博の「8月度子規さん俳句」は「うつくしき菓子贈られし須磨の秋」である。例の子規もどき句は「うつくしき和菓子が届く妻の盆」とした。 午後、洗濯の後、鑑賞エッセイを執筆、HP一遍会の8月分は完了する。やれやれ。 「椿の湯」。 【→俳友】 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年8月の句は「うつくしき 菓子贈られし 須磨の秋 子規」です。 季語は「秋」(秋)です。 『子規全集』第二巻 俳句二 「寒山落木 巻四」280頁(明治二十八年 秋)、第二十一巻 草稿 ノート 「病床漫吟」73頁(明治二十八年 秋)に掲載されています。 詞書に「須磨に在る頃都の人より菓子をおくりこしけるに」とある。尚、「病床漫吟」では「すまの秋」と表記されている。 まったく予備知識なく純粋にこの句を鑑賞すれば、「都の人」「うつくしき」「菓子贈られし」「須磨」「秋」となると、蘆花の「不如帰」ではないが、悲恋のうつくしき追憶のストーリーが描けるだろう。特に「うつくしき菓子」とは思い出の詰まった「(東)京銘菓」ということになろう。 閑話休題 子規の句に戻ろう。 明治二十八年、従軍記者として清国に派遣された子規は、帰国途中に船中で喀血し、神戸病院に緊急入院する。七月二十三日同病院を退院し、須磨保養院で約一ヶ月休養する。見舞品として東京から送られて来た菓子が「うつくしく見えた」ということだろう。 「うつくしい菓子」にこだわると、四国猿である自分が京の和菓子屋に立ち寄ると、四季折々の和菓子の意匠がこころに響き、口に入れるのがもったいないと感じることがままある。「うつくしき和菓子贈らる須磨の秋」となるのだが・・・・・ 子規さんにあやかって一句 「うつくしき 和菓子が届く 妻の盆 子規もどき」 道後関所番 |
7月31日(火) 猛暑で思考能力はゼロに近い。いやはや。 HP一遍会の8月度改訂分は、「子規博8月度子規さん俳句」を確認後エッセイを執筆して掲載する。 「道後 三好家の歴史」「小林小太郎論」を改めて検討する。『市史料集』に登場する湯山村庄屋「三好孫四郎」なる人物が正体不明で気になる。松山藩については下記資料の検討を進める。「https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000702275」 昨日で夏の甲子園の地方予選がすべて終了した。子規を想い一句を記す。 「ベースボール甲子園100回目の夏」 「椿の湯」。 7月30日(月) 「台風一過」なるも、爽快には程遠く「ジメジメ・アツアツ」の気候が続く。 梅谷繁樹、圓増治之両先生から寄稿論文の校閲が届き、『一遍会報』第402号の割付完了。8月例会での配布が可能となった。やれやれ。 先週末の子規博特別企画展「幕末維新と松山藩」内覧会で落ち合った佐伯健氏と山崎薫氏ともメール交換。 半ば諦めていた「老眼鏡」を一週間ぶりに書斎で「発見」、HP一遍会8月度改訂版作業に集中する。 「BS日本・こころの歌」を聞き、「椿の湯」。 【メモ】 「御降りや 外湯に通ふ 宿の傘 蘭香」 「蘭香」は「久保蘭香」、現「久保邸」に古ぼけた「久保昂」の表札がある。句集『光琳笹』 (久保蘭香 霜林発行所 (1973))県図書館所蔵 7月29日(日) 台風襲来ということで「蟄居」する。大したこともなかろうと思っていたが、13時頃、道後地区が「避難勧告」が出たという情報が流れる。 まさかとは思ったが、道後地区のうち「道後〇〇」(例えば道後北代(酒造にぎたつ・業務スーパー)や道後湯之町(温泉、旅館街)までであった。 避難場所の「湯築小学校」も「避難勧告」対象である。いやはや。 江戸期に道後庄屋の管轄であった昔の「道後村」(現在の道後町)は対象外である。 ということはその中心が庄屋屋敷(拙宅)であるから、拙宅まで水に浸かるということになれば道後は壊滅ということか。 400年以上も、石手川が決壊した時も大丈夫であったから、今回も問題あるまいと判断した。 TVニュースを毎時チェックする。避難勧告中の「道後温泉」に出掛けるのは如何かと思い「みよしの湯」で辛抱する。 NHK大河「西郷どん」を見て、HP「一遍会」の8月度作業を開始する。 7月28日(土) 明日は台風到来が確定的になった。土塀修理中なので左官が来て土塀にカバーをかける。ひとまず安心か。 午後、「愛大四国遍路・世界の巡礼研究センター第4回公開研究会」に出席する。 1)「弘法大師空海と満濃池修築」寺内浩(愛大教授) 2)「遍路をめぐる3つの肖像―近世後期の四国遍路からみた民衆世界」町田哲(鳴門教育大准教授) 寺内教授の報告は正統的な史料に基づく分析である。一つ不満であったのは、満濃池修築に当たった「テクノクラート」(土木技術者)の存在に触れられなかったことである。 町田哲准教授の研究分野は「宗教民俗学」になるのだろうか。実に興味深い(深すぎる)史実である。阿波は四国遍路の起点でもあり、他国にも同様の事例が多かったかは疑問である。 @北浜浦平野屋善蔵―墓をあばく「孝子」―『阿波孝子伝』より A銀次郎・岩松親子―往来手形と家族遍路― B池田下村忠兵衛―遍路と偽った家出人と村社会― 田中弘道、梅木賢正君はじめ同学の士が、炎暑の中愛大に集まった居る。それにしても「遍路学」はとらえにくい学問領域ではある。 夕食は時間をかけて台風時の「非常食」づくり。「おでん」「ご飯」は冷蔵庫、冷凍庫に格納する。牛乳は予備2本、明日の昼食用にセブンの「冷やし中華」を用意する。イザ来たれ 台風!いやはや。「椿の湯」。 【メモ】 『土木の歴史絵本@ 暮らしをまもり工事を行ったお坊さんたち」(瑞雲舎2004)では、空也の次に一遍を挙げている。通説では「あり得ない」記述である。(財)全国建設研修センター編集である。 7月27日(金) 早朝の洗濯。『一遍会報』第302号の割付ができたので、寄稿された梅谷繁樹、圓増治之両先生に高閲をお願いする。 「温子の七の七十三日」(没511日目)であり、 義安寺に墓参りして、メルパルクでランチ&スパ。 子規博第64回特別企画展「幕末維新と松山藩 ―時代の激流、人びとの決断― 」内覧会に出席(14:00〜15:30)。大原家の秘蔵史料の初公開で、必見の展示会と云えよう。 1)幕末動乱と松山藩 ―藩士大原観山が見た激動の時代― 2)「朝敵」松山藩と藩主定昭の決断 ―揺れ動く松山城― 3)幕末維新に向き合った松山藩の人びと― 4)新時代「明治」の幕開け ―逆境からの始まり― 5)子規たちを育てた旧松山藩の人びと ―明治の新しい息吹― 散会後、山崎薫氏と「喫茶歩音(アルネ)」で半年ぶりで懇談する。山崎氏は今春「常盤同郷会」の平松昇会長からバトンタッチされた由。数少ない波長の合う同学の士である。 隣の席に居た女性(旧姓角川さん)がなんと山形県出身の時宗の檀家と分かる。宝厳寺を訪ねるようにアドバイスする。奇縁と云えよう。 多忙な一日であったが、充実した一日でもあった。これも亡き妻との週一回のデイトのお蔭だろうか。 7月26日(木) 松山子規会事務局から子規忌献詠句の連絡あり。「南無阿弥陀佛即ち子規の生命なり」など如何。 午後(13:30〜16:00)「松山歴史文化研究会」初参加。場所は東石井の「四季万菜・北斗七星」である。 @近藤元規氏「ロシア将兵の慰霊記名碑復旧」 A佐伯健氏「加井尚孝と秋山好古、村上正義」 B和久正博氏「『松山における漱石』(英国ユニバーシティー・カレッジ・ロンドンのサマースクールでの松山東高女子学生の発表内容)」 C高橋南海子氏・戸嶋健二氏「大田理代の生涯」 D竹田美喜氏「『海南新聞』松風会員集計表について」 代表格の二神将氏は夫人の暑気熱看護で欠席。 出席者とは伊予史談会、松山子規会はじめ文化サークルで「顔なじみ」である。次回からは「道後の歴史と文化」について報告したいと考えている。 本日も猛暑なり。「椿の湯」サミットで、後藤さん、西山さんらと雑談、心身ともにリフレッシュする。 杉野祥一さんから娘さんと一緒にミュージカル「小公女セディ」を鑑賞した由、礼状(メール)届く。 7月25日(水) 『一遍会報』第402号の編集作業に半日を要した。。 梅谷繁樹先生の「『一遍聖絵』の十劫正覚について」と圓増治之先生の「保福寺峠の『一遍水』」である。2篇とも特別寄稿である。ありがたい。 割付すると2欄ほどスペースができたので事務局として『一遍水』に関する情報をウエッブから仕入れて補充した。 9月以降は講師の講話を中心に編集できる見通しである。 【メモ】 【事務局から】 圓増治之氏の「保福寺峠の『一遍水』」を一読して気持ちの昂ぶりを感じたが、四国松山から信州路は遠い。ウエッブの情報を取りまとめたので誌上でトレッキングをしてみたい。 JR上田駅から「千曲バス青木線」で青木BTまで約三〇分、「青木村コミュニティ・ふるさと号」約25分で「入奈良本バス停」到着。ここから「一遍水」まではトレッキングで約一時間。 (注)入奈良本バス停・・・地図右隅 一遍水・・・・・・・地図中央 神奈川県藤沢の時宗本山清浄光寺(遊行寺)に程近い「江の島」に一遍上人ゆかりの井戸が在る。 島の奥(南側)に「一遍上人成就水道」の石碑が建っている。一遍が片瀬で布教を行っていた際(『一遍聖絵』第六 二二章)、飲料水不足で苦しむ島民のために掘り当てたと言われている井戸である。 『一遍会報』第三九二号掲載の江刺精久理事「国宝『一遍聖絵』のびっくり・ポン」でも「一遍上人成就水道」に触れている。御地に「一遍の水(井戸・灌漑)」伝承があれば事務局にお知らせください。 7月24日(火) 朝食前に郵便局、「セブン」に立ち寄る。小学校の夏休みで、郵便局、「仁喜多津」前の広場でラジオ体操中。道後2丁目のラジオ体操は、宇佐八幡か「フジ」か、それとも・・・ 日中の気温は35℃、湿度は65% ―エアコンのリビングと書斎の移動の繰り返しである。夕方「フジ」へ買出し。「椿の湯」。 正木晃『マンダラと生きる』(NHK出版)通読。 7月23日(月) 猛烈に暑い。朝で30度Cを越す。洗濯から一日がスタートする。 昨日の「土佐赤岡絵金祭り」の様子を神戸のファミリーに知らせる、さっそく返事をもらう。 JCBクラス会員プレミアムは「薄型ロボット掃除機」を申し込む。ベッド、ソファー、机の下の掃除に役立てたい。 夕、「みよしの湯」で汗を流して「道後湯上りコンサート〜オペラに見る詩情と、俳句と、日本史と〜」(子規博ロビー)に出かける。 ピアノ演奏 黒田映李(昭和58年(1983)松山生まれ。松山東高校→桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科→ニュルンベルク音楽大学ソロピアノ科(2006年))、チェロ演奏 宮坂拡志(N響)。 真夏のクラシック!!! 良いものですね。観客は女性ばかりでした。いやはや。子規博 竹田美喜館長と宮坂拡志氏の歴史対談は噛み合わず。 帰宅後、カレーライスで夕食は済ます。 【メモ 竹田子規博館長の話】 子規が俳句で「音楽」を詠みこんだのは一句のみである。「俳句稿」明治三十年春(全集三巻33頁)「球燈高く音楽聞ゆ櫻哉」。日本でのガス灯は明治三年横浜が最初、銀座のガス灯は明治七年の由。 7月22日(日) 「土佐赤岡絵金祭り」に出かける。過去2回、夫婦旅で赤岡を訪ねたが昼の観光であった。温子が夜祭を見たいと云っていたのだが、やっと実現した。もっとも一人参加の、読売旅行企画のバスツアー「芝居絵「絵金祭り」と高知日曜市」である。 松山市駅(10:10発)から東温、小松、新居浜、川之江の客を拾って高知に向かう。13:00高知城駐車場につき2時間半のフリータイム。 昨年オープンした「高知城歴史博物館」に直行し、たっぷり90分土佐藩の歴史を学習する。特別展は@「志士の国・土佐〜年年譜書から見る土佐藩のしくみ〜」A「土佐藩歴代藩主展―戦国から明治 山内家の300年―」。 収穫は「長宗我部地検帳」の実物を目にしたことか。、土佐一国の総検地帳は天正十五(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。 現存することは奇跡に近い。 「ひろめ市場」に立ち寄ったが、日曜市はカットする。 桂浜着(16:00)、坂本龍馬像を仰ぎ、太平洋を眺望する。「かつお船」(食堂・特産品)に立ち寄り、赤岡着(18時過ぎ)。 目玉の「絵金蔵」「弁天座」は割愛して、この祭りで公開される23枚の芝居絵を見ることに集中する。本町商店街18枚、横町商店街5枚(他に絵馬提灯12点あり)である。 明るい内に本町通りにある「カトリック赤岡教会」を訪ねる。浦上のキリシタンが赤岡に流されて来たことを記念するために昭和七年(1932)聖ヨゼフ教会が建てられました。驚いたことに牧師ご夫婦がジュースを販売している。赤岡の町に溶け込んだカトリックに驚いた。 町は暗くなり、蝋燭の灯に絵金の芝居絵が浮かび上がる。店の娘さんか、浴衣姿で薄化粧して芝居絵の説明をしてくれる。戦前というか、幼き日のお祭りの夜景の記憶を思い出す。おどろおどろした芝居絵、薄暗い路地から幽霊が出てきそうな不安感・・・ 最後にビアガーデンで地元のプロの歌を聞きながら夕食弁当(商工会女性部売店)を食べる。20:40赤岡を後にして23時30分に市駅に着く。タクシーで帰宅、しばし休憩して零時半頃就寝。それほど疲れたとは思わないが、暑かった。 【辛口メモ】 地元の方の芝居絵の説明はありがたいが、眉唾ものの説明も多かった。地元の文化活動として、「絵金蔵」か「弁天座」で専門家による芝居のセミナーを開催しては如何かと思う。講師の一人として神楽岡幼子氏(愛媛大教授)を推薦しておきたい。 絵金蔵運営委員会編集の『絵金読本』購入、23枚の芝居絵を頭に入れて、来年は個人で再訪することにするか。 7月21日(土) 一遍会8月例会予告をマスコミ・ミニコミに流す。一日静養に充て、書斎で雑読する。 一遍会会員から嬉しいメールが届く。 1)圓増治之先生(愛大名誉教授 上田在住)から松本と上田の間の保福寺峠にある「一遍水」を紹介分が届く。 2)田中順治氏から「武士の日本史」の所見が届く。古代史の造詣の深さに驚く。 【⇒TJ氏】 暑中お見舞い申し上げます。『武士の日本史』に関するご所見、まことに有難うございました。大いに勉強させていただきました。 「新書」の制約と啓蒙書でもあり専門的には物足りなさがあろうかと思います。幸い「文献一覧」で専門書が列挙されており参考にしてもらいたいとする著者のメッセージかと思います。 鎌倉期の武士の「実像」についておまとめいただいて一遍会例会で発表していただけないでしょうか。一遍智真の武士(別府通尚)としての実像の一端でもイメージできれば有難いのですが・・・・・猛暑が続きます。ご自愛のほど祈念申し上げます。 7月20日(金) 「妻の七の七十二日」(没504日目)で、義安寺の墓参り。帰途、「メルパルク」でランチ&スパ。 1,000円のランチに三切れのうなぎ(丼)が付いている。係の女子に「サービスや良し」とメッセージを伝える。 午後、県文化振興財団の「歌舞伎講座」(ひめぎんホール)。講師は神楽岡幼子氏(愛媛大教授)、テーマは「【名作案内】菅原伝授手習鑑―寺子屋―」。「寺子屋」は何度となく見たが、ここまで詳細には理解していなかった。 (注)義太夫狂言の三大名作 @「仮名手本忠臣蔵」A「義経千本桜」B「菅原伝授手習鑑」 表の苔庭、水撒きで対応できず。川の水をモーターでくみ上げて庭に流す。 7月19日(木) 県図書館に『一遍会報』第401号を届ける。 松山子規会7月例会出席(愛媛新聞社7階会議室)。 1)卓話:「『その日の子規庵』 歌人・会津八一と正岡子規」講師:烏谷照雄会長 2)講話:「子規さんの心意気」 講師:忽那哲理事 @子規の文学活動について A子規さんの随筆より B子規さんの手紙より 「卓話」(烏谷照雄)からの新情報として @会津八一は新潟の旧家「市島家」の縁者であること A会津八一が19歳で「子規庵」を訪ねた時の印象と終生の「記憶」 B子規は「良寛」を知らなかった⇒ということは、良寛はローカル歌人であったヵ C烏谷氏の古都めぐりは八一の「南京新唱」の和歌に啓発された由。小生は和辻哲郎『古寺巡礼』だが・・・ 講話(忽那哲)はテーマの設定の失敗であろう。高校のマイナー授業の域を出ていない、テーマを絞って再登場してほしい。 帰途、平岡英相談役と情報交換。同氏依頼の「松山 子規事典」正誤表を7月末日提出については無茶である。新体制になると新常任理事は一斉に走りたがるが、受け手は一人である。業務の交通整理をすべきと思い,具申する。盆明けの作業になるので、なんとか8月末には提出したい。 「椿の湯」。 ゴキブリの駆除剤のおかげか、深夜のゴキブリのリビングでダンスはなくなった。万歳! いやはや。 7月18日(水) 午前中から30度を越す。暑い。エアコンを効かせてリビングなどの掃除、来客を招いても恥をかかなくて済みそうだ。正子さん、仏壇にお参り。伊予銀行、「定期預金」の書き替え。 ファミリーから淡路島の土産(鳴門金時芋かりんと、淡路牛瓶詰め、玉ねぎのポタージュ、島に育った俺のカレー)が届く。 浅利慶太氏の訃報。江藤淳氏同様に慶応大で仏文を学んだ。大久保基弘さんと一緒の筈だから2年先輩である。日吉でも三田でも出会うことはなかった。 東京大の大江健三郎、一橋大の石原慎太郎、慶応大の江藤淳は、作家として親しく付き合った時期もあった由だが、江藤と最後まで付き合ったのは石原である。 浅利敬太と劇団四季・・・上京(阪)時には彼の演出したミュージカルを観ることにするか 夕、「フジ」で食料品の調達とゴキブリの駆除剤購入。ゴキブリが一匹だけだが、深夜リビングでダンスをしているようだ。いやはや。 「椿の湯」。 7月17日(火) 昨日の「バースデーイブニング」は暑すぎたので外出せず、「BS日本 こころの歌」を視聴しながらの「ホームパーティー」(?)となった。 今朝は一番に郵便局から「一遍会定期便(7月度)」発送。 一日遅れの「誕生祝い」は、午前中義安寺に墓参りして温子に報告、「飛鳥乃湯泉」に入浴。11時前なので浴客は数人、東京の客人と露天風呂でおしゃべり。 次いで、商店街の「うなぎ」専門店で「道後ビール」で乾杯して「うなぎ定食(並)」で夏バテ一掃を狙う。「誕生祝い」の来年以降のモデルが出来たかな。いやはや。 ファミリーにもメールで「誕生日祝い」の報告をする。 30度を越す午後は、のんびりと書斎で過ごす。土塀改築の左官も16時過ぎに引き上げる。ともかく暑い一日であった。 7月16日(月) 83歳の誕生日を迎える。健康であることを感謝したい。いつもより少々時間をかけて仏壇で祖霊にお祈りし、温子への「呼びかけ」をする。温子の誕生日は8月7日で、80才を迎える筈だったのだが・・・ 『三好一族と阿波の城館』(日本の城郭シリーズF)を一読する。 「BS日本・こころの歌SPコンサート」を視聴して、「椿の湯」。 【→ファミリー】 朝から30度をCを越す猛暑!!! 誕生日どころではなくなりました。昼のホテルのランチも「飛鳥之湯泉」も中止して、夕方涼しくなったら動き出そうかと考えています。神戸も暑いことでしょう。 雄大は京都で受験勉強、亜実は吹奏楽コンクールの猛練習・・・若いって良いですね。頑張ってほしいものです。大人は夜のビールが楽しみでしょうか。 史晃が今冬シンガポールで「語学研修」するので「戸籍謄本」の依頼がありました。雄大のケンブリッジ遊学を思い出しました。とてつもなく暑い一日になりそうです。 7月15日(日) 一遍会IT会員宛の「定期便」(6・7月分)の取りまとめ、封筒入れ、発送準備まで完了する。発送は三連休明けの17日(火)の予定だが、一件落着する。 圓増治之先生(6月度講師)には、論文掲載の『一遍会報』(第401号)20部送付する。 『子規会誌』10月号掲載の論文「生死の執着と安心〜一遍と子規と〜」を同編集部に送付しており、当面の「宿題」は済ませた。 7月下旬の小旅行と8月のお盆行事の準備に入ることにしたい。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。 7月14日(土) 猛暑である。 午後、一遍会7月度例会(出席19名) 卓話:杉野祥一理事「『一遍語録』を読む(23)」 講話:前園実知雄氏(奈良芸術短大教授)「奈良・宮瀧遺跡と吉野宮」 引き続き理事会開催。 ひと仕事完了し、夕食後ダウン。 「椿の湯」でリフレッシュする。やれやれ。 7月13日(金) 午前中、ダイキで一遍会7月例会配布資料印刷(700頁)。(「一遍会報」200頁、「一遍会ニュース」60頁。「講師レジュメ」420頁。「理事会資料」20頁) 午後、東京第一ホテルで子規会「相談役との会議」(井手・今村・平岡・烏谷・三好・渡部・嶌川7氏)に出席。 来年度東雲女子大特別講座に講師として2コマ担当する予定。大学の講義は松山大学に続いてだが、個人的には記念になるだろう。 「椿の湯」。 【→ファミリー】 今日7月13日(金)は「母さんの七の七十一日」(没497日目)です。 「西日本豪雨災害」は大きな爪あとを残しました。四国の鉄道網はずたずたで、宇和(西予市)から宇和島までのJRは当分の間「不通」です。 幸い松山・道後の旧市街の被害は殆どありませんでした。安心してください。 「吉備真備」が生まれた倉敷市真備町の被害は想定以上ですね。一昨年、母さんと吉備の神社を歩き国民宿舎「吉備荘」に宿泊しまし。 「古代」が残っている雰囲気があるので父のお気に入りのスポットでもあります。JR岡山から「桃太郎線」で気ままに乗り降りして、終着は倉敷・岡山です。ことしも出掛けましたよ。 今週は快晴が続き、気温も30度C、蝉の声はうるさくなりました。日中はクーラーの部屋で過ごすことが多くなりました。 7月16日は満83歳の誕生日、84歳のスタートです。誕生日には「飛鳥之湯泉」に入湯して「道後ビール」を飲むことにしました。 足の衰えから「一人歩き」(一人旅)は85歳までかなと感じています。残り1年しかないんですね、いやはや。 夏休みに入りますね。当方は、マイペースのカルチュアライフです。 7月12日(木) 梅雨明けを待っていたかのように、朝から蝉の声が庭一杯に広がる。蒸し暑い一日になりそうだ。 一遍会7月度例会配布資料の最終点検。『子規会誌』寄稿の「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」最終原稿とりまとめ。孫の誕生祝いを送る。 「プレバト」を見て「椿の湯」。 【→孫娘】 お誕生日おめでとう。お元気ですか。中学校の生活も慣れてきましたか。お友達もたくさん出来ましたか。一駅ですが、電車通学は楽しいですか。 おじいちゃんは、中学校・高校時代に「電車通学」がしたかったです。食糧事情も悪かったので、中学・高校ともに昼食は家に戻って食べていたのですよ。50分間で、往復して昼食を食べて、忙しかったです。中学は給食ですか、お母さんがつくってくれる弁当ですか。 お誕生日の贈り物は「図書カード」にしました。読みたい本がたくさんあるでしょうから、大いに活用してください。読書は四番目の食事です。朝・昼・夕食と「読書」で、健康な心身を養ってください。 お盆には松山に帰りますか。「蜂の巣の研究」は卒業して、ことしのテーマは何かな。 7月11日(水) 昨夜は25度でエアコンをセットして眠る。朝5時起床、「快眠」である。 一遍会7月例会業務に集中する。テスト印刷終了。 1)『一遍会報』第401号 2)理事会打ち合わせ資料(@役員業務分担A平成30年度会員名簿 B下期例会講師&テーマ C第T・四半期収支内訳) 午後、気温は30度を越える。クーラーの書斎で『文芸春秋』Gを一気に読む。 「椿の湯」。 7月10日(火) 早朝4時から『一遍会報』第401号の最終校正と「7月度一遍会ニュース」の編集作業。土塀の改修工事、職人は3人ヵ。猛暑の中大変な作業になった。運動を兼ね、伊予銀行に定期預金継続手続きに出かける。暑い、朝から30度を越している。 午後、「7月度友隣サミット」。「平成30年7月西日本豪雨災害」が話題の中心となる。渡部「校長」の道後温泉朝湯が毎朝から隔日になった由、彼の体調の衰えが気になる。当方は毎晩「椿の湯」だが・・・・・ 『文芸春秋』G届く。小泉進次郎『国会改革宣言』、大特集「定年後」最強のマネー術 等興味あるテーマ多し。 【メモ】一遍会への参考本紹介『一遍と時衆の謎 時宗史を読み解く』(桜井哲夫 平凡社新書 748 840円+税) 著者「桜井哲夫」は、東京経済大学コミューニケーション学部名誉教授で社会思想史専攻。学者であるが足利市の時宗「真教寺」(二祖真教上人創設)の僧侶でもある。 第1部 遊行・一遍上人と時衆 いかなる人々なのか 第2部 『一遍聖絵』の世界 遊行・一遍上人の生涯 から成る。 本書は一遍と時宗についての概説書というよりも、問題提起の書であり、多くの興味ある事実を掘り起こし、その掘り下げと評価を期待する書物である。 たとえば、楠木正成の立てこもる千早城を攻めた幕府軍には二百余人に及ぶ時衆がつきしたがっており、戦死した新田義貞の遺骸を輿にのせて舁いだのも時衆八人であったとする史実に驚く。 6月にご紹介した『武士の日本史』(高橋昌明 岩波新書1718 880円+税)同様に、常識とは違う「謎」の解明を通して、会員が日頃感じていた疑問のいくつかが納得されることを願っています。 【辛口メモ →ファミリー】 大きな爪あとを残しましたね。愛媛県の西予市野村町、岡山県の真備町の大事故は、新聞ではあんまり触れない「人災」と父は考えています。 1)西予市野村町は、7日早朝に「野村ダム」が満杯になったので一斉に放水開始、町民は寝ており「防災無線」での周知徹底できず。6日夜には素人でも満杯は予想できた筈、、取り返しのつかない「ポカ」と思います。 2)岡山県真備町の高梁川の東は天領の倉敷、西の真備は岡田藩一万石(伊東氏)。堤防の高さは天領の方が高く、江戸時代から河川の氾濫では岡田藩の田圃が「遊水地」であった筈。松山では重信川と石手川の合流地点は「出合」と呼び、「非居住地区」(現在は盛り土して総合運動公園)になっています。 3)蛇足ですが「オウム」事件の死亡者の過半は「聖路加病院」で、「慶応病院」での死亡はゼロでした。理由は明白です。聖路加の医者は毒薬「サリン」を知らなかった、慶応は毒薬「サリン」の解毒を知って処置しただけです。医者仲間では「公然の秘密」です。聖路加の医者が毒薬「サリン」を知っていたら、これほどの大事件にはならなかった筈ですが・・・ 新聞は「情報」です。「真実」は別のところにあるのでしょう。吉備には一昨年(母さんと一緒)と今年、立ち寄りました。桃太郎伝説、吉備真備伝承、吉備津伝承など古代史が豊かですよ。 7月9日(月) 豪雨がおさまったので「キイチ」に発注していた土塀の改修工事が始まる。父の代ではパスしたので100数10年ぶりの大工事になろう。裏庭にダンプカーを入れて10人位の職人が工事を担当する。 長屋門も100数10年ぶりの改修を済ませたので、ご先祖からも褒めてもらえるかと思う。 大施餓鬼法要を前に龍穏寺、義安寺に寺費等を持参。龍穏寺は2万円、墓寺である義安寺は3万円である。義安寺は新住職になり「経営」も安定したので、10万円程カットした。 神社も寺院も「村落共同体」が費用を負担すべきと思うが、昨今の神社・寺院軽視の「都市コミュニティ」の合理主義に対しては分が悪い。 朝一番に洗濯し、雨戸・ガラス戸を開放し、新鮮な空気を入れる。春用の背広やズボン、ワイシャツをクリーニングに出す。(誕生月半額サービス。午後、気温が34℃に上がったので、無理をせずインターネットで遊ぶ。夕、紫陽花の剪定作業で汗を流す。「椿の湯」でのんびりする。 7月8日(日) 今回の豪雨での県下の被害は甚大で、まだ進行中である。特に、瀬戸内の島々と南予(愛南町)である。 伊予史談会7月例会出席。 1)萬井良大氏(日本常民文化研究所)「由並城はどこか?」 2)山内英樹氏(県教委文化財課)「伊予の古墳時代後期埴輪とその展開」 両講義とも楽しい興味ある話であった。 「由並(城)」は中予に3ヶ所あり、場所を特定できない。推理小説的な記述で、歴史上の戦闘の後を追う展開である。 @湯並(由並):由並本尊城(ほぞん) 喜多郡(浮穴郡) A麻生城、由並城:砥部 八倉山城 堰山城(城山) B湯並(城):西条小松 大熊城 獅子ヶ鼻城 「埴輪」については、埴輪の発掘を通しての郷土史の新発見もあり・・・だが、ここまでは郷土史の手を伸ばしてはいないのでやがて記憶からも消えることだろう。 龍穏寺、義安寺、子規博、道後村まつり実行委員会等から大施餓鬼、夏祭りの依頼状届き手続き事務。 夕、雨がおさまる。やれやれ。NHK大河「西郷どん」を見て、一週間ぶりに「椿の湯」。 7月7日(土) 終日雨である。全国的な豪雨で被害も甚大である。 午前中は「湯築城歴史塾」出席。 講 師:大上幹広氏(今治市村上水軍博物館学芸員) テーマ:村上海賊と天下統一〜海賊衆能島村上氏の変質 はじめに @四国国分・九州国分と能島村上氏 A「海賊禁止令」と「能島村上氏」 B「海賊禁止令」後の能島村上氏 ―毛利氏家臣団へ― おわりに 先学研究を尊重しての発表であり、論理的にはよく理解できた。が、歴史はテキスト通りには展開しないものだ。 平成28年度「湯築城歴史塾」も顔馴染み多し。 義安寺に墓参り、メルパルクでランチ&スパ。帰途「フジ」で食料品を買い15時やっと帰宅する。メルパルクでは梅木君と情報交換。疲れは完全に取れた。 松山での豪雨はおさまったが、阪神地区に移動か・・・神戸のファミリーにメールする。 7月6日(金) 終日、豪雨である。4日間の旅行中も降り続いたが、息子の帰省時に雨樋に溜まった木の葉の片付けを済ませたので順調に流れている。日曜まで雨が続くか。 午前中は旅行の片付けと旅エッセイの整理。神戸のファミリーにメールする。午後は留守中のメールの返信と一遍会7月例会準備を各理事に依頼・連絡に追われる。 一年ぶりに「みよし温泉」を沸かす。我が家の風呂も又よきかな。 7月5日(木) 旅行の最終日、天気予報は雨。朝曇天の下、石和「ホテル石庭」を出発。 ホテル近くの「宝石庭園・信玄の里」に立ち寄る。女性は宝石を買い込んでいる。群集心理とでもいうのだろうか。 この後、雨と風の中で、2時間かけて富士山吉田口五合目に向かう。駐車場にはインバウンドのバスが並んでいる。風速30メートルであり、杖を突いて休憩所に行くわけにも行かずバスの中に残る。 急いで下山する。一合目で「風雨の為ハイウエイ通行禁止」の看板を見る。芦ノ湖湖畔のレストラン「旅物語」で「野菜カレー」を注文。自由時間に「箱根関所」を見学する。結局、富士に来て富士を見ることはなかった。いやはや。 小田原の「鈴廣」の「名物かまぼこ」を試食、同社の博物館で「かまぼこ板画」を眺める。羽田空港で現地解散、松山行き最終便まで3時間余あり、大型のビジネスラウンジで休憩。羽田を19:40発、松山に21:15着(10分遅れ)、リムジンで道後駅に戻り22時過ぎ帰宅、神戸のファミリーに安着のメール。23時就寝。 【バス走行距離約240km】 7月4日(水) 8時10分にホテルを出発、「安曇野スイス村」に立ち寄り、一路上高地に向かう。雨と風との競争である。上高地に近づくにつれて風雨がひどくなる。大正池、帝国ホテルを通過して河童橋近くの駐車場で下車。3時間の休憩である。傘を差して「明神池」に向かうが足元が悪く断念、「ウエストン記念碑&公園」まで川に沿って往復する。温子とは「帝国ホテル」と「白樺荘」の宿泊して大正池から徳沢園、穂高への登山口「横尾山荘」までトレッキングしているので思い出が甦ってくる。お互い健脚であったなあ。 今日は、穂高はおろか近くの「焼岳」すら見えない。 石和温泉「石庭」に向かう。 20年近く前、温子と宿泊した当時はまずまずのホテルであったが「今は昔のホテル」である。建て替えが必要だろう。露天風呂が屋上にぽつんと在る。温泉の名前が泣く。庭園の緑と池の鯉だけは素晴らしい。 【バス走行距離約230km】 7月3日(火) 草津温泉「草津温泉ホテルリゾート」を8:00出発、国道最高地点「渋峠展望台」で南アルプス遠望、次いで松川渓谷の「雷滝」見学。滝の裏見である。昼「善光寺」参拝、昼食は宿坊(吉祥院)。食後、「大勧進」「ぬれ仏六地蔵」「山門」「本堂」「経堂」「歴代回向柱納所」を回る。 戸隠神社は初めての参拝である。奥社の松並木の参道は一見の価値あり、片道40分要す。 宿泊は白馬栂池小谷地区の「白馬ハイランドホテル」。浴場からの白馬を眺める。大悦楽である。バイキングも美味、満足、満足。もう一度訪ねることにしたい。展望はAランク。 【バス走行距離約178km】 7月2日(月) 8:30分松山空港に着く。「ビジネスラウンジ」で休憩、9:35発で羽田に11:00到着。添乗員の芦澤さんに会う。 お決まりのコースで「旧軽井沢銀座通り」散策一時間。温子と10回は散策した旧軽井沢であるが、今回は「軽井沢パウロカトリック教会」で30分ほど宗教的な雰囲気に浸った。先のフランシスコ会神父「カルロス・マルティネズ」が去年7月天に召されている。「教会通り」は数年前に一新してまるでショッピングセンターである。 初日の宿は「草津温泉ホテルリゾート」、外国人宿泊者を見かけない。草津の小高い丘に建っており、庭園露天風呂で寛げる。まずまずのホテルか。街中までは徒歩10分である。 【バス走行距離約234km】 7月1日(日) 天候は回復し、気温も30度を越す。梅雨晴れも間近かか。 県立図書館で『三好一族と阿波の城館』(石井伸夫・重見高博編 戎光祥出版2018)貸し出し。 子規博で7月度子規さん俳句「おかこひに泳ぎの人のつどひけり 子規」を確認、午後鑑賞エッセイを執筆。HP「一遍会」7月改訂分を一括して勝岡昭氏に連絡する。 「椿の湯」。 【⇒俳友】 平成30年7月 「おかこひに 泳ぎの人の つどひけり 子規」 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年7月の句は「おかこひに泳ぎの人のつどひけり 子規」です。 季語は「泳ぎ」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」40頁(明治三十年 夏)に掲載されています。詞書に「松山」とある。 松山人と云っても戦後生まれには分からないだろう。と云うことは、戦後73年だから、70歳以下の人は分からないということになろう。 「おかこひ」とは「お囲い池(御囲い池)」のことで、松山藩の水練場で「松山神伝流」を学ぶ場であった。子規の祖父に当たる六代恒武は神伝流師範伊東祐根に入門、水練上達により御徒歩に取り立てられ藩士となり江戸在番(後年大小姓格)となった。お囲い池あっての正岡家であった。(注)二神将「松山神伝流と正岡家」(『子規博だより』110号) 司馬遼太郎の『坂の上の雲』では、維新後、秋山真之の父は「お囲い池」の監視員をやっていたらしい。江戸時代は、上士の師弟は「お囲い池」では水練をしなかったという。 「お囲い池」は現在「青少年センター」(松山死築山町)になっているが、城下に育った友人たちは、ここで水泳をマスターしたようだ。道後育ちは、岩堰に遠征したり山田池(祝谷)で泳いだ。 個人的な思いでは、息子ファミリーが帰省した折は、家族揃って「青少年センター」で卓球をしたものだ。 明治30年当時は既に子規は根岸の子規庵で病臥の体になっていたが、漱石は松山中学教師時代(明治28年)に「お囲い池」で泳いでいる。 ところで、この句の鑑賞であるが、プール(お囲い池)に水泳をやりに人が集まっているということだけで、まったく詩情が感じられない。小学校低学年の俳句としても撰には入らないのではあるまいか。仲間だけしか通じない「おかこひ」では俳句の未来はあるまい。 子規さんにあやかって一句 「湯月城跡に 月見の人の つどひけり 子規もどき」 夏井いつき宗匠の「プレバト」で凡人の最後にランクされるかな。いやはや。 道後関所番 |
6月30日(土) 雨が断続的に降る。時には強雨となる。気温は27℃位か。日中もエアコン使わず。 昼、義安寺に墓参り、メルパリクでランチ(和食)&スパ。帰途、子規博に立ち寄る。竹田美喜館長と立ち話。 高橋昌明『武士の日本史』(岩波新書)通読。常識としての「武士像」は見事に潰れたが、疑問に思っていた「武士像」は新しい視点を得た。一遍の生きた鎌倉時代の武士像について改めて考えていきたい。 寝床に入ってから故犬伏武彦氏から生前ご送付いただいた草稿「松ヶ枝町ほっちょ坂」のことを思い出す。『一遍会報』8月号に掲載したいと思い、約2時間マイパソコンで検索をするも「発見できず」。 6月29日(金) 昨夜のサッカー予選(第三戦)を観戦つもりもあったが、22時過ぎに就寝。午前2時に目が覚め、ラジオで決勝リーグ進出を知り、「トイレ」に行き安心して寝る。「負けて勝つ」という日本の、西野監督の「作戦」にブーイングが起こったが、結果オーライで優勝戦に参加となる。 温子の「七の六十九日」(没483日目)になるのだが、昼時に豪雨になったので義安寺に墓参りは明日に順延。 午後はノンビリと月初の信州旅行の「予習」と雑読。 「椿の湯」。 6月28日(木) 10時から伊予銀行の定時株主総会。伊予鉄道に続いて「ものいう株主」の発言があった。かなり的確な経営批判であったし耳を傾けるべきであろう。 1)四国の8銀行が将来的には単独では生きては行けない。高知県人口は80万人で、2銀行は早晩立ち行かなくなる。 伊予銀行はラースト銀行ではあろうが、「伊予銀行ファースト」でなく四国全体での銀行の在り方を考えるべきだ。 2)「いよぎん証券」が「四国アライアンス証券」に名称を変えたが、四国の他銀行の協力支援なく伊予銀行単独証券会社だ。説明が不十分だ。 3)阿波銀行に比較して経営効率がイマイチである。経営者として真剣に取り組むべし。 4)「ひめぎん」が北朝鮮送金の「非合法的」業務を行った。新宿支店の資金融資も臭い。 市内電車でN先輩に会う。伊予鉄清水社長の悪評を聞く。 1)家族を東京に残して「単身赴任」で母親と同居中。地元に生きるという実感に乏しい。腰掛的要素も垣間見える。 2)伊予鉄の大株主が身元引受人? 会長以下関係者が批判できない。 3)大企業病的発想。聞こえは良いが、弱者切捨て的なマネジメントで増収増益を図っている とか。 どこまで本当かはわからないが、地元経済界では必ずしも好感をもって迎えられてはいないらしい。 午後、県文化振興財団文化講座「愛媛学」(青木亮人 愛大教育学部准教授)受講。講師と名刺交換。12月に松山子規会での講演を改めて依頼する。 帰宅後のんびりとインターネットを楽しむ。「プレバト」をみて「椿の湯」。 6月27日(水) HP一遍会の7月度更改作業。「一遍会例会記録」は第557回まで、『一遍会報』は401号まで掲載した。はるばるやってきたものである。ご高覧ください。 JAバンクからのお中元は「島原素麺」。重宝したい。今年前半最後の「おでん」を煮込む。冷蔵庫で冷たくしていただくことにする。「夏おでん」である。 網戸サッシを入れ替える。7月を前に、本格的に夏の準備に入る。「椿の湯」。 【メモ】 「湯山村公用書」 庄屋三好孫四郎(『松山市資料集』第八巻)?⇒三好孫四郎の調査 <『子規博だより』141号7頁> 6月26日(火) 10時から伊予鉄道グループの定時株主総会。増収増益の好決算で喜ばしいが、総会の運営で少々不手際が生じた。東大卒で官僚から伊予鉄社長になった清水一郎社長(1967年生まれ)の品性(臭み)が無意識に行動に現れたようだ。 「天命」の年齢でもあり、且つ又地元の有力企業のトップだけに、株主に品性を疑うといわれないように、自重して行動してもらいたいものだ。 高島屋の「ショッピングパスポート」を株主総会でもらったので、大観覧車(くるりん)で「空中散歩」を楽しみ、さぬきうどんの「郷屋敷」で「上天麩羅ざるうどん」を注文する。大街道まで繁華街を歩く。 午後、気温は30.5度にアップ、ダウンして昼寝。「フジ」で買い物、リビングにクーラーをいれて、やっと体調が戻る。 「椿の湯」。 6月25日(月) 昨晩というか今暁のサッカー・ワールドカップ第2戦セネガル戦をラジオで聞いていたのだが(断片的な記憶しかない)、2対2の引き分けで眠りについたらしい。一日中、生気を感じない。 郵便局、銀行で事務処理に出かけたが、あとはぐーたらの生活となる。気温も30.3度(本年度最高温度)あり、やる気が起こらない。困ったものだ。 『松山 子規事典』から江戸・東京の地名について78項目を取りまとめる。 久しぶりに2時間ドラマを見る。室生犀星原作の「あにいもうと」。山田洋次脚本、兄は大泉洋、妹は宮崎あおい、プロデューサー石井ふく子となると水準以上のドラマに仕上がっていた。。 【メモ】 @芋坂団子A伊予松山藩 藩邸B鶯横丁C追分町三十番地D子規庵E子規の墓F常盤会寄宿舎G日本橋浜町学生寮H久松小学校I東京松山比較表<68項目>J松山藩の江戸屋敷 6月24日(日) 一遍会例会講演(平成31年3月)予定の「時宗 宗祖一遍と開祖真教 『時衆』から『時宗』へ 〜『二祖他阿真教上人七百回御遠忌』に寄せて〜 」の作業開始する。 記念講演でもあり、話があれば、出張講演もこなしていきたい。『捨て聖と宝厳寺』の最終章になるかな。 昼、義安寺の墓参り、次いでメルパルクでランチ(和食)&スパ。帰宅後、川掃除。 西宮紘『釈伝 空海』(上・下)読書。NHK大河「西郷どん」。 6月23日(土) 終日雨。 半年分の来発状、書類等の整理。前半6ヶ月は、大したポカもなく、あまり迷惑を掛けることもなく過ごすことが出来たと思う。 来年度の子規会講演テーマに「『松山 子規事典』の江戸・東京」を予定していたが、東京在住の会員にが共同作業で取りまとめた方がよかろうと思う。役員会に図ってみたい。 「椿の湯」。 6月22日(金) 中学同期会幹事会に出席(伊予鉄会館 12:00〜13:30)。ランチを食べながら本年度同期会の総括と来年の同期会の検討。次回も6月開催で30名を目標にする。(八塚豪、山本敬喜、近藤元規、森保子、崎山幸子氏)。 阪急交通社で信州(上高地ほか)ツアーをセット。一人参加で30%アップだが致し方なし。 ここ数日の蒸し暑さに体が適応できず、読書が少しも進まない。三度の食事の準備がやっとというところか。「椿の湯」。 【メモ】 愛媛新聞(6月21日付)に砥部の坪内家の家屋、川登水車の撤去と有形文化財登録抹消の記事。 坪内家(登録文化財)、豊島家(国重要文化財)と三好家(文化財未申請)は「江戸期庄屋縁組」で親戚関係にあり、祖父母の代(明治・大正期)までは親戚付き合いをしていた由。坪内家の当主が10年前に亡くなってから管理を県と砥部町に委任したが、トラブルが生じ、取り壊した由です。 一度だけ砥部川登の坪内家に訪ね、ご夫人にも挨拶し、仏壇と墓を拝んできたのがせめてもの救いである。交通の便は悪く、バスは一日2〜3便だったか。 宝厳寺下の松ヶ枝町の「遊郭」も「負の遺産」として撤去されたが、江戸から明治期に砥部陶器の噴石を砕いてきた水車(地場産業史料)が喪失したのは至極残念である。坪内家の負担分を行政が負担し、然るべく「川登 坪内家」を長く顕彰しておればトラブルは生じなかった筈である。新聞報道では「無償借り受け」であった。 6月21日(木) 松山子規会6月例会の平岡英氏「子規と俳句作法」、松浦巻夫「『ほとゝぎす』松山から東京へ」のレジュメで内容点検と復習。 読売バスツアー「吉備津神社」エッセイ。紫陽花は裏山の中腹にあるので、足の弱い「退役軍人」には少々しんどいコースになった。 一遍会7月例会予告をマスコミ・ミニコミに流す。公民館申し込みは蜂須賀理事に依頼する。『一遍会報』第400号は7月第2週印刷を予定。一件落着。 午後、気温28度に上がりぐったりする。 「プレバト」見て「椿の湯」。 6月20日(水) 読売旅行企画「吉備津神社のあじさい」ツアーに参加する。2年前(平成28年)の春、温子とともに吉備路を旅して以来である。今回も追憶旅となった。 2年前のことである。 3月25日、温子の神戸時代の親友(前嶋さん)との交流に付き合って上阪、当方は布施の「司馬遼太郎記念館」で過ごす。夜は「ザ・リッツ・カールトン大阪」内の「中国料理 香織」で妻の慰労。翌24日は、京都の桂、松尾、嵐山を散策、嵯峨野の隠れ家に泊まる。 27日、岡山に午前中に着き、岡山からは「桃太郎線」で「吉備津駅」<吉備津神社>、「足守駅」<木下・足守藩城下町散策>、「東総社駅」<総社宮>を経て16時頃、総社着。送迎車で国民宿舎「サンロード吉備路」泊。夕暮れに備中国分寺<五重塔>まで散策。 翌28日は10数年ぶりに岡山城と後楽園で遊ぶ。その一年後の妻は旅立った。 今回は,途中で「備前焼き窯元」と「西の屋菊ヶ峠店」(昼食)に立ち寄ったが、ここも再訪である。「さくらんぼ」のお土産が付いており、帰宅後K正子さんにお裾分けする。 ツアーに参加した時、温子はいつも「家から離れると食事と庭仕事から解放される」と口にしていたが「主夫」として同感である。いやはや。 6月19日(火) 松山子規会6月例会参加(子規堂)。 1)卓話:平岡英氏「子規と俳句作法」 2)講話:松浦巻夫「『ほとゝぎす』松山から東京へ ほとゝぎすは余の命なり―子規」 平岡氏の卓話の俳諧(俳句)の旧派、新派(日本派ほか)の分析は秀逸。特に「俳諧発句小鑑(抄)」の紹介は初見。ショックを受ける。 松浦氏の講話は子規、虚子、極堂の俳誌『ほとゝぎす』をめぐっての書簡、著書からの構成だが『子規会誌』に類似論考がなかったか。あわせて碧梧桐の同俳誌への所見を付してほしかった。 県図書館で二神将氏論文「松山神伝流と正岡家〜正岡家の曽祖父常武と父常尚」(「子規博だより」110)と平成4年度子規博特別企画展「子規の系属」図録を閲読、コピーする。 同期の赤崎さんに1年ぶり(?)に出会う。 6月18日(月) 7時58分高槻市を震源とする地震発生。マグニチュード6弱で神戸市内はマグニチュード5の揺れ。ファミリーに電話確認、大丈夫の由。余震に注意するように伝える。 引き続き、『子規会誌』掲載論文「生死の執着と安心〜一遍と子規と〜」の推敲と参考著書を挙げる。ひとまず脱稿、やれやれ。 一遍会9月度講師 武智利博氏から講話テーマ「『浮鯛抄』を読む 」が届く。瀬戸内の漁師には大切にしてきた冊子らしいがはじめて聞く書名である。 地震被害の報道を聞きつつ20数年前の阪神淡路大震災を思い出す。あの時は被害者であり罹災者だったが・・・ 神戸のファミリーに連絡、大したことはなかったようだ。 23年前は「阪神電車」の復旧に半年要しましたが、今回は「阪神電車」は走っていた。そう云えば、神戸の大震災の時、京都・大阪はまったく異常がなかった。地震帯が違うのだろう。 夕、座敷庭の草引き。「椿の湯」。 6月17日(日) 昨日に引き続き、『子規会誌』掲載論文「生死の執着と安心〜一遍と子規と〜」の子規の章を取りまとめる。越智通敏氏の論文には及びもつかないが、自分なりの見解を加えることが出来たと思う。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。孫娘から修学旅行土産で「西郷隆盛ボールペン」が届く。「父の日」のプレゼントの様だ。 6月16日(土) 終日、『子規会誌』掲載論文「生死の執着と安心〜一遍と子規と〜」の一遍の章を取りまとめる。 「椿の湯」。 6月15日(金) 温子の「七の六十七日」(没469日目)に当たるので、義安寺に墓参りして、メルパルクでランチ(和食)+スパ。15時前に帰宅し昼寝。神戸のファミリーに週一回の定期便をメールする。 昨日の「友隣サミット」内での宿題を井上、梅木両君とのメール交換。ファミリーに「父の日」プレゼントの礼状を差し出す。 夕、涼しくなってから表庭の草引き。 一遍会正月例会(懇親)会場を「友輪荘」にして、杉野理事に予約を依頼する。予算は男子5,000円−α、女子4,000円の見込み。 なんとなく疲れて、21時に就寝す。 【⇒神戸】 梅雨に入りましたが、雨だったり、晴天だったり、めまぐるしく天候が変わる昨今です。お変わりありませんか。孫たちも元気な由、安心しています。 庭の紫陽花は満開で目を楽しませてくれますが、畑のほうは草ぼうぼうで見るたびにうんざりしています。義安寺の墓苑は息子たちのお蔭ですっきりしており、お寺さんの方からも喜んでもらっています。 母さんが亡くなったのが金曜日でしたので、以後ずっと金曜に墓参りしています。今日は金曜日―これから義安寺に出かけます。 「父の日」の贈り物受け取りました。文化サークルに毎週出かけることが多いので大助かりです。重宝させてもらいます。有難うございました。 文面にあった「本山中学七四回生のシンボルマークのデザイン」ですが、弘華の制作の由、ぜひマークを見たいと弘華に伝えてください。弘華の何気ないスケッチも常々うまいなと思っていました。因みに、父は御幸中学の第三回生に当たります。 史晃の「焼きそば」は道後で食べさせてほしいものです。 暑くなります。呉々もご自愛ください。まずは御礼まで。 6月14日(木) 県図書館で復本一郎氏(神奈川大学名誉教授)の随筆「松ヶ枝町のこと」(「愛媛新聞」第一面「道標」H30.6.10)記載の内容に付き確認する。貸し出しは下記3冊。 @阿部康郎<名古屋大学名誉教授>『中世日本の世界像』(名古屋大学出版会) A西宮紘『空海』(上・下) 肩書き(松山子規会副会長・一遍会事務局長)を入れた名刺印刷。。昼食は「すき屋」のカレーライス。休憩は「サンマルコ」。アエルの明屋書店で「サライ」F購入。 午後、6月度「友隣サミット」出席(14:00〜17:00)。 読売旅行の@土佐の芝居絵「絵金祭り」A上高地・乗鞍ツアー予約。「プレバト」を見て「椿の湯」。 本日も結構多忙なり。 【メモ】 南道後温泉「ていれぎの湯」広告(「リック」20180614) 大 人700円 子 供300円 大型犬900円 中型犬600円 小型犬300円 6月13日(水) 昨日は張り切り過ぎたので能率上がらず。朝一番に大量の洗濯をしたまではよかったが、外作業は暑いせいもあり1時間でギブアップ。 郷土史研究者から拙宅が大庄屋かどうかの質問や問い合わせが来るが、史料で確認できなかったので「温泉郡大庄屋は湯山(食場)三好家で道後三好家は大庄屋格」と返事していた。 『松山市史料集』第七巻近世編6を調査中「松山小手鑑」(478〜479頁)に「温泉郡大庄屋 三好平兵衛 免 亥9:7 石高1325石4斗01合 田40町8反0畝25歩 畑21町2反8畝00歩」の記載を発見する。温泉郡内の庄屋では唯一苗字帯刀の大庄屋であることが判明した。久々の大成果であった。 神戸の長男から「父の日」の贈り物が届く。 「椿の湯」。 6月12日(火) 朝一番に岐阜のTY氏に礼状をメールする。 午後、子規会役員会(14:00〜)、子規会前会長(井手康夫氏)謝恩会(15:30〜)、三役(会長・副会長・事務局長)打ち合わせ(18:00〜19:00)と続く。 会場は@東京第一ホテルA紀乃国屋だが、さすがに疲れた。 酔いを醒まして21時に「椿の湯」。深夜まで米朝トップ会談のニュースを見る。 【⇒TY岐阜】 本日は、ご懇篤なるお知らせを頂き、衷心より御礼申し上げます。 私にとりましたは、これ以上はない貴重な情報でした。感激致しております。 HPをご高覧頂き深謝申し上げます。 早速、ご案内に従い「小林小四郎」と「小林小太郎」を検索致しました。 20年前に慶応義塾が150年を迎えるに当たり、慶応義塾から「『慶応義塾入社帳』筆頭記載者松山藩士小林小太郎」の調査を依頼された時は、調査資料は慶応義塾と一橋大学と国会図書館にしかなく、郷土史料は皆無で、途方にくれたことを思い出します。 国立公文書館蔵【第一類参考書・藩制録之部・第一一号末之部(松山)・明治2年〜同3年】の存在をご教示頂き、102ページすべてに目を通させていただきました。旧知の先輩に再会した気分になりました。 TY様のご先祖に当たる松山藩士のT家は『松山歴俸略記』(弘化年間)によれば百二十石、百石、十五石のご三家の記載があり、今回の史料でも同様にご三家の記載を見出すことが出来ました。 当方は士分ではなく河野家に仕えた武将の末裔で、加藤嘉明に見出され、松平松山藩では「温泉郡大庄屋」として幕末まで300年余重用されたようです。200年余経過した旧道後村の「古民家」に今も住んでおります。 ご指摘、ご提案の事案を含めて、今後調査を進めて参ります。伊予史談会にも所属しており、「伊予の英学」については、名誉会長の高須賀康生氏、副会長の柚山俊夫氏からもご指導を受けておりますのでご相談してみます。 今後、色々とご教導賜りたくお願い申し上げます。梅雨の候、呉々もご自愛賜りますようご祈念申し上げます。 まずは御礼とご返信まで。 6月11日(月) 新聞休刊日。雨模様の一日となる。 日記、ファイル、写真記録・資料整理(一遍会・伊予史談会)。M保子さん、K正子さんと電話。 午後、三井住友信託担当者来訪。資産運用について意見交換する。 ホットメールが飛び込む。伊予松山藩の幕末の禄高リストが国立公文書館デジタルアーカイブで検索可能の知らせである。発信者はまったく未知の人である。有難い。興奮して何も手に付かない。出来れば、伊予史談会を通して近世の郷土史家に情報を提供するようにしたい。 夕食は「もやし炒め」(豚・もやし・にら)と「豆腐炒め」。「椿の湯」。 【TY岐阜⇒】 私の先祖が松山藩士でございまして、現在その関連をネットで調べておりましたところ三好様の「子規と小林小太郎〜伊予松山藩の英学徒たち〜」を拝見いたしました。 早速ではございますが、小林小太郎及びその父小林小四郎の禄高を記した明治期の資料がございますので、差し出がましい事とは存じますがご紹介させていただきます。 国立公文書館デジタルアーカイブに次の資料群がございます。 【第一類参考書・藩制録之部・第一一号末之部(松山)・明治2年〜同3年】 この中に〔士族之分旧禄人別帳〕があり、明治2年当時と思われる松山藩士の 氏名(通称のみ)・旧禄高・現渡高?が記載された文書を画像化のうえ公開されております。 https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000000702275 まず小林小太郎に付きましては、76ページにその名がございます。 71ページに、旧禄高として[拾石三人扶持]とあり、その禄高の藩士名の続きに小太郎の名がございますので、三好様の記事にございます「維新後の明治二年から四年にかけて藩政改革の為に二〇歳前後の若者二七名が官費生として東京、大坂(当時)に送り出された。」当時の小林小太郎の旧禄は拾石三人扶持であったと推察しております。 小太郎の父・小林小四郎に付きましては、31ページにその名があり、30ページに旧禄高[百石]とあります。召し抱えられた際には禄百五十石であったとの事ですが、五十石の差の起因を調べたいと感じております。 以上、余計な事かと恐縮しておりますが、何かのお役に立てば幸いでございます。 6月10日(日) 伊予史談会6月度例会(県生活文化会館)。 1)「松前町には義農さんがいる」 岡野一志氏(松前史談会義農係 一粒米の会) 2)「愛媛県の防空監視哨―大東亜戦争における民間防空―」 多田仁氏(県埋蔵文化財センター 研究員) 「義農作兵衛」の紹介は@森恒太郎『農業道徳』(明治44年)A相原熊太郎『享保の義農作兵衛』(大正3年)ほかが挙げられたが、相原熊太郎は一遍上人の初期の紹介者でもあり、改めて文献に当たることにした。未知の逸話も多く紹介されたが、これほどの「義農作兵衛」傾倒者は知らない。 「防空監視哨」研究は、今日まで専門用語すら知らなかった。大いに勉強させてもらった。防空壕設置の法令が昭和12年は出されていることには驚いた。昭和14・15年に我が家の「茅葺き屋根」が「瓦葺き屋根」に行政指導で改築せざるを得なかった事情も、防空壕設置の法令と同趣旨の「内務省示達」であったのかもしれない。調査したい。 伊予史談会の会員で旧知の合田洋一氏の最近刊『葬られた驚愕の古代史 越智国に”九州王朝の首都”紫宸殿ありや』購入。いわゆる「古田史学」だが読み物としては実に興味深い。 6月8日(金)「温子の七の六十六日」(没462日目)の墓参りが、中学校同期会とバッティングしたので、帰途義安寺に墓参りしてメルパルクでランチ(洋食)&スパ。帰宅後昼寝。3日続きの行事で疲れていたが、仮眠で回復、血圧も正常に戻る。 NHK大河「西郷どん」。 6月9日(土) 一遍会六月例会(道後公民館)開催。出席は19名。 講師は圓増治之氏(愛媛大学名誉教授)。講話は「名号の智火のちからの象徴としての鏡・・・一遍上人が聖徳太子廟に奉納した鏡・・・」。同氏はニーチェの研究者だけに、ニーチェの哲学による一遍の思索の解釈が展開する。 学生時代の哲学知識で1割程度は理解できたかな。マルクスの弁証法と史的唯物論なら、もう少しましな理解が出来ようが・・・ じっくり「復習」することにしよう。「念仏(南無阿弥陀仏)には言葉の力があり、その身体的衝動が踊り念仏である」とする論旨は近代人にとっては、麻薬のように陶酔できる展開なのだが・・・ 理事会では一遍会8月例会に参加する「赤井厚生」氏の応対について検討する。 6月8日(金) 御幸中学校26年同期会を2年ぶりに「国際ホテル」にて実施。世話人として11時に集合。参加者は24名。まずまずの集まりである。会費5,000円で食事は3,500円の予算だが、参加者から和食が好評でほっとする。 隔年実施が例年実施となる。当方も世話人の一人ではあるが、事務局の八塚豪君と森保子さんにお任せすることになろう。道後小学校の同期会もぼつぼつ企画したい。 帰途、バッティングした県文化振興財団30年度文化講座「歌舞伎講座」(13:30〜15:00)に1時間半遅れて出席する。講師は愛媛大法文学部の神楽岡幼子教授。 同教授には、平成22年4月に大洲市中村の「安西寺」で「安西大徳300回忌法要並びに安西御廟落慶祝賀会」に招待を受け面談した。祝賀会では福田安典日本女子大教授(前 愛媛大学教授)、近衛典子駒澤大学教授、神楽岡幼子愛媛大学准教授(当時)と同席する。 9月18日ひめぎんホール上演の「松竹大歌舞伎」(片岡愛之助 義経千本桜(道行初音旅・川連法官館))チケット購入。 『文芸春秋』F入手。大特集「理想の介護と最後」(90歳からどう生きるか他)。 「椿の湯」。 6月7日(木) 雨上がりの紫陽花が綺麗に庭に映えている。「一遍会5月度収支決算書」作成。 午後4時間、土が柔らかいので、座敷と表庭の草引き、さすがに疲れる。 TV「プレバト」を見て、「椿の湯」で汗を流す。 延期予定の「友隣サミット」は来週14日(木)で決定。 【メモ】怨親平等供養塔について @【楠木正成身方塚、寄手塚】 身方塚・寄手塚:現在千早赤阪村営の墓地となっている一角の両端に、身方塚(みかたづか)、寄手塚(よせてづか)と呼ばれる2基の五輪塔がある。楠木正成が「赤坂城の戦」(1331年)で戦死した、敵・味方の将兵の霊を弔う為に建てたと伝えられる。味方(身方)の塚より敵の塚を大きく作り、敵とよばず寄手塚と名付ける等、忠義だけでは無く恩情厚く奥ゆかしい正成の人柄が伺える。HPより A【藤沢敵御方供養塔】 清浄光寺(遊行寺)の境内にある供養塔。「怨親平等碑」ともいい、1416年(応永23)に起きた上杉禅秀の乱で戦死した人畜を供養するため、太空上人が建立したと伝えられており、1926年(大正15)に国の史跡に指定。 6月6日(水) 終日、雨。 一遍会6月例会配布資料印刷(ダイキ)。園芸用の麦藁帽子と「青汁」コラーゲン+ヒアルロン酸)購入。 午後、湯築城資料館で「2017年度湯築城歴史塾要旨集 『モノが動く・ヒトが動く』」(@500円)購入。 伊予銀行で「一遍会5月度収支決算」口座確認、郵便局、業務スーパー、「フジ」等。帰宅後、例会配布資料の整理。 洋子ドクターに出会う。奥島病院の休診日で「椿の湯」帰りの由、いまだに現役である。四方山話の立ち話が延々と続く。 「椿の湯」、珍しく常連浴客少なし。 6月5日(火) 一遍会6月例会で配布する資料@「一遍会6月度ニュース」A『一遍会報』第400号B例会講話レジュメ「名号の智火のちからの象徴としての鏡・・・一遍上人が聖徳太子廟に奉納した鏡・・・」(圓増治之氏)テスト印刷。 『一遍会報』第341号編集(割付)作業。 @圓増治之氏講話「名号の智火のちからの象徴としての鏡」 A三好恭治氏卓話「『遊行上人伊勢参宮』考」 午後、屋根,土塀等修理見積(キイチ)。予報通り、午後からは雨が降り続く。 『子規会誌』寄稿予定の論文「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」の修正作業に入る。「椿の湯」は雨の為お休み。 6月4日(月) 「一遍会6月度ニュース」を会員に流す。 『一遍会報』第340号の編集(割付)完了。印刷の上最終校正を済ます。 休暇村事務局に7・8月度予約状況を照会すると@7月山陰休暇村めぐり(3泊)、A8月みちのく休暇村めぐり(6泊)ともに満員の由。はて困った。シニア人口の増大を痛感する。 午後、庭の草引き。「椿の湯」。 【⇒一遍会会員】 一遍会のみなさん お変わりありませんか。梅雨に入りました。今週末は天候が崩れるとの報道がありますか、6月例会へのご出席をお待ちしています。 昨日(6月3日)宝厳寺本堂で「南海放送開局65年 夏井いつきの一句一遊 17周年記念 句会ライブ」がありました。 本堂内の椅子席150席は満席で、300名以上の「俳人」が集まりました。「夏井宗匠」は今や全国ブランドですが、その人気(集客力)に恐れ入りました。 上人坂に新設された夏井いつきさん所有の句会場「伊月庵(いげつあん)」の公開もあり、今後のこともあり庵に立ち寄り名刺交換してきました。 「天」賞は「青嵐 そして一(いち)から 考える」。作者は山本晋也さん(京都在の洋画家。映画監督の山本晋也氏は別人)。 「地」賞は「あおばあおば 一遍さんが ゆらしてる」。作者は地元の上人坂下の「山澤酒店」の若女将。平凡な句だが、すぐに頭に入り、一遍さん、宝厳寺にふさわしい佳句と思いました。 (注)「伊月庵」の利用ご希望の方は、事務局までメールでお問い合わせください、料金は午前3時間4,000円、午後4時間5,000円、終日(9時〜21時)13,000円です。15人〜20人位まで利用可能でしょうか。事務局 6月3日(日) 昨日は23時就寝して今朝6時に目覚める。トイレは2時頃に1回のみ。血圧がほぼ正常(130〜140)という柳井ドクターの話に心配事が霧散したことが安眠の「特効薬」になったか。 戸をすべて開け放って、風を取り込む。パソコンのミスマッチがあり、仕事が手間取る。 11時に昼食をとり、宝厳寺で開催される「南海放送開局65年 夏井いつきの一句一遊 17周年記念 句会ライブ」に出掛ける。 受付は正午、12時半には着いたが、本堂内の椅子席は満席である。定員の3倍以上の300名以上が集まっている。 「俳人夏井いつき」は今や全国ブランドだが、その人気(集客力)に恐れ入った。駐車場ではマーケット(食事、土産、雑品)も開設されており、結構な人が集まっている。 一遍会の会員でもある南海放送の田中社長とも立ち話が出来た。上人坂に建設された「伊月庵(いげつあん)」の公開もあり、立ち寄って担当者と名刺交換する。 満員の会場で2時間立ちっぱなしは無理なので、ライブ放送でもあり帰宅してラジオで楽しむ。 「地」賞は「あおばあおば一遍さんがゆらしてる」。作者は地元の山澤酒店の若女将。 「天」賞は「青嵐そして一から考える」。作者は山本晋也さん(京都在の洋画家。映画監督の晋也さんは別人)。 平凡な句だが、すぐに頭に入り、記憶されるのは、佳句であることの証明か。 夕、フジで食品を調達。NHKドラマ「西郷どん」を見て「椿の湯」。 6月2日(土) 梅雨に入ったが、晴天が続く。有難し。 一遍会5月度収支会計まとめ。HP一遍会6月度改訂版の作業完了。やれやれである。 息抜きに、6〜8月度の旅行計画を検討する。企画することは楽しい限りである。85歳を越えると足が不自由なだけに「一人旅」は慎重にせねばなるまい。2年間は無理をしてもセンチメンタルジャニーを続けたい。妻よ、守ってほしい。 6月:(中旬)読売旅行 吉備津神社(岡山 日帰り) (下旬)東京個人旅行 7月:(上旬)山陰休暇村めぐり(3泊) (下旬)京阪奈個人旅行 8月:(上旬)信州個人旅行 (下旬)みちのく休暇村めぐり(6泊) 「椿の湯」。 【⇒俳友】 平成30年6月 「 夏山や 五十二番は 岩屋寺 子規」 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年6月の句は「夏山や五十二番は岩屋寺 子規」です。 季語は「夏山」(夏)です。 『子規全集』第三巻 俳句三「俳句稿」161頁(明治三十一年 夏)に掲載されています。 子規は岩屋寺を四国霊場五十二番と詠んでいますが、実際は四十五番札所です。四十四番札所大宝寺の奥の院が岩屋寺です。子規の明らかに記憶違いですが、病臥にあるとは云え、子規だから許されていいことにはなりません。選句自体に疑問を感じています。 ちなみに五十二番札所は松山観光港からも登れる松山市大山寺町の里山に在り、五十一番石手寺と同様に四国霊場の中でも著名な古刹寺院です。 岩屋寺は伊予道後奥谷の建つ宝厳寺で生まれた一遍智真が修行した山岳霊場で、弘法大師も修行された名刹です。本尊は不動明王です。 住職は松山東高校で一級下の後輩に当る大西善和師で、一遍会例会では「一遍聖と真言宗」について講演を依頼しました。上浮穴郡久万高原町の標高七〇〇米の高みに建っています。 子規が岩屋寺を友人と訪ねたのは松山中学在学中の明治一四年七月三一日、一四歳の時です。早朝に出立し、正午には久万町「橋本屋」に着く。翌日岩屋寺を参詣、帰途は疲れ果てて重信川を越えた森松辺りで子規一人が人力車に乗せられて家路についたと記録されています。 それだけに、病臥の子規にとって、少年時代の苦しくもあった懐かしい思い出が甦り一句を残したのでしょうか。 四国遍路で回る知人が、国民宿舎「岩屋荘」で宿泊し、翌朝岩屋寺に参詣して松山に向かうのですが、宿泊先の道後温泉に着けず四十九番浄土寺でギブアップ、鷹ノ子温泉まで出迎えたことが数回ありました。「子規さんと同じだな」と思いますが、歩き遍路の方は七〇才を越えるシニアですから、一四歳の子規さんの体力の無さがよくわかります。 岩屋寺には数回参詣し「日本経済新聞」の同行取材もありましたが、子規さんを偲びながら、子規さんが立ち寄らなかった岩窟のお堂の情景を詠んだ一句を捧げる。 「夏山や お籠堂(おこもりどう)に白き道 子規もどき」 少々説明します。 「白き道」は「二河白道」、「お籠堂」は「阿弥陀仏が待つ浄土」をイメージしました。いやはや。 道後関所番 6月1日(金) 水無月を迎える。既に「梅雨」に入っているが、今日は朝から天気なので早速洗濯する。 公民館で一遍会8月例会の会場セット、子規博で6月度子規さん俳句「夏山や五二番は岩屋寺」を確認する。 柳井クリニックで定期的な血液検査と高血圧の相談。柳井ドクターは北里大学卒で漢方に詳しいし、成人病ではもっとも頼りにしている医師である。 素人は血圧検査機器を誤って使用しているとの説教を受けて、正しいセットの仕方を教えられる。当たり前だが、腕の脈拍を打っている部位に検査機器を置くということだ。 な、なんと、175が135に下がった。「三好さん、高血圧ではないですよ」のご宣託が仏の声に聞こえた。「一生、血圧を下げる薬を飲み続けなければならない」と覚悟していたのだが、その必要は目下のところないのだ。 今日は「温子の七の六十五日」(没455日目)であり義安寺に墓参りして、「会える日が少し遠のいたよ」と報告する。メルパルクでランチ(和食)&スパ。 14時、帰宅後メールなどの作業。 @神戸のファミリーにスケジュール連絡 A「平成30年度 湯築城歴史塾」申し込み B6月度友隣サミット開催日変更依頼 C「一遍会12月例会」講師 大本敬久氏から講演テーマ「伊予国風土記の世界―古代の道後温泉― 」連絡 など。 夜、子規さん俳句の鑑賞エッセイを執筆。子規もどき句は「夏山やお籠(こもり)堂へ白き道 子規もどき」。 |
5月31日(木) 終日曇天で鬱陶しい。「梅雨入り」を実感する。 HP一遍会の@6月度版の切り替え A「一遍会報」第390号の編集、割付作業に注力する。6月例会は9日(第U土曜)なので、月初はかなり忙しくなろう。 TV「プレバト」を見て「椿の湯」。 5月30日(水) 松山子規会講演「『松山 子規事典』の江戸・東京」の基礎作業。『子規事典』から江戸・東京に関する記載内容と『子規会誌』から同類のテーマに冠するテーマのリストアップ。全体を目を通すと、数ヶ月〜半年かかりそうだ。 午後、松山法人会主催の講演会に出席(コミセン 15:40)。講師は須田慎一郎(経済ジャーナリスト)、テーマは「どうなる日本!「日本経済の明日」―報道現場から見た日本経済―」。 脱線、脱線のマスコミ人のスピーチである。「アベノミクス」から「ネオ アベノミクス」移行の背景と現下の施策は、大いに参考になった。 紀伊国屋書店で高橋昌明著「武士の日本史」(岩波新書)と「サライ」Fを買う。「武士の日本史」は「武士とは」の常識を破った武士の「実像」を読者に突きつける。 「椿の湯」。 5月29日(火) 事務作業に追われる。 @恒治宛、今後のライフプランの検討依頼。 A6月生まれの孫(史晃、亜実)宛、誕生祝 メッセージ。 B杉野理事宛『一遍会報』寄稿の依頼。 C一遍会KTさん宛、島根から例会参加者の接待打合せ。 D松山子規会嶌川理事宛業務連絡。 E潟Lイチ(山岡さん)宛、屋根修理依頼 などなど。 「フジ」で珍しく刺身を買う。「椿の湯」。 【→孫 誕生日】 お誕生日おめでとう。 高校二年に進級して授業も充実してきたと思います。 先日、お父さんと伯父さんが帰省してお墓の草引きで汗を流してもらって助かりました。すっかり綺麗になりました。 おばあちゃんはHを一番可愛がっていたし「卓球の好敵手」でしたから、今でもHのことをお空から眺めていると思います。一年に一回は、おばあちゃんのお墓に参ってください。 高校受験のときは、おばあちゃんは太宰府天満宮まで出かけて、「合格祈願」をしてもらったことを忘れないでほしいな。 ボツボツ専攻分野を決めるのですか。学業優秀なら医学部でも「推薦入学」出来ますから、学校の授業を疎かにしないことです。大いに期待しています。 おじいさんが「座右の銘」にしている言葉を、お誕生日に贈ります。「一大事今日只今之事(いちだいじ こんにち ただいまのこと)」。 世の中がどのように変わっても、昨日があって、今日が来て、やがて明日になります。大きな目標に挑戦するにしても、今日一日を充実しないと素晴らしい明日が到来しません。身体に十分気をつけて、明日に向かって挑戦してください。 お誕生日おめでとう。お祝いを贈ります。図書カードです。吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』のような良書にめぐり合ってください。 5月28日(月) 中学校同期会の幹事打合せ(12:00〜国際ホテル)。出席は八塚豪、山本敬喜、森保子 さんと老生の4名。参加者は24名(男性16名、女性8名)、前回より▼4名(男▼3名、女▼4名)。 当日の役割分担を決める。開会の挨拶を担当する。昼食をとって散会。 「アエル」の明屋書店で孫3名の誕生祝として「図書カード」(@5,000円)を用意する。 帰途、熊谷守一画伯夫妻をテーマにした映画「モリのいる場所」を鑑賞(シネマサンシャイン大街道)。 沖田修一監督、山崎勉、樹木希林ら)。本年度の主演男(女)優賞候補に上がるだろう。 これほどスローテンポの映画作品は稀にしかあるまい。熊谷守一画伯を知らないで映画館に入った人は睡眠効果があって、数人が鼾をかいて寝ている。 熊谷守一画伯邸の屋敷林を眺めているとわが家の庭とイメージが重なる。「椿の湯」。 夜、6,7月の旅行プランを検討する。 5月27日(日) 朝8時に「道後彩朝楽」で合流、義安寺の墓苑の掃除。 帰宅後、家の境界線、庭内水路、隣家との地上権などの現地確認をする。万一の事態に対応する法的な対応を伝える。引き続き、「エデンの園」に出掛け、赤松氏の案内で恒治・淳志に内部を案内してもらう。昼食は「大黒屋」。 14時、帰神する。当方は昼寝。TV大相撲千秋楽、大河ドラマ「西郷どん」を見て「椿の湯」。 息子への「引継ぎ」の第一段階が終わる。 5月26日(土) 恒治・淳志帰宅。将来計画を語る。庭木、雨樋、土塀、屋根瓦など、梅雨を控えての外回りの作業。ホテル「道後彩朝楽」で夕食(バイキング)と温泉入浴、息子たちを残して帰宅。 5月25日(金) 「温子の七の六十四日」(没448日目)の墓参り。除草剤で見事に雑草が枯れている。掃き掃除すれば「合格点」をもらえるだろう。 「メルパルク」のランチ(洋食)&スパ。帰途、兄弟で明日帰省する息子たちの口に合うように「セブン」でケーキなど購入。親ばかである。 日大の学長の記者会見をライブで見る。理事長は顔を見せない。「週刊文春」によれば、理事長は「山口組」とも関係がある相撲部の猛者とか。 次期理事長候補が渦中のアメラグの監督というから日大の理事(長)は体育会系か、学的なにおいが一切無い。 慶応は塾長(学長)イコール理事長で、評議会は卒業生が選挙するアカデミックなシステムである。 表庭の草引き。 6・7月の旅行計画検討。 6月は上京(3泊)して「江戸東京博物館」で論文「『子規事典』の江戸・東京」の資料に当たってきたい。 7月は「軽井沢と上高地清遊」(3泊)を計画したい。温子とのセンチメンタルジャニーである。 地元での勉強会は@「湯築城歴史塾」(継続)とA県文化振興財団セミナー「歌舞伎講座」(神楽岡幼子愛大教授)「愛媛学講座」(青木亮人(あおき まこと)准教授)」を申し込む。 5月24日(木) 第一次世界大戦下、青島のドイツ人戦士を収容した徳島・坂東俘虜収容所をテーマにしたヒューマンな日本人とドイツ人の交流を描いたミュージカル「よろこびのうた」。 「坊っちゃん劇場」のミュージカルも今年が13作目である。毎年、温子と出掛け、ミュージカルを見て、ショッピングして、「利楽」で食事・温泉をエンジョイして夜遅く帰宅するのが年中行事の一つだった。 今年は勿論一人だから、午前の部(10:30〜12:30)を見て、昼食・温泉を利用、15:10発のシャットルバスで市駅に向かう。 ミュージカルの脚本(羽原大介)、演出(錦織一清)は優秀、俳優は誰も知らない。フィナーレの第九「合唱」の舞台だが、10名ほどの俳優で如何に盛り上げるのか、それなりに「期待」?したのだが、見事な演出に騙されてしまった。充実した2時間であった。 テレビ「プレバト」。 5月23日(水) 午前中は雨、午後からは天気が回復し曇天。書斎の東庭にはアジサイ、西庭(亭庭)にはサツキが生き生きと咲いている。 次回講演「『松山 子規事典』の江戸・東京」につき、子規の視点のみに絞ると大変なミスをしそうである。少なくとも3視点は保持したい。 @子規の目から見た「江戸・東京」 A同時代作家から見た「江戸・東京」 B内藤鳴雪から見た「江戸・東京」(『鳴雪自伝』より) 青山淳平著『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』読了。 「椿の湯」。 メモ】子規世代の文人たち 森 鴎外 1862〜1922(文久2〜大正11)『舞姫』(1890) 正岡子規 1867〜1902(慶応3〜明治35) 夏目漱石 1867〜1916(慶応3〜大正5) 『吾輩は猫である』(1905〜) 尾崎紅葉 1867〜1903(慶応3〜明治36)『二人比丘尼色懺悔』(1889) 幸田露伴 1867〜1947(慶応3〜昭和22)『五重塔』(1891) 徳冨蘆花 1868〜1927(明治1〜昭和2) 『不如帰』『自然と人生』(1900) 木下尚江 1869〜1937(明治2〜昭和12) 『火の柱』『良人の自白』(1904) 永井荷風 1870〜1959(明治12〜昭和34)『あめりか物語』『すみだ川』(1908) 国木田独歩1871〜1908(明治4〜明治41)『武蔵野』(1901) 徳田秋声 1871〜1943(明治4〜昭和18)『黴』(1911) 田山花袋 1871〜1930(明治4〜昭和5) 『布団』(1907) 樋口一葉 1872〜1896(明治5〜明治29)『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』(1894) 島崎藤村 1872〜1943(明治5〜昭和18)『若菜集』(1897) 泉 鏡花 1873〜1939(明治6〜昭和14)『夜行巡査』『外科室』(1895) 5月22日(火) 終日晴天。 午前中は、子規博、伊予銀行(一遍会)、愛媛銀行(エデンの園)、郵便局(配当など)、セブンを廻る。 昼食後県立図書館(松前・今蓮寺<旧性尋寺>調査研究、県美術館(「没後40年 熊谷守一生きるよろこび展」)。 帰宅後、藻が繁茂しているので門前の今市川の除草作業。 一日出歩くと結構疲れる。確実に体力がなくなっていることに気付く。 子規会の次回の講演「『松山 子規事典』の江戸・東京」の構成を考える。明治20年代まで、東京には「江戸」が残っていたという前提からスタートさせたい。 昭和31年(1956)度の『経済白書』の序文「もはや戦後ではない」を知ったのは東京の学生時代であった。戦後10年での達成であった。 次いで「東京オリンピック」(1964年)、「大阪万博」(1970年)を経て「高度成長」に歩む。終戦(1945年)から30年を経て、庶民は「戦後」を卒業したと実感した。 「椿の湯」。 5月21日(月) マイHPに一遍会と子規会のスピーチのレジュメを掲載する。 @【熟田津今昔第七十二章】 「遊行上人伊勢参宮」考 A【松山発子規サロン】I「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」 B【松山発子規サロン】J「へちま考――「へちま」は日本語、外来語、落語 ?」 C【松山発子規サロン】K「金子兜太氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます」 午後「エデンの園」担当者の赤松氏から詳細な説明を受ける。入社当時の舎監の記憶がよみがえる。温子が健在であれば、85歳(サファイヤ婚<60周年>)で「別荘生活」をスタートさせる計画だったのだが・・・ 24日(金)「坊っちゃん劇場」ミュージカル「よろこびのうた」<坊っちゃん劇場第13作「第九」アジア初演100周年記念>鑑賞の予約を入れる。明日は県美術館で「没後40年 熊谷守一生きるよろこび」展と県立図書館(「時衆・伊予松前道場」研究)に顔出しの予定。 「椿の湯」。 5月20日(日) 朝4時起床。日記の整理、子規会例会内容の 検証。メールの整理。朝食後、布団の天日干し、洗濯、掃除、ゴミ回収の仕分け作業。主婦労働の終了で昼食。 午後、一遍会6月度例会のマスコミ、ミニコミ連絡、7月度例会講師 前園実知雄氏にテーマ、一口メモの依頼、HPに一遍会、子規会講演内容をアップロードする。 NHK大河「西郷どん」を見て「椿の湯」。多忙なる休日ではあった。いやはや。 5月19日(土) 松山子規会5月例会出席(正宗寺)。 1)卓話 小椋浩介氏(古美術「gallery小椋」経営) 2)講話 三好恭治「生死の執着と安心〜一遍と子規と〜」 3)紹介 宇都宮良治氏「正岡子規の囲碁話(子規の囲碁殿堂入りを記念して)」 4)連絡 烏谷会長「松山子規会新役員紹介」 氏の卓話は今まで断片的には聞いていた子規関係のプロジェクトのまとめであり大変興味深い内容であった。 @「湯の山文庫」(小椋コレクション)の内容(和田茂樹氏旧蔵5万4千冊)と運営、今後の方向付け A「愚陀仏庵」プロジェクト 法人化せず民間運営(「浜商」+小椋浩介氏) B 新規紙幣(6年後)人物に子規をプロジェクト 5月度2本の講演ノルマを果たしてほっとしたのか、夕食のビールで酔い21時就寝する。 5月18日(金) 「温子の七の六十三日」(没441日目)に当たり義安寺墓参。先週墓地に除草剤を散布したが、八分かた枯れていた。メルパルクでランチ(中華)&スパ。 一遍会IT会員に「4・5月定期便」を発送する。 午後、明日の子規会例会での講演のリハーサル。金子兜太氏の遺作「河より掛け声さすらいの終わるその日」から講演が始まる意外性に驚く会員が多いことだろう。 終日、インターネットメールの受発信ができない。マイパソコンのトラブルかと思いCATVに照会、全社規模である。ウイルスか故障か。 メールの発着信が出来ないので週末の情報がつかめない。残念だ! 5月17日(木) 10時、潟tジの定時株主総会出席。後ろの席に小沼大八氏。奥さんの代理の由。2月以来である。杖を突いているが顔色は良いので安心した。原田さんに会う。同期会出席の由。 2年前までは温子と一緒に総会に出席してランチはフジのレストランが通常のコースだったのだが・・・ 市内電車で清水町に出て「ダイキ」で一遍会、松山子規会の例会講話のレジュメ印刷。 徒歩で上一万に出て伊予銀一万支店で口座を作る。 応接の女性がなかなかすばらしい。息子と同じくらいか。道後小学校の後輩に当たる。話しているうちにお互いの家が分かってしまった。世間は狭い。いやはや。 夕、「フジ」で古茂田君夫妻に出会う。同期会欠席である。残念。 「椿の湯」。 5月16日(水) 午前中、子規博に出掛け竹田美喜館長に『一遍会報』を手渡し、伊予史談会、松山子規会、一遍会の動向を話し、例会講師を依頼する。 一遍会田中理事、小島さんにメール連絡。 来月開催の中学校同期会の中間報告を幹事の八塚豪君から受ける。出欠席報告が遅く20〜25名程度か。 青山淳平著『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』に目を通す。プロローグで涙が出てしまい読書は中断する。 戦争の非情さ、勝者が敗者に「裁判」という民主的な手法で野蛮な裁定を下すシステム・・・今日のアメリカ、ロシア、そして中語も同様である。 敗者の主人公は「戦隊司令官左近允尚正中将」である。 松山子規会5月例会(5月19日)講演「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」の最終点検。一遍会IT会員定期便の取りまとめ。 夕、表庭の草引き作業。「椿の湯」。 5月15日(火) 午前10時、作家の青山淳平氏と子規博で落ち合い、「ふなや」のサロンで珈琲を飲みながら2時間ほど話し合う。久しぶりである。 宝厳寺を軸に、斎藤茂吉、永井ふさ子、山上次郎、川田順、一遍上人、長岡円祥師など話題は尽きない。 青山淳平氏から自著『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』(潮書房光人新社 20180122)贈呈あり。 午後、一遍会会員との情報交換と、終日一遍上人絡みの話題となる。 8月の例会には島根県から一遍研究者が訪問の由、楽しみである。 今月末、息子二人が東京・神戸から墓掃除と庭の除草と整美のため帰省の連絡あり、お盆にはすっきりした雰囲気で親類縁者を迎えることが出来そうだ。やれやれ。 夜の「椿の湯」サミットは常連が勢揃いする。 【青山淳平氏との懇談】 1)茂吉とふさ子は道後で一泊している。宿屋は「八重垣」、宝厳寺には二人で訪ね、茂吉は一遍生誕寺に詣でたことで感激している。 2)ふさ子の墓は「建長寺」。「永井家墓」とは離れた「一人墓」。 3)山上次郎が建てた歌碑 @滋賀県米原番場「蓮華寺」 浄土宗本山(時宗一向派大本山) A山形県上山市金瓶 「宝泉寺」(時宗一向派) B松山道後「宝厳寺」 *東京都港区 茂吉居住跡には「あかあかと」の句碑あり。 C川田順の歌碑の自筆原稿は京都安養寺蔵。 本山(遊行寺)と宝厳寺に歌碑があるが、いずれかがコピー。 D道後の「語り部」の書物 【書名等】『道後で暮らす語り部の記憶』 (136頁) 【出版者等】伊佐庭如矢顕彰実行委員会;松山 2015 【内容】矢野清(94歳)桜木留五郎(90歳)高木輝夫(89歳)「牛馬湯」「松が枝町」「道後村の庄屋」「旅館かど半」「川吉旅館」「成川家」ほか 5月14日(月) 午後「エデンの園」に出掛け、館長(栗田昌宏)、ケアサービス課長(高橋眞智子)両氏と面談する。その後担当の赤松氏と細部打合せ。 自宅までの4キロをぶらぶら歩く。数年前まで夕方祝谷の喫茶「珈蔵」迄散歩していたので苦にはならない。とは云え1万歩近く歩いたことにはなる。 「椿の湯」。 5月13日(日) 伊予史談会創立105周年記念式典(5月度例会)出席・(9:30〜14:30 於 にぎたつ会館) 記念講演は京都大学大学院教授 元木泰雄氏「平安後期の伊予守と源平争乱」。 平安期の政治史に関するトップクラスの学者だけに視野の広さと史料の吟味とそこから導き出される結論に圧倒される。 伊予国の「河野氏の消息」も全体の一行に過ぎない。ついつい郷土史にどっぷり浸かってしまっている自分に気付かされる。 「俳聖子規」についての誇大評価も再検討すべきであろう。 祝賀会ではメインテーブルに座席、史談会の配慮に心から感謝したい。 テーブルは元木泰雄、寺内浩(愛大)、伊原恒久(県図書館)、胡光(愛大)、山内譲、武智利博、高須賀康生のお歴々である。初対面は伊原氏(宇摩郡出身)、主に東予の庄屋について語る。 岩井章、江刺精久、戒田淳、田中弘道、仁木弘子、古川禎一、三好裕二郎、山田斌治、二神将、高辻信也、柚山俊夫各氏と久しぶりに話が出来た。 伊予史談会の世代交代が着実に進んでいるが松山子規会、一遍会は「未だ遠し」の感を強くした。 帰宅後1時間ほど昼寝。 NHK大河「西郷どん」。記念講演の復習など。 5月12日(土) 一遍会5月例会開催。病気のため小沼代表、今村理事欠席。出席は16名(うち女子3名)。 1)卓話 三好恭治理事「遊行上人伊勢参宮」考 2)講話 杉野祥一理事「証空上人の生涯と教え」 引き続き理事会を開く。 @平成29年度一遍会事業についての分析 A平成30年度一遍会事業(例会細部)検討B今後の事業展開(フリーディスカッション) 5月11日(金) 「温子の七の六十二日」(没434日目)に当たり義安寺墓参。墓苑の掃除で長時間腰を下ろすのが無理になったので除草剤を散布して様子を見ることにした。 メルパルクでランチ(和食)&スパ。10時半に家を出て帰宅が14時。1時間ほど昼寝。 温子の化粧品・トイレタリーの仕分けに随分手間がかかり、夕方になってやっと目途がつく。 ペット・プラ・金物・ガラス・可燃物(主に包装)となると日常の仕分けと変わらない。(噴霧式のものは保留) 夕食は、菜の花のまぜご飯。 作家 青山淳平氏の依頼があり、資料とりまとめ。 @斎藤茂吉歌碑と歌人山上次郎 A歌人 川田順の宝厳寺参詣資料(京都安養寺蔵) B永井ふさこの縁者(長建寺檀家) 5月10日(木) 洗濯から一日が始まる。気温が17度Cで爽やかでもあり、茶室周りの草引きを2時間余。 今週末の一遍会例会の準備とHP一遍会に平成30年度の例会講師リストを掲載する。HP「東の窓」で大川治君に続いて篠原俊憲君の死去を知る。彼は、老生が会長の時に年度幹事を引き受けてくれた。 今年の高校同窓会は息子が帰省するので欠席の旨、篠浦年度幹事に連絡する。 夕食は豚肉、もやし、にらの炒め。最近の料理は豚肉と鶏肉が中心である。上物のビフテキを食べたいのだが、一人では料理する気にもならない。 「プレバト」を見て「椿の湯」。 『文芸春秋』E入手。大特集「日本史の常識が変わった」、特に「新しい『時代区分』が必要だ」に啓発される。 5月9日(水) 午前中、「ダイキ」で一遍会例会配布資料印刷(「一遍会ニュース」「一遍会報」「理事会資料」「卓話レジュメ」等)。 県美術館で休息。昼食は「東京第一ホテル」内「花のれん」。 午後、同ホテルで「松山子規会役員会」(14:00〜15:30)。 その後「紀乃国屋」で新旧会長と有志で酒を飲みながらの懇親。 散会して、烏谷、佐伯両氏と「ドトール」でフリーディスカッション。帰宅は20時。 80才過ぎた高齢者にとっては昼酒は結構回った感じである。大事をとって「椿の湯」はお休み。 5月8日(火) 『一遍会報』第389号、「一遍会5月度ニュース」テスト印刷。 冬物の一部をクリーニングも出す。 午後「5月度友隣サミット」出席。 「椿の湯」。 5月7日(月) 終日、天気予報通り雨となる。 銀行、郵便局を回る。一遍会4月度収支決算をとりまとめる。一件落着。「一遍会5月度ニュース」を会員に流す。 連休でもあり、メールも殆どこないし、新聞も休刊日である。 小野澤眞氏の大著『中世時衆史の研究』(八木書店)に再度目を通す。本文749頁、索引43頁。 「時衆」の正しい読み方は「じしゅ」、碩学中村元氏の『広説仏教語大事典』も「じしゅ」である。 「業務スーパー」で買い物。「椿の湯」。 5月6日(日) 寝床で遊行上人回国時に道後宝厳寺在住に際して神社参拝の事例報告に気づく。朝一番に「一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」に追記する。 @伊佐爾波神社・・・「一遍上人遊行透かし彫り」<現存> A湯神社・・・・・・別府通広(一遍実父)神社(「子守社」)、墓石(「石棺」)<現存> B岩崎神社・・・・・河野家祖霊<現在の岩崎神社ヵ> 本論の結論は「仮説」として一遍の「存在」を山人、海人、被差別(乞食 芸人 ライ者など)サイドに位置づけた。 結果、天皇国家(荘園・顕密体制)から疎外され、伊勢神宮から忌避され、「伊勢神宮には参宮しなかった]とした。 最後に「花の事は はなにとへ。紫雲の事は 紫雲にとへ。一遍しらず」(『聖絵』第六@)で「執筆者も知らず」として結論は曖昧にした。いやはや。 最終稿が完了した。やれやれ。 大型連休最後の一日・・・天候も今ひとつであり、部屋の掃除、片付けを念入りにする。 NHK「西郷どん」。雨になり「椿の湯」は中止。 【⇒NHKさん】 今年の同窓会にはご出席のことと存じます。 連休中の5月3日に「東温史談会」の「ふる里探検」に参加して今治市朝倉の「矢矧神社」の県無形文化財指定「継ぎ獅子」を見学してきました。 『東温史談』第13号(2018年)に「松根東洋城と佐伯家(一)」が掲載されており興味深く拝見しました。寄稿は佐伯敦様で、ご当主の方ですか。連載らしく楽しみです。 東洋城の終末期は、『明教』に寄稿された一文へと続くのでしょうか。 一人になってから一年以上経ちましたが、一遍会、松山子規会、伊予史談会に顔を出して、お蔭さまでなんとかやっています。 なんとなく、お知らせしたくてメールしました。お変わりありませんか。 5月5日(土) 4時起床。 一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」の講義録脱稿。補足説明は別途とりまとめる。 日中6時間は、妻の遺品整理。身につけた肌着だけは夫の義務として処分をすべきだろう。フランス製の香水(シャネル外)が10数本未使用で残っている。せめて最後の贅沢をと思い、処分する肌着に香水をたっぷりふりかけ、改めて妻の冥福を祈る。 浴室、洗面所の備品在庫は思い切って処分した。洗浴剤は息子ファミリーが帰宅した際に手渡したい。 NHK「ブラタモリ」は「宇治茶誕生の秘密」。宇治の地勢(扇状地と丘陵地)で味と香りの差異が生じ「茶師」がブレンドして日本の代表的な「宇治茶」が誕生したという秘密である。 単身赴任時代から今日の独居生活では一人で抹茶を点てて味わっているので非常に参考になった。「椿の湯」。 5月4日(金) 気温19度で薫風、爽やかな一日である。 ガラス戸、障子を開け放ち、家中に風を送り込む。 温子の「七の六十一日」(没427日目)に当たり、義安寺の墓参りの後、メルパルクでランチ(和食)&スパ。 懸案事項の処理。 1)ファミリーへの週末メッセージ 2)圓増治之氏宛礼状(6月度例会資料等) 3)田中弘道氏礼状(東温史談会「ふる里探検」参加等) 4)小沼大八氏(見舞い状) 5)小島孝子氏(AA氏照会) いよいよ温子の遺品整理を開始する。来春の三回忌までには目途をつけたい。 【⇒AAさん】 一遍会7月度(7月14日)講師は前園実知雄氏、8月度(8月11日)講師は田中弘道氏です。前園氏は飛鳥・奈良朝の古墳文化の話、田中氏は伊予河野氏の話になるでしょう。 8月はお盆前の休日で混雑するのではと思いますが・・・・・米子から松山までは遠距離過ぎますので、一泊されないと午後1時の一遍会例会出席は無理でしょう。当日午前中宝厳寺、湯月城址見学なども考えられますね。 AAさんのスケジュールが決まればお知らせください。当方としては、一ヶ月前迄のご連絡であればご要望に沿いたいと思います。 ところでAAさんの年齢とご経歴を前以ってお知らせください。特に調査・質問したいテーマがあれば事前にお知らせ願います。 5月3日(木) 「東温史談会」の「ふる里探検」で今治市朝倉の「矢矧(やはぎ)神社」の県無形文化財指定「継ぎ獅子」を見学。 朝7時、会員でもある田中弘道氏の車に同乗、東温市中央公民館8時「いずみ観光バス」にて出発。参加者は22名(うち男性は9名)。 「継ぎ獅子」とは大人二人が立った上に子供が獅子の面をかぶって大人の肩の上に立って奉納演技。その後「にわか芝居」と「餅まき」。75年前の幼児の時代の懐かしい記憶がよみがえる。 昼食は、矢矧神社下の「越乃屋」の「胡麻肉ぶっかけ」、これがめっぽう美味い。 帰途、北条・「道の駅風和里(ふわり)』」に立ち寄り「鯛めし弁当」を夕食用に買う。10年近く前か、恒治ファミリーと立ち寄った時、史晃の「電気工事の悪戯」が終わらなくて困ったことを思い出す。 一遍会6月度講師圓増治之氏からレジュメと配布資料が届く。 TV「プレバト」を見て「椿の湯」。正月以上に混雑しており、温泉もぬるい。観光客(一見客)はがっかりするだろう。 5月2日(水) 終日雨。 HP一遍会の5月度全面改訂版が完了する。後日、平成30年度講師・講話一覧を掲載する。 午後、日野歯科定期検査終了(通算4日)。今年から年2回(春・秋)検査を受け、「80才26本」を可能な限り長く保持したい。 竹田美喜子規博館長から『一遍会報』第399号掲載原稿の校正届く、パソコンで改訂作業。 子規会烏谷会長に役員任命に関し所見を送る。松山子規会は「松山」(中予)だけでなく愛媛子規会、四国子規会に拡大してもらいたい。各拠点のリーダーを大切に育成したいものだ。 5月26日開催の松山東高校同窓会の出席人員が昨年よりは増える旨、世話人の篠浦君から連絡を受ける。まずは有難い。 「椿の湯」。 5月1日(火) 一遍会会員に「5月度例会案内」を流す。道後公民館で一遍会7月度例会会場を予約。 10時、愛媛新聞社を訪ね、松山子規会幹部の新旧交代挨拶。新聞社サイドは土居英雄社長・長井基裕編集局長・高田裕文生活文化部長、子規会サイドは、井手(前会長)・今村(前副会長)・烏谷(会長)・三好(副会長)・渡部(副会長)。昼食は「花楽里」。 午後、一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」レジュメ再考。一遍会4月度収支決算。 「椿の湯」。 |
4月30日(月) 村上公平君(跡見女子大名誉教授)と山の手ホテル(旧川吉別館)でランチ。宝厳寺境内の日陰のベンチでアカデミックな話題で語り会う。慶応時代に戻った気分である。 松山大経営学部1年次の女子学生(近年では珍しいくらいの純なお嬢さん)とおしゃべりをする。(11時〜15時) 松山子規会の烏谷会長、竹田子規博館長から電話とメール。明日、明後日は出勤日なのでビジネス多忙か。 「椿の湯」。 4月29日(日) 快晴である。 一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」のレジュメ取りまとめ。 午後、『一遍会報』第399号編集(割付)完了。論文寄稿の竹田美喜氏にゲラ刷りを送り校閲を依頼する。 夕、松山市議会議員選挙投票。帰途、子規博南通路で舞踏家「田中泯」氏の「場おどり」(第2回)を見る。テーマは「オドリ 〜コエからモジへ」。初日(27日)は「オドリ 〜 一遍上人と歴史的古層 〜」のテーマで上人坂から宝厳寺本堂までの「場おどり」 を演じた由。肉体的表現を通して理解せよと言われてもよく分からない。一言でいえば「狂」であり「マンダラ」の世界でもある。 道後公園のベンチで田中弘道氏と河野家についての歴史談義。「三好モデル」について説明する。越智・河野家、得能河野家、別府河野家、鎌倉河野家論である。 同氏から『東温史談』第13号寄贈。主な掲載論文 @「河野通直の死、九百名の名簿の謎」(田中弘道) A「『一遍聖絵』を読む―遊行の拠点別府(東温市)」(竹内真人) 「フジ」に立ち寄り食料調達。NHK大河「西郷どん」。「椿の湯」。 4月28日(土) 快晴である。ガラス戸や障子を開放して薫風を取り込む。洗濯。 松山子規会5月例会講演「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜」のレジュメ草稿がまとまパソコン印刷。A4版12ページ・ 『一遍会報』第399号割付作業、ほぼ完了。5月度例会で配布予定。 一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」のレジュメ執筆開始。天候の影響か、珍しく頭脳明晰で執筆が進む。ハッピー・ハッピーである。 午後2時間、亭庭の草引き。 「椿の湯」。 4月27日(金) 午前、子規博平成30年度特別展「明治まつやま偉人伝―時代をつくった人々―」内覧会出席。 全体の構成 序章 明治維新と松山の人びと―逆境からの再出発 T章 政治・経済につくした人びと―日本の、ふるさとの「礎」をつくる― U章 教育につくした人びと―「ひと」を育てる V章 文学につくした人びと―松山を「文学のまち」に― W章 美術・芸能につくした人びと―それぞれの「美」を求めて― 39名の人物だが、幕末期の藩主「松平定昭」についてはいかがなものか。 昼、妻の「七の六十日」(没後四二十日目)に当たるので義安寺に墓参し、メルパルクでランチ&スパ。 午後は「日野歯科」受診、表庭の草引きなど。 TVで韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の板門店での歴史的会談、「完全な非核化により、核のない朝鮮半島の実現という共通の目標を確認した」とする「板門店宣言」に署名の実況を目の当たりにする。今後の展開は疑問だが、歴史的な出来事であることは間違いなし。 4月26日(木) 曇天の一日。 2日間の小旅行の整理。一柳(ひとつやなぎ)家は越智・河野氏の流れであるが詳しくは知らない。東予の「探訪」は「休暇村瀬戸内東予」を起点にしたいので瀬戸内バスの路線と時刻表を詳細に点検する。 「リョウビ」のカルチベーター(草刈)が届く。早速試運転する。 松山市の観光ガイドの森さんから依頼があり、道後観光の道順に拙宅(道後村庄屋屋敷)を加えたいとのこと。邸内に入らなければ了承ということで、長屋門、母屋、クスの大木など土塀の外から眺めてもらうことにした。将来的には、歴史的価値もあるので行政で検討してもらいたいのだが・・・・・ テレビ「プレバト」を見て「椿の湯」。 【メモ】 佐藤学氏 窪寺照会 電話979-6173 谷町 81歳 4月25日(水) 晴天までにはいかないが、まずまずの天候である。(休暇村一泊2食12,200円) 休暇村 09:30 <送迎バス> → 丹生川駅前 09:45 丹生川駅 9:58 →小松駅 9:55 (¥210) 松山行きバスまで3時間余裕があるので、久しぶりに一柳・小松藩を散策することにした。 小松駅正面の道を500米上がると、「近藤篤山邸跡」があり、この通り沿いに「近藤邸」「佐伯邸」が在る。対面には聞名山得生院本善寺(浄土宗)が在る。藩寺のひとつであるが、檀家が少なくなったのか、墓地の空きが目立つ。 更に100米行くと藩校「養正館跡」、左折して200米で「小松陣屋跡」が在る。現在では、旧藩、御殿、家中などの地名と石垣跡が残るだけである。 わずかに「一柳公館跡」の碑が立っているだけで、城下町の面影は一切感じられない。備中の木下・足守藩(2万5千石)の佇まいを想像していたのだが、期待は無残に砕かれた。 小松駅まで下って、「天養山宝珠寺」に立ち寄る。高野山真言宗で四国霊場62番札所。霊場の中では受付の応対がぞんざいで、お接待の気持ちすら感じられない最低の札所か。 BS小松総合支所でバス発車まで小一時間余裕があったので「ファミリーマート」で昼食を調達し、休憩室でゆっくりと寛ぐ。 小松総合支所前 13:15→ 大街道14:43 大街道アエルの「明屋」で、NHKテキスト『マンダラと生きる』(正木晃)と『サライ』D購入。 夕食は「カレーライス」。「椿の湯」でのんびりして22時早めに就寝する。 4月24日(火) 松山子規会の新会長に就任した烏谷氏から副会長の依頼あり、了承する。2年間は子規会副会長と一遍会事務局長として文化活動にささやかながら寄与していきたい。 天候が昨夜から崩れ、雨の中での東予小旅行となる。 大街道 13:31→ 小松総合支所前 14:48 小松総合支所前 15:07 →壬生川駅前 15:15 (\370) 丹生川駅前 15:40 <送迎バス> → 休暇村 15:55 妻と年二回は利用していた「休暇村瀬戸内東予」に一年半ぶりの宿泊である。休暇村を起点に別子銅山、石鎚山、新居浜、西条、今治に足を延ばしたものである。妻が他界したので、此処も思い出の場所になった。 チェックインして温泉に入浴、17時半から新鮮な魚類をメインにしたバイキング。料理長が変わったのか、売り上げ拡大か、理由はよく分からないが、単品で有料のメニューが多くなったのに驚く。生ビールを飲む。 食後はゆっくり休養し、寝る前に再度温泉に入浴する。 4月23日(月) 一遍会5月例会卓話「『遊行上人の伊勢参宮』考」文献として『一遍上人縁起絵』第九の内、真教の伊勢参宮に関する記述を抜粋して記載する。ほとんどの会員には初見であろう。『一遍聖絵』に比し、叙述が詳細であり、実に面白い。 続いて鎌倉期における伊勢神宮から見た僧尼の参宮と仏教忌避についての掟と実態を文献で調査する。 夕2時間、表庭の草引きと川掃除。 「椿の湯」。 4月22日(日) 朝一番に洗濯開始。 松山子規会5月例会講演「生死(しょうじ)の執着(しゅうじゃく)と安心(あんじん) 〜一遍と子規と〜」執筆開始。 冒頭に金子兜太氏の追悼として遺作を掲載する。 併行して一遍会5月例会卓話「遊行上人の伊勢参宮考」の文献を整理する。実に楽しい作業である。 昼食時に「にぎたつ通り」を歩く。市議選立候補の大木さんに出会う。道後人であるので固い握手を交わす。 NHK「西郷どん」を見て「椿の湯」。 【メモ 金子兜太氏遺作】 雪晴れに一切が沈黙す 雪晴れのあそこかしこの友黙まる 友窓口にあり春の女性の友ありき 犬も猫も雪に沈めりわれらもまた さすらいに雪ふる二日入浴す さすらいに入浴の日あり誰が決めた さすらいに入浴ありと親しみぬ 河より掛け声さすらいの終るその日 陽の柔わら歩ききれない遠い家 (俳誌「海程」平成三十年四月号より ) 4月21日(土) 朝食後、畑仕事用のリョウビ製の「カルチベーター」と「マジックトリマー」を点検する。準備完了である。 一遍会5月度例会案内をマスコミ・ミニコミに流す。 一週間分の買出し(フジ、業務スーパー、コンビニ)家事は疲れる。 子規『仰臥漫録』読み始める。死への随想がいかほどあるか。夕方、表庭の草引きと水撒き・・・初夏の雰囲気である。 NHK「ブラタモリ(京都銀閣寺&吉田山)」を見て、「椿の湯」。 4月20日(金) 「妻の七の五十九日」(没413日目)、義安寺に墓参し、半年振りに「奥道後壱湯の守」に出掛け、ランチ&スパ。 従来からのランチの悪評は更に味付け、サービスともに悪化している。坪内社長に出会ったら直接クレームを伝えておきたい。 温泉、特に新緑の中での露天風呂は四国では最高だろう。信州や奥美濃の山の中の温泉をイメージしてもさほど違うとも思えない。 うまくドッキングすれば大繁盛だろうが、本日のランチバイキングは10数名である。 一遍会4月度収支予算をまとめる。5月の連休明けまでに一遍会、子規会の講演録2本をまとめるが、同時に休養もたっぷりとりたいものだ。 夕方になって、表庭の草引き。 19時半から1時間半NHK松山局の特番「四国羅針盤 瀬戸大橋30年」「もっと四国 54年続く愛媛聖火リレー54年の物語(土佐礼子)」を見る。 椿の湯サミットの常連である後藤雅俊さん(道後温泉旅館共同組合事務局長)が登場して54年前の聖火リレーの道後温泉界隈の思い出を語ってくれた。 後藤さんが同年齢であることを初めて知った。明晩の「椿の湯サミット」で同期会結成を提案するか。いやはや。 4月19日(木) 松山子規会決算役員会、同四月度例会(総会)出席(子規博物館)。「にぎたつ会館」での昼食会の後、義安寺墓参、「ふなや」に立ち寄る。 記念講演は竹田美喜子規博館長「『海南新聞』の俳句革新―愚陀仏庵52日の俳句革新―」。竹田氏の「海南新聞」俳句欄の推移と柳原極堂編集主任、子規の愚陀仏庵での松風会の俳句を多面的に取り上げ、重要な「発見」を指摘する。実にインタレスティングな講演となった。 会長は井手康夫88歳翁から70歳代の烏谷照雄氏にバトンタッチ。@子規、子規門の顕彰A松山子規会財政の健全化B現代に合った事業展開(「愚陀仏庵」の復元、ボストン大学子規文庫の充実)がポイントになる。大いに支援していきたい。 丸一日の会議は少々疲れた。「椿の湯」。 4月18日(水) 関西小旅行以降雑事に追われ日記が書けていない。空白の10日間を埋める執筆に追われる。 午後、日野歯科受診(歯石除去)。表庭の草引き。平岡氏から子規会会長選挙の内幕を聞く。「椿の湯」。 4月17日(火) 午前中、野村證券の担当者(高木星爾氏)来訪、運用実績の報告あり。まずまずの運用であり安心する。 ヤングスト孫の中学入学写真を送ってくる。中学の制服を着用すると娘になったなと思う。80爺さんのセーラー服姿の「野菊の君」への憧れは依然として失っていない。いやはや。 一遍会4月例会卓話「『遊行上人伊勢参宮』考」の骨子の取りまとめ。前段は浅山圓祥師『一遍と時衆』、中段は『一遍聖絵』、後段は伊藤聡氏「鎌倉時代における僧徒の参宮よ仏教忌避」をベースにする。 一遍会・田中理事から依頼していた「鎌倉期の宝厳寺」に関する文献が届くが・・・・・ 「椿の湯」。 4月16日(月) 「エデンの園」関連の「ベテル病院」で健康診断を受診する。同病院は老人施設ではないが、老人向け病院の印象が強い。町内会に居住する三好さんは、同病院の専属の医師であり、少しは心強い。 午前中は健康診断で費やし、昼食は身障者施設でもある「花楽里」(カラリ)でする。今回は常連の中西君に出会わず。 帰宅後、表庭の草引き。「フジ」で食料品調達。 時宗本山 長澤昌幸師から返事来る。奥谷宝厳寺開山の仙阿弥陀仏の弟子である尼・珍一房の「我が道場」が松前道場であるとの指摘に驚愕する。史料の分析から、この仮説を否定するのはなかなか難しい。 尼・珍一房を宝厳寺の第二世と位置づけて一遍会では論議してきたので、初心に戻って勉強せねばなるまい。 「椿の湯」。 4月15日(日) 晴天である。厚手の掛け布団やコタツなどを片付け、書斎は一気に夏の装いになる。涼風を部屋一杯に誘って、昼寝には充分なスペースが出来た。 一遍会総会も無事終了したので、会員名簿やIT会員宛名カードなどパソコン作業を開始する。 午後3時間、表の苔庭の雑草を一本一本抜き取る、気の遠くなる作業ではある。 時宗本山 長澤昌幸師から「遊行七祖他阿弥陀仏述『条条行儀法則』講説」届く。一読、二読するも疑問が残る。所見を早々にお知らせしてご教授を頂くことにしたい。 「椿の湯」。 4月14日(土) 一遍会4月例会開催。小沼代表が病気欠席のため、総会は蜂須賀俊一理事が議長となり、恙無く終了する。メインの講義は中止する。その後理事会を開催し、今後の運営につきフリーディスカッション。 定型的な運営は問題はないが、新たな事業展開は、新たに若手の理事を加えて「新しい皮袋には新しい酒を」でいきたいものだ。 疲れが残っており、20時ベッドに入り、ラジオを聞きつつ眠りの入る。 4月13日(金) 一遍会4月例会を明日に控えて、小沼代表から「快復せず、例会欠席」との連絡。総会の対応は可能でも、講師の交代は到底無理である。総会のみ実施と決断して、関係する理事に連絡する。参った、参った。 妻の「七の五十八日」(没406日目)に当たり義安寺に墓参りして、メルパルクでランチ(和食)&スパ。帰宅後、例会で配布する『一遍会報』(第398号)、「一遍会ニュース」、「平成30年度総会資料」を整える。 松山子規会総会を控えて慌しい動きあり、子規・虚子・碧梧桐の対立のなかで、漱石か鳴雪の立場は微妙といったところである。何とかうまく決着してもらいたいところだ。来週初の最後の役員会当日は人間ドックの予約が入っているので欠席せざるをえない。 正子さんから手術の保証人の依頼あり。 研究者であるY氏からの「宝厳寺蔵 河野系図」についての照会の返信。旅に疲れもあり、大事をとって20時就寝、いつの間にか眠っていたようだ。 【⇒ファミリー】 鐘紡入社60周年記念の同期会を昨日大阪で開催し、夜遅く帰宅しました。 「大塚国際美術館」「造幣局の桜の通り抜け」「太閤園の会席と庭園めぐり」と充実した二日間でした。「通り抜け」では7割は見事な花をつけており、今年最後の花見を楽しむことが出来ました。ぜひご覧ください。 ファミリーの連休での帰省が中止になりました。子供が進学期の場合は家族旅行は無理になりますね。祥ちゃんの長男は薬学部、次男は医療大学校で頑張っていました。祥ちゃん夫妻の健闘ぶりに頭が下がります。 冬物のクリーニング、洗濯・・・と、今週は家事多忙になりそうです。いやはや。 【→Y氏】 1、宝厳寺の「河野系図」は、2013年8月10日午後2時10分頃本堂内の漏電による本堂、庫裏の火災で、「系図」は焼失しました。 2、故・長岡隆祥住職は「河野系図」を非公開にしておりましたので、残念ながら宝厳寺蔵「河野系図」の詳細な研究論文にありません。 3、記述しておられます一遍会の越智通敏氏のほかには、同じく一遍会の浅山圓祥師『一遍と時衆』や足助威男氏の著作に断片的には記述されておりますが、現状入手が困難な状況です。 4、『河野系図』のうち通信・通広・一遍に関する部分の写真版が「子規記念博物館図録」に掲載されており、国会図書館のオンラインで閲覧が可能の由です。(10ページ記載)。当方でも複写しておりますが、ご入用であればお送り致します。 政府刊行物 『子規を生む潮流・河野氏と一遍 : 漂泊と定着と』松山市立子規記念博物館 編 松山市立子規記念博物館 1988 (特別企画展図録 ; 第17回) 国立国会図書館オンライン 公共図書館蔵書 4月12日(木) 9時半過ぎホテルを出立。地下鉄「東梅田」から「天満橋」に出て、造幣局の桜の通り抜けの人の流れに沿って歩く。相変わらずの大盛況である。大阪勤務時代には夙川の花見と併せて毎年の恒例の行事でもあった。 大川を渡って川沿いに「太閤園」まで歩き、11時半に着く。ロビーの喫茶室で池西、谷本両君と懇談する。12時半から鐘紡燦々会入社60年記念会開催。 出席は9名(阿部好祐・池西広幸・伊沢信雄・児島寛治・小宮邦彦・谷本健夫・西島靖・羽路正治・三好恭治)。幹事の難波進君は手術のため入院中。 二時間の宴会の後、園内を散策し、米寿での再会を約して散会する。 梅田に出て、16時20分発のJRバスで帰松、6時間後帰宅する。 4月11日(水) 松山発07:20「いしづち8号」、高松発10:11「うずしお」9号で池谷乗換えで鳴門に11:38着。徳島バスで定刻12:14に「大塚国際美術館」着。 美術館見学は7〜8年振りかな。「マップ&ガイド」を参考に鑑賞する。今回の目玉は「7つのひまわり」である。 約2時間半見学して、14:55発の岸和田行きバスに乗り神戸駅17:00着、久しぶりの神戸駅である。JRで大阪に向かい「サンメンバー梅新」に泊まる。 4月10日(火) 午前中、ダイキで一遍会4月度例会配布資料(『一遍会報』「一遍会ニュース」「平成30年度総会資料」)印刷。 午後、日野歯科で定期検査。特に治療箇所もないらしく「80歳26本」は健在である。例年通り、数回歯石とりで通院することにはなるが・・・・・ 大阪に一泊旅行に出かけるので、念入りに戸締りとバックの中を点検する。 4月9日(月) 天気よし。洗濯から一日が始まる。 午前中、東京から村上公平君来訪。MK4人組も他界し二人になってしまった。実兄の村上空山師はリハビリに集中しておられ最近車椅子で上京された由、安心する。「大黒屋」で鯛釜飯を食べ別れる。 午後、松山子規会の平岡氏来訪、次期会長問題と松山子規会の将来構想を話し合う。 5月の連休に息子ファミリー帰省の由、2ファミリー8名の「接待」は老躯には負担が大きいので、大型連休の前半・後半に分けて帰宅するように連絡する。 「椿の湯」。 4月8日(日) 伊予史談会4月例会出席(県生活文化センター)。 1、総会 2、森伸一郎氏(愛媛大学防災情報研究センター)「歴史と地震工学から学ぶ南海地震に備える防災減災」。 高校同期会の最後の会長であった大川治君の死去を「愛媛新聞」で知る。葬儀は本日の午前中のため出席出来ず。初代豊後屋、四代大川両君死去で、一応健在なのは二代石川君と三代の老生となった。寂しい限りである。 晃子さんと松山神社に奉納する狂言を鑑賞する。毎年出掛けているのだが、本年は「富士松」である。演者はシテ(大名)古川道郎(太郎冠者)古川喜朗。子息の喜朗さんのトチリが気になる。努力大成を祈りたい。「椿の湯」前「かどや」で夕食。 【メモ 森伸一郎氏講演から】 @宇佐美竜夫『日本地震被害総覧』 A歴史的南海トラフ地震 規模 湯峰 道後 天武(684)8.25 × 仁和(887)8.25 承徳(1099)8.2 正平(1361)8.4 × 慶長(1602)7.9 宝永(1707)8.4 × ×(145日) 嘉永(1854)8.4 × ×( 61日) 昭和(1946)8.0 × × B東海・東南海・南海地震(東南海地震) ⇒複合地震でも南海地震単独でも四国の地震震度(振動)に差異はない。 4月7日(土) 冬に逆戻りしたような寒さである。日中、霰も降る。外出もままならず、書斎やリビングの片付け。 玉井健三著『江戸・東京のなかの伊予』入手。人文社編『切絵図・現代図で歩く江戸東京地図』を手元において、松山藩江戸藩邸の上屋敷・中屋敷・下屋敷などなど所在を足しかける。 明年松山子規会で講演する「『松山 子規事典』」も中の江戸・東京」の構想を夏までにはまとめなければと思う。 「カルテベーター」一式(RYOBI電気カルチベータ(ACV-1500)3点セット)が届く。妻をなくして遠ざかっていた百姓仕事をいよいよ再開するか。 「椿の湯」。 4月6日(金) 終日雨である。桜もこの雨で花を散らしてしまうのだろうか。 一遍会5月例会での卓話「『遊行上人伊勢参宮』考」につき、一遍、真教、一向の記述から、神社参拝データを整理する。 伊勢神宮の「神使」は「鶏」であるが、一遍の場合何故「蜂」なのか、疑問が残る。 義安寺参詣、線香を供える。メルパルクでランチ(和食)&スパ。エレベーターで宝厳寺総代会の面々と出会う。 【→ファミリー】 今日4月6日(金)は「母さんの七の五十七日」(没399日目)です。 わが家の庭の満開の桜も葉桜になってきましたが、紅白の「はなみずき」と「芝桜」が庭の華やかさを支えてくれています。もっとも雑草も元気にぐんぐん伸び広がっているので、正直うんざりもしています。 先週は別府へ出かけましたが、来週は大阪で鐘紡の同期会(燦々会)に顔を出します。総員33名でしたが参加者は10名を切ります。6割は亡くなりました。初任の大垣工場の同期4名中2名亡くなりました。寂しい限りです。関西でゆっくりしたいのですが週末に「一遍会」があるので急いで帰ります。 4月5日(木) 玉井健三著『江戸・東京のなかの伊予』をアマゾンで注文。送料を加えても半額である。 昨日の監査で指摘があった「一遍会総会資料」の訂正(『会報』を加える)。6月度一遍会例会講師がある。圓増治之氏(愛媛大学名誉教授)にテーマと「一口メモ」を依頼など。 5月度卓話「遊行上人の伊勢参宮考」(仮題)の骨子をまとめる。伊勢神宮を「神仏混淆」の範疇で捉えることには無理がある。「天皇家」の私的神社であるとすると、何故伊勢に所在するのか・・・・・ 夕、家庭園芸に使用する機械、器具の点検、整備作業。なんとか4月中には終了させたい。 TV「プレバト」を見て「椿の湯」。 愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センターから『四国遍路・世界の巡礼』(2018NO.3)が届く。 4月4日(水) 午前中は県図書館(返却:玉井健三著『江戸・東京のなかの伊予』)、県美術館(友の会継続手続き)、NHK松山放送局(「西郷どん」展)を回る。 午後は「スタバ大街道店」で一遍会平成29年度収支決算の監査を受けて15時帰宅する。夕方、「フジ」で食料品の調達。20時「椿の湯」に出掛け、一日が終了する。 県図書館で思わぬ収穫あり。多年一遍は何故伊勢神宮に参詣しなかったが疑問であったが、伊藤聡論文「鎌倉時代における僧徒の参宮と仏教忌避」を一読し、充分な事由があったことが分かった。一遍会5月度例会で卓話「遊行上人の伊勢神宮参宮」として報告することにした。 【メモ】 シリーズ日本文学の展望を拓く 第3巻 『宗教文芸の言説と環境』(笠間書院)2017年11月10日 伊藤聡「鎌倉時代における僧徒の参宮と仏教忌避」 (ウイキペデイア) 伊藤聡(いとう さとし、1961年 - )は、日本の思想史学者、茨城大学教授。 岐阜県生まれ。1985年早稲田大学文学部卒業、96年同大学院東洋哲学専攻博士課程満期退学。茨城大学助教授、2007年准教授、のち教授。2008年「天照大神信仰の中世的展開」で早大文学博士。2012年『中世天照大神信仰の研究』で角川源義賞受賞。 著書[ 編集]. 『中世天照大神信仰の研究』法藏館 2011; 『神道とは何か 神と仏の日本史』 2012 中公新書. 共編著[編集]. 『神道 日本生まれの宗教システム』井上順孝編 遠藤潤、森瑞枝共著 ... 4月3日(火) 快晴である。 一遍会総会資料の印刷終わる。田中、蜂須賀理事と総会についての業務打合せ。三月例会の講演をお願いした竹田美喜氏から『一遍会報』の草稿届く。竹田氏の講演抜粋と[ 一遍会平成30年度総会報告書」で4ページの割付完了。一件落着である。 HP一遍会の4月改訂版完了し、アップロードする。 「椿の湯」。 【→俳友】 平成30年4月 「 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 子規 」 子規記念博物館(館長 竹田美喜氏)選句の子規さんの平成30年4月の句は「故郷や どちらを見ても 山笑ふ 子規」です。 季語は「山笑ふ」(春)です。『子規全集』第一巻 「寒山落木 巻二」206頁(明治二十六年 春)に掲載されています。 この句と並んで「恐ろしき 灘をへだてゝ 山笑ふ」を詠んでいる。灘はおそらく伊予灘であろう。また「のどかさに耳なし山も笑ひけり」がある。ともに明治26年の作である。 もっとも子規は明治26年には帰省していない。至近の帰省は明治25年で、故郷の家を畳んで、母と妹を東京に迎えている。 「山笑ふ」の出典は『臥遊録』の「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如し」に拠っている。文人にとってはステレオタイプの情景か、あまり著名な俳句も生まれていない。 「越の雪大蓮華山笑ひけり はぎ女」 「津軽野の泣面山も笑ひ初む 蓬 矢」 など文字遊びのようだ。子規の「のどかさに耳なし山も笑ひけり」も同趣向か。 子規の故郷の「どちらを見て」の山は、城下の中心にある城山、東の道後・湯山、南の砥部や皿ヶ峰、障子山、北の高輪山、西の大峰ヶ台など、山、山、山である。陸奥や北陸の自然が春近くなって一斉に生き生きと動き始める情景は想像できるが、温暖な四国では如何なものか。 という次第で、子規さんの句の「どちらを見ても」も借用しての一句 「城山やどちらを見ても花見客」 子規もどき」 道後関所番 4月2日(月) 3月27日の松山子規会役員会で平成30年度役員人事を内定できなかったので、午後再度役員会を開催。最初のボタンの掛け間違いもあり、会長を一人にしぼれ切れなかった。困ったものである。 帰宅後、4日に予定している一遍会の会計監査と総会資料の準備に注力する。「椿の湯」にも出かけず、23時まで頑張る。寝つきが悪く困った。 4月1日(日) 休養中の小沼一遍会代表から4月例会「出席」の連絡があり、「一遍会4月度例会案内」を会員にメールする。マスコミ、ミニコミにも連絡する。『一遍会報』第397号の印刷発行で準備完了となる。やれやれ。 午後、高校の仲間とコーヒーを飲みながら談論風発・・・・・学生時代を思い出す。調子に乗りすぎて、肝心の町内会総会を欠席す。 夜、「椿の湯サミット」で総会の報告を受ける。町内会もゲマインシャフトからゲゼルシャフトに移行しつつあることを痛感する。それだけ都市化したのか、それとも人情が希薄になったのか。 |