第百三段  子規博 俳句  (令和4年1月〜


令和四年一月 「初空に 去年の星の 残りかな   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年一月の句は「初空に 去年の星の 残りかな    子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 162頁「寒山落木 巻四(明治二十八年 新年)と第二一巻 草稿ノート128頁「附明治二十八年俳句草稿補遺」(明治二十八年新春)に掲載されている。季語は「初空」(新年)である。「補遺」では「初空に 去年の星の 残り哉」となっている。

元日の朝、新しい空を仰ぐと、昨夜(大晦日)の星が残っている。同時に、昨年の名残惜しさを感じる。

この句を現代の作と仮定すると、新型ウイルスの対決する医師の真摯な姿と反省と希望を表願した医師自身の句ではないかと思う。そしてそのように思いたい。何とか、今年は新型コロナを克服してほしいものだと思う。

ところで、この句は子規の句である。子規記念博物館 西岡美咲学芸員の作品の背景の解説が手元のあるので借用したい。

 「明治二十七年、新聞「日本」の姉妹誌「小日本」が発刊されると、子規は編集責任者に抜擢され、執筆から企画・編集・寄稿も交渉に至るまで、寝食を惜しむほど熱心に紙面の作成に取り組む。「小日本」は経済的な理由から、半年足らずで廃刊となる。力を入れてきた「小日本」の廃刊は子規は大きく落胆する。・・・志半ばとなった悔しさをバネに、新しい文学の道を力強く進めていく。」

筆者は「米寿」(数え年)を迎えた。子規さんにあやかって駄句を詠んだ。

 「行く年の鐘八十八かぞへけり  子規もどき」

 「星空に除夜の余韻が流れけり  子規もどき」


令和四年二月 「子に鳴いて見せるか雉の高調子   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年二月の句は「子に鳴いて見せるか雉の高調子    子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 56頁「寒山落木 巻一(明治二十五年 春)に掲載されている。季語は「雉」(春)である。

「焼け野の雉子(きぎす)、夜の鶴」と古来から歌われているように、雉の親子の情愛は深いものがある。雉の高い鳴き声は危険を知らせるものか、親の所在を知らせるものか、

芭蕉の「父母のしきりに恋し雉子の声」「蛇くふと聞けばおそろし雉子の声」には親子の真の情愛がにじみ出ているが、二十五歳の子規にとっては雉の高調子の鳴き声は進軍ラッパであったのだろうか。

四月に文化大学の遠足で教授、学性一同、狭山、所沢へ旅行しているので、武蔵野の実景かもしれない。

個人的には雉を近くで見たのだ道後動物園だったが、国民学校一年の学芸会の「桃太郎」で雉役で舞台に上がった記憶がある。「学芸会犬猿雉の揃い踏み」である。

子規さんにあやかって一句

 「青葉梟の声静まりぬ子の寝息  子規もどき」


令和四年三月 「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年三月の句は「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す    子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 398頁「寒山落木 巻五(明治二十九年 春)に掲載されている。季語は「長閑<のどか>」(春)である。

句会で作者を不明にして鑑賞させれば、恐らく多くの俳人は以下の様な鑑賞をするのではあるまいか。

新型コロナの蔓延化の中で、部屋に閉じこもりがちである。春の陽気に誘われて、(施設の)老人も、杖をついて、三々五々庭園をうろつき、話に興ずる。のどかなひとときである。

句会の宗匠も、同感の意を表するに違いあるまい。それほどに平凡な句であるが、作者が分かると、それなりに解釈が高尚になっていくのは困ったものだ。

子規が詠んだこの句の庭は現存する東京の子規庵の20坪ほどの庭である。「小園の記」「庭」「根岸草蘆記事」などに、この庭の佇まいを書き残している。

子規さんに最大限の皮肉を込めて一言いうと「のどかさや 杖ついて庭を 俳諧す 」と詠んで欲しかった。
「人偏」に「非」の「俳」は「人に非ず」であり、「人間業とは思えない」「類まれな」の意である。「俳」は「俳諧(俳句)」や「俳優」以外には一般的ではない語である。
「徘徊」の「徘」は「行人偏」に「非」であるが「行きつ戻りつ、歩きが定まらぬ」という意であろうか。

70年ほど前のことになるが、松山東高校の国語の授業で中村草田男先輩の「降る雪や明治は遠くなりにけり」に類似する句を宿題に出したら大江健三郎先輩が級友に上句だけを変えた句を配って授業を混乱させたらしい。先輩である渡部克己先生(愛媛大学教授 『子規全集』編集委員)から伺った実話である。たとえば「初雪や」とか「名月や」とか・・・

偉大なる諸先輩にあやかって、松山東高校の母胎(前身)である松山中学校の先輩でもある「正岡常規」兄に数句捧げる。

「のどかさや 杖ついて庭を 徘徊す   子規」   (春)

「薫風や   杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(夏)

「さわやかや 杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(秋)

「冬晴れや  杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(冬)

「初空や   杖ついて庭を 徘徊す   子規もどき」(新年)

久しぶりに道後関所番も俳人気分になりましたわい。いやはや。


令和四年四月 「ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年四月の句は「ふらふらと 行けば菜の花 はや見ゆる    子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 241頁「寒山落木 巻二」(明治二十六年 春)と、第四巻 俳論俳話一 314頁「獺祭書屋俳話付録 俳句」(明治二十八年)に掲載されている。季語は「菜の花」(春)である。

ふらふらと野道を歩いていると、黄色に色づいた菜の花があちらこちらに咲いている。食いしん坊の子規さんは、夕餉の菜の花のおひたしを連想したのかもしれない。平和な、のんびりした春の日常のひとこまである。

子規は明治25年2月29日、駒込追分町から陸羯南の西隣の下谷区上根岸町88番地に移転する。翌年2月に「根岸十二月」と題して詠んだ二月の句である。

 一月 鶯よ名所の声は何となく
 二月 ふらふらと行けば菜の花はや見ゆる
 三月 山桜杉の闇よりもれにけり
 四月 わが庵は汽車の夜嵐時鳥
 五月 古澤や家居の中に鳴く水鶏
 六月 妻よりも妾の多し夕涼み
 七月 朝顔の入谷豆腐の根岸かな
 八月 ありく程の庭は持ちけりけふの月
 九月 菊の垣犬くぐりだけ折れにけり 
 十月 名物の蚊の長生きや神無月
十一月 呉竹の名に音立てゝ霞かな
十二月 掛乞ひに根岸の道を教へけり

一年12句を通して句を鑑賞すれば、子規庵の風情が目に浮かんでくる。子規は根岸近郊を吟行したのであろう。戦前のじじ・ばばには、懐かしい光景である。

子規さんにあやかって一句

「ふらふらと行けばてふてふ先導す   子規」  


令和四年五月 「夕風や 白薔薇の花 皆動く  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年五月の句は「 夕風や 白薔薇の花 皆動く   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 507頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 夏)と、第三巻 俳句三 649頁「獺祭書屋俳句帖抄」(明治二十九年 夏)、第十九巻 書簡二  37頁 高浜清(虚子)宛に掲載されている。季語は「薔薇」(夏)である。

明治二五年、初期の作品である。すでに「子規庵」に移っている。下町の夏は蒸し暑い。
夕風が吹いてきた。白薔薇の花が一斉に揺れ動く。夕陽に映える白薔薇の香りと色彩が、庭一面に広がる。病身の子規にとって、この一陣の夕風と白薔薇で、救われた気分になって、穏やかなひとときを過ごしている。食いしん坊の子規さんには、夕餉が待ち遠しいのであろうか。

子規博の学芸員西岡美咲さんの解説によれば、この句の初出は高浜虚子宛書簡(明治二九年六月二〇日)で、四年も経過している。

『早稲田文学』第四二号では、門人である「中野其村」の「夕風や二階に上る夏の月」を紹介し、子規のその「上の一句」の「夕風や」をとって自身のこの句を並べた。子規の「白薔薇」の採り上げで、涼やかな夏の夕べが身近に迫ってくるようだ。
子規は「中の一句を取りて」や「下の一句を取りて」と題して、俳句のつながりを広げている。

子規さんの代表句「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」は、友人漱石の「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺  漱石」の「調べを取りて」というべきかな。いやはや。
 
子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「白薔薇の戸に表札のあたらしく  子規もどき」

拙宅界隈は道後温泉界隈から徒歩一〇分くらいの閑静な住宅地である。マンションや戸建ての新築も多いが、内部を改装して庭はそのままでという転居者も結構多い。つい最近のこと、白薔薇の花の咲いた入り口に新しい表札が・・・・
聞けば、市内の有名な医師で、病院は息子の譲って、老夫婦で静かに余生を送りたいとのことである。

「無一物中無尽蔵 有花有月有出湯  一遍もどき」  いやはや。 


令和四年六月 「紫陽花に 絵の具をこぼす 主哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年六月の句は「紫陽花に 絵の具をこぼす 主哉  子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 260頁「寒山落木 巻四」(明治二十八年 夏)と、第二十一巻 草稿 ノート 68頁 病余漫吟(明治二十八年 夏)に掲載されている。季語は「紫陽花」(夏)である。

「病余漫吟」でこの句の推敲過程が分かる。

元の句は「紫陽花に絵の具こぼせしあるじ哉」である。「こぼせし」が過去形であり、「こぼす」は現在進行形であり、描写の強弱がよくわかる、
「あるじ」と「主」は、上・中・下句の漢字のバランスから見て「主」であろう。

紫陽花はその色の変化が多様で、咲き始めは淡い白っぽい感じだが、緑・青・紫と七変化する。もっとも、地中が酸性なら紫色で、アルカリ性なら青色になるといえば、詩情が吹っ飛んでしまうかな。

明治二八年といえば、子規が神戸病院に入院していた時期であり、病床から紫陽花を終日眺めたのだろう。となると、この主は、必ずしも子規と特定できないが・・・・・

紫陽花の色彩の移ろい、天候や一日の時刻の推移でも目に映る紫陽花の色合いに、誰かが絵の具をこぼしているようだと思ったに違いない。

結核が回復すれば、絵心のある子規さんだけに、自分もまた絵筆を持ちたいと思ったに違いあるまい。

子規さんは、その後、松山に帰省し、愚陀仏庵で漱石と共に五二日間過ごし、再度上京し俳句革新に燃えるが、俳句を通して大自然のキャンバスに十七文字の絵の具をこぼして行ったのは、子規さんその人であった。

子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「紫陽花が 手招く庭や 病み上がり  子規もどき」


令和四年月七月 「夏山のすずみや海は一里先  子規」 ]

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修フ子規さんの令和四年七月の句は「夏山のすずみや海は一里先   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 440頁「寒山落木 抹消句」(明治二十五年)に掲載されている。季語は「夏山」(夏)である。

今回も抹消句である。なぜ抹消句が子規さんの代表句として紹介されるのか、その意図が分からない。作者としては不満足だから抹消したのではあるまいか。ある意味で子規さんに対する現代人の冒?ではあるまいか。

夏山の、目には青葉の茂る木々の間の山道を登っていく。途中に、爽やかな風が汗で火照った頬を心地よく撫でて通る。(常套句的な表現になったが・・・)誰しも経験する山登りの記憶であろう。

頂上まで登りきって、あるいは途中の木陰かもしれないが、眼下に(一里先に)広がる海を眺めて、開放感に浸る。ひとり歩きもよし、夫婦歩きもよし、ツアー歩きもよしである。

子規さんは、健康な時も、病を患っても、数多くの旅をし、数多くの俳句を詠み。紀行文にまとめている。多くはひとり旅である

松山でいえば、四国霊場五十二番札所 瀧雲山 護持院 太山寺(山)を思い浮かべる。忽那七島も遠望できる。高浜から登っても、堀江から登っても、一汗も二汗もかく山である。
(注)太山寺を大山寺と誤記すると、鳥取の名山「大山」の麓にある「大山寺」になる。

子規さんにあやかって「よもだ句」を一句

「サマーコンサートの夕 宿は一里先  子規もどき」


令和四年月八月 「芭蕉破れて 古池半ば 埋もれり  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年八月句は「芭蕉破(や)れて 古池半ば 埋もれり  子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 332頁「寒山落木 巻四」(明治二十八年秋)と第二十一巻 草稿ノート 102頁「病余漫吟(明治二十八年秋)に掲載されている。季語は「芭蕉」(秋)である。

同時期の芭蕉の句が四句ある。

 壁隣 芭蕉に風の わたりけり
 芭蕉四五株 朱蘭の橋の 苔ぬれたり
 黄檗の 山門深き 芭蕉かな
 猿松の 狸を繋ぐ 芭蕉かな

俳人芭蕉の深川の庵室には芭蕉が植えられた。俳号にもなった芭蕉であるが、芭蕉の葉は非常に裂けやすく、その性質から侘び感があり、庭園や寺院の境内に植えられてきた。

この句は明治28年の句で、日清戦争従軍の帰途喀血し、その後,松山で漱石と共に「愚陀仏庵」の50日余を過ごし、帰京し、根岸の自宅で庭を眺めての「想像上の写生句」だろうか。

正直なところ、芭蕉、古池とくれば、誰しも「古池や 蛙飛びこむ 水の音」が浮かぶだろう。その方が素直な鑑賞かも知れない。

同郷の後輩として素直に返句したい。お許しあれ。

 「子規逝きて百年余 古池に夏草   子規もどき 」

令和四年月九月 「海原や 空を離るゝ 天の川  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年九月句は「海原や 空を離るゝ 天の川   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 538頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 秋)と第十九巻 書簡二 190頁 「書簡」(明治三十年 高浜清宛)に掲載されている。季語は「天ノ川」(秋)である。

高浜清(虚子)宛の書簡には11句「天の川」の句が併記されている。
 
 三尺の 幅とこそ見れ 天の川
 行行て 左になりぬ 天の川
 海原や 空を離るゝ 天の川
 野の空や ものをはなるゝ 天の川
 膳所越えて 湖水に落ぬ あまの川
 川上ハ 東と見えて 天の川
 立てかけし 杉の丸太や 天の川
 北国の 庇は長し 天の川
 天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ
 天の川 山なき国の 真上哉
 複道や 銀河に近き 灯の通ひ

写生(描写)句としては「天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ」が秀逸であろう。

夜の静かな海原に空の星々が写って、天の川が夜空を離れて海に流れて来たようだ。天と地が渾然一体となった大自然の中で、我もまた溶け込もうとしている。嗚呼! 

雄大な句である、「天の川」といえば、織姫と牽牛(彦星)の年一度の逢瀬の句が多いが、子規さんは「天の川」そのものを歌い上げている。

子規さんにあやかって、さらにどでっかい句を子規忌(九月十九日)を前にして霊前に捧げたい。

  「天の川 空即是色 白き道   子規もどき」

  (「白き道」とは「二河白道」に拠る。南無阿弥陀仏)


令和四年月十月 「紅葉して 錦に埋む 家二軒  子規 」

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十月句は「紅葉して 錦に埋む 家二軒   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句二 367頁「寒山落木 巻五」(明治二十六年 秋)と第十三巻 小説紀行 584頁 「三方旅行」(金衣公行 水晶花見)に掲載されている。季語は「紅葉」(秋)である。

俳句の季語では「紅葉」は、「雪・月・花」、「時鳥」とあわせて「五個の景物」に数えられ、更に「錦」とくれば、下世話調で言えば「居る居るどんどん」であろう。
家一軒は寂しい、三軒なら多すぎる。 与謝蕪村の句に「五月雨や 大河を前に 家二軒」とある。

本句は、新聞「日本」に掲載された「三方旅行」の句で「瀧川紅葉」と前書きがある。「三方旅行」とは日本新聞の記者が「天然界」「実業界」「風俗界」の三方に別れての掲載記事である。

子規は「天然界」を担当し。下記の六句を詠んでいる。云うまでもないが、中国の風光明媚な景勝を描いた「瀟湘八景図」あやかっている。

飛鳥櫻花   花咲て けふや飛鳥の 春七日
大塚夕照   野開きて 夕日のどかに 八百里
豊嶋帰帆   若葉して 白帆つらなる 川一筋
権現森夜雨  聞て居て 涼しや闇の 雨三更
滝川紅葉   紅葉して 錦に埋む 家二軒
狐廟秋月   月満ちて 小豆の飯に 芋一串瀟湘八景
神宮落雁   雁落ちて 冬田に崩す 一文字
筑波暮雪   雪晴れて 筑波我を去る こと三尺

俳句のよる東京散歩でもある。ちなみに「道後八景」を挙げておきたい。地元の俳人がmそれぞれに俳句を詠んでいる。
 
義安寺蛍
奥谷黄鳥
円満寺蛙
冠山杜鵑
御手洗水鷄
湯元蜻蛉
古濠水禽
宇佐田雁  

 日本の片田舎の人気番組に「ぽつんと一軒屋」がある。全国のシニアにとって知名度の高い番組でもある。わが家は町中の「ぽつんと一軒屋」に住んでいるのだが・・・・・

 「『ぽつんと一軒家』紅葉に埋む    子規もどき」
 
 TVの見過ぎ・・「独立自尊」ならぬ「独立自存」で自然と共に生きる同輩への応援歌である。いやはや。


令和四年月十一月 「裏表 きらりきらりと ちる紅葉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十一月句は「裏表きらりきらりとちる紅葉   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 171頁「寒山落木 巻一」(明治二十五年 終わりの冬)と第十三巻 小説紀行 519頁 「日光の紅葉」(明治二十五年)、十六巻 俳句選集 571頁 獺祭書屋俳話 選句集 に掲載されている。季語は「散紅葉」(秋)である。

「日光の紅葉」(明治二十五年)に記載されている句のみ「裏表きらりきらりと散紅葉」 となっている。

「散紅葉」は「ちりもみじ」と詠むと思うが、「ちりもみじ」と「ちるもみじ」の情景は随分違うと思うが、俳人はどのように鑑賞しているのだろうか。

「きらりきらり」と散る様は、最高、最上の日本語の表現である。まさに子規さんの写実表現である。裏と表の微妙に異なる紅葉を、おなじ口調で表現できるとは・・・

この句は、明治25年、内藤鳴雪と日光に出掛けた時の旅の句であり、紀行文には数多くの「日光の紅葉」が歌いこまれている。中には、鳴雪翁との掛け合いのような句も散見する。

詳しい説明は割愛して、句をと通して、日光の紅葉と鳴雪翁と子規の旅姿を想像してもらいたい。

 「春の花は見るが野暮なり、秋の紅葉は見ぬが野暮なりと独り諺をこしらへて其言いわけに今年は日光の紅葉狩にと思い付きぬ。先づ鳴雪翁をおとづれてしかじかのよしをいへば翁病の床より飛び起きて我も行かんと勇み給ふ。」


 先生の草鞋も見たり紅葉狩
 日光は杖にするきも紅葉かな

 岩山やさけめさけめの薄紅葉       鳴雪
 すがりつく蔦もかつらも紅葉かな      鳴雪

 紅葉より瀧ちる谷間谷間かな
 中の茶屋はるかに見えて紅葉かな    鳴雪
 紅葉見え瀧見える茶屋の床机かな

 秋の山瀧を残して紅葉かな
 湖をとりまく山の紅葉かな
 石壇や一つ一つに散紅葉
 おくつきを守り申すぞむら紅葉       鳴雪
 神杉や三百年の葛紅葉

子規さんにあやかって一句

  三十年前、妻と中禅寺湖畔に泊る

  「全山の紅葉を映す 湖静寂   子規もどき」


令和四年月十二月 「淋しさもぬくさも冬のはじめ哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和四年十二月句は「淋しさもぬくさも冬のはじめ哉   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 129頁「寒山落木 巻三」(明治二十七年 終わりノ冬)に掲載されている。季語は「初冬」(冬)である。

冬枯れていく辺り一面の光景の淋しさと、冬日和のぬくもり、その対蹠的な大自然のいとなみに冬のはじめを感じます。

実はこの句を読んで、捨聖一遍さんの遊行・賦算の旅の光景が浮かんできました。国宝『一遍聖絵』には踊り念仏が描かれています。念仏で救われた庶民の歓喜の「ぬくもり」まで伝わってきました。

踊り念仏といえば、このたび「ユネスコ無形文化遺産」に登録された「風流踊」の中に佐久「跡部の踊り念仏」も入っています。時代を越えた「ぬくもり」も感じます。一遍さんも驚かれたことでしょう。

話が脱線しました。子規さんに戻ります。

 この句は、明治27年11月26日、子規の散策中の句です。7月に子規が編集責任者を務めた新聞『小日本』が廃刊になり時間的な余裕が出来たのか、毎日のように郊外散策したようです。

 子規は「秋の終わりから冬の初めにかけて毎日のように根岸の郊外を散歩した。そ時はいつでの一冊の手帳と一本の鉛筆を携えて得るに随て俳句を書きつけた。写生的の妙味はこの時に始めてわかったような心持がした」と後に述べています。

子規さんにあやかって一句

「ウイルスの居座る冬の初めかな    子規もどき」

「淋しさもぬくさも冬の遊行かな    一遍もどき」


令和五年月一月 「水仙も 処を得たり 庭の隅  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年一月句は「水仙も 処を得たり 庭の隅   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 123頁「俳句稿」(明治三十年 冬)と第十五巻 俳句会稿 609頁(明治三十年)に掲載されている。季語は「水仙」(冬)である。

 この句の詞書に「新宅祝」とある。明治30年には、高浜虚子が結婚を機に日暮里村に新居を設けたので、句会の題に「新宅祝」とされたのであろう。

虚子の新宅のイメージが湧かないが、寒気の中でも凛と咲く水仙を通して、虚子の門出を祝う子規の気持ちが伝わってくる。

虚子の妻は、河東碧梧桐の「思われ女<ひと>」であったが・・・漱石の「こころ」をイメージする。恋はいつの時代でも苦しいものである。

同句会での「交りは安火<あんか>を贈り祝ひけり」(河東碧梧桐)を虚子が採っている。微妙な友情の世界であろうか。

他の参加者の句も披露しておこう。

新宅を 賀すべく冬至 梅一枝    愚哉

新宅に 春待つ君を なつかしむ   繞石

新宅の 庭に咲きけり 玉椿     春風庵

子規さんにあやかって一句

元旦の時宗宝厳寺にて

「子を抱く庵主の正座 日向ぼこ   子規もどき」


令和五年月二月 「公園の 梅か香くはる 風のむき   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年二月句は「公園の梅か香くはる風のむき   子規 」です。

子規「ノート」に明治22年4月5日付で記入されている。季語は「梅が香」(春)である。この「ノート」であるが、第一高等学校在学中、受講ノートの余白に書いたもので、俳句のほかに和歌、漢詩、小説など多岐に渡っている。

4月5日当日は、6日間の水戸旅行の途中で、梅の名所「偕楽園」を訪ねている。メモでなく受講ノート持参の旅行とは、ほほえましい。

(この項は、子規記念博物館 野口稔里学芸員の解説に拠る。)

月初に当月の子規さん句を確認に子規博に出かける。子規博に「仕掛け」があって、正面玄関の懸垂幕で道行く人にも「子規さんの句」がわかるようにしている。

懸垂幕を眺めて、この句を「公園の梅か 香ぐ 春風の向き  子規」と読んだが、梅と春風との「季重なり」である。凡句だなと感じた。

「公園の 梅が香配る 風の向き  子規」と分るまで、結構な時間がかかった。俳句とは難しい。いやはや。

句意は、公園(偕楽園)の広い園内を歩いていると、梅の香りが風に運ばれてくる。時には鼻につき、時にはほのかに香りが漂う。香りの微妙な変化と風の向きの感覚が、子規さんの鋭い観察眼といえよう。

梅の季節に、学生時代から偕楽園には何回か訪ねたが、水戸烈公や水戸学の歴史に視点があり、折角の梅の香まで味あう余裕はなかった。残念、残念。

子規さんにあやかって一句

「梅の香や 水戸烈公の 潔さ   子規もどき」
パソコンの容量がフルになりましたので、「松山発 子規サロン」第17 「子規さん俳句鑑賞」(続)に令和5年1月度から掲載しています。

令和五年月三月 「大仏のうつらうつらと春日哉  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年三月句は「大仏の うつらうつらと 春日哉   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 193頁「寒山落木 巻二」(明治二十六年 春)と第十三巻 小説 紀行 528頁「鎌倉一見の記」(明治二十六年)、第二十一巻 草稿 ノート 9頁「寒山落木別巻」に掲載されている。季語は「春日」(春)である。

 「寒山落木別巻」では「大仏のうつらうつらと春日哉」であるが、「寒山落木 巻二」「鎌倉一見の記」では「大仏のうつらうつらと春日かな」である。研究は別として、メモ
でなく公表(出版)された作品の句(この場合は「大仏のうつらうつらと春日かな」)を用いるべきであろう。

春のうららかな日に、訪れた(鎌倉)大仏の穏やかな表情はうつらうつらと微睡んでいるようだ。眺める観光客も同様だ。鎌倉市民も、鎌倉も、」ゆったりと春日を楽しんでいる。子規さんも東京への帰途、うつらうつらと微睡んで汽車の旅を楽しんでいる。

この句は「鎌倉一見の記」(明治二十六年)でエッセイとしてまとめているように、保養中の日本新聞社社長「陸羯南」を訪ねた旅の中で詠まれた。

   蛙鳴く 水田の底の 底あかり
   鶯や おもて通りは 馬の鈴
  
    鶯や 左の耳は 馬の鈴
   岡あれば 宮宮あれば 梅の花
   
   家ひとつ 梅五六本 こゝもこゝも
   旅なれば 春なればこの 朝ぼらけ

   陽炎や 小松の中の 古すゝき
   春風や 起きも直らぬ 磯馴松(そなれまつ)

   銀杏とは どちらが古き 梅の花
   陽炎と なるやへり行く 古柱

   鎌倉は 井あり梅あり 星月夜
   歌にせん 何山彼山 春の風

   大仏の うつらうつらと 春日かな
   梅が香に むせてこぼるゝ 涙かな

明治26年当時の鎌倉の春の情景が浮かんでくるようだ。

子規さんは「大仏」が気に入ったのか、前句で大仏を詠んだ句が65句ある。(『子規俳句索引』子規博編)

「鎌倉一見の記」は「泣く泣く鎌倉を去りて再び帰る俗界の中に筆を採りて鎌倉一見の記とはなしぬ」で結んでいる。

子規さんにあやかって一句
 
  妻の七回忌を父子三人で送る   

 「七回忌 うつらうつらと 春暮れる   子規もどき」  道後関所番



令和五年四月 「夜桜や 露ちりかゝる 辻行燈  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年四月句は「夜桜や 露ちりかゝる 辻行燈   子規 」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 57頁「寒山落木 巻一」(明治二十五年 春)と第十八巻 書簡一 265頁「五百木良三宛明治二十五年二月二十一日カである。

子規の名を伏せて鑑賞するとすれば「辻行燈」から明治初期、場所を上野とすると、吉原の帰途か、上野公園での逢引きを連想し、艶っぽい句と感じるのは、わが性の因果か。

ほのかな辻行燈の辺り、桜の花びらが露を含んで散っていく。連れは女性、それも玄人筋だろう。夜も更けてくる・・・・・・

70年近い昔、下宿先のお嬢さんと洗足池公園の夜桜を愛で散策したことがあるが、「露ちりかかる」という風情は浮かばない。

露伴か、紅葉か、それとも歌舞伎の一場面か。ここで種明かしがあって「子規作」という。

この句は、「燈火十二ヶ月」と題した十二句の中の一句で、子規の詩湯していたランプの笠に書かれている。
 
この「燈火十二ヶ月」の句を詠んだ時、大学の試験勉強中であったが、俳句が一句、一句とと浮かび、試験勉強をお預けして俳句つくりに熱中して・・その結果、この時の試験?は当然無残な結界に終わる。

子規らしい性向ではあるが、松山藩の下級武士の総領としての行動としては同意できかねる。

次に「燈火十二ヶ月」の十二句を披露する。


一月  袴きて 火ともす庵や 花の春

二月  紅梅の 雪洞遠き 長廊下

三月  夜桜や 露ちりかゝる 辻行燈 

四月  行燈の 丁字よあすは 発松魚

五月  おそろしや 闇にみだるヽ 鵜の篝

六月  あんどんは 客の書きけり 一夜酒

七月  燈篭の 火に音たてヽ 秋の風

八月  神に灯を あげて戻れば 鹿の声

九月  灯ともせば 灯に力なし 秋のくれ

十月  しぐるヽや ともしにはねる やねのもり

十一月 灯の青う すいて奥あり 藪の雪

十二月 いにしへは くらしらんぷの 煤払


子規博学芸員野口稔里さんの解説を付記しておきたい。
「夜、辻行燈のやわらかな明かりが桜を照らしています。盛りを迎えたそばから散っていく花びらとともに散りかかる露は、より儚さをかきたてます。」

子規さんにあやかって一句
 
「夜桜や 指のブリッジ LD燈  子規もどき」


令和五年五月 「とげ赤し 葉赤し 薔薇の枝若し  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年五月句は「とげ赤し 葉赤し 薔薇の枝若し   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 507頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 夏)に掲載されている。

「あかし」「あかし」「わかし」と繰り返すリズム感は、100年前の文学青年のリズム感としては瑞々しい限りである。もっとも俳句としては如何なるものか。

明治29年といえば、子規の脊椎カリエスは進行し子規庵に閉じ籠っており、時に杖をついて庭を歩くことで自然に接することが出来る機会であったのであろう。

そこで、棘も、葉も赤い、そして枝も若々しい薔薇の若木か、今春枝分かれした枝と相対し、若々しい生命の息吹に感嘆したのであろう。

わが庭の薔薇も只今現在同様であり、一輪だけ咲いている。朝夕の主人の出入りを出迎え、見送ってくれる。子規の写生句の凄さを痛感している。

子規さんにあやかって一句
 
「薔薇一花 独居の庭を睥睨す  子規もどき」


令和五年六月 「四阿に 日の影動く 若楓  子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年六月句は「四阿に日の影動く若楓   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 399頁「俳句稿以後」(明治三十四年 夏)に掲載されている。

前書き「若楓」で四句作っている。

四阿に 日の影動く 若楓
寺を見て 茶のもてなしや 若楓
若楓 案内の小僧 可愛げに
若楓 仮名巧なる 写し物

明治34年と云えば子規の最晩年で寝たきりの日常である。想像した風景を詠んだものだが、鎌倉の寺か、江戸の寺か、伊予松山の寺か、考証は難しい。道後周辺だと初代松山藩主を弔う祝谷山「常信寺」の雰囲気だが、子規は訪ねていない。

寺参りの途中で、広い境内の片隅にある四阿に腰を下ろした。周りの景色を眺めると、青々と茂る若楓の葉影と木漏れ日とが揺れ動いている。体の汗も気にならなくなった。さて、本堂にお詣りしようかな。・・・・・

子規博の解説によると、この句は明治34年7月7日発行の新聞『日本』に発表された。
同紙では、同じ若楓を題に取り、様々な俳人が句を詠んでいる。
水落(みずおち)露(ろ)石(せき)(子規派の大阪満月会俳人)の「四阿の 紅提灯や 若楓」のように、新緑と紅提灯の色のコントラストに美しさを見出した句など、個性豊かな句が並びます

子規さんにあやかって一句
 
「綴葺(しころぶき)の 本堂を背に 若楓   子規もどき」 


令和五年七月 「いろいろの 夢見て夏の一夜哉  子規 」

子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年七月句は「いろいろの 夢見て夏の一夜哉   子規 」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 151頁「俳句稿」(明治三十一年 夏)に掲載されている。

詞書「第十二議会解散」がある。   第十二回帝国議会は明治31年5月14日から同年6月10日まで開催された。

1か月にも満たない短期議会である。もっとも、この議会での審議内容についてはまったく知らない。

子規は『日本』の記者であり、ジャーナリストとして当然帝国議会の動きには注目していたと思われるが、詳細は不明である。

「いろいろの夢」の正体を知りたいものである。

詞書「第十二議会解散」を無視すると、恋の歌とも、老いの歌ともとれるが、詞書を前提にすると、議会の審議内容が与野党で激しい議論となるが、政党の妥協と駆け引きで、子規が関心をもった外交や国内対策のあるものが承認され、またされ、廃案になって

いく。 短い夏の夜に見る夢のように、うたかたの一場として、儚く消え去っていく。もっと国会論議を尽くさねばと痛感したのではあるまいか。

「時事俳句」の範疇に入るのだろうか。俳句としての、そこまで深く監守すべきかどうか。

子規さんにあやかって今次国会の「時事俳句」を詠んでみたい。


「いろいろの 後付けマイナ かたつむり  子規もどき」]


漢字、ひらがな、カタカナを多用してみた失敗作だ。いやはや。



令和五年八月 「君来ばと 西瓜抱えて 待つ夜かな   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年八月句は「君来ばと 西瓜抱えて 待つ夜かな   子規 」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 123頁「寒山落木 巻三」(明治二十七年 秋)に掲載されている。  季語は「西瓜 秋」である。

西瓜は感覚的にも夏を代表する果物であるが、俳句の季語は「秋」である。

手元にある山本健吉編の「歳時記」でも季節感のズレのコメントはない。

句自体は「君が来たならば一緒に食べようと、西瓜を抱えて待っている夜です。」と平明である。気になるのは「君は誰か」ということだろう。

はっきりしているのは妙齢の女性ではなく、気に置けない彼奴であろう。河東碧梧桐か高浜虚子であろうか。

この句が詠まれた明治二七年の夏と云えば、体調もよく、千住方面、王子、川崎大師、千葉方面に小旅行をし、紀行文を書いている。

また郷里松山の後輩である碧梧桐と虚子が、この年、第三高等学校から第二高等学校に転学したが、共に退学し、東京に居を構えている。

子規にとっては心配であったろう。

子規博の学芸員 野口稔里さんのコメントに拠れば、子規は西瓜が大好物であった由。

随筆『松蘿玉液』では、「甜瓜(まくわうり)西瓜(すいか)ひなびたれど誠あり。捨て難し」、つまり「甜瓜や西瓜は田舎っぽいけれど誠実な印象で捨てがたい果物である」と評している。


子規さんにあやかって一句

「終戦の 玉音放送 西瓜食う  子規もどき」


 昭和20年8月15日、祖母、父母と「離れ」で、玉音放送を聞いた。

小学生4年生の悪ガキでも日本が負けたことはわかった。

そして、井戸から冷えた西瓜を食べながら、家族で今後の不安を語った。

「季重ね」であるが、私にとって、玉音放送と西瓜は80年の年月は流れたが忘れることのできないワンショットである。


令和五年九月 「天の川 すこしねぢれて 星が飛ぶ   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年九月句は「天の川 すこしねぢれて 星が飛ぶ      子規」です。

『子規全集』第二巻 俳句二 539頁「寒山落木 巻五」(明治二十九年 秋)、第十五巻 俳句会稿 453頁(明治二十九年)、第十九巻 書簡 190頁 (明治三十年)に掲載されている。

 第十五巻、第十九巻では「令和五年九月 「天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ   子規 」となっている。

 天の川がすこしねぢれているのか、少しねぢれて星が飛ぶのか・・・はて如何なものか。

 天空に天の川がねぢれて広がっている。その天空から長い尾を引いて星が流れる。おそらく実景(写生)だろう。誰しも経験したことのあるドラマである。

 子規は「高濱清」宛書簡(明治三十年八月十一日付)で「天の川」を連句している。

 三尺の 幅とこそ見れ 天の川

 行ゝて 左になりぬ 天の川

 海原や 空を花るゝ 天の川

 野の空や ものをはなれて 天の川

 膳所越えて 湖水に落ぬ 天の川

 川上ハ 東と見えて 天の川

 立てかけし 杉の丸太や 天の川
 北國の 庇ハ長し 天の川

 天の川 少しねぢれて 星が飛ぶ

 天の川 山なき国の 真上哉

 複道や 銀河に近き 灯の通ひ天の川

 十一句あるが、どれも秀句とは思えない。現代の宗匠は変な理屈をつけてランク付けするのだろうヵ。

 ところで本句は明治二十九年八月に開催された句会で、「天の川」のお題として詠まれたものである。

 高得点句

   「帆柱の 上に横ふ 天の川    把栗」

   「人去て 瀧とうとうと 天の川   蒼苔」

   「妹山と 背山のなかを 天の川  墨水」 


 子規さんにあやって一句

  「白ロシアに 流血の跡 天の川  子規もどき」



令和五年十月 「つぶつぶと 丸む力や 露の玉  子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年十月句は「つぶつぶと 丸む力や 露の玉   子規」です。

『子規全集』第一巻 俳句一 110頁「寒山落木 巻一」(明治二十五年 秋)に掲載されている。季語は「露」(秋)である。



当時子規は「一題百句」として「鹿」や「笠」を題にしており、「露」も同類である。

ほろほろと 露の玉ちる 夕哉

灯のちらり ちらり通るや 露の中

などが詠まれている。



子規25歳の句であるが、一読して、今日の「俳句甲子園」に提出すれば、高校生らしい理屈っぽい句として高く評価されるのではあるまいか。

説明句に近いが、明治25年当時では科学的な説明に驚いたのではあるまいか。


子規博物館担当者の解説

「本句の季語「露」とは、空気中の水蒸気が冷たい物体の表面に凝結して水滴になったものです。日が昇ると瞬く間に乾いてしまったり、風が吹けば落ちてしまったりすることから、儚いものや哀れなもののたとえに用いられます。

しかし本句では、むしろその造形の不可思議な美しさと、それを実現させる「丸む力」、つまり表面張力に着目することで、従来の露のイメージにとらわれない写実的な句となっています。」

恐れ入りました。理科の嫌いな子規さんも驚いていることでしょう。


「寒山落木 巻三」(49頁)では

「つぶつぶと 芽をふいて居る 老木哉」と詠んでいる。

米寿を迎えた老生には、この句の方が「生・老・病・死」の深い叡智を感じさせる句と思えるのだが・・・・・

 子規さんにあやかって一句

  「露の玉 移し遊ぶや 老いふたり  子規もどき」


令和五年十一月 「二つ三つ 石ころげたる 枯野かな   子規 」


 子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年十一月句は「二つ三つ 石ころげたる 枯野かな   子規」です。。

『子規全集』第三巻 俳句三 308頁「俳句稿」(明治三十二年 冬)と第十五巻 俳句会稿 709頁「俳句稿」(明治三十二年 )に掲載されている。
 季語は「枯野」(冬)である。

子規晩年の作である。


「枯野」といえば、芭蕉も晩年旅の途中で病に倒れ「旅に病で 夢は枯野を 駆け廻る」なる有名な句を残した。

 病臥にあった子規は、芭蕉の句を念頭に詠んだのであろう。

 
 写生句としては疑問に感じる。枯野、石ころ、二つ三つの取り合わせは如何なものか。


「二つ三つ 岩不動たる 枯野かな」となるとブロンテの『嵐が丘』を想起する。
「二つ三つ 石重ねたる 枯野かな」となると関ヶ原を想起する。

 

 多くの俳人の鑑賞と異にするが、子規は夢と現実の狭間で、枯野を彷徨う芭蕉や芭蕉を慕う門人をイメージしたのではあるまいか。。

 芭蕉、蕪村そして子規なのかもしれない。今その石は「ころげたる」であり、静止は許されない。「枯野」の寂寥感は消えて「軽やかさ」すら感じる。

 

 子規さんにあやかって一句

 「二つ三つ 石ころげたる 遍路哉   子規もどき」


 」
 令和五年十二月 「餅搗て 春待顔の 子猫哉   子規 」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和五年十二月句は「餅ついて 春待顔の 子猫かな  子規 」です。


『子規全集』第三巻 俳句三 306頁「俳句稿」(明治三十二年 冬)と第十五巻 俳句会稿 700頁「句稿」(明治三十二年 )に掲載されている。
季語は「餅搗」(冬)である。


「俳句会稿」では「餅搗て 春待顔の 子猫哉  子規」と漢字を多用している。

 
幼少期のわが家は、使用人も多く、早朝から大釜で餅米を焚き蒸して、家族・使用人総出で昼まで餅づくりであった。

 神仏に供える鏡餅類、お雑煮の丸餅、お茶請けの餡餅、かき餅用の角餅(菱餅)などなどであった。


 わが家に猫はいなかったが、犬は土間で人の出入りをじっと眺めていたようだ。
西洋犬だったから、餅には興味がなかったのかもしれない。もっとも犬は餅が苦手であった。

  子規の見た餅つきの光景は、石臼と、杵つきの男と、家族数人であろう。子規晩年の作である。

 人間が師走だけにせわしなく動き回っているのに、小さな猫が座っているのか、寝転んでいるのか、春待顔でのんびりと眺めている。
皮相的に見れば、春待顔の子猫は子規さんのことかもしれない。あるいは、子猫を抱いて蒲団の上の座っている子規さんを想像してみてはいかがであろう。

 この句は明治32年12月10日の句会の席題「餅搗」で詠まれたものである。
 参加者の句を並べてみました。正月気分になりましたでしょうか・・・

 餅搗の 手伝顔や 里帰り     碧梧桐

 三臼目を 鏡餅とは なしにけり  虚子

 餅搗の 既に来て居る 鄰哉    鳴雪

 餅搗や 早く起きたる 五六人   墨水
 

 子規さんにあやかって一句

  戦後の混乱期にて

 「餅搗て 春待顔の 施設の子  子規もどき」



令和六年一月 「春またず 年もをしまず 寒の梅  子規 」



子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和六年一月句は「春またず 年もをしまず 寒の梅 子規」です。

『子規全集』第三巻 俳句三 505頁「寒山落木 拾遺」(明治二十六年 冬)に掲載されている。
季語は「寒の梅」(冬)である。

 この句を漢字に置き換えてみる。
「春待たず 年も惜しまず 寒の梅」となる。

「春待たず」(冬)、「年も惜しまず<師走>」(冬)、「寒の梅」(冬)とすると冬の三連荘である。
 
 これを以て、佳句と云われても困る。子規だから許されることではあるまい。

 
句は「春を待たず、年明けも待たず、寒中に毅然として梅が咲いている」という情景の説明句に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもあるまい。凡句である。

 
子規さんにあやかっての「子規もどき句」も、今回はご遠慮させていただこう。



令和六年二月「思い出し思い出しふる春の雪」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和六年二月句は「思い出し 思い出しふる 春の雪 子規」です。


『子規全集』第三巻 俳句三 532頁「寒山落木 拾遺」(明治二十六年)と第十八巻 書簡一 414頁に掲載されている。季語は「春の雪」で(春)である。

 今日でも2月中旬の「椿さんの祭礼」が終わってから暖かくなるといわれており、明治期には3月でも積雪があったのだろう。
幼時には雪だるまや雪合戦を楽しんだものだ。

 書簡の宛名は「五百木良三」(瓢亭)宛で明治26年3月1日付である。瓢亭は松山出身で俳句仲間である。

 この句の主役が春の雪とすると「(冬を)思ひ出し 思ひ出し降る 春の雪」の5・7・5の句となり、
作者(子規)の心情を強調とすれば「思ひ出し 思ひ出し 古る春の雪」だと、5・5・7の句となる。

 明治25年秋の子規句に「思ひ出し 思い出しひく 鳴子哉」がある。この句の場合、鳴子が主役ではなく、作者(子規)の心情(行為)が主役ではなかろうか。
俳人にお教えを受けたい。

 子規博の公式コメントを引用する。

「子規は、病気の容体や訪問者のない退屈さ、養生せよと云う医者に対して、自分が働かなければ立ちいかない一家の経済状況など、不満を述べています。 
 一方で、仲間たちと刊行する俳句雑誌の進捗や、瓢亭への投句依頼、与謝蕪村に倣って十二ヶ月の俳句を詠んだことなどが書かれています。」

 子規さんにあやかっての「子規もどき句」

「思い出し 思い出しふる 除夜の雨   子規もどき」



令和六年三月「のどかさや つゝいて見たる 蟹の穴   子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和六年三月句は「 子規」です。


『子規全集』第三巻 俳句三 319頁「俳句稿」(明治三十三年)と第十五巻 俳句会稿 735頁(明治三十三年)に掲載されている。季語は「蟹」で(春)である。

 句意は「穏やかに時間が流れる春の日に、所在なく蟹の穴をつついていた」という実景であろう。

 松山の梅津寺の閑散とした浜辺で、穴を見つけてはつついていた幼い日の記憶がよみがえる。子規さんの情景も、三津から高浜にかけての海浜の思い出かもしれない。

 この句は明治33年2月11日の子規庵での句会で「蟹(春)」がお題であった。この句会には19人集まり盛大であった。

 竹 子
 秋 蘭   蟹眠る 砂や磯邉の 春日和
 東洋城   古き江の 蘆の芽ぐみや 蟹の泡
 大 夢   山吹や 蟹のかくるゝ なべの尻
 芹 村   ぬくき日を 泡ふく蟹や 石の上
 虹 原   石とれば 小蟹群れけり 春の磯
 牛 伴
 繞 石   蘆の芽や 蟹歩みよる 池の水
 四方太   春の水  蟹の穴にも 流れけり
 抱 琴
 三 充   蟹ばかり 追ふてゐる子の 汐干哉藜
 孤 鴈   舟橋や 蟹のうごめく 蘆の角
 藜 杖
 麦 人   春の水 蟹の出て居る 處哉
 碧梧桐   人を見て 蟹 足の 汐干哉
 鳴 球   ぬくき日を 蟹とる子供の 臀哉
 格 堂   永き日や 蟹釣って居る 村の馬鹿  
 三 子   干る汐に のがれかしこき 小蟹哉
 子 規   のどかさや つゝいて見たる 蟹の穴 
<俳句会稿百四十九>

 子規博のコメントを付記する。
 「子規は、蟹そのものではなく、蟹の穴に焦点をあてています。蟹がどこにいるのか判然としませんが、蟹の穴を通して、蟹が人前に姿を見せて活発に動き始める春の到来を感じさせます。」

 そんな深遠なたくらみがあったとは・・・まいった、参った。

 子規さんにあやかっての「もどき句」

 妻の八回忌

「のどかさや 写真を前に まず献杯  子規もどき」 


令和六年四月「大仏のよごれた顔や山桜   子規」


子規記念博物館(総館長 竹田美喜氏)監修の子規さんの令和六年四月句は「大仏のよごれた顔や山桜 子規」です。


『子規全集』第十五巻 俳句会稿 470頁に掲載されている。季語は「山桜」で(春)である。

鎌倉の大仏を詠んだ句である。大仏の汚れた顔と武家政治の嚆矢である鎌倉幕府と思い重ねて歴史の流れ、時間の流れを詠嘆を込めて詠んだのであろうか。13世紀の中葉には完工しているので、一遍上人一行も大仏を拝観したのであろうか。

何度もこの地を訪れたが、現在は大仏の胴内にも入れるので、子供にも、外国人にも好評な観光施設になっている。これも又、時代の流れというべきk。

この句会は、明治29年春に開催された。表題は「日半日」、参会者は、紅葉、奇峰、瓢亭、虚子、碧梧桐、子規である。

子規は大仏を題に四句詠んでいる。

  春  大仏のよごれた顔や山桜  2点(虚子 碧梧桐)
  夏  大仏の頭吹くなり青嵐
  秋  大仏の夕影長き刈田哉   1点(紅葉)
  冬  倉仮に大仏見ゆる寒さ哉

 碧梧桐 大仏を写真に取るや春の山  3点
 虚 子 大仏に頭の上や星月夜    2点


 子規さんにあやかっての「子規もどき句」 

 小学校の友と道後公園にて
「皇国の 擦れたる碑や 桜散る   子規もどき」